第2話 火矛威と真澄②
でも深雪にとってはそんな事より、火矛威と真澄が笑顔でいてくれることの方が、何十倍も大切なのだった。
「それより真澄、プレゼント開けてみてよ。折角だからさ」
深雪がそう促すと、真澄は嬉しそうに頷いた。
「あ……うん。そうだよね。折角二人が選んでくれたんだから……」
真澄が紙袋の中を覗くと、中から出てきたのは両手にすっぽり収まるほどのギフトボックスだ。丁寧に包装紙を剥がし、箱を開ける真澄。中から顔を出したのは、つぶらな瞳のテディベアだった。首に紺色のチョーカーをしている。
「これ……!」
真澄は目を見開いた。それを見た火矛威は、情けない声を出す。
「うあー、やっぱぬいぐるみはまずかったかな、もっとこう、指輪とか、ネックレスとか……!」
「ううん、すっごく嬉しい! わたし、テディベア、大好きなの!」
真澄は瞳を輝かせた。確かに年頃の女の子なら、アクセサリーや鞄などの方がいいと言う子も多いだろうが、少なくとも真澄はその小さなテディベアを気に入ってくれたようだ。
「お……おう、そーなんか! いや、そうじゃねえかと思ってたんだよな、俺も! ナイスチョイスだろ、わはははは!」
真澄の言葉を聞いた途端に、火矛威は調子よく胸を張り踏ん反り返って見せる。深雪は思わず半眼で突っこんだ。
「よく言うよ。俺たち、三時間も店をうろうろしてたんだぜ?」
「っぎゃあ!? それ言うなし!」
「でも、どうして私がテディベアを好きだって分かったの?」
真澄は不思議そうに小首を傾げる。確かに深雪も火矛威も、真澄がテディベアを好きである事実を本人から直接聞いたわけではない。
「だってストラップにやたらとクマが多いし、鞄のキーホルダーもテディベアだったから。そうじゃないかと思ってさ」
「すごい、深雪……よく見てるね!」
目を瞠る真澄の隣で、火矛威はぎょっと表情を引き攣らせる。
「確かにな……! おい……ま……まま、まさかお前も、真澄のことが好きなんじゃ……!?」
「好きは好きだよ。大切だし。でも、付き合うとかっていうのとは違うかな」
深雪にとって、真澄は友達だ。恋愛の対象とは少し違う気がするのだ。それを聞いた真澄は、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「そうなんだ? あたしは全然いいのに」
「まっ……真澄ぃぃ~!? まじでかぁ‼」
「冗談だよーん! ふふふ、びっくりした?」
真澄は声を上げて笑う。それにつられて火矛威も笑い始める。二人の顔にようやく明るい笑顔が戻ってきて、深雪は心の底から喜んだ。
(これからどうなるか分からない……でも、俺には火矛威と真澄がいる。何があったとしても、一人じゃないんだ……‼)
家には帰れず、学校にも行けず、これからどうなるのか将来が全く見通せない。冷静に考えれば深雪たちの置かれた状況はそれなりに深刻だった。
でも、当時は不思議とそういった事に対する悲壮感はなかった。自分は一人じゃない、真澄や火矛威――そして《ウロボロス》のみんながいる。そう思うと、体の奥底から元気が出て来て、暗雲のように立ち込める不吉な予感もきれいに消し去ってくれるのだった。
今思えば、この頃はまだ幸せだった。何も知らず、それでも未来は明るいと信じて、無邪気に笑っていられた。
この先、自分たちに何が待ち受けているのかも知らずに―――………。
そして、あの運命の夜がやって来る。
その夜は、雪が舞っていた。十二月の中でも特に寒い日だったことをよく覚えている。
街の中では至る所で幻想的なイルミネーションが彩りを添え、道行く人々は深々とした寒さに足を速めつつも、年末のどこかそわそわした空気に身を委ね、楽しんでいる――そんな光景が広がっている筈だった。
