第30話 その頃の、神狼と鈴華
鈴華は、導師とは深く面識がない。おそらく導師は、神狼を《東京中華街》に誘い込むためだけに、鈴華を利用したのだろう。
鈴華はただ、神狼を縛り付ける因縁に巻き込まれただけだ。だから絶対に、この手で助け出さなければならないのだ。
(鈴華……‼)
とにかく、こんなところで愚図愚図してはいられない。神狼はふらつきながらも、何とか再び歩き出した。行くべき先は黄家か、それとも黒家か。神狼は雑念を振り払うかのようにして緩く頭部を振る。頭が朦朧とし、考えがまとまらない。
すると、通りの先にある十字路で、黄家のゴーストが大声で会話を交わしているのが聞こえてきた。
「おい、聞いたか? 黄家の次期当主、黄雷龍が、この街に潜り込んだ鼠を、直々に始末するおつもりだとよ!」
「雷様が……?」
「さすが、若だぜ‼」
興奮する黄家の若者たち。一方、それを聞いた神狼は愕然とした。『この街に潜り込んだ鼠』というのは間違いなく雨宮深雪の事だろう。神狼はまだ、黄家に居場所を特定されていない。現に、黄家の配下の者たちは、神狼の事など気づいた様子もなく通り過ぎていく。であれば、あの馬鹿な新人がドジを踏んだのだ。
どうやら黄雷龍が侵入者である雨宮深雪に対し、いよいよ直に手を下すという緊迫した事態になりつつあるようだ。
(駄目ダ……何とかしテ、それだけハ阻止しないト……‼)
黄雷龍は《レッド=ドラゴン》の中でも一、二を争うほどの、高アニムス値のゴーストだ。おまけに、組織内での序列は三位。あの薄らぼんやりした新人が敵うような相手ではない。
(全ク……一体、どこまデ手をかけさせルんダ‼)
いっそのこと、このまま放置してやろうかなどとも思うが、この《東京中華街》にあの新人を連れてきたのは神狼の責任でもある。だから、途中でそれを放り投げるわけにもいかない。自業自得だと無視する事もできなくはないが、それは神狼の信義にもとるのだ。
とはいえ、どうしてそうノロマで要領が悪いのかと、腹が立つのは抑えることができなかったが。雨宮深雪に対する怒りと苛立ちを同時に激しく募らせる神狼の眼前で、黄家の男たちは呑気に会話を続けている。
「あれ……それじゃ、黒家の報奨金はどうなるんだよ?」
「さあな。でも、金がチャラになったとしても、見世物としては面白くなりそうじゃねーか?」
「確かにそうだよな。こんなビッグイベント、そうはないぜ」
「場所は中央公園だ! 俺たちも行くぞ!」
そして話がまとまると、皆メインストリートの方に向かって移動し始める。先ほどまで全身から放出していた殺気や怒りは既になく、まるでミュージシャンのコンサートに向かうファンのような足取りだ。
しかも、メインストリートに近づくにつれ、その数はどんどん増えていく。雨宮深雪(侵入者)の話が、それほど彼らの間で広まっていたという事なのだろう。
神狼も彼らに交じり、中央公園へと向かう。そこには黄家や紅家の者たちを中心に、既に百人ほどが集まっていた。
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(今……一体、何時なんだろう……?)
鈴華が黄家の男たちの襲撃を受けたのは、夜間営業に入る二時間ほど前だった。酒瓶を外運び出すため、店の勝手口から外に出たところ、三人組のゴロツキたちに待ち伏せされていたのだ。
黄家のゴロツキたちによって、出合い頭に後頭部を殴りつけられ、鈴華は呆気なく気を失った。次に意識を取り戻した時には、既にワゴン車に運び込まれ、新宿を離れた後だった。
あれから数時間。手足を拘束され、逃げることはおろか抵抗することすら叶わず、この《東京中華街》に連れ込まれたのだった。
鈴華が監禁されているのは、十畳ほどの狭い部屋だ。窓は無く、時計もないため、ここがどこなのか、何時なのかがさっぱり分からない。その部屋の扉から最も遠い壁際に、古びたソファが置いて有り、鈴華はそこに座らされていた。
手は後ろ手に縛られ、足も縄でぎっちりと縛り付けられているため、腰が痛くて仕方ない。おまけにソファはボロボロでスプリングも馬鹿になっているので、尚更だ。
目の前には黄家たちの男たちが椅子に座ってテーブルを囲んでおり、麻雀に耽っていた。酒と煙草の臭いが充満し、息が詰まりそうだ。文句を言おうにも、口はテープでがっちりと塞いであるので、言葉を発することすらできない。
逃げ出そうにも立ち上がる事すらできないし、仮に歩くことができたとしても、部屋の入り口は男たちによってしっかり塞がっている。まさに、身動きの全く取れない状況だ。
(私……いつまでここにいなければならないんだろう……?)
