第34話 帯刀カスミ③
「いいお父さんだね」
そして、とても火矛威らしい。《イフリート》が火矛威だと知った時は、記憶の中にあるイメージとの違いにひどく戸惑った。だが、カスミの話を聞いていると、間違いなく深雪の知る火矛威の話だと実感でき、ぎゅっと胸が詰まる。
「……うん。嬉しいけど……でも、ちょっと悲しい。何だか、あたしの存在がお父さんを縛っていて、必要以上に無理させてるんじゃないかって思うこともあるから……」
カスミの表情は、どことなく悲しそうだった。いい子だな、と深雪は思う。火矛威の事が心配で仕方ないのだろう。そういえば、カスミは火矛威のアニムスが暴走状態にある事を知っているのだろうか。ふとそんな疑問を抱き、深雪はそれを口にする。
「火矛威は《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》に指定されているよね?」
「……うん」
「動き回って大丈夫なのか?」
するとカスミは、ぶんぶんと首を横に振る。
「大丈夫じゃないよ。全然、大丈夫じゃない……本当は、起き上がるのもしんどいんだと思う……! お父さんのアニムスは火を操るアニムスだけど、年々強くなって、《アニムス抑制剤》じゃ抑えられないくらいになってた。全身が火傷だらけで、起き上がるのにも苦しんで……本当はもっと、しっかり治療して欲しいのに! それなのに、どうして出て行ったのか、理由とか何も話してくれない……!」
カスミの言った事は、深雪の抱いていた考えとも一致する。やはり、火矛威は相当、深刻な状態に陥っているようだ。カスミは喋っているうちに不安が募ってきたのか、だんだんと涙声になる。
「お、お父さんはいつもそうなの! とても優しいし、守ってくれるけど、肝心な事は一つも話してくれない……あたしが子どもだから、話す必要なんてないって思ってるのかな? それとも、あたしの事なんて、ど……どうでもいいって思ってるのかも……‼」
「そうじゃない。きっと……大切だから、巻き込みたくないだけだよ」
カスミとて、それは分かっているだろう。けれど、真相を確かめたくとも、火矛威は傍にいない。今まで不安を押し殺し、友人宅に身を寄せていたのだ。カスミは目元を歪め、涙が零れ落ちるのを一生懸命にこらえる。
「で……でも、だからって一方的に出て行って、一人にするなんて、ひどいよ……! あたしは……ずっと、傍にいて欲しいのに……! 最後まで、一緒にいたいのに……‼」
――『最後』。
それは、切羽詰まった響きを持つ言葉だった。その言葉を聞き、深雪はカスミがかなり正確に状況を把握している事を悟る。
考えてみればそれも当然で、今まで親子二人でずっと生活を共にしてきたのだ。火矛威が説明を伏せていたとしても、その様子から、カスミは火矛威の命が長くないことを自然と理解するようになったのだろう。その時のカスミの心境を考えると、深雪は言葉が無かった。十代の少女にその現実は、あまりにも過酷だ。
「……本当は寂しかったんだね?」
カスミはとうとう、ぽろぽろと涙を流した。そして、肩を震わせながら、どうにか「うん」と頷く。シロが「はい、これ。使って」とカスミにハンカチを差し出した。
「あ……ありがと……ござ……ま……!」
「大丈夫だよ。……大丈夫」
深雪は頼りなげに震えるカスミの小さな背中を、ぽんぽんとゆっくりと叩いた。少し大人びたところもあるが、こういうところは父親の身を案じる、普通の年相応の女の子だ。火矛威がゴーストでなければ――《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》でなければ、こんな辛い思いをすることも無かっただろうに。そう考えると、無性に可哀想になってくる。
カスミが落ち着くのを待ってから、深雪は新たな質問を投げかけた。
「お父さん……火矛威が《アラハバキ》の一員だったことは知ってる?」
すると、ハンカチで涙を拭っていたカスミの表情は、僅かばかり強張った。
「……知ってる。あたしが、子供の時。……でも、いまは違うよ。ずっと昔に追い出されたから」
「その時の、その……お父さんの仕事は……?」
火矛威が《アラハバキ》の殺し屋をしていたことを、カスミは知っているのか。すると、カスミは瞳を曇らせて俯き、ポツリと呟いた。