だが、現実はそうではなかった。街中ではあちこちでパトカーのサイレンが響き渡り、火の手が出たのか、ビルとビルの合間から黒煙がいくつも立ち昇っているのも見えた。交通規制が敷かれているため、車道は大渋滞で、殺気立ったクラクションが不満をぶちまけている。
歩道を歩く人々はみな一様に恐怖と戸惑い、そして日常を奪われたことに対する激しい怒りと憤りを浮かべていた。彼らの間をマスコミ関係者と思しき人々が怒声を上げて走っていく。街は尋常でない緊張感に包まれていた。
その中で、深雪はパトカーや、街を巡回している警察官たちと遭遇しないよう気をつけながら、火矛威と真澄を探して走り回っていた。
「いない……真澄、火矛威……! どこなんだ、くそっ……!」
立ち止って周囲をぐるりと見渡すと、横断歩道の向こうで誰かがこちらに向かって手を振っているのが見えた。真澄と火矛威だ。
深雪は歩行者信号が青になると同時に飛び出し、ぎっしり詰まって横断歩道の存在などお構いなしの車と車の間をすり抜けると、真澄と火矛威へ駆け寄った。
「……火威! 真澄‼ お前ら、無事だったか!」
胸を撫で下ろしつつそう声をかけると、真澄は泣きそうな表情を浮かべ、深雪に縋りついてきた。
「う……うん……。でも……!」
「……どうした?」
「京極たちが殺気立ってる! 《ネビロス》の連中をぶっ潰すって……あいつら、全面抗争をする気だぞ‼」
火矛威も真っ青になり、一気にそう捲し立てた。
《ネビロス》というのは《ウロボロス》と激しく敵対していたチームの名前だ。前々から対立は顕著だったが、ひょんなことから小競り合いとなり、《ネビロス》のメンバーが《ウロボロス》の一人をリンチにして殺してしまったことで、両者の溝は決定的になった。
一方、京極鷹臣は《ウロボロス》の中でもナンバー2のポジションにつくほどの実力の持ち主だった。喧嘩がめっぽう強く、頭もやたらときれる男だったが、チームの中でも特に強硬派で、何かにつけて《ネビロス》を目の敵にし、好戦的な言動を繰り返していた。
「こっちからやらなければ、俺たちがやられる」――それが京極の口癖だった。ただのチャットのオフ会だった《ウロボロス》が、良くも悪くも強大化し、攻撃的になったのも、ひとえに京極の手腕によるものだ。
京極たちの一派が《ネビロス》による仲間のリンチを知り、怒り狂っているであろうことは火を見るより明らかだった。今までは強硬派の京極たちを、どうにかこうにか穏健派である深雪たちが抑えてきたが、こうなってしまっては生半可な事では彼らを説得することはできないだろう。
「既に暴動に走ってるメンバーの奴もいて……火までつけやがった!」
「どうしよう……このままじゃ、取り返しのつかない事になっちゃう……!」
「ちくしょう! こんな時に、頭の翔遥はどこ行っちまったんだよ……!?」
真澄と火矛威も途方に暮れていた。二人とも暴力沙汰は苦手で、積極的にそういった事に関わることは無かった。それは《ウロボロス》がチームとして変質していく中でも変わりはなく、深雪もだからこそ、二人のことを信頼して大辞にしていたのだ。
二人のことを守りたい。その為にも、絶対に《ウロボロス》を止めなければ。
「……。俺が行く」
宙を睨みつけ、そう告げた深雪の横顔を、真澄と火矛威は息を呑んで見つめる。
「深雪……‼」
「京極を止めに行く。たぶん……今、それができるのは俺だけだから……!」
《ウロボロス》のナンバー3であった深雪だが、あまりにも抗争を嫌うので、「空気の三番」などと揶揄されていた。だがどんなに馬鹿にされようとも、駄目なものは駄目だ。この異様に殺気立った空気に呑まれて《ネビロス》との抗争に突入したら、双方に大勢の死傷者が出るだろう。
そうなってしまったら、もう二度と引き返せなくなってしまう。それどころか最悪の場合、ゴーストが社会の中で悪者にされてしまいかねないだろう。
何としてでも、京極の暴挙を止めなければ。
「分かった、俺たちも……」
