第37話 もう一人の《紫蝙蝠(ズーピエンフ)》
そのことは鈴華が一番よく分かっているだろう。だが、鈴華もまた神狼と同じで《レッド=ドラゴン》に戻るつもりは無いらしい。無言で雷龍へと反発的な視線を据えている。
暫く睨み合う鈴華と雷龍。だが、俄かにベッドの方で人の動く気配がした。
「鈴華……? ここハ……」
深雪は、はっとしてベッドの方へ視線をやる。すると、神狼が目を覚まし、上体だけで起き上っていた。鈴華はともかく、何故ここに深雪や雷龍たちがいるのかと、不思議そうな表情をしている。
(……まあ、こんなに大騒ぎしてたら、さすがに目も覚めるわな)
神狼の顔色はあまりいとは言えないが、公園で倒れた時よりは随分すっきりした顔をしているように見えた。一晩しっかり休んで、少し状態が落ち着いたのだろう。
鈴華は雷龍らに見せた憤怒をすっかり収め、安堵した様子で神狼の枕元に駆け寄った。よほど心配だったのか、彼女の目元には、うっすら涙が滲んでいる。
「神狼、気が付いた!? 良かった……!」
「……怪我はないカ?」
「うん。心配かけて……迷惑もたくさんかけちゃったね。ごめんね……!」
「謝ることナイ。……鈴華が無事ならそれでいイ」
そして、神狼は少しだけ笑った。深雪がこれまであまり目にしたことのない、純真で少年らしい笑顔だった。
鈴華も素直に頷き、目元を指で拭っている。先ほど見せた激情は、影も形もない。深雪はその時、ふと気づいた。もしかしたら鈴華の中にある、眩暈がしそうなほどの怒りや憎悪を鎮静化させているのが、神狼の存在ではないだろうか、と。神狼の前では、鈴華は自然と辛い過去を忘れ、『普通の女の子』になることができるのだろう。
神狼と鈴華がひとしきり互いの無事を喜びあうのを待って、雷龍は神狼へと声をかけた。
「……久しぶりだな。気分はどうだ?」
「雷様……!」
神狼にとって雷龍は敬うべき相手なのだろう。雷龍の姿を認め、神狼はベッドの上で居住まいをただした。一方の雷龍は、背後に控える影剣へと指示を出す。
「影剣、あれを持ってこい」
「承知しました」
一度、部屋を出て行った影剣が再び部屋に戻って来た時には、一つの盆を手にしていた。木製の精巧な彫り物を施された盆の上には、錠剤がいくつかとグラスに注がれた水が載っている。影剣はそれを神狼に向かって差し出した。
「これハ……?」
「アニムス抑制剤だ。言っておくが、《中立地帯》で蔓延っている粗悪品とは違って、おかしなものは一切混じってない。だから、安心して服用すると良い」
雷龍は自信に満ちた様子だったが、神狼は表情を曇らせ、俯いてしまう。
「雷様、お気遣いは感謝しまス。でモ……俺ハ、これを受け取るわけにはいきませン」
「堅苦しいことを言うな。俺とお前の仲だろう。お前がたとえどこにいようとも、《レッド=ドラゴン》の一員であることに変わりはないんだ。何の遠慮がある?」
雷龍は神狼へいたわるような優しいまなざしを送りながらそう言った。神狼の事を心から仲間だと信頼しているのだろう。しかし次の瞬間、その瞳孔が深雪へと向けられる。その時には、雷龍の目つきは剣呑なものへと豹変していた。
「……とはいえ、すぐにでもお前を取り戻したいという気持ちに偽りはないがな」
「雷様……?」
「《東雲》の奴らは、《監獄都市》の中にいるゴーストの中でも少しはマシだと思っていたが……どうやら俺の勘違いだったようだ。お前をこんなになるまで放置しておくだなんて……あいつらにお前を託した方がいいという伯父貴の判断が、そもそもの間違いだったんだ!」
この金髪の若者は、どこまでも純粋だ。自分が間違っていると感じる事が、決して許せない性質なのだろう。もっとも深雪からすれば、その言い分は多分に思い込みと誤解が含まれているのだが。
すると、激しい憤りを見せる雷龍に、神狼が慌てて釈明を始めた。
「そ……それは誤解でス! これハ俺が自ら判断シ望んだコト……彼らハ関係ありませン!」
「何故、そうまでして奴らを庇う!? あいつらはお前にとってただの他人だろう!」
「そ……それハ……!」
「……戻ってこい、神狼! 俺には……いや、俺たちにはお前が必要だ。もう二度と、紫家の悲劇は繰り返させない……孤独や暴力、或いは周囲の侮蔑から、絶対にお前を守ると約束する! だから、ここへ戻って来い‼」
