12月26日(金) (2)
残りの数時間は、机の拭き掃除やパソコン内のファイルの整理などをして過ごし、杏子は二週間ぶりに定時で仕事を終えた。
杏子が席を立つより早く、一番に身支度を済ませた濱本が、部屋の出口のほうへと足を向けた。お先に失礼しますと、誰に宛てるでもなく普段通りの挨拶をして扉をくぐった濱本に、お疲れ様ですと慌てて杏子が応えた声は、届かなかったのかもしれない。濱本は、一度も杏子を見ることなく足早に去った。
杏子は、まるで頭から冷たい水を掛けられたかのような気分であったが、それを悟られないように、努めて明るい声を出した。
「私もこれで失礼します。短い間でしたが、大変お世話になりました。これまでご指導いただきありがとうございました。」
杏子が深く下げた頭をあげると、眉根を寄せて杏子を見ている沈と、パソコンのモニターから視線を外そうとしない渡部が視界に入った。誰も言葉を発さず、杏子が困った体で沈と渡部を交互に見やる間も沈黙が続いた。やがて沈が言葉を促すように渡部のほうを向き、そこで漸く渡部が杏子を見た。変わらず不機嫌な顔と、鋭い視線であった。
「ここまで来たらもう何を言っても無駄だけどね。自分がどれだけ勝手なことをしてるかはわかっていたほうがいいよ。会社に期待されてこの仕事を任されてたことわかってる?君のポジション、社内でどれだけの人間が欲しがってたか知ってるか?誰とは言わんけどな、君の同期の何人もが、そのポジションを希望して君に競り負けたんだよ。インターンシップなんていう遊びの延長みたいなもんのために、君がこの仕事を簡単に放り出すのを見て、彼らがどれだけ悔しい思いをしてるか知らんだろ。無神経もいいところだよ。本当に自分勝手で腹立たしいよ。」
濱本の先程の態度が冷水であれば、渡部の言葉はまるで爆弾のように杏子の心を震撼させた。
杏子が最初に退職の打診をした時、渡部は仕事を引き継ぐ者が居ないから困るといって撥ね付けた。数日かけて何度も掛け合って、他部署のダニエルにも根回しをして、ようやく渡部の了承を貰えた時にも、渡部は急過ぎて困るとは言っても、杏子の退職そのものを否定するような発言はしなかったのだ。それ以後も、ずっと不機嫌な態度は続けていたものの、引き留める素振りも何もなく、杏子に必要以上の言葉をかけることはなかった。最後の最後に渡部からこのようなことを言われるとは夢にも思っていなかった杏子は、今すぐにこの部屋を立ち去ってしまいたい思いを抑え、半ばパニックになりながらも、どうにか言葉を発することが出来た。
「あの、皆さんには不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。」
それが杏子の精一杯であった。それ以上に何を言えば渡部の気が済むのか、この部屋を辞す許しがもらえるのか、杏子にはわかりようもなかった。
「もう行っていいよ。お疲れ様。」
大きな溜め息を一つついてからそう冷たく言い放った渡部は、何の未練もない風に杏子から視線を外し、またモニターへ視線を伏せた。その目がもう杏子を見ることはないだろう、そう感じた杏子は、沈に小さく会釈をして、失礼しますと呟いてから部屋を出た。
渉外部の部屋からカバンが置いてあるロッカーまではそう遠くはないが、どのようにして辿り着いたのか杏子にはわからなかった。呆然としたままカバンと私物がつまった紙袋をロッカーから取りだし、最後に履いていた室内履きを袋に入れ外靴に履き替えたところで、ロッカールームの扉が開いて沈が入ってきた。
すっかり怯えた杏子は、今度はどんな心ない言葉をぶつけられるか気が気でなかった。話しかけられないうちに立ち去ろうと、ドアノブに手を掛けようとして、沈の声が耳に飛び込んできて杏子は立ち竦んだ。
「気にしないでいいわよ。立ち去る人間に話すようなことじゃないわ。あなたの仕事を誰が欲しがってたかなんて、あなたは知らなかったことなんだし、実力で勝ち取ったあなたには関係のない話。それを今さらあなたに告げるのは無意味だし、あなたを最後に傷つけるためだけに言ってるんだから。あなたを選んだのは渡部さんだから、腹が立ってたんでしょうね。」
淡々とした口振りではあったが、凍りついた杏子の心を暖めるには十分すぎる言葉だった。
「ありがとうございます。」
涙が溢れそうになった杏子は、小さく震えた声でそう呟いて直ぐに部屋を出た。せっかく慰めに来てくれた沈に、もう少し何か言葉を返せばよかったかもしれないと、駅まで10分の道のりを泣き通して漸く涙が止まった頃に、杏子は少し後悔した。




