感染していく闇
志保里が自分を好きで無いことぐらい、娘の杏子にはとうに解りきったことである。それでも、面と向かってこうもはっきりと告げられると、やはり心を抉られるような痛みを感じるのだと、杏子は我が事ながらに感慨深く感じた。母からの愛情など自分には縁の無いものなのだと、とうの昔に諦めたと思っていたが、それでも、冷たい態度の裏側に人の親として当然の愛情を持ってくれているはずなのだと、心の奥底ではそう期待していたのかも知れない。
今や、その僅かな望みさえも潰えて、杏子は改めて母を見た。華奢で小柄な女である。若くして嫁いだ夫に愛されず、美人な自分に似ても似つかない娘を持て余し、自分でも認めることができない欠陥を抱えて、長年苦しんできた女。憐れな女だと、杏子は素直にそう感じた。そして、自分もまた同様に、憐れな人生を送ることになるように思えて、母から続くこの負の連鎖に、どうしようもなく囚われている自分を憐れんだ。
「もうすぐね、その精神科の先生と再婚するの。忠雄さんみたいな華やかさは無いけど、私の苦しみを解ってくれて、欠点も認めた上で愛してくれる人なの。杏子のことも、その人に勧められて会いに来た。貴女にはこんな話、一つも楽しいこと無いでしょうけど、私が新しい人生を始めるために、どうしても必要なことだったの。自分のことばかりでごめんなさいね。でも、もし、私のことを赦してくれるのなら、もう一度、一緒に暮らしてもらえないかしら。彼も、ぜひって言ってるの。貴女の仕事のキャリアにもなると思うわ。」
あまりにも自分勝手な志保里の提案に、杏子は開いた口がふさがらない思いだったが、話の意味が分からず、志保里に問い返した。
「彼が十一月からアメリカに赴任するの。ボストンの研究機関にポストをもらえることになって、入籍して一緒に行くのよ。それで、貴女にも来て欲しい。今の翻訳の仕事も続けられるし、彼の利用してる翻訳会社にも紹介してもらえるわ。学術論文の翻訳や会議通訳を専門にやっているところですって。ずっとじゃなくてもいいの。私に、母親らしいことをするチャンスを、もう一度だけくれないかしら。貴女のキャリアアップにもなるし、日本に戻ってからも働きやすくなるわ。」
なるほど、と杏子は納得した。志保里の本当の目的は、ここにあったのだ。新しい男と新しい人生をやり直す。そんな新しい自分に華々しく生まれ変わるために、娘と良好な関係を築く母親という一面が無くてはならないと、そういうことなのだろう。精神科医だか何だか知らないが、余計な入れ知恵をしてくれたものだと、杏子は内心毒づいた。
カウンセリングに行こうと、過去を振り返ろうと、新しい男と人生をやり直そうと、好きにすれば良いと、杏子はそう思う。だけど、なぜ自分がとばっちりを受けなければならないのか。自分はもう、幼い頃からずっと傷ついてきたはずなのに、今になって、なぜこんなにも心を抉られかき乱されて、まるで餌で釣るように同居を求められて、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。杏子には、どう考えても、到底承服できる話では無かった。
「再婚おめでとう。でも、一緒には暮らせない。もう私のことは放って置いて。どうぞ新しい人生を思うように生きてください。」
杏子はそう言うと、志保里に帰るよう促した。今度は港まで送っていく気にはなれず、玄関先で見送ることに断りを入れて、さっさと志保里を家から閉め出したのだった。
志保里は別れ際、まだ時間があるから考えて欲しいと、そう言い残して去って行った。
長年、志保里を苦しめてきた心の病のようなものがあるのだとしたら、それは言葉となって吐き出され、杏子の耳から侵入し、今や杏子に感染して心を蝕み始めているように感じられた。自分に病を感染させておきながら、志保里は、快癒を祝って新しい人生を謳歌するのだろう。
杏子は、これまで、志保里を愛しく思ったことはなかったが、憎んでも居なかった。憎らしいと、今初めてはっきりと感じ、やはり志保里の訪問を許したのは誤りだったと、杏子は心の底から後悔した。