そう口を開きかけた火矛威を、深雪は片手で制す。
「いや、火矛威と真澄はここにいてくれ。京極は危険だ。何をするか……どんな手を使ってくるか分からない」
「でも、深雪だけ危険なところへ行かせられないよ!」
「そうだよ、俺たちずっと一緒だっただろ‼」
二人の気持ちは有難かった。火矛威も真澄も、本当は怖いだろうに、それでも深雪と一緒に行くと言ってくれたのだ。だが、真澄は体が弱く、火矛威もアニムスを使うことに慣れていない。だから、どうしても一緒に行くわけにはいかなかった。
「俺一人で行きたいんだ。戻る場所があるんだって、そう思ったら踏ん張れるから……!」
「深雪……」
「火矛威は真澄についてやっててくれ。この寒さだ。体には良くないだろ?」
火矛威は深雪の言わんとしていることを悟ったのだろう。真澄を見、ぐっと奥歯を噛み締めると、躊躇しつつも頷いた。
「……分かった。無茶すんじゃねーぞ。何かあったら、すぐ逃げろよ!」
「ああ、分かってる」
「……気をつけてね、深雪! 絶対……絶対にまた会おうね……‼」
真澄は瞳を揺らし、深雪の手をぎゅっと握りしめた。深雪も一度、その細い指を握りしめると、踵を返して走り出す。
京極たちは、《ウロボロス》の拠点であるカラオケボックスに集結している筈だ。深雪はただ、そこを目指して一心に走り続けた。
この時、深雪は、どうやって《ウロボロス》を鎮めるかで頭がいっぱいだった。今までも幾度となく《ネビロス》と《ウロボロス》の抗争を阻止してきたし、今回も何とかすることができるだろうという自信はあった。だからまさか、自分が《ウロボロス》を壊滅させることになり、火矛威と真澄の二人ともそのまま離れ離れになってしまうのだとは、思いも寄らなかった。
ただ、どこかから流れてくる呑気なジングルベルが、やけに煩わしく感じられ、それを振り払うようにして走り続けていた。
瞼を開くと、眩い光が刺さるようにして目の中に飛び込んできて、深雪は思わず顔を顰めた。
まどろみは瞬く間に消し去られ、手足に現実感が戻って来る。だが、すぐに起き上がり活動する気分になれない。
寝返りを打っていると、先ほどまで見ていた夢の内容が、ぼんやりと脳裏に甦ってきた。
あの、白い雪の舞う十二月の夜。
鮮烈に記憶に残っているのは、青ざめつつも、真澄を守ると決意を固めた火矛威の表情。そして不安と心配に瞳を揺らし、別れを名残惜しそうにしていた、真澄の姿。
深雪にとっては、みな僅か一年ほど前の出来事だ。だが実際には、あれから二十年も経っている。深雪はその間ずっと、《冷凍睡眠》で眠らされていたからだ。
(あの時、確かに真澄と火矛威とはあそこで分かれた。だから、《ウロボロス》が壊滅した現場に、二人はいなかった。……俺の記憶が確かなら、それで間違いない筈だ)
今までは、《ウロボロス》の事を考えるだけで頭痛や吐き気がし、激しい呼吸困難に陥って肺が破裂しそうになっていた。おまけに跳ねる肺とダンスでも踊るかの如く、心臓もまたバクバクと収縮を繰り返す。それなのに、手足の指先は、氷に付けたかのように冷たい。おそらく、肉体の全てが《ウロボロス》を思い出すことを拒絶していたのだろう。
あまりにもその拒否反応が激しく、これまでずっと、まともに《ウロボロス》の事を考察したり思い出したりできるような状況ではなかった。それが最近、ようやく拒否反応も収まって来て、少しずつ、冷静に当時のことを思い出すことができるようになってきた。
もし――本当にもし、真澄と火矛威が生きていたなら。二人はこの《監獄都市》のどこかにいる筈だ。この国に存在するゴーストは、発見され次第、みなこの街へと『収監』される。そして未来永劫、そこから脱出することはできないのだから。
(そうか……現実的に考えたら、真澄と火矛威がこの街にいたとしても、何らおかしい話ではないんだ……!)
