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君に捧ぐ花  作者: ancco
新居探し
25/111

怪しい者ではありません

「じゃあ、一時に伺います。はい、失礼します。」


宮部との電話を切ると、既に、杏子は駅までたどり着いていたことに気づいた。何とか彼の伯母の家に住まわせてもらえるよう、厚かましくも頼み込んでみようと思っていたのに、思いの外、宮部に温かい言葉を掛けられ、逆に、住んで欲しいとさえ言われたのだ。杏子はすっかり舞い上がって、どのようにして宮部との電話を切り上げたのか、記憶が定かではなかった。確かなことは、十三時に、太陽の庭に行くのだということである。

ちょうど二時間あった。

太陽の庭までは、昨日の経験から、駅からバスで20分、そこから歩いて15分である。杏子は、脚に疲労が貯まっているのも忘れて、駅から徒歩で行ってみようと思いついた。

駅前のコンビニでおにぎりでも買って、町の様子を見ながらのんびりと歩いて行けば、途中で昼休憩を入れたとしても、ちょうど二時間ほどのハイキングコースに最適のように思われた。


(やっぱりここは田舎なんだ・・・。)


ハイキングの道程で気づいたことは、人通りや車通りが少ないと言うことである。季節柄、畑で作業をする者はよく見られたが、綺麗に舗装された歩道を歩くのは杏子のみで、ここまで誰ともすれ違わなかった。見かけた車も数台のみである。春休みのはずであろうが、子供の姿も見ない。広々とした土地に対して、人が少ないということなのだろう。

太陽が真上に来た頃に、ちょうど何個目かのバス停にさしかかった。ため池に沿ってゆったりと県道がカーブし、低木や茂みに囲まれた美しい水場の風景を見渡せる位置に、バス停のベンチが配されていた。

人通りが無いのを良いことに、杏子は、そのベンチを昼食の席として拝借することにした。どうせバスも一時間に一本しか来ないのだから、杏子がそこに座って昼食を広げていても、誰も文句を言わないだろう。


一時間ほど歩いて張った脚を休ませながらも、杏子には、昼食の前にやらねばならないことがあった。よし、と気合いを入れて、杏子は、昼食と一緒にコンビニで買っておいた、履歴書と職務経歴書を取り出した。

宮部の伯母の家を借りるとなったら、業者を通して借りるのとは違い、賃貸借契約書などは無いだろう。宮部の伯母は、おそらくは宮部の口添えによって、親切で杏子に貸してくれるのであろうが、だからこそ、杏子は、自分の素性や経歴について、彼らに少しの不安も与えたくはなかった。

住所には関東の現在の住まいを記載し、学歴、職務経歴まで書いたところで、杏子は筆を止めた。現在の職業をどのように書くか、決めかねて居たのだ。

宮部には、昨日、文章を書く仕事だと伝えたが、ここにフリーライターとでも書けば、それは嘘になる。住居という大事な財産を借り受けるのだから、自分の信用情報について嘘を伝えることは出来ない。

杏子は、意を決して、フリーランスの翻訳家として活動中、と書いた。

インスタント翻訳.comの社名を出さなければ、宮部が、杏子と例の案件を結びつけて考えることもないだろう。

備考欄には、身元保証人として、母の名前と連絡先を書いた。


一仕事終えて肩の荷が下りると、杏子は、急に空腹を感じて昼食を広げた。森の湖畔という訳ではないが、南中する春の日差しがため池に降り注ぎ、きらきらと水面に跳ね返る様は、コンビニのおにぎりと緑茶でさえ上等な味に感じさせる。特に、恋に落ちた今の杏子の瞳には、どぶ池であっても多少美しく映ったに違いない。

一つ目の梅おにぎりを食べ終えて、好物の鮭おにぎりに大きく齧り付いたとき、駅方向からきた一台の車が、杏子の目の前にさしかかったところで、短くクラクションを鳴らして停車した。

見覚えのある軽トラだと思ったのと、車内に宮部の顔を認めたのとでは、どちらが先だったのか定かではないが、杏子は、齧り付いたおにぎりをそのままに、こぼれ落ちそうなほど目を見開いて固まってしまった。


「こんにちは。お邪魔してしまったかな。」

電話の向こうでも、きっとこうして笑っていたんだなと、杏子は思った。

肩を揺らして、笑い声を抑えようとしているのがわかるが、ちっとも成功していない。目は開いているのかも分からないぐらい細まって、垂れた目尻には皺が寄っている。

今の杏子には、破壊力抜群の笑顔だった。


「お弁当仕舞って、良かったら乗っていきませんか。」

春風に乗って、甘い言葉が杏子の耳に届いた。


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