坂下果樹園
数日後の土曜日に、約束通り、杏子は坂下果樹園を訪れた。太陽の庭に近づくにつれて、宮部に出くわすかもしれない、会ったらなんと言われるだろうと、そわそわ落ち着かない気分になったが、砂利道の奥には誰の姿も見えず、杏子は、ひたすら、重いペダルを必死に踏み込んで、少しでも早くそこを通り過ぎるよう努めた。
坂下果樹園は、砂利の小道前を過ぎてから右手に大きくカーブする坂道を、200メートルほどさらに上ったところにある。その先は、今度は左方向にカーブした坂道が少し続き、やがて杏子が以前に訪れた愛宕神社に行き当たる。地元民には親しまれている鎮守神だったが、秘密を隠して人に近づこうとする不届きな輩には何のご利益もないのだなと、杏子は、縁結びの願い事をしたことを思い出して少し恨めしく思った。
「やぁ、岡田さん。こっち、こっち。わざわざありがとうございます。」
果樹園の敷地に入って自転車を降りるや否や、入り口付近で待ち構えていた坂下が、人懐っこい笑みを浮かべて杏子に手を振った。杏子も笑顔で会釈を返し、乗る分には楽だが、歩いて押すとなると絶望的に重くなる電動アシスト付き自転車を、腕を伸ばして力一杯押しながら最後の一息を登り始めた。
「坂が急だったでしょう。代わりますよ。さぁ、こちらへどうぞ。」
敷地の入り口の急峻なスロープを中程まで登ったところで、駆け寄ってきた坂下が自転車を引き受けてくれ、杏子は礼を言って息を整えた。蛇腹に上るこの参道は、上へ行くほどに勾配が急になっていて、太陽の庭を過ぎた辺りから杏子の息は上がり始めた。果樹園の入り口まで辿り着いた頃には、体力や筋力というよりも、むしろ心肺機能が追い付かず、杏子は自転車に乗ったままスロープを登りきることができなかった。
「今日はよろしくお願いいたします。」
漸く脳に酸素が行き渡った杏子は、そう話を切り出すことができた。
坂下は、重い自転車を顔色一つ変えること無く軽々と押して、杏子に並んで歩いた。男性にしては小柄な体格と幼い顔立ちで、まるで少年のような印象を与える坂下だったが、意外と力があるものだと、杏子は驚いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。母屋の方で兄を交えて話しましょう。五年前から、結婚を機に兄夫婦が家業を継いだんです。両親は、あっちの離れの方に移って、今は孫の子守りをしてのんびりやってます。」
坂下が母屋と呼んで示した方角には、流れるような大きな切り妻屋根と桧の引き違い戸が美しい日本家屋があった。玄関はたっぷりと幅を取ってあり、二本の太い桧柱が支える銅葺きの庇が、重厚な存在感を放っている。代替わりの際に若い夫婦のために改築でもしたのか、家の造り自体は歴史を感じるが、建材は真新しそうに見えた。参道沿いの斜面をならした敷地という点では、この坂下家は宮部家と同じであるが、その規模や資産においては随分と差があるようだった。代々果樹で富を為してきたのであろう一家は、農協と袂を別って独自ルートで販売するという、当代若夫婦の時代の潮流に乗っ取った方針転換が当たり、個人輸出という大胆な策に打って出ることも辞さないほど乗りに乗っていたのだ。
「兄さん、こちらが翻訳家の岡田杏子さん。岡田さん、僕の一番上の兄です。」
広い和室にオリエンタルな雰囲気の絨毯と革張りのソファーセットを配した応接間で、杏子は坂下家の息子二人と向き合っていた。
「ようこそおいでくださいました。長男の坂下保です。健から、岡田さんがうちのホームページの翻訳をやってくださると聞いています。」
そう言えば、町役場で坂下に名刺をもらっていたが、健という名前だったかしらと、杏子は思い返した。
「はい。今回は、お仕事を頂戴しましてありがとうございます。坂下さんから、輸出を始めるという経緯は聞いていますが、詳しくお話を聞かせていただけますか。」
「岡田さん!うちはみんな坂下なんだから、下の名前で呼んでください。」
杏子は保に本題を持ちかけたが、すかさず健が横槍を入れた。なるほど、この家の人間は男も女も皆坂下であるのだから、健の言い分は尤もだと杏子は考えた。
「じゃあ、失礼して…。保さん、翻訳をする上で、どこの国をターゲットにするのかというところが、一番気になります。同じ英語でも、国や地域によって少し変わってくるんです。」
保は杏子の言葉に頷いて、僕の考えでは、と、語り始めた。




