転機は突然に
仕事に慣れるにつれて、受注する翻訳分野を少しずつ広げていた杏子は、ナツキとの会話の中で生じた植物への興味から、園芸分野を好んで受注していた。
良く見られる内容は、会社案内や商品パンフレットなどを、海外向けに英訳するというものであった。他には、外国の展示会に出展するための申し込み用紙の記入や、逆に、外国の生産者のウェブサイトの内容を日本語に訳すという案件もあった。
そのような中で、杏子がその案件に行き当たったのは、三月の第四週のことだった。
いつものように、園芸という分野と、A4半分、30分という納期だけをチェックして、即座にその案件を受注した杏子は、ファイルの中身を開き、目を通し始めてすぐに、体中の毛が逆立つような高揚感に見舞われた。
Viveros Sol
Duilio Barkero様
お世話になっております。皆様お変わりありませんか。
こちらでは気温が二十五度を超える日も増え、すっかり春らしくなってきました。昨年の御社からの植物たちも、新芽が動き出しています。
さて、毎年恒例の御社でのお打ち合わせについてご相談させていただきたく、メールいたしました。4/6(月)から4/12(日)までの間で、ご都合の悪い日をお知らせいただけますでしょうか。
また、大変お手数をおかけいたしますが、今年もそちらでの宿の手配をお願いいたします。
スペインの暖かい気候で、青々と育つ植物たちに会えるのを心より楽しみしております。
太陽の庭 (SUNNY GARDEN)
宮部夏樹
ナツキだと、杏子の直感が告げた。四月に渡航すると言っていたこと、関東ではまだ肌寒いこの時期に二十五度を超える陽気の地域であること、そして何より、夏樹という名前。30分という短納期であることも忘れ、杏子はただ呆然とパソコンのモニターを見つめ続けた。微動だにせず、ただ目線だけを忙しなく動かし、短い文章を、上から下まで何度も読み返した。自分の持つナツキに関する情報と、一分の齟齬もない。間違いないと、杏子は確信した。
納期まであと5分となったところで、正気を取り戻した杏子は、慌てて翻訳を完成させ、ウェブサイトへアップロードして納品を済ませた。
納品してしまえば、翻訳担当者といえども、もう二度と依頼の文面を見ることはできない。杏子は、規約違反であることを承知で、ナツキの書いたと思われるメールの文面をコピーし保存した。
リアルなナツキの正体を突き止める。一時はその考えに取り憑かれていた杏子であるが、その無意味さに気づき、匙を投げたのだ。しかし、ここへきて、図らずもナツキの正体が明らかになった今では、見慣れた検索窓に『太陽の庭』と入力することに、杏子は何の迷いも抱くことは無かった。




