第22話 《東京中華街》①
石蕗の診療所を出て、新宿駅まで徒歩で移動すると、神狼はそこでタクシーを拾った。
タクシーと言っても、サイドミラーは左側が取れ、車体はどこかでぶつけたのか、あちこち凸凹だらけ、そもそも走行できるのか疑わしいような車両だ。
おまけに運転手の柄も悪い。タバコを吸いながら横柄にこちらを睨みつけてくる。勿論、後部座席が自動で開くなどという気の利いたサービスもない。こんなのに乗るくらいなら、徒歩の方がましだと、余裕で思える残念具合だった。
深雪としてもあまりそんな車に乗りたくはなかったが、日が既に遅い事や、神狼の体調を考えると、贅沢を言ってもいられない。鉄道やバスはいずれも《監獄都市》制定後、廃線になったそうで、そもそも利用することができない。
もっとも、深雪にとってはタクシーという事業が残っていること自体、驚きだった。《監獄都市》と言っても、内部は広い。それなりに需要はあるのだろう。
ただ、このような街でタクシーを走らせるのは、おそらく相当な危険を伴う。そのせいか、目の前の運転手も深雪たちを一目見るなり嫌そうな顔を歪め、舌打ちまでして見せた。年齢的にも深雪たちをストリートギャングだと勘違いしたものらしい。それでも客は客と割り切っているのか、追い払うことまではしなかった。
ベコベコの車は悲鳴のような怪しげなエンジン音を上げて走り出す。アスファルトがひび割れて路面の状態が最悪なのと、運転そのものが荒いのとで、車体は激しく上下左右に揺れ、深雪は少々車酔いを起こした。
タクシーは明治通りを北上していく。日はすっかり落ち、運転手はヘッドライトを付けたが、片方が点灯しない。故障し、そのままにしているのだ。深雪は一体、どういう神経をしているんだと戦慄を覚えたが、もはや文句を言う気力も失せていた。こうなったら、一刻も早く目的に到着するのを祈るのみだ。
やがて、新目白通りを超えたあたりからだった。周囲の風景が一変し、深雪は息を呑んだ。
簡体字で書かれた大きな看板に、原色のけばけばしいネオン。人も車も建物も、他の街よりずっと多い。タクシーの窓を閉めていても、外の喧騒が聞こえてくる。まさに音と色彩の洪水だ。建物も大きい。
新宿では旧都庁周辺を除き、巨大ビルはごく限られているが、ここでは三十階建て、四十階建てのビルがあちこちに聳え立つように立っている。しかもそれは池袋が近づくにつれ、どんどん高くなり、数も増えて密集していく。
深雪がぽかんとして車窓の風景に見入っていると、不意にタクシーが減速した。どうやら、目的地に着いたらしい。
そうして神狼に連れられ、やって来たのは池袋駅の東口だった。
この辺りになると、日本ではなく、まるで外国にいるような錯覚に陥る。
周囲は中国語の看板だらけ、通行人の服装もほぼチャイナ服だし、話している言葉も中国語で、深雪にはその内容はちんぷんかんぷんだ。
池袋駅の方へと視線を向けると、その向こうにはニューヨークの摩天楼を彷彿とさせるような超巨大ビル群が林立し、池袋の街全体を覆いつくして、眩いほどの光を発していた。おかげで日は落ちている筈なのに、真昼より明るい。
深雪の知っている池袋の光景とは、いろいろな面に於いて桁違いだ。
(あれが《東京中華街》……!)