できれば、この街には戻ってきたくなかった。《東京中華街》は鈴華にとって、生まれ育った故郷ともいうべき街だ。だが、この街には辛い思い出が多すぎる。楽しかった思い出や嬉しかった出来事も山のようにある筈だが、辛くて悲しい思い出がそれを全て無かったことにしてしまうほど、鈴華を苦しめているのだ。
(父さんは殺された。……私の目の前で)
どうして長年、茶家の当主として組織を支えてきた父が、そのような目に遭わなくてはならなかったのか。鈴華は今でも納得しきれていない。
他家との権力闘争に負けたのだと、頭でそう理解はしている。この《レッド=ドラゴン》という組織では、往々にして繰り返されてきた事象である事も。
でもそれが、無実の人間が惨殺される理由であっていいわけがない。それを考えると、決して《レッド=ドラゴン》を赦すことはできないし、彼らが鈴華の一家に下した残酷な所業も、永遠に忘れることはできない。
とはいえ、鈴華が祖母の鈴梅と共に、逃げるようにして《東京中華街》を離れてから、もう何年も経つ。鈴華にとって、茶家の一人娘として生きた自分は既に遠い過去の存在だ。父の死も納得はいかないものの、ようやく少しずつ受け入れることができるようになってきた。
鈴華は過去と決別し、鈴梅や神狼と共に現在を行きたいと願っている。それなのに、何故、《レッド=ドラゴン》は鈴華たちを放っておいてくれないのだろう。何故、今更ながらに、この街に連れ戻されなければならないのか。
鈴華の気持ちを知ってか知らずが、黄家の男たちは麻雀にのめり込んでいる。鈴華の知っている顔もいるが、初めて見る者もいる。みな仲間なのだろう。牌を打つ音に、低い笑い声。それ以外は至って静かだ。男たちはこちらを振り返りもしない。
しかし、その静寂は突然破られた。扉の向こうから階段を駆け下りるような慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、部屋扉が乱暴に開け放たれたのだ。
顔を覗かせたのは、鈴華を拉拉致した黄家の男たちの一人――瓢箪のような顔をした痩躯の男だった。
男は麻雀に興じていた男のうちの一人――頬に十字傷のある角刈りの男に向かって、興奮した様子で捲し立てた。
「万武 ……お前の言う通りになったぜ! この女を追って、紅神狼が《東京中華街》に現れたらしい!」
――神狼が。鈴華は弾かれたように顔を上げた。
(どうして……ひょっとして、私を助け出すために……?)
神狼もまた、鈴華とは別の理由で《レッド=ドラゴン》を離れている。だからこそ、《龍々亭》に身を寄せているのだ。それなのに、この微妙な時期に《東京中華街》に乗り込むだなんて。体調だってまだ良くなっていないだろう。今朝もかなり熱があった。
自分が浅はかにも攫われてしまったが故に、神狼に相当な無理と危険を強いているのだと思うと、鈴華は胸が張り裂けそうだった。
今、神狼はどこにいるのか。安全なのか。聞きたいことは山ほどあったが、口はしっかり塞がれている上に、男たちはそれ以上の詳細を喋ってくれない。一方、鈴華も見覚えのある漬物石のような頭をした小太りの男が、万武と呼ばれた角刈りの男へと、嬉しそうに身を乗り出す。
「どうする? 俺たちも捜索に参加するか?」
すると万武はニヤリと口の端を吊り上げる。
「その必要はねえ。茶鈴華がいる限り、紅神狼はいずれここにやって来る。さんざん逃げ回って体力や気力をすり減らしてここへ来るんだ。その時を狙えば、俺たちにも奴を捕らえられるだろう」
