母の想い
いくつになっても変わらない人だと、杏子は、船着き場から数人に紛れて島に降り立った志保里を見て、そんな感想を持った。娘である杏子は、大学受験の際にストレス食いが癖になってからというもの、もともとぽっちゃりだった体型が、さらに丸くなって今に至っている。志保里は、八年前に会ったときと寸分違わず、ほっそりとした小柄なラインを保っていた。若くして杏子を産んだ志保里は、今年四十四になるが、髪の艶といい肌の張りといい、現役の女として十分に美しさを保っていると、杏子は同性ながらに感心した。
杏子に会うなり、変わらないわね、と言い放った志保里も、杏子と同じ感想を抱いたようだった。何をもって変わらないと言うのか解らないが、それが体型のことであるならば、五十キロ台が六十キロ台に移行した杏子のことなど、四十キロ台から逸脱したことも無いような志保里にしてみれば、以前と変わらずに肥満であると言いたいのだろう。
杏子はそう考えて、志保里が自分の劣等感を堪らなく煽る人物であったと、ここに来て思い出し、これから志保里と過ごす数時間を思うと、頭が痛くなる思いだった。
杏子の自宅までは、普段なら愛車で十分ほどの距離であるが、炎天下を志保里が黙って半時近く歩くはずも無く、杏子はこの島に来て初めて、バスを利用することにした。
「思ったよりも、田舎っぽく無いのね。住所を聞いたときは、どんな僻地に会いに行かされるのかって驚いたわ。」
会いに来てほしいなどと、自分が一言でも言っただろうかと杏子は理不尽に思ったが、無言を貫くことで抗議に代えることにした。
志保里は、バスの窓から外の景色を眺めながら、杏子の不機嫌さに気付く様子も無く言葉を続けた。
「忠雄さんとは、連絡を取っているの?」
「ううん。大学に進学したときに祝電をもらったけど、それ以来何も無い。」
杏子の返事を聞くと、そう、とだけ言って、志保里はまた窓の外を眺めた。
バス停を降りれば、あとは数分歩くだけで杏子の自宅である。さすがの志保里も、たとえ高いヒールを履いていても何の文句も言わずに歩いたが、杏子の自宅の外観を見たときに、ひどく嫌そうに眉間に皺を寄せたのを、杏子は見逃さなかった。
「お母さんが来て楽しいような所じゃ無いわよ。ここは。何のもてなしもできないから、用件を早く聞かせて。」
杏子は我慢できず、とうとうつっけんどんな言い方をしてしまった。瞬間、志保里の顔が強張った気がしたが、杏子は構わず鍵を開けて、家の中に入った。
滅多に来客など無い杏子は、一つしか無い草臥れた座布団を志保里に勧めると、自分は畳に座して志保里に話を促した。
最初は話しにくそうに躊躇っていたが、やがて口を開いた志保里に、杏子はやはり嫌な話だったと、すぐに志保里を招いたことを後悔したのだった。
「この一年、カウンセリングに通っていたの。杏子のことを、先生とたくさん話したわ。それで、色々と解ったことがあるから、今日はそれを杏子に聞いて欲しいの。」
志保里もまた、心を病んでいたのか知らないが、その原因がまるで自分にあるかのように話す志保里に、杏子は話を聞く前から耳を塞ぎたい衝動に駆られた。そんな杏子の気持ちを余所に、志保里は淡々と話し始めたのだった。
「私、ずっと杏子のことが可愛くなかったの。そのことを自分で認めるのが辛くて、母親なのに娘を愛せないなんて、人間として欠陥があるんじゃないかって思うと、辛かった。今の先生に出会って、そういう気持ちを否定しなくて良いんだって教えてもらって、それですごく楽になったの。それから先生と、なんで杏子を愛せなかったのか、それについてずっと話し合ってきた。今では、一番の原因は、忠雄さんと上手くいかなかったことにあると思っているの。私、若いときに忠雄さんと出会って、杏子を授かってそのまま結婚したでしょう。恋人同士のようなこと、何にもできないまま結婚して、そしたら忠雄さんはだんだん仕事にのめり込んで私のことを気に掛けなくなっていって、寂しかった。子供が生まれたら、きっとまた私のことを大事にしてくれるはずって期待したけど、忠雄さんには妻や子供のことよりも、仕事の方が大事だったのね。生まれてきた杏子を、私は持て余してしまった。貴女は私に全然似ていなくて、本当に自分から出てきた子供なのか、信じられない時もあった。大きくなっていくと、その気持ちがどんどん強くなって、杏子を見るのが本当に辛かったの。貴女は、頭も良くて愛想も良くて、本当に忠雄さんにそっくりで、私に似た所なんて一つも無かった。貴女が他所の人に褒められる度に、外面ばかり良い忠雄さんのことを羨ましがられる度に、吐き気がするくらい嫌だったの。私自身が、忠雄さんからの愛情に飢えていたから、私は貴女に愛情を持って接してあげられなかったんだと思う。貴女には、とても申し訳無いことをしたと思ってる。貴女は何も悪くなかったの。悪かったのは、子供のまま子供を産んでしまった私と、妻と子供に感心を示さなかった忠雄さん。杏子には、悪いところなんて何一つないのよ。こんな私たちを親にもって、それでも良い子に育ってくれた。ありがとう。」
杏子は、ただ呆然と母の言葉を聞いた。




