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俺は盗賊だ

 1.


【鴉】は二十人以上で構成される中規模の盗賊団だ。

 護衛を雇っていたり、ちょっとした自警団があるだけの村ならば、一日で攻め滅ぼすことができた――のだが、【鴉】はたった一人の騎士によって滅ぼされてしまった。

 盗賊団の首領であるケインは袈裟斬りに抉られた腹から流れ出る鮮血を、無理やりに手で押さえ込み、嘔吐感に襲われる。

 仲間は死んだ。斬り殺された。無慈悲な閃光が自分たちに抵抗する暇すら与えず、ただただ命を奪い続けた。

 鬱蒼と茂る木々の陰に座り込んで、まだ生きていた仲間を見捨てて逃げ出したケインはくつくつと笑いだす。


(ここら一帯では最強の名を欲しいままにしてたんだけどなぁ。カカカ、案外俺は弱かったらしい……ッ!)


 朦朧とした意識は失われた血量のせいか、最強の自負を打ち砕かれたせいか、作りあげた組織をあっさりと潰されたせいか――生きるための希望が手のひらから零れ落ちていくことを感じながら、ケインはゆるやかに目を閉じようとした。だが、閉じる間際に一瞬だけ写った幻想的な光景のせいで、再び視界は開かれる。


「明日は雨やなぁ。困ったちゃんやで。明日出られへんやろから、いつもより多めに木の実とか拾わなな。って、おっ! これって野イチゴやぁん。これ好きやねん!」


 鼻歌混じりに東方訛りの言葉を紡ぐ少女がいた。

 宵闇の中ですら輝いていると勘違いしそうなほどに眩い蜂蜜色の髪は腰ほどまで伸びている。触ればとても柔らかそうで、風にもてあそばれてなびいているそれはとてもさらさらとしていた。

 卵のような丸顔にはどんぐりのようなつぶらな瞳がある。にこやかに細められたそれはとても可愛らしく、つられて笑ってしまいそうになるほどに魅力的だ。


(天使……?)


 色褪せた麻のシャツとスカートを着ている少女は、ケインにとって天使のように見えた。

 弧を描く深紅の唇が、自分の命を吸い取ってくれそうで――おぼろげになってくる景色の中、ケインと少女は邂逅する。


「って、怪我人やぁん! やばい! やばいでぇ! これ死にかけやんっ!」


 元気に走って来る天使を尻目に、ケインは意識を失った。


 ◆


 腹の傷口に焼けるような痛みは走り、ケインは絶叫しながら起き上がった。

 全身が脂汗塗れになっており、顔などは青ざめている。か細い息を吐きながら、血走った眼で周囲を見渡した。


「……おはよぅさん?」


 ケインは呆気にとられて「おはよう」と素っ頓狂な声で返事をする。痛みがあるということは生きているということ。しかし、驚きは自分が生きているということではなく、不可思議な状況に対してだ。

 腹の上に跨って傷口に容赦なく薬草を練り込む少女。頬を赤く染めながら、てへっと舌を出してはにかむ姿はとても愛らしい。凍りついた心すらも氷解させそうな愛嬌のある仕草のせいで、ケインは一回りは年下だろう少女に乗られているという屈辱的な状況すらもどうでもよくなった。

「いやいやいやいや、淑女にあるまじき醜態を見せてもうたで。忘れてな。忘れてなっ!?」

 少女は慌てて馬乗りの体勢を崩し、ベッドから降りた。

 真丸な顔を夕焼け空よりも真っ赤にして言い訳をし続ける少女は、ごほんごほんと何度も咳払いする。金糸の如き髪を指でいじりながら、もじもじと身体をくねらせていた。

 ひたすらに続く口上を聞いていると、ケインとしてもだんだんと少女が哀れになってきて――深く深くタメ息を吐く。

 びくりと少女は身体を震わした。


「ケインだ」


 ぽつりと漏らした言葉に「へ?」とアンリは間抜けな顔を晒す。整った顔立ちのせいで間抜け面すらも可愛らしく見えてしまうなんて得な奴だな、とケインはひそかに思う。


「あ、あぁ、名前か。名前なんか。うちの名前はアンリやで。超キュートな名前やろ!?」


 何かを誤魔化すかのように息せき切って少女――アンリは語り出す。


「ほら、あれやん。あれやねん。さっきだってな。別にあんたのこと襲おうと思ったわけやないんやで? 勘違いせんとってな! これカシの葉っていう薬草やねん。磨り潰して傷口に塗れば痛み止めにもなるしな。切り傷とかにもめっちゃ効くんやでっ!」