「そうすりゃ、黒〈ヘイ〉家の報奨金は楽して俺らのもんってわけか!」
「そういう事だ。おまけにこの女を黄家への貢ぎ物にすりゃ、出世のきっかけにできるかもしれねえしな。喜べよ、お前ら。金と地位が一気に手に入るかもしれねえぞ!」
「いいな、それ……さすが万武だぜ!」
どうやらこの男がリーダーであるらしく、他の男たちは素直に感心し、賛辞を送っている。
それにしても、何が一体『さすが』なのか。ただ卑怯なだけではないか。鈴華が胸中で毒づいていると、その時になって、万武はようやく鈴華の方を振り返った。これ以上ないほどの嗜虐的な笑みをその顔に貼り付けて。
「哀れだなあ、裏切者の末路ってのはよ。まあ、恨むなら愚かな自分の親父を恨めや」
万武の身の毛もよだつ台詞に伴奏するかのように、男たちは下卑た笑い声を立てる。鈴華はぞっとし、両目をきつく瞑ったのだった。
(ここに来ちゃ駄目だよ、神狼……こいつらの狙いは神狼なんだよ……! 私のことは、どうなっても良いから……お願い、早く逃げて……‼)
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その頃、深雪は《東京中華街》の中を、ひたすら爆走していた。
とにかく、どこかに逃げなければならない。だが、《東京中華街》の煌びやかなメインストリートは、既に気色ばんだ黄家配下の者たちで溢れ返ってしまっている。ドレスや臙脂服を身にまとった富裕層の観光客もいるにはいるが、驚いたようにただその身を竦ませ、成り行きを見つめているだけだ。
彼らには目もくれず、黄家の男たちは、ある一定の方角を目指して、みな突き進んでいた。実に光栄なことに、彼らの視線の先をひた走っているのが深雪なのだ。
「くそ、ここはどこなんだ……!? これじゃまるで迷路だ!」
超高層ビルの真下は空が見えないせいか、方向感覚も狂いやすく、自分がどこにいるのか分からなくなる。通信機器はあるにはあるが、それを起動させ、地図アプリを開いている余裕もない。
深雪は勘だけを頼りに、ひたすら走り続け、やがてぽっかりと開けた空間に出た。
それは、ビルとビルの合間に設けられた広場で、入り口は黄色の瓦屋根を冠した、中華式の立派な門によって彩られている。その奥に広がる広場は石畳で覆われており、広間の周囲は古い木造建築で囲われている。それらの屋根瓦も、やはり鮮やかな黄色だ。
他にも手入れの行き届いた植木や円形の噴水なども設えられている。最初は暗くてよく分からなかったが、目が慣れるに従ってそこが公園になっているのだと気づいた。
早朝に太極拳などをするのにちょうど良さそうな、豪華な庭園だ。
「ここは……公園……!?」
暗闇に沈む広場に飛び込んだ深雪が、戸惑いつつ周囲を見回していると、突如として視界が白化した。余りの眩しさに、深雪は思わず両手で顔を覆う。数秒後、自分をめがけてサーチライトが照射されているのだと気づいた。深雪の姿は、暗闇の中でこれでもかとはっきりと浮かび上がる。まるで、脱獄映画の主人公のようだ。
慌ててその場を離れようとした時だった。深雪の頭上から人影が襲い掛かってきた。その人影は、手にしていた巨大な曲刀を、躊躇なく深雪めがけて振り下ろしてくる。
「……っがあ‼」
気迫の籠った声と共に、長大な曲刀が石畳を砕く硬質な音が響き渡る。
「うわ!?」
深雪は転がるようにして、その場を飛び退った。
(な……何だ!?)
