氷解のとき
実際にプヤ・ライモンディを目にしたことがあるとは言え、門外漢の高瀬が、間違いようもないと言い切った。それはつまり、トゲトゲ植物を専門に扱う宮部が、プヤ・ライモンディの名前を知らないはずが無いという結論に杏子を導く。宮部は、あの鉢の名前を知った上で、それを贈る意味すらも解った上で、あの鉢を真奈美に贈ったのだ。
一度は城崎へ手放してしまい、次には部屋に一人で放置して、そうして病んでしまった真奈美の心。でも、杏子が指摘や非難などするまでもなく、宮部はとっくに全てを省みていたのだ。あの鉢に真奈美への想いをこめて、誰にも触らせること無く、あのハウスの片隅で大事に大事に育ててきたのだ。そして、もう離れない、ずっと傍に居るんだという、兄から妹への力強い愛のメッセージを密かに贈り、その想いのままに、加古川へ行った真奈美との関係を温め直してきた。
(あぁ、私はなんて愚かなの。部外者のくせに偉そうに。宮部さんは、何もかもちゃんとわかっていたのよ。)
杏子は、真奈美を放置した宮部を責め、もっと向き合うべきだったと罵った自らの愚行を恥じ入り、思わず本当に頭を抱えて机に伏してしまった。
杏子、と突然声を掛けられて、杏子はふと我に返った。隣に座した志保里が、杏子を不安げに見ていた。
「私と、二人きりだと、やっぱり無言になってしまうわね。」
「そんなことない。ちょっと考え事してだけ。高瀬さん、良さそうな人だね。お母さん、幸せになってね。」
志保里の辛そうな物言いに、杏子は慌てて否定した。
志保里は、酒の力なのか高瀬の力なのか、いつも杏子に見せる強張った表情などすっかり形を潜めて、切なげにじっと杏子を見ていた。
「杏子は…、私と同じなのね。お酒を飲むと、少しの量でも真っ赤っか。貴女と飲んだことなどないから、知らなかったわ。忠雄さんは…、あの人はお酒に強かった。いくら飲んでも顔色一つ変えずに。」
酒で潤んでいると思っていた志保里の目から、ぽとりと一滴が零れ落ちて、杏子は母が泣いていることに初めて気付いた。
「杏子は、私にちっとも似ていないと思っていたけど、そうじゃないのね。私がちゃんと見ていなかっただけで、きっと…、もっと他にも…、私に似ているところがあるんだわ…。」
ぽたり、ぽたりと、次第に量を増した涙が、次々に志保里の頬を伝い、最後にはすっかりしとどにぬれた頬を両手で覆って、志保里は泣き崩れた。
咽びながらも紡がれた志保里のその言葉は、あの暑い夏の日に、無表情に長々と告げられた懺悔の言葉よりもずっと、杏子の心を強く揺さぶった。杏子の前で、笑いも泣きもせず、何の感情も見せなかった志保里が、今、目の前で、咽び泣いているのだ。
折良く部屋に戻ってきた高瀬が立てた襖を開ける音に、志保里はびくりと肩を震わせ、そして素早く立ち上がると今度は志保里が部屋を走り去った。
高瀬も、失礼、と杏子に断りを入れて、入ったばかりの部屋の敷居を再びまたぎ、志保里の後を追ったようだった。
思わぬ母の涙に、杏子は呆然とするばかりだった。
涙に濡れた志保里の目は、抑えきれない感情に歪み狭められていたが、間違いなく、杏子をしっかりと見据えていた。生まれて初めて、志保里と目が合ったような、そんな気がした。
杏子が嫌いだった志保里のあの空虚な目は、杏子を視界に捉えてはいても、杏子を見ては居なかったのだろう。自分にちっとも似たところの無い娘を見て、その実、その面立ちにある夫の影を追っていたのかもしれない。
志保里は今、確かに、初めて杏子を見たのだと、杏子はそう感じた。
志保里と高瀬は、暫くたっても帰ってこなかった。部屋にはまだ二人の荷物が残されていたが、杏子は、船の最終便の時間が迫っていたので、先に失礼することにした。
出された料理の質や部屋の内装を見れば、とても全ての食事代を杏子が払うことは無理であったが、いくらかでも出そうかと店員を捕まえて聞くと、高瀬が席を立ったときに済ませたのか、支払いは結構ですとだけ告げられた。
一体いくらだったのだろうと不安に思ったが、今日は杏子のお祝いだと言ってくれていたから甘えておこうと思い、杏子は店員に言付けて一人店を後にした。
「杏子さん!待って!」
杏子が店の暖簾を潜って数メートルほど行ったところで、後ろから高瀬が追いかけてきた。志保里の姿は無かった。
「すみません、先に失礼してしまって。船の最終便が出てしまうもので。ごちそうさまでした。」
杏子は、先んじて頭を下げた。
「いや、こちらこそ。じゃあ手短に。」
高瀬はそう言うと、ほんの数メートル走っただけにしては上がった息を、ふうふうと整えてから話し出した。
「今日は楽しかった。志保里さんも、最後にはちょっと気持ちが昂ぶってしまったみたいだけど、とても楽しんでいたと思う。それで…、今日はあの話は無しと言っておいて何だけど、杏子さんとしてはどう考えているのかな。」
それがボストンでの同居を意味していることは、明白だった。
「今日、ここへ来て良かったと、私もそう思います。でも同居のことは、まだ、何とも言えません。ただ、絶対に嫌だとは、今は思っていません。」
杏子の言葉に高瀬は破顔して、良かった、と息をついた。
「でも、私が行っても本当に良いんですか?」
もちろん、いいよ、と言った高瀬の顔が、柔らかく温かく綻んでいたことに、杏子は嬉しさを感じ、そしてそう感じた自分に、内心驚いたのだった。




