ハラスメントの反対は
残念ながら、踏み台にできる椅子のようなものは何もなく、唯一、杏子が乗っても壊れなさそうなものは、缶ビールが24本詰まったダンボール箱ぐらいであった。
不安定ながらも、高さを稼ぐために平たい箱を立てて据え、杏子はそろりと体重をかけた。案外丈夫だったようで、杏子の重みにも箱が凹む様子はなかった。安心した杏子は、ティーバッグの新しい小袋を目指して、うんと手を伸ばしかけたところで、すぐ背後に人の気配を感じた。
「こら。危ないだろうが。」
一段と低い声音で凄んだ宮部は、両手を棚へと伸ばしていた杏子の、がら空きの脇の下に手を差し入れて、ぐっと力を入れて杏子を持ち上げた。その腕は力強く杏子を支えていて、全く危なげなかったものの、人一倍大きな手でがっしりと掴まれているせいか、並みよりも大振りな杏子の乳房には、宮部の太くて固い指先がめり込んでいた。宮部のスキンシップにすっかり慣れた杏子であるが、これにはさすがに焦りを感じた。あと少し指先がずれていれば、杏子も悲鳴を上げてしまったに違いないが、宮部の手はただ杏子の脇下に固定されたまま、不埒な動きを見せる様子は無かった。
「ほら、早く取って。」
胸先ばかりに意識がいっていた杏子は、背後から宮部に高く持ち上げられていたことを思い出し、慌てて頭上のティーバッグを手にした。今度は、それほど手を伸ばさなくても十分に届く高さであった。
「ごめん、重かったでしょ。」
そっと床に降ろされた杏子は、宮部を見上げて申し訳なさそうに呟いた。
「鍛えてるから全然平気。それに、役得。」
そう言って、宮部は杏子の胸の膨らみを、人差し指でツンツンと突いた。それは、胸と言うよりも、先ほど宮部が手を差し入れていた脇の辺りに近かったが、肉付きの良い杏子の胸元に関していえば、そこは十分に乳房の柔らかさを備えた場所だった。
杏子は顔が一瞬にして火照るのを感じ、腕で胸元を隠しながら、素早く体を反転させて宮部に背を向けた。
「セっ…セクハラ!」
杏子は背後の宮部に向かって、そう言い捨てるのが精一杯であった。顔は茹で蛸のように真っ赤であるのに、頭の中は真っ白に塗りつぶされたようで、それ以上の言葉を紡ぐことが出来ない。
背後から、いつもの押し殺した笑いが聞こえた。
「ハラスメントだった?ごめんね。」
harassment ―嫌がらせ、迷惑行為―
翻訳を生業にする杏子が、その意味を知らないわけが無かった。
「…ハラスメントじゃ、無いけど…。」
また忍び笑いの声が聞こえてくる。
「そう?じゃあ…セクシャルプレジャー?」
pleasure ―喜ばせること、楽しみ―
sexual pleasure ―性的快楽―
「それは…ちょっと違うんじゃ無いかな。」
杏子は、まだ宮部に背を向けて自身の胸を抱えたまま、辿々しくそう答えた。
「だって、ハラスメントの反対語はプレジャーじゃなかった?」
飄々とした宮部の言い草に、話がずれていると心中で憤りながらも、杏子は真面目に答える。
「それはそうだけど、sexual pleasureっていうと、性的快楽っていう意味だから。」
「そっか。そりゃあこれくらいじゃ快楽とは言えないよな。」
衣擦れの音がして、太く逞しい宮部の腕が背後から伸びてきたかと思うと、杏子の腹の辺りに回されたそれは、ぐっと力強く杏子の体を宮部の方へ引き寄せた。背中から抱きかかえられるように宮部に包まれて、杏子は初めて宮部が香りを纏っていることを知った。
ウッディなムスクの中に、ほんのりと、シナモンのようなスパイシーさが漂い、どこか土の臭いのような野性味も感じられた。大人の男の香りだと、杏子は思った。
大して細くも無い杏子の腹であるが、宮部の長い腕が二本、しっかりと杏子を抱え込んでいる。回された腕は、大きくせり出して撓わに揺れる杏子の乳房の下端にピッタリと沿わされていて、30cm程もある二人の身長差も手伝って、まるで背後から杏子の胸を押し上げているようであった。
背中に感じる固い胸板や胸に沿わされた逞しい腕、鼻をくすぐる男の香りも相まって、杏子は耳の奥でうるさいほどに響く自らの血潮の音を聞いた。心臓は壊れそうなほどに早鐘を打っているにもかかわらず、宮部の温かさにすっぽりと包まれて、安心感を覚える自分もいる。そんな事実に僅かに驚きつつも、何より、杏子は、自分の体の奥底のどこかに、生々しい女としての欲が確かに存在することに気がついてしまった。
(sexual pleasureであってるのかも…。)
ぼんやりとした思考の中で、そう思い直した杏子であった。