つい先ほどまで深雪が立っていた、サーチライトの中心に現れたのは、深紅のチャイナ服に身を包んだ若者だった。頭髪は金色に染め上げ、天を衝くかの如く逆立たせていて、その下に覗く瞳はネコ科の猛獣のように獰猛だ。
その危険極まりない光を帯びた瞳は、地に膝をつく真っ直ぐ深雪を見下ろし、先ほど軽々と振り下ろした、身の丈ほどもある巨大な曲刀――青竜刀を、勢いよく肩に担いで見せる。
「てめえか、この《東京中華街》に入り込んだ《中立地帯》の《死刑執行人》ってのは」
ライトの光を反射し、禍々しく光る瞳孔。剥き出しの犬歯。控えめに見積もっても、青年の雰囲気が友好的でないのは明らかだった。むしろズタズタに引き千切り、噛み砕いてやると言わんばかりの、激しい攻撃性と好戦性を、誰憚ることなく露わにしている。
その荒々しい眼光を受けた途端、深雪は全身の筋肉が軋みを上げ、硬直するのを感じた。こいつはヤバい。全身の感覚が、深雪にそう警告を発している。それは野生の虎を目の前にした鹿の反応に似ているだろうか。
どちらが捕食者で、どちらが被捕食者か、忽ちのうちに決してしまう、残酷なる邂逅。
(こいつ……多分、すごく強い……‼)
ごくりと生唾を呑み込んだ。
深雪に襲い掛かってきた、金髪をオールバックに逆立てた青年は、その個性的な容姿のせいか、威風堂々とし、不敵で不遜ささえ感じられる。
おそらくそのスタイルは決して見掛け倒しでも無ければ、中途半端な自己表現でもない。彼は頭の先から足のつま先まで、自らが王者であると寸分も疑っていないのだ。
そしてそれがただ、包み隠すことなく表面に現れているというだけなのだろう。
「……いい度胸してやがんなぁ。ここは俺たちの街だ。それを土足で踏み荒らすのがどういうことか……知らねえってわけじゃねえだろう?」
金髪の青年は、一度担ぎ上げた青竜刀をマーチングバトンのように軽やかに一回転させると、その切っ先を深雪の鼻先へピタリと突きつける。
一方の深雪は内心では穏やかでなかった。轟、と音を立て、襲い来る剣圧を真正面から浴びれば、西瓜割りのように、ぱっくりと頭部が割られるのではないかと、さすがに肝が冷える。
だが、表情には出来るだけそれを出さぬよう努めた。深雪とて、修羅場の一つや二つは潜り抜けているし、ポーカーフェイスを決めるくらいのことはできる。もっとも、どれもこの《監獄都市》で《死刑執行人》と関わるようになってから会得した技ばかりだったが。
ともかく、恐怖や脅えは禁物だ。弱みを見せれば、相手を余計に興奮させてしまいかねない。深雪は青年の胸元で光る、金糸のボタンに目を留め、努めて静かに口を開いた。
「黄色のチャイナボタン……あんたも黄家の人間か」
すると、青年は興醒めしたのか、見下したような冷ややかな視線を深雪へと向ける。
「……ああ? つまんねえ事、聞くんじゃねーよ! 俺の名は黄雷龍 ……黄家の次期当主となる男だ‼」
そして、若干、苛立ちの籠った声で吐き捨てると、今度はそれと真逆で、ぞっとするほど、にこやかに笑って見せた。
「……で、それがどうかしたか? まさか、それでびびって降参――なんてことはねえよなあ?」
「……!」
深雪は思わず、半歩後退した。ギラギラとあからさまな戦意をぶつけられるより、そういった何かを押さえつけている表情の方が、遥かに背筋が寒くなる。その笑顔の下に何が巣食っているのだろうと、想像せずにはいられないからだ。
(何ていうか……随分、好戦的だな。侵入者が許せないっていうのもあるだろうけど……多分、本当は自分の力を誇示したくて仕方ないんだ)
深雪の額から頬を、冷や汗が伝い流れ落ちる。僅かでも隙を見せれば、眼前の青竜刀によってズタズタにされてしまいそうだ。
一体、どうやってこの窮地を切り抜けるべきか。深雪は慎重に青年の様子を窺う。だが、緊張し身を強張らせる深雪とは裏腹に、金髪の青年は何かに気づいたかのように眉根を寄せると、まじまじとその顔を眺め始めた。
「っつーか……見ねえ顔だな。誰だ、てめえ? 影剣は《東雲》んとこの《死刑執行人》だって言ってた筈だが……? こんなぼんやりとした奴、いたっけか? それとも、俺がド忘れしているだけか?」
「ド忘れじゃないよ。俺は最近、東雲探偵事務所に入ったばかりだから」
「……ふん?」
「そっちこそ、ゴーストか? その青竜刀……まさかここでやろうってんじゃ……!?」
深雪は決して隙を見せてはなるまいと、黄家の青年を睨みつけた。すると、黄雷龍はかっと大口を開け、愉快そうに笑い始める。
「くっ……ははははは‼」
「何が可笑しいんだ!」
憚ることなく、身を仰け反らせて大笑する雷龍だったが、その中には、深雪を愚弄し、挑発するような響きもあった。むっとした深雪がそう問うた瞬間、雷龍の眼が再びギラリと禍々しい光を帯びた。
「そのまさかだって言ったら……一体どうする?」
先程よりも何倍も凝縮された濃い殺気が、一気に膨れ上がり、深雪へと向かって放たれる。
これはまずい――空間をびりびりと振動させるかのような気迫を真正面から浴び、深雪はすぐさま牽制の声を上げた。