 えへんと平らな胸を張ってアンリは偉そうにのたまった。

 カシの葉――確かにそれは痛み止めの効果もあるだろう。感覚を鈍化させる効能もあるのだから。

 しかし、それは本来の使い方ではない。


「麻薬の一種じゃねぇかっ!?」

「えっ?」


 大きな瞳をなお見開いて「麻薬って何や?」とアンリは返してくる。

 ケインはなんとなくアンリのキャラクターを掴めた気がした。


(こいつ、馬鹿だ)


 口には出していないはずなのだが「あんた、今とても失礼なこと考えたやろ?」と見据えてくるアンリに、鬱陶しい奴だな、という評価も付け加える。

 命の恩人であるアンリはどうやら馬鹿のようで、さらには鬱陶しい。今までに接したことのない強烈な個性は自分と噛みあうようではないし、好んで付き合いたい相手とは思えない。

 だが、激痛に苛まれる自分の身体を思って、我慢することに決める。


「なぁなぁ、なんか食べたいもんとかある? 客人なんて久しぶりやし、腕によりをかけて作るでぇっ!」

「シチュー……かな」


 傷が治るまでは大人しくしておけばいい。ケインはそう考えた。

 

 

 2.


 アンリの住む小屋はとても小さなものだった。

 置かれているものは食料を保存するための棚と寝床、あとは台所にあるレンガで組み立てられた竃だけだろうか。年頃の少女の住む家にしては随分と無味乾燥とした、実利主義の内装である。貧乏な農民の家よりもなお物がないだろう。趣味趣向、という言葉とはとても縁遠いところでアンリはいるようだ。

 しかし、ひそかな楽しみがあるのだと知ったのは看病される生活で一月ほど経ったころだろうか。

 ケインは寝床から立ち上がって少しくらいなら散歩できるほどに快復したとき、森の中で薬草や木の実、果物や野菜などを採集するアンリの後ろを尾けたことがある。

 向かう先はケインにとっては忌々しい記憶の残る村だ。

 銀騎士が未だに滞在するその村は活気があり、今日も今日とて農業に勤しんでいる。夏真っ盛りの今日、汗水垂らしながらの労働を楽しむ村人たちは、盗賊団の脅威がなくなったおかげでとても元気そうだ。

 ケインは吐き気がした。豊穣の神を賛美するゴスペルを口ずさむ農民は、見ているだけで八つ裂きにしたくなる。神なんか死んでしまえ。

 憎しみの混じった視線で睥睨するケインを余所に、アンリはにこにこと笑いながら村の外れにあるくたびれた家屋に足を踏み入れた。


(もしかしたら、俺が盗賊だってことを気付いているのかもな)


 るんるんとステップを刻んで楽しげに笑っていたのは、自分を売って金になるからかもしれない、などとケインは考える。

 何のために治療をしていたのかは謎になるが、ケインにとっては『盗賊を売り払う』という行為は極めて自然なことに思えた。

 表情の抜け落ちたケインは木陰から出て、周囲を警戒しながら、アンリの入っていった家屋に近づく。

 壁にそっと耳をつけた。


「くぅださいなっ!」


 アンリのはつらつとした元気な声が聞こえてくる。それだけで、どうやら自分は売られるわけではないと知り、安堵する。


(俺はなんで安堵した?)


