真実と虚飾の狭間で
俯いて履歴書に目を通す宮部の手元は、南中を僅かに過ぎた高い陽に明るく照らされ、宮部自身が落とす影が、ほんの僅かに用紙の隅を濃く染めていた。
それはまるで、探られれば痛む腹を抱える杏子の、九分の楽観と一分の不安が、あたかもそこに投影されているようであった。
宮部は、藪から棒に杏子から書類を突き付けられて驚きを隠せないようであったが、それでも黙って受け取り、先ほどから熱心に読み進めていた。封された十二万円は、ひとまず杏子と宮部の間に留め置かれている。
「翻訳のお仕事ですか。TOEIC930点とは立派ですね。大学も僕なんかとは比べものにならないな。学歴も能力もあって、安定した会社にお勤めだったのに、どうしてフリーになろうと思ったのか、伺っても良いですか。」
宮部は、前触れもなく手元から視線を上げて、まっすぐに杏子を見てそう問うた。単なる好奇心からなのか、はたまた、大家代理としての店子の信用調査なのか、宮部のまなざしは、杏子の瞳という二つの孔の奥底の、見栄も虚飾も意味をなさない場所にまで、深く届くほどの強さがあった。杏子の柔くて脆い核心に、じわりじわりと宮部が迫ってきている、そんな焦りを杏子は感じた。
「会社では、色んな仕事をさせてもらったんですが、その中でも、翻訳が一番自分に向いていると分かったんです。色々と思うところもあったんですが、簡単に言うと、自分の得意な分野で力試しがしたかったんです。」
杏子は、宮部に真実を話すことは出来なかった。先輩の小言に思い詰め、在りもしない人間関係の不仲に振り回されたなど、どうして言えようか。実のところ、それだけが原因ではないのだが、心の支えであったナツキの音信不通のことなど、宮部に言えるはずもなかった。得意な翻訳だけに専念すれば、フリーでも食べていけるに違いないと、杏子がそう考えたのは事実であるが、それは後付けの補強論理に過ぎない。
「そうですか。それで実際に食べていけるだけの稼ぎがあるんだから、岡田さんの選択は正しかったんでしょう。あとは前を向いて、精進あるのみですね。僕も偉そうなことは言えませんけどね。お互い頑張りましょう。」
宮部に納得してもらえるだけの説得力が、果たして自分の説明にあっただろうかと不安に思いつつも、この話題がひとまず過ぎ去ったことに、杏子は安堵したのだった。
家賃の前納については、宮部との間で多少の押し問答があったが、結局、保証金の意味合いもかねて、半年分の六万円を受け取ってもらうことが出来た。
「今朝も言いましたけど、岡田さんの力になりたいと思っているんです。僕も、色んな人に助けられて、今の自分があるんだと思っています。海外で良い物を買い付けられるようになったのも、うまく輸入して育てられるようになったのも、それを日本で良い処に置いてもらえるようになったのも、人との縁に恵まれたおかげという部分が大きい。岡田さんも、もし周りに手をさしのべてくれる人がいるなら、肩肘張らずに甘えてみても良いかもしれない。とは言っても、家を貸すのは伯母だし、僕が何かをしてあげられる訳ではないんだけど。」
杏子に説くように真剣な口調で始まったが、終わりに笑ってそう言い添えたことで、すっかり説教臭さの抜けた宮部の言葉は、すとんと、杏子の胸に落ちてきた。
「では、お言葉に甘えます。でも、その六万円だけは、どうか伯母様にお渡しください。それに、宮部さんが口添えをしてくださったんでしょう?どこの馬の骨とも分からない、見ず知らずの女に、大事な財産を貸したりできないでしょう。伯母様にはもちろんですけど、宮部さんにもとても感謝しています。やっぱり、昨日あの参道を登ったのは、間違いじゃなかったんですよ。宮部さんという素敵な人との縁もあったし、こんな素敵な住まいとの縁もあったんですから。」
神経を張り詰めて虚飾の言葉を並べ立てていた先ほどとは異なり、意中の相手に心からの感謝を述べる杏子の言葉は、柔らかく温かく宮部の耳へと響き、自然と宮部を笑顔にしたのだった。