雷龍の率直な言葉はもはや命令に近く、有無を言わせぬ力強さに溢れていた。この若者であれば、おそらく己の発言をある程度、現実にすることはできるだろう。彼にはそれだけの権力がある。竹を割ったような直情的な性格からしても、自分の言ったことをそう簡単に曲げたりはしない筈だ。
だが、神狼はそれでもなお、首を縦に振ろうとはしなかった。
「雷様……俺ハ……《レッド=ドラゴン》にハ、戻れませン……!」
「何故だ!? 何が原因なんだ! 言ってくれ、神狼! お前を《レッド=ドラゴン》から遠ざけているのは何なんだ? 紅家の処遇が不満なのか!?」
「……違いまス! 俺ガ戻らないのハ……俺ニ、その資格ガないからでス……‼」
「何を言うんだ、神狼!」
雷龍は声を荒げたが、そこには相手を非難する色よりも、頑なに拒絶をし続ける神狼に対する悲嘆や痛みの方が多分に含まれていた。しかしそれでも、神狼は雷龍の言葉を受け入れることは無い。苦しそうに表情を歪めると、押し殺したような声音で心情を吐露した。
「俺のアニムス《ペルソナ》ハ、使えバ使うほド記憶を失っていく能力でス。加減して使う事デ、喪失の程度を抑えることはできますガ、それモ時間稼ぎに過ぎませン。……俺はきっと、いつか何もかも忘れてしまうでショウ。雷様の事モ、鈴華の事モ、《レッド=ドラゴン》の事モ……そしテ、一度失ってしまえバ、二度と戻ることはナイ。俺ハ、それガ怖くてならないのでス……‼」
「神狼……」
鈴華は無言で二人の会話に耳を傾けていたが、その手は心配そうに神狼の手を握りしめている。病み上がりの神狼に無理をさせているのではないかと危惧しているのだろう。声に出して非難することは無いが、時おり雷龍へと厳しい視線を送っている。
だがその雷龍は、あくまでも神狼に己のストレートな思いをぶつけるのだった。
「お前の能力のことは、俺もよく知っている。でも、そういうリスクがあるというなら、アニムスを使わなければいいんだ。俺の傍に戻るなら、それを叶えてやれる」
「雷様……!」
「それにもし仮に記憶を失うことになったとしても……少しも恐れることはない。失った記憶は戻らないかも知れない。でも、その時はまた一緒に新しい思い出を作って行けばいいんだ。……そうだろう?」
しかし、神狼はやはり弱々しく首を振るのみだ。
「雷様、どうか俺に対しテ、そんなに優しく接しないでくだサイ。俺ハ紫家の子どもなのでス。それガどういう意味を持つカ……お分かりならないわけデハないでショウ?」
「神狼……どんな過去も、きっと乗り越えられる。家の生まれで人生が決まるなんて、そんな馬鹿げた話があってたまるものか!」
(あれ……? フツーにいいとこもあるじゃん、こいつ)
完全に傍観者となり、二人のやり取りを眺めていた深雪は、雷龍の言葉を聞いて、内心で思わずそう突っこんでしまった。
客観的に判断すると、この血気盛んな若者の言う事が、全て間違っているというわけではない。勿論、正しい事ばかりでもないが、彼は自分が本当に正しいと思っていることを、成そうとしているだけなのだろう。卑劣なことを嫌い、正義を成そうとするその姿勢を、危険だという理由ですべて否定することはできない。
(ただ……何ていうか、少々、周りが見えていない部分があるような気もするけど)
しかし、神狼は悲痛な声音で雷龍の言葉に応えたのだった。
「いいエ……俺ハ《紫蝙蝠》でス。紫家の理ハ、俺の骨の髄マデ刻み込まれているのでス。あの人ガ……《導師》ガ俺に命令を下せバ、俺はそれニ逆らうことなどできナイ……! その命令ガ、もしあなたノ暗殺だとしたラ……その時、もしあなたの記憶を失っていたラ、俺は躊躇なくあなたを殺すでショウ。……四年前、紫家の他の子どもたちヲ、俺の手デ皆殺しにしたようニ」
「……‼」
「神狼……‼」
鈴華や雷龍、そして影剣。その場にいる者の顔色が、さっと強張った。
「え……皆殺しって……!?」
深雪は耳にした神狼の言葉の意味と、その場を突然に襲った緊迫した空気に戸惑い、我知らず呟いていた。だが、誰もそれに反応しない。三人とも、何か見てはいけないものを見てしまったかのような、気まずく張り詰めた空気を漂わせている。
(確かに鈴華も、さっき、紫家が取り潰しになった時に、他の《紫蝙蝠》たちは皆殺しにされたって言ってたけど……それを神狼がやったっていうのか……!?)