 売られたとしたら、報復すればいい。ただそれだけのことだ。奪われる前に奪えばいい。これはいつでもどこでも通じる唯一の真実だ。

 ケインは自分の心情がわからないままに拳を握りしめ――


「薄汚いガキが来たよっ!」


 何かがぶたれる音と、倒れる音――そして、聞き覚えのある愛嬌のある声で微かな悲鳴が漏れたのを、ケインは確かに聞き届けた。

 心の臓腑を鷲掴みにされるような苦痛。


「魔女のガキッ! 雌豚の幼子ッ! 本当に、本当に、本当に、お前も一緒に死んでしまえばよかったのにっ!」


 罵声は途切れることなく、何かを踏みつけているような音がひたすらに耳に這いずり込んでくる。

 理解できない言葉の羅列に戸惑っているケインの耳に、再びアンリの言葉が届いた。


「あの、交換してくれへんかな。えと、森でね。いっぱいカシの葉とってきてん。布と糸と……交換してくれへんかな?」


 ふと、今にも倒壊してもおかしくないほどに古びた家屋の看板を見た。

 特産物を取り扱う――ケインの記憶では確か、この村では布を染色する技術と、糸を編む技術を売っていたはず。つまり、アンリはそれが欲しくて来たのだろう。


(つまり、アンリは客だろ……? なんで殴ってんだ? 魔女って何だ……? 雌豚の幼子?)


 まだ幼いアンリは女性とは言い辛い。だがあと数年もすれば、十人が十人とも振り返るだろう美女に育つだろう。

 いつもにこにこしている姿は保護欲をそそらせるものであり、敵対心を持たせるほど醜悪な容姿ではない。そして、性格が悪いとはケインにも思えない。

 ケインが思考の渦に埋没しかけているのを食い止めたのは、扉が開く音――そして、がっくりと肩を下げてとぼとぼと出てくるアンリの姿だった。

 頬には痣ができており、ところどころ裂傷などが見受けられる。

 痛々しい姿にケインは歯噛みするし、声をかけたい衝動を抑える。


「やっと帰ってくれたよ。あんなメスガキ……早く死んでくれないもんかねぇ」


 家屋の中から漏れ出る声はそんなもの。

 アンリのしょぼくれた後姿が見えなくなるまで待つと、ケインはフードを深く被り、家屋の中へと入った。

 フードを目深に被る怪しげな格好のケインを訝しみながら、それでも客なので「いらっしゃいませ」と店主であろう壮年の女性が愛想笑いを浮かべる。

 万引きをするとでも思われているのだろう。妙に警戒されながらも、ケインは布と糸を手に取った。それも、複数。


「これ、くれないか?」

「まいどありー!」


 商人は快く売ってくれるものである。

 

 ◆


 太陽が落ちた。

 アンリはとぼとぼと帰路に着き、自分の小屋の前で立ち尽くす。

 赤く腫れそぼった目をごしごしと擦り、アンリは無理やりに笑みを浮かべるが、ぎこちなく引き攣った口角は上手くできず、蒼くなった頬はじんじんと痛む。


「……ふっ……う……」


 嗚咽が漏れる。

 項垂れているせいか、くすんだ金髪に隠されて、表情は見えない。

 かすかに、震えているのがわかるだけ。


(どうすっかな……)


 月明かりすらない闇。

 木陰の下でアンリにばれないように尾行していたケインは困り果てていた。

 手に持つのは簡素な袋に包まれた布と糸。アンリの欲しがっていたものに間違いないのだが、今、アンリの前に出てはいけないようは気がした。

 だけど、それでも――腹が鳴った。ぎゅるる、とケインの腹が鳴ったのだ。

 その音はとても小さかったけど、きっとアンリに届いたはず。そうに違いない。ケインはそう思うと、陰から一歩踏み出て、アンリの頭を袋で叩いた。


「……ぇふっ!?」


 奇妙な悲鳴をあげてアンリは崩れ落ちると、怒りと怯えがない交ぜになった視線をケインに向けてくる。

 アンリは尻餅をついた形で真っ赤になった表情を隠すようにぐしぐしと目元を擦る。とても強く擦り、充血した瞳に笑顔が戻ってくる。とても不器用で、排他的なものであったが。

 ケインはアンリに手を差し出すことすらせず、袋を放り投げる。

 ぽふりという空気の抜ける音とともにアンリの胸元に袋は落ち、アンリは「これ何なん?」と聞いてくる。


「晩御飯を作れ」


 答えることはせず、ケインは先に小屋へと入る。

 取り残されたアンリは小首を傾げて袋を開くと、呆気にとられたように硬直し、みるみるうちに凍りついた表情が氷解する。


「すぐ、作るでっ!」


 太陽のように輝かんばかりの笑顔だった。



 3.