そのままその摩天楼へと向かうのかと思いきや、神狼は深雪を池袋駅とは反対側の通りへと促す。その周辺は駅の西側ではないにしろ、雑居ビルや商業施設、マンションがひしめいている。
街並みはやはり派手な看板やネオンで溢れ、新宿周辺より活気があるように感じた。人通りも多い。かといって殺伐とし、喧嘩や抗争が多発している風でもなく、みな落ち着いている。良くも悪くも、《レッド=ドラゴン》による統制が行き届いているのだろう。
ただ、周囲の人間がみなチャイナ服を纏っているのに、深雪は一人だけパーカーとジーンズという出で立ちなので、何だか自分が妙に浮いているような気がしてならなかった。
やがて神狼は、一棟のマンションの前で立ち止まった。それは、どこにでもあるような古い五階建てマンションで、周囲を十階建ての大きな雑居ビルやホテルに囲まれているせいか、こじんまりとしていて目立たない。こんなところに、何の用なのか。深雪が訝しんでいると、神狼は一人でさっさとそのマンションの薄暗い階段を上っていく。そこで深雪も慌ててその後を追いかけた。
「……入レ」
そう言って神狼が開けたのは、マンションの二階の一番奥にある部屋の扉だった。
そもそもこのマンションは、存在そのものが目立たないが、中でもその部屋は周囲の建物に隠れて最も目立たない場所にある。
神狼に言われるままに中に入ると、1DKほどの手狭な部屋は衣装や小道具で溢れていた。様々な服があるが、基本はチャイナ服が多く、色や形が様々なのは勿論、女性用の服まである。
他にも化粧品やさまざまな種類のウイッグ、靴や帽子、鞄なども棚に整然と並べられている。壁を見ると窓が二つあったが、どちらも真っ黒の遮光カーテンでしっかりと遮られていた。
生活感はまるで感じられない。
「何か、どちらかというと劇場とかの楽屋みたいな部屋だな……」
深雪がきょろきょろと部屋の中を見回しながら呟くと、神狼はクローゼットの扉を開きながら答えた。そこにもやはり、服や小物が詰め込まれているのが見える。
「《東京中華街》に潜入する時ニ、いつも使ってル。置いてあるのハ、潜入向けの変装道具ばかりダ」
確かに神狼の言う通り、冷蔵庫やレンジなど、本来あるべき家電の類は殆ど無い。元はキッチンのシンクと思しき場所には、壁に大きな鏡が取り付けられていて、いろんな色のファンデーションや口紅といった化粧品が、まるで調味料のようにきちっと並べて置いてある。
「でも、神狼には《ペルソナ》があるだろ。こういった道具は特に必要ないんじゃ……?」
すると、神狼はむっとし、吊り目を刺々しく細めた。
「呆子! アニムスが使えないことも時にはアル。ちょうど今みたいにナ。それに、《レッド=ドラゴン》には俺のことをよく知る者もいル。念には念を重ねて、ダ」
「成る程……」
神狼のアニムスは、暴走こそ起こしていないものの、まだ安定しているとは言い切れない。アニムス抑制剤の投与量がごく微量であった事を考えると、余計にだ。だから今回の潜入には《ペルソナ》はあまり頼りにならないし、それならむしろ念入りに変装した方が無難だと考えたのだろう。
こうやって、数多の変装道具を目にしていると、これから《東京中華街》に潜入するのだという実感が俄かに湧いてきて、深雪は背筋がひりひりするのを感じた。池袋駅の背後に聳え立っていた超巨大ビル群は、まるでこの《監獄都市》に於ける《レッド=ドラゴン》の影響力の強さを、これでもかと誇示するかのようだった。
あの中は一体どうなっているのか、どのような人々がどのように暮らしているのか。想像もつかない。
そんなことを考えていると、ふと思い出すことがあった。
(そういえば、攫われたのは鈴華だけど、奴らの狙いは神狼の方だって、鈴梅婆ちゃんは言ってたな……《レッド=ドラゴン》の中には神狼のことを取り戻したいって思っている人もいるってことか)
深雪はそれと同時に、且つてエニグマから告げられた言葉を思い出す。
『――彼(神狼)の心は金でさえ買えない。一族に絶対的な忠誠を抱くよう、洗脳にも似た教育を施されているのです。彼はいつかあなた達を裏切りますよ。あなた達、日本人を……ね』
エニグマの言うことを全て信用したわけではない。だが、情報屋という仕事の性質を考えると、デマを言っている可能性は低いような気がした。彼らにとって、情報は重要な『商品』だ。粗悪品(偽の情報)を扱っているなどと思われてしまったら、信用を落とすことはあれど、得をすることは何もない。
(神狼は必ず俺たちを裏切る……か。どうなんだろうな。何だかいろいろ複雑な事情があるみたいだけど……神狼自身は《レッド=ドラゴン》に戻りたいって思ってるんだろうか……?)
神狼の横顔を窺ってみるが、自分より年下の少年が何を考えているか、簡単に窺い知ることはできなかった。
(本当に《レッド=ドラゴン》によって洗脳されているのかな……?)