三人の反応から察するに、神狼が言ったことは事実なのだろう。深雪は俄かには信じられない思いだった。神狼が殺し屋だったという事は知っている。でも、この義理堅く真面目な少年が、仲間の命を無節操に奪う姿は少々、想像しにくい。
(いや……でも、どちらかと言うと、進んでやったっていうよりは、《導師》って人に命じられて逆らえなかった、みたいな感じみたいだけど……)
診療所で暴走しかけていた時も、神狼はそのようなことを口にしていた。《導師》の命令は絶対だ、と。
(《導師》……か。一体、誰なんだろう? 鈴華や鈴梅婆ちゃんが言ってた『あの男』っていうのと関係があるのかな……?)
鈴華や鈴梅、神狼らが発する言葉の端々に、その存在を仄めかせている『あの男』というのが、いったい何者なのか。深雪はますます興味が湧いてきた。最初は雷龍の事かとも思ったが、どうも違うようだ。
神狼が《レッド=ドラゴン》に戻れないのも、今まで平穏に暮らしていた鈴華たちが急に茶家の生き残りとして追われることになったのも、その人物が原因なのではないかと、深雪はそう思えてならなかった。
一方の雷龍は瞳の奥底に、静かに怒りを滲ませた。公園でやり合った時のような激しさは無いが、敵を見つけた時の、歓喜にも似た熱情を確かに燻らせている。だが、表面的にはあくまで淡々とした様子で神狼に問うた。
「……お前が《レッド=ドラゴン》に戻らないのは、黒彩水が原因なのか? あいつの支配から逃れるために、《レッド=ドラゴン》から去ったというのか!?」
「俺ハ……あの人と共にいてハ、いけないのでス……!」
神狼は項垂れて答えた。その答えが、その姿が、全てを物語っていた。深雪は、自分の想像がある程度正しいのではないかと確信する。
『あの男』という者の存在が神狼を《レッド=ドラゴン》から遠ざけ、或いは組織を離れた後も亡霊のように張り付いて神狼や鈴華を苦しめているのだ。
痛みに耐えるかのように、一言一言を吐き出す神狼の姿は、深雪の目から見てもどうにも不憫で惨たらしい。鈴華も、もはや黙って見ていられないと思ったのか、黄雷龍へと非難がましい視線を向けた。
「……もういいでしょ? 神狼の意志は、はっきりしているんだから、これ以上無理強いしないで。私たちは《中立地帯》にある私たちのお店で、今まで通り慎ましく生きていけたらそれでいいの。組織での地位や暮らしにも未練は無いし、復讐するつもりもない。他には何も望まない……ただそれだけでいいんだから……!」
お願いだから、自分たちをそっとしておいて――鈴華は懇願するように切々とそう語った。憎き雷龍に頭を下げるのは、彼女にとって一体どれほどの屈辱だろう。それでも鈴華は日常を取り戻すため、そして神狼を守るため、私怨を呑み込み親の敵に頭を下げたのだ。
さすがの黄雷龍もそれには返す言葉が無かったのだろう。怒ったような顔をしたものの、そのままむっつりと黙り込んでしまう。
部屋に再び沈黙が下りる中、深雪は神狼に対し、何とも言えない感情を抱いていた。
思えば、深雪と神狼の境遇はよく似ている。深雪も神狼と同じく仲間を手に掛けた。そして神狼は《紫蝙蝠》を、深雪は《ウロボロス》をそれぞれ滅ぼしてしまったのだ。
どの地点で誤ったのか、他の道は無かったのか。深雪が何千、何万通りの解決方法を思い描いたのと同じように、神狼も己の過去を悔いたに違いない。かと言って、深雪が神狼に抱いた感情は、親近感とは違う。でも、同族嫌悪でもない。
言葉では、はっきりと言い表せないが、ただ、神狼が《レッド=ドラゴン》に戻らない理由の一端が分かった気がした。神狼は、自らを罰しているのだ。罪を犯した自分が許せなくて、存在そのものを消してしまいたいほど憎くて――だから、その罪を断罪するために、自ら故郷を離れたのだ。
胸の内で様々な思いを巡らせていると、ふと部屋の戸口に人影がある事に気づいた。物音が一切なく、気づけばそこに立っていたのだ。
深雪は不審に感じつつも顔を上げ、そちらに視線を向ける。そこに立っていたのは一人の見慣れぬ若者だった。