 村人が笑顔で仕事に勤しむ姿は、シュヴァルツの心を高揚させた。


「騎士様、おはようございます」

「騎士様だー!」

「今度剣の使い方教えてくださいっ!」


 昼下がりの午後、畑の近くを歩いているだけで、シュヴァルツは村人たちに囲まれてしまう。

 彼は騎士であり、村人たちにとっては英雄だった。

 盗賊団【鴉】に搾取されるだけの日々は絶望しかなく、希望などは欠片たりともなかった。そんなときに、ふいに彼が現れたのである。

 銀の鎧を纏った美剣士――傷一つない顔は村人たちには強さと縁遠いものにしか思えなかったが、僅か数日でその考えは改めさせられることとなった。


「悪は許さない」


 決然と言い放ったシュヴァルツは単身【鴉】の巣窟に攻め込み、壊滅させた。

 死屍累々となった盗賊たちの亡骸を見て、村人たちは初めてシュヴァルツのことを騎士と呼んだ。

 笑顔で慣れ親しんでくる村人たちに同じく笑顔で応対しながら、実のところ、シュヴァルツはまだ黙っていることがあったのだ。

 首領であるケインに逃げられてしまった。

 だからこそ、シュヴァルツはまだ村に滞在しているのだが――


(……許されざる悪とは何だろうか)


 きつい日差しを見上げながら、シュヴァルツは思う。

 それは三日前のことである。


 ◆


 負傷した盗賊が逃げる場所など、往々にして相場が決まっている。故に、シュヴァルツは村の裏側にある森を探索していた。

 その目論見は功を奏したようで、あっさりとケインは見つかったのだが、隣に見知らぬ――美しい少女がいたことはシュヴァルツにとっては予想外のものだった。

 切り株の上に丸太が置かれていて、ケインが斧を振り上げている様を、固唾を飲んで見守る少女。


「一発でいけるのん? ほんまにいけるのん?」


 ケインの服の裾を指先で掴んで、これ以上ないほどに真剣な眼差しを丸太のほうへと注いでいる。

 斧を構えるケインはにやりと笑うと、引き締まった二の腕を膨張させるほどに力を込めて――


「お前みたいな細腕と違ってよ。俺は力持ちなんだよっ!」


 勢いよく振り下ろされた分厚い刃は丸太を一刀両断した。

「おぉっ!」と歓声をあげ、少女はぴょんぴょんと飛び跳ねる。

 身体全身で感情を発露させる様は微笑ましいものであり、まるで小動物のようだ。思わず頭を撫でたくなるほどに愛らしいが、ふと気になることがあった。

 頬に残る痣。

 白磁のようにきめ細やかな肌にはところどころに小さな傷もあり、虐待を受けているような印象を受ける。


(……だが、見る限り――ケインは少女のことを殴っているような気配はない)


 盗賊団【鴉】の首領ケインと言えば、泣く子も黙ると言われるほどに残虐な男だとシュヴァルツは聞いていた。

 敵の命は容赦なく奪い、離反するものの命も奪い取る。決して笑顔など浮かべず、仲間にすら情を持たないはずなのだが……。


「次々と斬っていきおる!? ケインはすごいなぁ」

「おうよっ!」


 困惑する。

 非常の人物であるはずのケインが少女におだてられて、ていよく使われているようにしか見えない。

 斧を振り上げては、振り下ろす。

 機械的に続けなければならないつまらないであろう作業を繰り返す。笑みすら浮かべて、汗を流し、肉体労働をこなすのはそこらの男と変わらぬようにシュヴァルツには見えた。


「アンリッ! 俺は凄いだろッ!?」

「すごいでぇ! ケインは世界一の力持ちやっ!」

「そうだろっ!」


 丸太を斬るという作業が終わり、ケインが胸を張って鼻息を鳴らす。応えて、少女は拍手喝采する。

 楽しそうだ。

 盗賊は殺さなければならない。シュヴァルツはそんなこと百も承知であるし、今更躊躇するほどに初心なわけでもない。彼は、百戦錬磨の騎士だ。

 だが、


(今は――まだ……)