だが、神狼は割と好き嫌いがはっきりしているし、どちらかというと我も強い。どうにも洗脳を受けているようには思えないのだが。
それに、もし神狼が古巣にどうしても戻りたいと考えているなら、とうの昔に戻っているのではないか。神狼のアニムスである《ペルソナ》は、東雲探偵事務所にとってそうであるように、おそらく《レッド=ドラゴン》にとっても十分、利用価値がある。過去に何があったとしても、簡単には手放さないだろう。
(エニグマの話を聞いて、最初は神狼の事を《レッド=ドラゴン》のスパイなんじゃないかって、ちらっと思ったりもしたけど……もしそうなら、マリアや流星、奈落とかが、とっくの昔に何らかの動きをしているだろうし、事務所でスパイ活動をしたって、得る物がそうあるとも思えない。……それも何か違う気がするな)
深雪が一人、物思いに沈んでいると、突然、何か布地のようなものが飛んできて、ばさりと顔面を覆った。慌ててそれを引き剥がし、一体何なのかと目の前で広げていると、すぐに罵声が付け加えられる。
「おい、ボサッとするナ。それを着ロ!」
「これは……チャイナ服……?」
それは、青鈍色の布地に銀色の唐草模様がプリントされたチャイナ服の上着だった。何だか、やたらと丈が長い。これを着るのかと驚いていると、黒のアンダーシャツに、ズボンも追加で飛んでくる。
「《レッド=ドラゴン》の構成員ハ、チャイナ服を好んで着用する傾向がアル。《東京中華街》で目立たないように潜入するニハ、チャイナ服は必須ダ」
確かに池袋駅周辺でも、チャイナ服の人々が多く目に付いた。その中でパーカーにジーンズの深雪は、自分でもそうと分かるほど浮いていた。
「へえ……でも何でだろ。民族回帰とか、帰属意識を高めるとか、そんな感じなのかな」
チャイナ服は、着物よりは着るのも楽だし動きやすそうだが、みなが着用しているとなると、さすがに自発的とは思えない。何らかの意図でそれを何者かに強要されていると考えるのが自然だ。
すると神狼は、自身が着用している黒いチャイナ服の、胸元に付いた二つのボタンを指し示して答えた。
「それもなくは無いガ……最も重要なのは胸元のチャイナ釦ダ。チャイナボタンの色は、どの家に属しているかを表しているからナ。黄色は黄家、白色は白家、緑色は緑家……と言った具合にダ。《レッド=ドラゴン》に属しているゴーストハ、みないずれかの家に属しているカラ、それが名札代わりのようなものダ」
「黄家に、白家に緑家……一体、いくつ家があるんだ?」
深雪がうんざりした口調で呻くと、神狼は怒りを通り越して、すっかり呆れた表情となった。
「……お前、本当に何も知らないんだナ!」
そして溜息を一つつくと、律儀に説明を始める。
「いいか、よく覚えとけヨ。《レッド=ドラゴン》の現トップは紅神獄。紅家の当主だガ、紅家そのものは人数が少なく、実質的に《レッド=ドラゴン》を動かしているのは、黄家の方だと言われてイル。黄家は《レッド=ドラゴン》の中で最大勢力を誇っているからナ。この二家ガ、今の《レッド=ドラゴン》における主流派ダ」
「成る程……つまり、紅と黄色がグルで組織を牛耳ってるんだな」
ふむふむと相槌を打つと、神狼は心底、嫌そうな顔をした。
「頭の悪そうな表現だナ……まあイイ。それら二つの家と敵対しているのが、白家と黒家ダ。特に黒家はかつて《レッド=ドラゴン》の主流派だったこともアリ、自分たちを追い落とした紅家と黄家を目の敵にしてイル」
「ええとつまり……白と黒は結託し、紅と黄色の二つと対立してるのか」
「そうダ。あと、緑家と藍家はどちらにつくこともなく、今のところハ中立を保ってイル」
深雪は先ほど投げつけられた青鈍色のチャイナ服をもう一度広げる。
「このチャイナ服についているチャイナボタンの色は青だから……藍家の者に成り済ますって事か」
「その通りダ。藍家は《レッド=ドラゴン》の中でも穏健的な派閥デ、外部の者モすぐに排除したりハしない。だかラ、まずは藍家の知り合いと接触シ、内情を探ル」
「その藍家知り合いって人は、その……味方なのか?」
「味方……ト、断言することはできナイ。でモ、敵デないことハ確かダ。どうなるかハ接触してみないト分からないガ、少なくとモ、会った瞬間ニ殺されル……などという事はナイ」
神狼はそう言うと、自身も変装用のチャイナ服を手に取った。そちらは孔雀緑にゴールドのプリントが入っていて、深雪のものと比べると随分丈が短い。しかし、青色のチャイナボタンは深雪のものと一緒だ。
(でもそれって、裏を返せば、見つかった瞬間に殺しにかかってくる奴もいるってことだよな……)
深雪たちは《レッド=ドラゴン》にとって招かれざる客なのだから、その可能性は十分にある。今更ながらにこの潜入が命がけなのだと再認識し、足元が冷やりとした。
「何か、いろいろ複雑なんだな……因みに、家は全部でそれだけなのか?」
「全部ダ。……今はナ」
(『今は』……?)