その可能性に気づいた深雪は、自分でも驚くほど動揺した。居ても立ってもいられず、思わずベッドの上に飛び起きてしまったほどだ。
もし本当にそうなら――真澄と火矛威が生きているなら、二人に会いたい。会っていろいろな話をしたい。会話を交わすのが無理だったとしても、顔だけでも見たかった。二人が生存している可能性に思い当たった瞬間、会いたくて会いたくて堪らなくなったのだ。
しかし次の瞬間、深雪はある事に気づき、深く項垂れた。
(でも…………本当に生きていたとしても、二人はもう三十代後半なんだ……)
彼らには二十年の月日が経ってしまった一方で、深雪は全く変わらないままだ。再会したとして、一体どういう顔をして会えばいいのか。何を話せばいいのか。冷静に考えれば、必ずしも感動の再会となるとは限らない。
(それに、ひょっとしたら二人とも、俺を恨んでいるかもしれない。俺は彼らの仲間を、帰る場所を……《ウロボロス》を奪ってしまったんだから)
深雪が《ウロボロス》の仲間を手にかけたことを、二人も当然、知っているだろう。あれほどの惨事だ、知らないと考える方が不自然だ。
おまけに、その後二十年も深雪は、姿をくらましたままだった。今更、のこのこと出て行って会ったところで、何をしに戻ってきたのだと罵倒される可能性もある。
それを考えると、会いたいような会いたくないような、複雑な心境だ。だが、どちらかと問われると、やはり会いたい気持ちの方が勝る。深雪にとって、二人はどれだけ年月が経とうと親友であることに変わりないのだ。
(この間、《東京中華街》に潜入した時に見た、全身火だるまの《イフリート》……確かに、俺とシロの方を見ていた)
深雪はその時のことが、何故だか頭から離れなかった。全身が炎に包まれていたので、あれが何者だったのかは分からない。
だが《イフリート》は確かにこちらを見ていた。攻撃するでもなく、警戒するでもなく、ただじっと深雪を見つめていた。
深雪には、《イフリート》の見せたその態度が、知り合いに会った時の仕草であるように感じたのだ。
式部真澄のアニムスは弱く、はっきりと現象として表に現れるほどではなかった。今でいう、低アニムス値のゴーストだった。
一方、帯刀火矛威のアニムスは《イグニス》。炎を操るアニムスだった。
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地下駐車場は、どこも独特な空気があると、深雪は思う。
天井は剥き出しの配管に覆われ、一定の間隔で太い鉄筋の柱が並んでいる。それ以外に、目立った遮蔽物や障害物は無い。その中に、粛々と車が整列して並んでいるのだ。
どんなに豪華で絢爛華美な施設であっても、地下駐車場というのは無機的で必要最低限のものしかなく、どこも似たり寄ったりだ。
けれど深雪はその無味乾燥な空間が、何故かそれほど嫌いではなかった。飾り気がない故に、訪れる方も無意味な虚栄を張らなくて済むからだろうか。
今、深雪が立っている場所も、まさしくそんな地下駐車場の一つだった。ただ一つ違うのは、地上に立つホテルがとうの昔に廃業しているせいで、使用されなくなって久しいらしく、床には亀裂が幾筋も入り、あちこちに瓦礫が天井までうず高く積まれている事だ。
勿論、車は一台も止まっていない。
入口にあるスロープはコの字型に折れ曲がっており、地上の風が吹き込まない構造になっていた。そのため駐車場の空気はどんよりと籠っている。
だが、そんなことが全く気にならないくらい、深雪はピリピリとした緊張感に包まれていた。
周囲に視線を巡らせると、他にも十人ほどの若者が集まっている。年齢は平均して二十歳前後ほどだろうか。それぞれの身体に刻まれているのは、一本の角を頭上に頂いた馬の刺青。
彼らは《リコルヌ》という名のチームのメンバーだった。
といっても、服装や雰囲気はみなてんでばらばらだ。パンクファッションの者がいれば、アロハシャツを着た者もいる。統一感が全くないのは、結成してまだ間もないチームだからだ。みな、緊張した面持ちで、しきりに入口のスロープへと視線を向けている。
彼らの傍には、大小さまざまのバイクが駐輪してあり、重低音の唸りを上げていた。それらが《リコルヌ》の唯一の移動手段だ。何かあったら、すぐバイクに飛び乗って、その場から走り去ることができるようにだろう、どれもエンジンはかかったままだ。ヘッドライトも点灯したままで、照明の壊れた地下駐車場内では、唯一の光源となっていた。
少年の一人が苛立たしそうに溜息をつき、次いで舌打ちをする。そして落ち着かなければと思ったのか、手元にあるハンドガンを触り始めた。安全装置や弾倉を何度も確認している。
彼だけではない。皆、ハンドガンを所持し、手に握っていたり、パンツのベルトに挿したりしている。彼らが持つと、まるでおもちゃのモデルガンのようだ。でも、いずれも紛うことなく本物だった。
ここにいる者はみなゴーストであり、《リコルヌ》の戦闘員だが、自らのアニムスだけでは不安なのだろう。そしてそれは、彼らがこの取引をそれだけ警戒しているということの裏返しでもある。
だが、時間だというのに、取引相手はなかなか姿を現さない。既に予定の時間からニ十分近くが経とうとしていた。