「……それも、知ってる。お父さんはあたしに、仕事の話は絶対にしたことなかったけど、あたしの事をしつこく追いかけてくる男の人が言ったの。『お前の父親は、人殺しだぞ』って……」
「そう言えば、さっきもそんな事を言っていたね。あいつらが全部奪ったとか、俺たちが連れ去りに来たんじゃないかって……カスミちゃん、一体、誰に追われているの?」
相手が《アラハバキ》だという事は、先ほどのやり取りで分かっている。でも、《アラハバキ》は巨大な闇組織だ。その中の誰がカスミをつけ狙っているのか。深雪が尋ねると、カスミはすぐにそれに応じた。深雪やシロの事を、少しずつ信用し始めてくれているようだ。
「男の三人組。多分……《アラハバキ》の奴らだと思う。お父さんの知り合いは、《アラハバキ》にしかいないから。何度か追いかけられて、でも《ディナ・シー》のみんなが助けてくれたから、捕まらずに済んだ。だけど……今もあたしの事、探してると思う」
その男たちに追い回されたせいで、カスミは一時、碌に外も出歩けないような状況だったという。だから《ディナ・シー》の友人宅に、身を隠すようになったのだ。
(火矛威は《Ciel》の運び屋を二人殺している。一方で、《アラハバキ》の奴らも火矛威を追っている……? どういう事だ?)
これはただの偶然か。それとも、何らかの繋がりがあるのか。掴めそうで掴めないそれらの糸をもどかしく思いながらも、深雪は質問を続ける。
「でも、カスミちゃんは、どうしてそいつらに追いかけられているんだ?」
「分からない。でも、上手く言えないけど……お父さんがいなくなったのはあいつらが原因じゃないかって思う」
「どうして?」
「……最初にあいつらと会ったのは、お父さんと夕飯の材料を買いに出た帰りだった」
カスミの話によると、その三人組の男は、火矛威とカスミが帰ってくるのを、二人が住んでいた家の近くで待ち伏せしていたという。どうやら、その三人と火矛威は、久しぶりの再会だったようだ。ただ、馴れ馴れしい三人組に対し、火矛威はどこかぎこちない反応だったという。
その後、三人組と火矛威は、話があるといって路地の向こうに行ってしまった。カスミは一人、家に戻るようにと火矛威に言われ、大人しくそれに従ったという。
ほどなくして、火矛威は家に戻ってきた。だが、顔を青ざめさせ、ただならぬ雰囲気で、カスミが話しかけても、返事すらない。何があったのか、あの三人とどういう関係でどんな話をしたのか、どれだけ聞いても、火矛威はやはり一切、答えることはなかった。
火矛威が書置きを残し、忽然と姿を消したのは、その翌日だったという。
「そいつらの特徴、覚えてないかな?」
「ええと……」
カスミによると、一人は茶髪で髪が長く、肌を小麦色に焼き、髭を蓄えたプロレスラー風の大男だったそうだ。もう一人はツーブロックヘアで、サングラスをし、首から左の頬にかけて龍の刺青を掘った男。こちらも、かなりがっしりした体格らしい。
最後の一人は、痩せぎすで青白く、真っ黒な髪を後ろになでつけた眼鏡の男だったという。全員、黒スーツとネクタイを着用し、ただならぬ雰囲気を纏っていたそうだ。
「動画もあるよ。あんまりしつこいから、部屋から撮ってやったの」
「見せてくれる?」
深雪が頼むと、カスミは腕輪型通信機器を操作し始めた。
「いいよ。でも、隠れて撮ったから、はっきりとは映ってないんだけど……」
カスミが見せてくれた動画には、確かに三人の男が映っていた。両手をパンツのポケットに気怠そうに突っこみ、こちらに――おそらく、部屋に隠れているカスミに、執拗な視線を送っている。
しかし、画像の解析度が荒く、遮蔽物も多いため、男たちの顔がはっきりと識別できるまでには至ってない。それでも、何もないよりはずっとましだ。
「……ヒョロッとした眼鏡の人がボスで、大きな体格の二人は、その手下って感じだった。みんな、おじさんだったよ。お父さんと同じか、それより年上のおじさんばっかり」
確かに、画像を見ても、みなおじさんだ。だが、壮年というにはまだ早いように見受けられる。おそらく、三人ともその中間――四十代ほどか。
「そう……名前とか分かる?」
「えっと、そういえば一度だけ、タシロって言ってるの聞いたことある」
「タシロ……?」
「お父さんと話す直前、眼鏡のヒョロい人に電話がかかってきたの。その時、電話に向かって言ってた。『タシロ、工場はお前に任せる』って」
深雪は再び考え込む。
(タシロ……『工場』……? そいつらの仲間、か……?)