 盗賊は人ではない、シュヴァルツが騎士団に所属したときから上官から言われ続けていることだ。人ではないのなら殺しても罪にはならず、悪にもならない。罪悪を持たずにすむ。盗賊は人ではないのだから、肉片にして大地へと還すだけ。そこに感情はいらない。

 しかし、シュヴァルツはケインを人として見てしまった。

 少女と過ごす何気ない日常がとても人間臭くて、自分の力を自慢するように叫ぶのはそこらにいるガキ大将みたいだ。

 おそらくは少女はケインに懐いている。ぴっとりと寄り添って服の裾を摘んでいるのは、決して手放さないようにしているが如く。

 きつく閉じられた瞼はかすかに震え、噛み締められた歯はぎりりと音が鳴る。


「……」


 シュヴァルツは逃げ出すようにその場を後にした。




 4.

 

 正義とは何ぞや。

 昔からある疑問が胸中に木霊し、シュヴァルツの思考を掻き乱す。

 宵闇に包まれた世界の下、彼は村の端にある広場でひっそりと独り佇んでいた。

 月を見上げるために仰向けに寝転がっていたシュヴァルツは、靄がかった視界から意識を外し、何も考えないようにしていたのだが、どうしようもならない。


(俺は、正しいことをしてきたはずだ)


 両手を掲げる。

 月光に照らされて鈍色に輝く籠手がつけられた手は、血痕がこびり付いているように見えた。

 幻視。

 無辜の民を殺害する敵を裁いたことに悔恨などはない。シュヴァルツがそうしなければ、より多くの民が命を奪われていただろう。もし同じ場面にシュヴァルツが立ったとすれば、また同じことをする確信がある。

 それでも。

 それでも、シュヴァルツは迷っていた。

 とても楽しそうに笑う少女と、毒気の抜かれた盗賊の男。


(更生などできるはずがないと思っていたのだが……)


 顔は似ていなかった。情報からしてケインに家族がいないのは明白である。彼は戦災孤児なのだから。

 となれば、あの日、シュヴァルツが【鴉】を決壊させたあの日――命からがら逃げ出したケインは、少女に命を救ってもらったのだろう。


(命を救われただけで、性格が変わるものか? 生き方を変えられるものなのか?)


 結論は出ない。

 誰にでもなく問いかけられる言葉に返事があるはずもなく、直視している月は欠片すらない真円を見せつけており、意味もなく殴りつけたくなる。


「ふん……」


 彼らしくもなく苛立った感情はぶつける場所もなく、拳を握りしめた。

 そんなときだ。


「どうしたんですか、騎士様?」


 麻の服で身を包む、素朴な印象の少女がシュヴァルツに話しかけてきた。

 三つ編みにされた髪は少しささくれており、都市部の娘とは違って髪に手間暇かける時間すらない。美しいとは程遠いが、醜くもない――いたって平凡な容姿である。村娘、とはこういうものを言うのだろう。

 ふと、気になることがあった。

 そもそも、なんであの少女は盗賊と一緒にいるのだろうか。

 両親がいないのだろうか。それにしても、なぜ森の中で住んでいるのだろうか。もともとの知り合いであるなどということは絶対にない。つまり、それは――


「君はアンリという少女を知っているか? 森の中に住まう娘なのだが……」

「それは……」


 村娘は表情を昏くした。

 忌むべきことを直視しなければならない罪悪感とでもいうのだろうか。


(この娘は、知っている)


 確信を得たシュヴァルツは再び、強く問い質す。

 アンリとは何者なのか、と。


「彼女は――」


 それはまるで、名を呼ぶことすら忌避するかのように、


「――魔女の家系です」


 これ以上のことは言えません、と村娘はシュヴァルツに背を向け、走り出す。

 だが、シュヴァルツは追うことなどせず、一つの単語の反芻する。


(魔女……?)


