ルームライトの下で
暗闇に揺らめく赤提灯をサイドミラーに見送りながら、杏子は、宮部の運転する軽トラで自宅へと向かった。
中華そばの代金は、再び宮部との押し問答の末、杏子が支払いを済ませた。宮部自身が言ったように引っ越しそばであるのだから、引っ越してきた杏子が、挨拶として宮部に振る舞うべきものだと主張したのだった。
車に揺られながら、杏子はまるで夢を見ているような気分で居た。宮部は、杏子に対し、人として女性として、興味を持っているのだということを告げた。杏子も、同じように宮部に対し、好意を持っていると告げた。親密な男女間のそれとは異なるものの、ある意味、二人の想いは通じ合ったのだ。
杏子は思い返していた。宮部が、杏子の左手首を掴んだ手の力強さ、杏子の手の甲をそっと包み込んだ温かさ、そして、杏子の膝頭を僅かに掠めた指先の甘やかさ。
そうして宮部が杏子に触れる度、杏子の思考は白く塗りつぶされ、その機能は停止した。そして、体中を張り巡る神経の全てが、自分の内側に向かって甘く切なく緊縮し、止め処なく湧き出る泉のように、宮部への恋慕が杏子の体の奥底から溢れ出た。宮部が杏子の名を呼べば、甘い予感に胸が高鳴り、その同じ口から紡がれる情熱の言葉に心揺さぶられた。
もっとも、杏子は、宮部に良いように翻弄されるがままという訳ではなかった。杏子の熱意により、素人ながらも、太陽の庭のアルバイト人員の座を自ら勝ち取ったのだ。これでまた一つ、宮部との繋がりが出来た。
「とりあえず、二日間は引っ越しの片付けに専念してもらって、うちのほうには週末からお願いできるかな?来週水曜から渡航するから、それまでの土日月火の四日間、俺と一緒にやって仕事を覚えて欲しい。時間は、昼を挟んで9時から14時、実働4時間。時給800円なんだけど、いいかな?」
宮部は、窓の外を見つめて一人惚けていた杏子に、ハンドルを握って前を向いたままそう切り出した。
「はい、それでお願いします。でも、土曜からで良いの?明日からでも私は大丈夫だけど…。」
「いや、俺の方も、杏子さんに教える時間を作るのに少し段取りがいるから、ちょうどいいんだ。もし週末までに時間があるようなら、うちのウェブサイトに商品カタログのページがあるから、そこに目を通してもらって、名前と物がある程度一致するようにしといてもらえたら助かるなぁ。」
杏子が諾と返事をすると同時に、宮部の軽トラは杏子宅の車寄せに入り、砂利を踏みしめる大きな音を鳴らした。
サイドブレーキを引いた宮部は、車にエンジンを掛けたまま、頭上のルームライトを付けて杏子の方に体を向けた。周りの畑には、一面暗闇が立ちこめている。
「今日は、忙しいのに時間を取ってもらってありがとう。また、時々こうして誘ってもいいかな。来週の買い付けが終わるまでは、ちょっと忙しいんだけど…。」
杏子の大好きな微笑みで、宮部は杏子にそう告げた。杏子を温かく見つめる優しい目元は、その目尻に皺が深く刻まれている。
「ううん、こちらこそ、挨拶回りにも付き合ってくれて、美味しいお店にも連れてってもらって。本当にありがとう。また今度、ぜひ、お願いします。」
杏子も、宮部に笑み返して、そう礼を述べた。
そして、束の間の沈黙が二人を支配した。宮部は、相変わらず微笑を湛えて杏子を見つめ、杏子も、ただ、宮部を見つめ返した。しばらくどちらも口を開かなかったが、不思議と、気まずさはなかった。二人のどちらもが、もう少し一緒に居たいのだと、別れを惜しんでいるかのような切なさが、この沈黙の中にはあった。
「あの、家、まだすごく散らかってるんだけど、良かったら…お茶かコーヒーでも…。」
杏子は、宮部を見つめたまま、おずおずと口を開いた。自分でも、この誘いの先に何が待っているのか、怖い物見たさとも言うべき、期待と不安が入り交じった心持ちであった。
宮部は、目線を下げて少し考えている様子で、すぐには返事をしなかった。やがて口を開いたときには、困ったように目尻を下げ、視線を杏子に戻した。
「すごく魅力的なお誘いだけど、杏子さん。一人暮らしの女が、簡単に男を家に上げるなよ。それも夜に。俺はいいけど、田舎にだって良くないやつはいるんだぞ。ダメだからな。」
最後は杏子を諫めるように、宮部は語気を強めてそう言ったが、杏子は、笑いを堪えきれず、思わず吹き出した。宮部とは違い、いったん笑うとなると、声を上げて笑うのが杏子だった。
「俺はいいって…。俺はいいんだ…?」
「笑ったなぁ。本気にしてないだろ。」
宮部が憮然とした表情になったのを見て、杏子はごめんなさいと、謝罪を口に仕掛けた。しかし、その言葉は、突然の暗闇に遮られ、外に紡がれることはなかった。
気が付けば、隣から身を乗り出した宮部が、ルームライトの光を遮って、杏子に影を落としていた。