『工場』という言葉は、何の工場を指しているのか。この三人組が経営しているのか、それとも何かの暗喩なのか。カスミの情報だけでは、分からない。
だが、ともかくも、このままカスミが追われている事態を、放っておくわけにはいかないだろう。
「この画像、借りてもいい? 俺の仲間に解析してもらおうと思うんだけど」
「うん、いいよ」
「ありがとう。……他に何か覚えていることはない? 違和感を覚えたこととか」
「違和感……?」
「何でもいいんだ。その男たち以外のことでもいいし」
できれば火矛威の事をもっと詳しく聞きたかったが、カスミも火矛威がどこにいて、何の目的で《Ciel》の元売りを襲撃しているのか、肝心な事は知らされていないようだ。
いやおそらく、カスミの様子だと、彼女は火矛威が《Ciel》の運び屋を殺した事実も知らないのだろう。
深雪は火矛威の事を聞き出すのは諦め、カスミ自身の事を尋ねてみることにした。
「カスミちゃんもゴーストなの?」
「うん」
「アニムスが何なのか、聞いてもいい?」
すると、カスミは視線を落として口籠った。
「それは……ごめんなさい。自分のアニムスが何なのか、絶対に他人に言うなってお父さんから言われているから」
「火矛威から?」
「……うん。それだけじゃなくて、何があっても、決して人前では使うなって。だからあたし、殆ど自分のアニムス、使ったことないんだ」
カスミは長いパーカーの袖から僅かに覗かせた両手の指先を、ぎゅっと握りしめる。もしカスミのアニムスが、図抜けて強力だったり特殊なものだったとしたら、その判断は賢明かもしれない。強すぎる力は災禍を招くからだ。
火矛威は本来、暴力沙汰や厄介事は嫌いな性分だった。だから自分の娘にそう教えていても、不思議ではない。
「火矛威がそう判断したなら、きっとその方がいいよ」
「そうかな……? でもアニムスが使えなくて《ディナ・シー》のみんなにも迷惑かけてばかりだから、これで良いのかどうか、よく分かんない」
カスミの心境は理解できる。ストリートで生きる限り、トラブルは免れないだろう。ゴーストなら尚更だ。カスミは《ディナ・シー》のメンバーを信頼しているからこそ、心苦しく感じているのだ。
(そう言えば……)
深雪は以前と接触した際、彼女たちに《Ciel》を多用しない方がいいと忠告したことを思い出す。
「《ディナ・シー》では《Ciel》って流行ってないの?」
そう尋ねると、カスミは記憶を手繰るようにして、視線を彷徨わせる。
「ええと……前は使っていた子もいたけど、あんまり体に良くないらしいよって誰かが言い始めて、今ではあまり使ってないみたい。あたしは殆どアニムスを使わないから、最初から使ってなくて……よく分からないんだけど」
「そうなんだ」
(良かった……あの時の忠告、少しは効果があったみたいだ)
神狼とはその事で喧嘩になってしまったが、それで《ディナ・シー》の少女たちが《Ciel》と距離を取ったのであれば、深雪としても忠告し甲斐があったというものだ。
安堵した深雪はしかし、すぐに重苦しい空気に包まれる。火矛威は本当に《Ciel》の売買と関りがあるのだろうか。《天国系薬物》の拡散に、加担しているのだろうか。そう思うと、じりじりとした焦燥を感じずにはいられない。
(火矛威は《Ciel》の元売りを狙っていた。元売りの正体を知っている可能性が高いし、それどころか、薬物売買そのものに積極的に関与していることも考えられる。でも、それだとどうも、いろいろしっくりこないんだよな……)
そもそも火矛威は《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》だ。常識的に考えて、そういった危機的状況にある者を薬物売買の仲間に加えるだろうか。
それに、そうであるなら何故、火矛威は成田商事の社長を殺したのか。マリアによると、成田商事は高利貸しで成り立っている会社で、今のところ、薬物売買とは関係が見られないという。火矛威が運び屋を殺した裏には、何か他に事情があると考えるべきではないか。
(それに第一、火矛威は薬物売買に手を染めるような奴じゃない……‼)