 もちろんシュヴァルツも知っている。

 神が流布されたこの世界では異端とされるものである。

 数ある説話の内に信憑性のあるものはほとんどなく、だいたいにして貞操観念のない女性のことを指すものだ。


(母親が身売りでもしていたのか? それとも、他の何かか……?)


 調べなければならない。

 シュヴァルツの中にある何かがそう急き立てる。

 なぜだかわからないが、取り返しのつかないことになる予感があった。

 何もかもが、手遅れになるような……。


「調べるか」


 夜はまだ早い。

 人はまだ、起きている。


 ◆


「……思い出すだけでもむかむかするぜ」


 シュヴァルツが世話になっている宿屋の主人である壮年の大胡は、テーブルの上で灯される蝋燭の火を、渋面になって見つめている。

 瞳に宿る色は後悔ともいうべきもの。

 忌むべき慣習は男にとっては憎き悪習でしかないのだ。

 向かいに座るシュヴァルツは鎧を外し、動きやすい姿になっている。


「どういうことだ?」


 テーブルにぐいと身をかがませ、迫るように男に問う。

 薄暗い宿屋の入り口は酒場のようになっており、今は人もおらず、閑散としている。いるのはシュヴァルツと男だけ。

 それなのに、男はシュヴァルツの耳に口を近づけ、誰かに聞かれるのを恐れるかのように小声で囁く。

「イルっていうんだけどな……。魔女と言われて迫害された女だ……。まぁ、変人だったよ」

 男が言うには、イルには不思議な力があったという。

 次の日の天候を読めたということ。

 どんなに警戒心が強い獣でも、絶対にイルには懐くということ。

 そして、とてつもなく美しかったということ……。


「夜、夢想する相手としては誰もがお世話になったと思うぜ。村一番どころか、世界で一番美しいんじゃないか……そう思わせるほどの魅力があったからな」


 ふいに、男の言葉が詰まった。

 何かを思い出し、拒否反応を起こしているかのようだ。

 苦々しいまでに歪められた髭面は、普段は陽気な男とはかけ離れていて――


「……騎士様は、神様って信じるかい?」


 疑問符を浮かべたシュヴァルツは、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。


「さて、ね。少なくとも、会ったことはないがな」

「そうかい。じゃあ話してもいいかもしんねえ」


 ふと、雰囲気が変わる。

 光源の少ないせいで薄暗い部屋の闇が、深くなったような……


「変わっちまったのは神様のせいさ。それから全部が狂い始めたんだよ……」


 神――全知全能と謳われる絶対にして唯一の存在。教会が流布する救いの主、そう呼ばれているモノに対し、シュヴァルツは随分と懐疑的だ。彼は神に救われたものを幾人も知っているが、神に殺されたものをそれ以上に知っているから。


「精霊信仰っつってな。イルの家系は代々の巫女だったんだよ。精霊と会話し、その年の農作物の収穫量やらを予知したり、次の日の天候を予知したり……まぁよく当たる占い師みたいなもんだった。外れるときももちろんあったけど、俺は馬鹿だったから信じ切っていたよ。いや、今でも信じている。精霊なんて会話したこともないけど、森の中で小人たちが遊んでいるのを何回か見たことがあるからな」


 ありゃ驚いたもんだぜ、と男は笑う。


「そんな俺だ。精霊は見たことがあるから信じられるけどよ。神様なんてのは拝んだことすらねえ。信じられるわけがねえだろ?」

 ぎゃはははと下卑た笑い声が小さな宿屋にこだまし、残響する。

「……まぁでも、信じる信じないってのは個人の勝手でな。俺以外の奴らは『神の恩恵』とかいって坊さんたちが手渡してきた――品種改良されて育てやすい上に収穫量も多くなる麦の種をもらってな。一発で信じちまったよ。ありがたくて涙が出るぜ」