年のころは雷龍や影剣と同じほどか。黒絹のような繊細で艶やかな頭髪を、首の後ろでひとまとめにし、背中に垂らしている。優美な弧を描く瞳は、長いまつげに彩られ、その下にある瞳は黒曜のような冷たい輝きを帯びている。
目鼻立ちや頬から顎にかけての輪郭線など、要所要所では女性的な雰囲気を漂わせているが、体格は間違いなく男だ。少々、華奢であるが肩の辺りががっしりと張っていて、競走馬のようなしなやかな手には銀色の奥義を握っている。おそらく、鉄扇だ。
若者は無表情で、じっと部屋の中へ視線を注いでいる。
深雪は其の黒髪の若者を見て、どこかで会った事があるような気がした。しかもつい最近、この部屋の中で会った顔によく似ている気がする。
(あれ、もしかして……)
深雪がある事に気づいたのと同時だった。神狼もまた入口の人影に気づいたのだろう。それを目にした途端、我を忘れたかのように大きく目を見開くと、茫然とした表情のまま、ポツリと呟いた。
「導師 ……‼」
(ああ……この人が)
その黒髪の男は、顔立ちが神狼と恐ろしく良く似ていたのだ。瓜二つというよりは、神狼が大人になったらこういう風になるだろうな、という感じの類似性がある。
実際、彼の背は既に神狼よりずっと高く、一方で神狼の持つ中性的な魅力はとうに失っている。ただ、一つ神狼と違う事は、男の瞳は恐ろしいほど冷たく、感情を全く感じさせないという事だ。吹雪の向こうから獲物を狙う獣のように、決して己の心の内を悟らせず、冷然と相手の隙を狙って牙や爪を研いでいる――そんな錯覚を覚えるほどの、冷酷な光を帯びた瞳。
鈴華や影剣、雷龍もまた、黒髪の男に気づいた。男はそれ等の視線を浴びても動じる気配がなく、悠々と室内へと歩を進める。
男が一歩踏み出す度、纏っている本紫のチャイナ服が、光の加減に合わせて光沢を放った。雷龍や影剣が来ているチャイナ服と同じで、随分高級感が感じられる服だ。胸元を見ると黒いチャイナボタンが覗いている。彼は黒家の人間なのだ。
(そういえば……神狼は黒家の者から手配書を出されていたんだよな……?)
その辺の事情も聴けるだろうか。もし手配書を撤回できるようなら、撤回してもらったらいい――深雪はやや、楽観的に構えていたが、鈴華や雷龍、何より神狼自身はかなり警戒感を募らせているようだった。
男が部屋の中へと歩を進める度、その場の空気はきりきりと張り詰め、緊張を孕んだものになっていく。
鈴華は顔を強張らせて顔を俯けてしまったし、先ほどまで怖いものなしといった様子だった雷龍も、この若者に対してはあからさまな警戒を抱いているようだ。何より、神狼はただでさえ悪かった顔色を更に青くし、硬直している。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのような様を指すのだろう。ベッドの掛布団を掴む神狼の両腕は、僅かに震えているようにも見えた。
ただ、嫌われているとか、そういう単純な話ではない。みな、黒髪の若者を警戒し、或いは恐れている。それほどの人物だということなのだろうか。
ただ、当の男は、周囲の視線など意にも介さず、まっすぐ神狼のいるベッドへと歩み寄ってきた。と言っても、足音はしない。先ほどもいつの間にか扉の前にいたし、間違いなく神狼や奈落と同じ世界に生きる者なのだ。
「邪魔をするぞ」
やや低めの、良く通る声だった。朴訥とした話し方も、やはりどことなく神狼に似ている。ところがそれに対し、雷龍はむっと眉根を寄せ、素っ気なく答えたのだった。
「黒彩水か。一体、ここへ何しに来た!?」
「決まっているだろう。我が愚弟を迎えに来たのだ。……何か問題があるか、黄雷龍?」
「『愚弟』……?」
深雪がその言葉に顔を顰めると、鈴華がそっと小声で教えてくれた。
「……あの人は、神狼の兄弟よ」
「ってことは、あの人も紫家の出身者?」
「……そう。でもそれだけじゃなくて、神狼と血の繋がった、本当のお兄さんなの」
「へえ……そうなのか」