何より一番奇妙なのは、カスミが何者かに狙われているというのに、火矛威が傍にいないという事だ。火矛威は何故、溺愛する愛娘を一人残して家を出てしまったのか。何故、三人組みの男たちに、追われるままにさせているのか。
よほどの理由がないと、そんなことはしない筈だ。もし仮に薬物売買に関わっていたとしても、カスミを一人にする必要はない。
(そうだ……そもそも、そこが一番不自然なんだ)
火矛威は《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》だ。カスミに危害を及ぼさないため、敢えて離れたという事も考えられる。でも、火矛威が《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》に指定されたのは、二年も前の事だ。どうして、一か月前になって慌てて家を出たのだろう。むしろ、そうせざるを得ないほどのひっ迫した事情が、他に発生したからではないだろうか。
(カスミちゃんは、《アラハバキ》に追われている。火矛威はそれを知らないのか……? いや、それは考えられない。火矛威は神経質なほど周囲を警戒し、カスミちゃんを守って来たんだ。本来であれば傍にいて、《アラハバキ》の追手から彼女を守ろうとするはず。それなのに、どうしてこの大事なタイミングで彼女の元を離れたんだ……?)
理由はいくつか考えられる。一つは、自分が傍にいることが、却ってカスミを危険に晒すと考えた可能性。もう一つは、カスミに害が及ぶ前に、根本的に危険を取り除こうと考えたということだ。
そう考えたところで、深雪は思考停止した。
(あれ……? 今のって……かなり重要じゃないか……?)
今、何か大切な事を思いついたような気がする。深雪は、自分の中に湧き上がったその発想を、さらに深く掘り下げてみる。
火矛威はもしかしたら、カスミに害が及ぶ前に、追手を自分の手で排除しようと考えたのかもしれない。あまり火矛威らしくない発想だが、そうせざるを得ないほど追い詰められていたとしたら、考えられなくもない。
そして火矛威は実際に人を殺している。そう、《Ciel》の運び屋だ。
《カオナシ》によると、火矛威は元売り組織そのものを狙っているらしい。つまり、火矛威が元売りを襲っているのは、薬物目的ではなく、カスミを守るためなのではないか。
更に逆算して考えるなら――
(ひょっとして……カスミちゃんを狙っているのは、《Ciel》の元売りなのか……!? でもどうして……? 何で薬物売買の元締めがカスミちゃんを狙うんだ!? いや、落ち着け。証拠は何もない……俺の気のせいかも知れないんだ!)
ぐるぐると高速で思考が巡り、深雪は顎に手を当てる。
(――だけどもしそうなら、火矛威が自らの身を犠牲にし、血眼になって《Ciel》の元売りを探していた理由が成立する気がする。全てカスミちゃんのためだったとしたら……‼)
深雪の記憶にある火矛威は、どう考えても、我欲の為に薬物売買に手を染めるような性格ではない。でも、それがカスミを守るためであったなら、しっくりする気がするのだ。
そもそもマリアによると、《Ciel》の売買に関与しているのは、《アラハバキ》の下部組織である可能性が高いという。そいつらは本当にカスミを追っているのだろうか。それが事実だとしたら何故、《Ciel》の元売りはカスミを狙っているのだろう。カスミに一体、何があるというのか。両者はどこで繋がっているというのか。
(カスミちゃんは、《Ciel》には手を出してないって言ってたし、薬物と関りがあるとは思えないけど……)
深雪が眉間のしわを深め、カスミを見つめていると、当のカスミは戸惑ったような視線を返してくる。
「あの……」
「あ……ああ、ごめん。考え事してて……。何?」
「お父さんのこと……助けてあげて欲しいの」
「もちろんだよ。その為に、君に会いに来たんだから」
カスミはほっとしたように、表情を緩めた。目元の険が取れたせいか、ぱっちりした瞳があどけなく、可愛らしい。
こうして見ると、確かに十四歳の女の子だ。今までは深雪たちを警戒していたこともあり、いつも以上に気を張り詰めていたのだろう。




