噛まれた猫
「あの…、私、前に言った通り、今は誰かとお付き合いができるような状況じゃないの。健さんのことはいい人だと思うし、この町で初めてできた友達みたいで、嬉しく思ってるの。だけど…。」
「仕事のことなら応援するよ。今までみたいに、お構いなしに誘って困らせたりしないって約束する。友達としてじゃなくて、彼氏として、杏子さんを支えたいんだ。」
杏子の紡ぐ言葉の色が悪いことを知るや否や、被せるようにして健はそう言い募った。
「…仕事のことだけじゃないの。私の心情的に、今は誰かを好きになることが出来ないっていうか…。」
健の勢いに押されて、俯いてどうにか言葉を口から絞り出した杏子に、健はぐっと眉間に皺を寄せて剣呑な空気を纏った。
「他に好きな男でもいるの?」
杏子は、下を向いたまま何も言えず黙した。
「宮部さんじゃないの?」
どんどん低くなる健の声に、杏子は、小さく縮こまり怯むことしかできなかった。
宮部が好きなのかと問われれば、やはり、そうなのだろうと思う。女の姿をこの目で見て、もはや杏子に勝ち目はないのだと絶望しつつも、それでも、身を裂かれるような嫉妬に駆られるということは、宮部に気持ちが多分にあるということなのだ。
「何とか言ってよ、杏子さん。」
はっとして、杏子は顔を上げようとした。先程までの低く唸るような声とは違い、切なそうに震える弱々しい声音だったからだ。
顔を上げたのは間違いだったと杏子が悔いる暇もなく、杏子の視界を黒い影が遮り、口許に湿った熱を感じた。それは、突然の動作に目測を誤ったのか、辛うじて、杏子の唇から逸れたところに着地したが、すぐに離れ、軌道を修正した二度目には、ふっくらと柔い紅色の膨らみを間違いなく覆ってしまった。
「やっ…。嫌よ。やめて!」
途切れ途切れに、健の体を押し戻しては首を左右に振り、束の間自由になった唇で言葉を紡いだが、都合の悪いものに蓋をするように、また直ぐに言葉は遮られ、杏子の口はすっかり閉ざされてしまった。
抵抗を見せた杏子の腕は、今では左右とも固く取り押さえられ、逃げようとした体も、窓ガラスとドアに隙間なく押し付けられて、密閉された空間の何処にも、杏子の逃げ場はなかった。
今や座席に膝をついて、完全に助手席の方へ体を乗り出してきた健は、全身で杏子を押さえ込んでいるのか、唇の柔さなどわからないほどに、固く強く杏子に顔を押し付けていた。膠着状態にしびれを切らしたのか、いよいよ、杏子の中への侵入を試みる不埒な舌が、執拗に杏子の唇の上を行き来し始めて、杏子が最後の力を振り絞って抵抗を強めた時だった。
「おい!その辺にしとけ!」
背後で、大きな音をたててガラス窓が揺れた。驚いた健が力を緩め、その隙に杏子は力の限り目の前の男を突き飛ばした。小柄とはいえ歴とした成人男性を、それほど遠くに押しやることには失敗したものの、少なくとも体の自由を取り戻した杏子は、急いでドアを開けて外に転がり出た。
掌や膝に砂利の固い感触を感じ痛みを伴ったが、何よりも、健に支配された閉鎖空間から脱け出せたことに、杏子は心の底から安堵した。
「無理強いは感心しないな。兄貴達にも言わせてもらう。ガキは帰って寝ろ。」
腰が抜けたのか、杏子がまだ地面に這ったまま立ち上がれずにいる間に、背後で、敵を威嚇する獣のような低い声が聞こえ、車のドアを叩きつけるように閉めた音が響いた。
一度も聞いたことのない、稀に見る鋭い調子だったが、杏子には、その低音の声の持ち主が間違えようもなく判った。
踞った格好のまま、しかし、手足に刺さる砂利の痛みなどどこかへ吹き飛んで、顔を上げて視界に入った男の背中を、杏子は茫然と見つめた。
車が走り去るのを確認してから、宮部は漸く杏子に向き直った。窮地を宮部に救われ、感極まった杏子は、駆け寄って抱き締めてもらいたい程に気が昂っていたが、振り向いた宮部の表情を見て、頭から冷水を浴びせられたように感じた。
侮蔑に溢れた、冷たい視線が杏子を見下ろしていた。




