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君に捧ぐ花  作者: ancco
太陽の庭
21/111

笑顔に魅せられて

杏子が長く待たされることはなかった。男は一分とあけずに出て来て、また軽やかに階段を駆け下りた。手には、緑色の名刺らしき小さな紙が携えられていた。

「名乗るのが遅くなりました。太陽の庭の宮部夏樹と申します。」

「ご丁寧にどうも…。頂戴します。」

軽く頭を下げながら両手で渡された名刺を、杏子も同じようにして受け取った。

緑色のように見えた名刺は、アーチを描く細葉のアップ写真のようで、葉と葉の隙間に見える背景の白との、コントラストが鮮やかな名刺だった。


太陽の庭 オーナー


宮部の名前の前には、そんなタイトルがついていた。


杏子は、もらった名刺を胸の辺りで両手で持ったまま、宮部を見上げた。宮部も、穏やかな表情で杏子を見ている。

「こちらこそ、名乗りもせず勝手に入ってきてすみませんでした。岡田杏子と申します。最近会社を辞めて、フリーランスで…文章を書く…仕事をしています。」

練りに練って、あんなにも自信を持っていた言い訳であったが、人の良さそうな宮部を現実に目の当たりにすると、真実を告げていない後ろめたさから、杏子は歯切れの悪い言い方をした。

「そうですか、それは思いきった決断をなさったんですね。引っ越しもその関係で?」

「はい。まだ漸く食べていけるくらいの稼ぎなので、住みづらい関東から離れようと思って。ここは物価も家賃相場も安そうで、気候も良いから筆も進むかなと…。」

杏子は、曖昧に笑いながら答えた。思い付きと勢いでここまでやって来たことを、自営業で成功している宮部の前で話すのは、少し気恥ずかしかったのだ。

「確かに住みやすいですよ、そういう意味ではね。」

宮部は苦笑してから、すぐに考え込むような顔つきになった。

「そういう事情なら…。」

何だろうと、杏子は首をかしげて言葉を待った。

杏子の様子に気がついて、宮部は言葉を続けた。

「いや、まずは不動産屋に行ってみてください。良い物件がなければ、連絡もらえますか?格安で貸してもらえる当てがあるんです。」

杏子は、棚から牡丹餅だ、と内心小躍りした。格安で住める場所が手に入り、宮部とも繋がりができる。それでも、ご迷惑では…と遠慮して見せるくらいの謙虚さは持ち合わせていた。

「ずっと借り手を探してたんで、むしろ助かるんじゃないかな。伯母の家なんですけど、古い一軒家なんで、岡田さんみたいな若い女性が気に入るかどうか。だから、他に気に入ったところがあるなら、そちらの方がいい。」

これを逃す手はないと思ったが、宮部の言葉に、杏子は素直に頷いた。

「ありがとうございます。じゃあ不動産屋さんに行ってみて、それからまたご連絡しても良いですか?」

今度は苦味のない笑顔で、宮部はどうぞと快諾した。


(笑うと目が…。かわいい…。)


もともと細く垂れ勝ちな目元が、いっそう細まって目尻が下がる様子に、杏子は、成人して久しい男性に対して抱くには相応しくない感想を抱いた。そして、つられて、杏子も目尻を下げて笑んだ。


来て良かったと、充足感に浸りながらも、杏子は辞去のときを悟った。見ず知らずの人間が、勝手に仕事場に上がり込んで、いつまでも作業の手を止めさせて良いわけがない。

「じゃあ、これで失礼します。中を見せていただいて、ありがとうございます。お邪魔してすみませんでした。」

そう言って頭を下げ、杏子は砂利の細道を引き返そうとした。

「あ、待って。まだ次のバスまでだいぶありますよ。」

宮部の声に足を止め、杏子は腕時計を確かめた。そういえば、帰りのバスの時刻を確認していないことに気づいた。

「すみません、次のバスは何分ですか?この先の神社に寄ろうと思っているんですが…。」

杏子は、ふと思い付いて口にしたが、そう悪い考えでもないと思った。決して信心深い質ではないが、この地に腰を下ろすのならば、この地の鎮守の神に挨拶をしてもいいだろう。

「駅行きは毎時10分ですよ。愛宕さんにいく途中でしたか。それは良い。良い家が見つかるようにお願いしてきたら良いですよ。」


(また笑ってくれた…。)


杏子は、宮部の笑顔が好きになった。あくまでも、笑顔が、である。今のところは…という但し書き付きであるが。



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