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君に捧ぐ花  作者: ancco
Beyond the Truth
104/111

恋は盲目

白いキャンバスの上にぽたぽたと赤い絵の具を垂らしたような、大小のドットが不規則に配されたデザインのその船体は、アートを売りにするこの島の定期連絡船に相応しい斬新な外観を呈していた。この島と岡山との間には、もう一種類、別の小型旅客船が就航しているが、こちらは白地に緑のラインが一本走るだけの、昔ながらのありふれた見た目をしている。どちらの船も、半々くらいの割合でダイヤが組まれているにも関わらず、なぜか杏子は地味なほうにしか当たったことがなく、この小洒落た旅客船との縁の無さを、杏子は常々残念に思っていた。

今もまた、水煙を上げて水面を滑り出すモダンな船を見送って、杏子は、自らのその縁の無さを心底恨めしく思った。


(間に合わなかった…。)


愛車に跨がったまま、連絡船乗り場のガラス張りの建物に凭れ、震える膝を叱咤しつつ、杏子はどうにか姿勢を保っていた。膝の震えは、僅差で宮部を逃してしまった落胆のせいというよりは、単に能力を超えた運動量に筋肉が悲鳴を上げているだけだったが、だからといって、杏子の心が痛んでいないというわけではない。むっちりとした杏子の大腿が小刻みに痙攣するのと同様に、期待に揺れていた杏子の恋心もまた、愛しい男の姿を海原の向こうに探して切なく震えているのだった。


真奈美の激白により突如明らかになった衝撃の真相は、こうして衝動的に杏子を港まで連れてきたものの、時間が経つにつれ、冷静になりつつある杏子に多大な困惑をもたらした。体中の筋肉に回されていた血流が、今や杏子の脳へと集中し、俄には信じがたい事実が真なるものであるのか、杏子は今一度思考を巡らせた。

宮部が、あの余裕綽々と杏子を翻弄してきた大人の男が、若作りした女言葉を駆使して18の妹のふりをしたなど、果たして本当なのだろうか。数々の罵倒と非難を杏子に浴びせ、冷徹な蔑みの目で杏子を見下ろしたあの宮部が、卑怯で子供じみた手を使ってまで杏子に執着していたなど、俄には信じがたい。

しかし、何より杏子の心を乱すのは、そのような不可解な行動に宮部を走らせた原因が、この自分に対する偏愛であるのだという真奈美の分析であった。


宮部がまだ自分を好きかも知れない。それも、あんなことをしてしまうほどに強く、深く、求めてくれているのかもしれない。

まともな思考の人間であれば、他人のふりをしてメールを遣り取りし、心の裡を密かに暴くなどといった卑劣な行為に、まずは腹を立てるのが道理であろうが、杏子にはそんなことよりも、諦めかけた恋を取り戻せるかも知れないという、曇天に射す一条の光のような希望のほうが、よっぽどに重大な関心事なのであった。

奇しくも、真奈美のメールに気付く前に宮部の来訪を受けたことで、杏子は、宮部への狂おしいまでの未練を自覚したところだったのである。忘れようにも忘れ難い、心が求めて止まない男の顔を数ヶ月ぶりに見てしまった後では、宮部の生来の残念な質を暴露されようとも、杏子の恋慕が揺るぐことなどありそうになかった。たとえそれが、どんなに偏執的で、陰湿的で、粘着な性質であろうとも、それが杏子の恋した宮部夏樹を形作るものであるならば、そんなことは些事に過ぎないのだと言わんばかりに、杏子の心は宮部への想いで溢れかえっていた。


(宮部さんに会いたい!会って確かめたい!何もかも赦してくれたというの!?本当にまだ私のことが好きなの!?私、諦めなくてもいいの!?)


杏子の密かな慟哭が天に聞き届けられた訳ではなかろうが、ふと違和感を感じて杏子が視線を巡らすと、つい今し方までもたれ掛かっていたガラス壁の向こう側の、それもかなりの至近距離に、杏子の顔を覗き込んで不思議そうに首を傾げる人物が居た。

もちろん、宮部夏樹である。

漸く目が合ったと言わんばかりに微笑んで、宮部は、杏子の居る壁際とは対辺にあたる建物のエントランスを指さし、そちらに回るよう杏子に合図をした。

混乱を極める杏子の心など知るよしも無い宮部は、さっき別れたばかりの杏子にまた会えたことが嬉しいのか、エントランスに向かう足を次第に速めて、ついには小走りで建物の外へと向かっていた。


宮部に追いつけなかったと諦めた時には、杏子の心は雄弁に宮部への問いを投げかけ続けていたというのに、いざ本人を目の当たりにすると、一体何と言って話を切り出せばよいのか、杏子は途方に暮れたのだった。

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