その微妙な言い回しに深雪は首を傾げたが、神狼はあまりその話題には触れたくないのか、それ以上、自分からは何も言わなかった。仕方ないので、深雪はさらに話題を振ってみる。
「それじゃ、神狼もその中のどれかの家に属してたんだ? 苗字が紅だから、やっぱ紅家か?」
「イヤ……俺ハ、そのどれでもナイ」
「え、でも……さっき、《レッド=ドラゴン》のゴーストはみな、いずれかの家に属してるって……」
「……その話はもういいダロ。用意が済み次第、潜入するゾ!」
神狼は乱暴に吐き捨てると、くるりとこちらに背を向け、それきり完全に黙りこくってしまった。
(何だろ。記憶がないのか……? いや、知ってるけど話したくない……って、そんな感じだったな)
それ以上、根掘り葉堀り聞きだすのは、さすがに悪いような気がした。神狼がその事を話したがっていないのは、それ以上の質問を拒否するかのような雰囲気からも、明らかだったからだ。
それに、あまりしつこくすると、ただでさえ良くない機嫌が余計に悪くなってしまうだろう。それで渋々、深雪もそのまま黙り込んだ。
とはいえ、このぎすぎすした沈黙状態がずっと続くのも、どうにも居心地が悪い。そこで、別の話ならしてもいいだろうと判断し、それとなく話題を変えてみた。
「……あのさ。神狼は戻りたいって思ってるのか?」
「何……?」神狼は眉根を寄せ、こちらを振り返って、ぎろっと睨みつける。思っていたより鋭い視線を向けられ、深雪は慌てて殊更に明るい声を出した。
「あ、いや……神狼はもともと、《レッド=ドラゴン》の人間なんだろ? どういう事情で今、東雲探偵事務所にいるのかは知らないけど、古巣に戻りたいとか、普通はそういうのあるんじゃないかなって」
これも触れてはならない話題だったか。深雪は気分を害した神狼が、いつ激昂し始めるかと内心でヒヤヒヤした。だが、思いの外、神狼はそれ以上激しい感情は見せなかった。ただ静かに両目を伏せ、いくらか躊躇した後、ポツリと呟いた。
「俺は……組織には戻れナイ」
「そうなのか? でも、戻って欲しい人もいるんじゃないのか? だから、鈴華を誘拐してまで神狼をおびき寄せようとしているんだろ?」
「……。だからこそ、戻れないんダ」
それは淡々としていたが、何かを否定し、寄せ付けまいとするかのような、きっぱりとした拒絶を含んだ口調だった。
「え……?」
深雪は戸惑い、神狼を見つめた。俯く神狼の横顔が、何かに苦しんでいるように見えたからだ。
神狼はこれまで何度も深雪の存在を否定してきたし、拒絶もしてきた。そこには一貫して、深雪のことが嫌いだという感情が根底にあった。だが、今の言葉には嫌悪は感じられなかった。それどころか、何かを必死で守ろうとするかのような響きさえあった。
(ひょっとして……)
神狼は、内心では《レッド=ドラゴン》の事をさほど嫌っているわけではないのかもしれない。むしろ古巣に対する愛着や育てられたことへの恩義、或いは郷愁といった感情を、きちんと人並みに抱いているのではないか。
ひょっとしたら、本当は機会があれば戻りたいとすら思っているのかもしれない。それなのに、今の神狼は頑なに組織に戻ることを拒絶し、自らその決断に苦しんでいる。――そう感じるのは、深雪の気のせいだろうか。
(一体、どんな事情があるって言うんだ……?)




