暫しの別れ
時刻はちょうど昼に差し掛かり、いつもであれば、そろそろ一度自宅へ引き上げる頃合いであった。アルバイト最終日である今日は、いくらプライベートなことは無しと言っても、さすがに何の挨拶もなしに帰宅するわけにもいかず、このまま待ち続けるべきか、それとも昼休憩に行って戻ってくるべきか、決めかねた杏子は、ただハウスの中をうろうろと歩き回っていた。
端から端まで三往復ほどはした時、再び家の方からガヤガヤと複数の人の声がして、杏子は慌てて作業に勤しむ振りをした。
「じゃあ、どこかで美味しいものを食べてから帰りましょ。真奈美ちゃん、お寿司は好き?私のお気に入りのお店に連れていきたいわぁ。」
「あら、あの店?良いわねぇ。今からだと混んでるかもしれないから、総一さん、予約の電話してくれないかしら?」
「そうですね、そうしましょう。」
すぐに、もしもし、と聞きなれない男の声が架電する様子があり、一行は目論見通り昼食に上手い寿司にありつけるようだった。
「じゃあな。週末毎にそっちに顔見に行くから、沢山上手いもん食わしてもらって、早く昔みたいな真ん丸ほっぺのまぁちゃんになれよ。」
「やめてよ、お兄ちゃん。まぁちゃんとか、いつの話。だいたい太りたくなんてないし。」
初めて聞いた真奈美の声は、若々しく弾んでいて、鈴が鳴るような高く澄んだ声だった。とても心の病に侵されているようには思われなかったが、鬱病というのは、タイプによっては躁と鬱が交互に訪れるようなものもあるらしく、時折落ち込んで何も手につかなくなるという真奈美は、そういうタイプなのかもしれないなと、杏子は思った。
「お前は痩せすぎだ。可奈姉ちゃんを見てみろよ。ちょっとは肉を分けてもらえ。」
「ちょっと!夏樹!どういう意味よ。私はデブじゃなくて妊婦なんです!ごっちゃにしないでよね。」
「うんうん、可奈姉ちゃんは全然太ってないし!」
家族が軽口を叩きあって、愉しそうに笑いあっている。以前に真奈美が親戚に引き取られたときは、釦の掛け違いのように、皆の想いが空回りして不幸な結果になってしまったが、今回ばかりは、全員にとって良い選択をしたのだろうなと、他人事ながら杏子は胸を撫で下ろした。
「あら、知らないの?夏樹はふくよかな女らしいラインの女性が好みなのよね?」
揶揄うように静子が吐いた言葉に、ハウスの陰では杏子の心臓がどきりと跳び跳ねた。
「えー!?何それ。初耳なんですけど。夏樹、誰かそんな好い人がいるのー!?」
「いないわ!静子おばちゃん、余計なことを言うなよ、マジで。」
静子の言葉に焦っているのは、杏子だけではなさそうだった。むしろ、宮部の方こそ、野次馬的ギャラリーに囲まれて、進退窮まった様子である。
「お兄ちゃん。そんな好い人がいるなら、さっさと決めた方がいいよ。十一月までもう半年切ってるんだから。三十になったら、見合い相手連れて幸子おばちゃんが城崎から降臨するんだからね。」
「降臨って!夏樹お見合いさせられちゃうんだ~。幸子おばちゃん、なんかすっごい女連れてきそう。」
ハウスの中の杏子にまで聞こえるほどの、盛大な溜め息が聞こえた。宮部のものだろう。
「姉さんがずっと言ってるのよ。ほら、夏樹がこっちに戻って来たせいで、東京の彼女と別れてしまったでしょう。田舎じゃ出逢いも少ないし、三十までに好い人ができなかったら、責任もって嫁を見繕うって。宮部家の長男がいつまでも独身じゃあ、武雄さんに申し訳が立たないってね、姉さんなりに色々考えてくれてるのよ。」
「わかってるよ。最近じゃ、それも悪くないかなって思ってる。」
聞き耳を立てていた杏子は、東京の元彼女の件でも十分にショックを受けたが、宮部が見合いを満更でもなく考えていると知って、雷に打たれたような衝撃を受けた。あちらの面々も絶句しているようである。
「そ…そうなの?まぁ、夏樹がそれでいいなら、いいんだろうけど。」
「…よく考えて、後悔しないように決めなさい。」
杏子の存在を知る静子だが、控え目に、一言だけ宮部を諭して、そして一行は車に乗り込み去っていった。