「それで、あの子は……?」

「村八分っつってな。都市部に住んでる騎士様にはわかんねーだろうけども、けっこう残酷なもんだよ」


 シュヴァルツには想像すらできない。

 名のある家に生まれ、騎士というエリートコースまで脱落することなく突き進んできた彼には、底辺の暮らしなどわかるはずもなかった。


「まずは喋りかけてもらえなくなる。食いものを譲ってもらえなくなる。井戸を使うことすら許されなくなる……、そのうち村を追い出される。簡単に言ってみたけど、これだけされればこんな辺鄙な村じゃどうなるかわかるだろ?」


 怒りで拳が握られる。


(……俺は、そのようなものたちのために剣を振るっていたのか)


 そう思うと悔恨の感情が湧き出てくる。

 盗賊たちを倒したことを悔いることなどないが、もしかしたら迫害されていたもののなれの果てなのかもしれないと思うと、遣る瀬無い気持ちになる。

 そんなシュヴァルツを察してか、男は苦笑するばかりだ。


「怒るのも無理はねぇけどな。それがこの村のしきたりってやつだ。外部のあんたじゃわかんねーよ」


 何故だかその言葉は諦めの色を含んでいたようにシュヴァルツは感じた。


「……それで、そのイルという女性は?」

「美人な女が仕事を失い、住む家も失い……さて、どうなると思う?」


 そういう女は同じ末路を辿るというもの。

 長い人生を送ってきたとはいえない若僧のシュヴァルツでも、それくらいはわかる。


「……身体を売る、か」


 往々にしてそういうものであり、男は深く頷いた。


「そうやって男の庇護を得るしかねぇんだよ。悲しいことに、な。俺はなんか、抱く気すら起こらなかったがよ。けっこうな数の男が抱いたらしいぜ」

「逃げるという選択もあっただろう……?」


 それでも、それだけが不思議である。

 力のない女でも、窮地に立てばどんなことでもできるはず。それなのに何故、このような自分を排他しようとする村に居座ろうとするのか、シュヴァルツには理解できない。

 男はさらに苦笑を深めて、いっそ苦々しいほどに歪ませた。


「アンリっていう娘がいたのさ。その娘を連れて何処かで生きていく勇気が持てなかったんだろう」


 それはきっと、シュヴァルツの見た――ケインと一緒にいた少女のこと。


「他人事な物言いで悪いけどな。カワイソーな家族だったよ」


 男の言葉を吟味するようにシュヴァルツは黙すると、


「そのアンリという娘は……どうなったんだ」


 その声は宿に深く染みわたるかのように思えた。


「森の中で生きてるよ。この村に寄りつくことは、まぁ稀だな。来ても良い事なんかないだろうし……」

「独りで、か」

「独りで、さ」


 シュヴァルツは一瞬舌打をしかけるが、自戒する。男に当たっても仕方ないから。


「ありがとう。興味深い話だったよ」


 知りたくない話でもあった。


「……まぁどこの村にでもあるようなことさ。騎士様が気にかけるようなもんじゃない」


 そう。シュヴァルツはこの村の関係者ではなく、仕事が終わり次第出ていくような、その程度の関わりだ。


(他人事……そう、他人事だ。関わる必要なんてないし、今まで通りに仕事をすればいい)


 そう思えれば楽だったのに。シュヴァルツはどこまでも不器用な男だった。




 5.


 ケインは戦災孤児だ。

 何の特色もない、強いて言えば麦作りに勤しんでいるだけのどこにでもあるような村で育ち、戦争に巻き込まれて、村人は死んだ。生き延びたのは慰み者として連れ攫われた村娘たちと、奴隷として持って行かれた子供たち。そして、井戸の中で隠れていたケインと幼馴染の少女だけだった。


「何とかなるよ。何とかしてみせる」


 誰かに言い聞かせるようにケインは呟き、少女はただただ頷いて付き従った。

 何も持たずに村だった場所を出て、道中何度か死にかけたこともあったが、運良く二人は生き残り、教会で保護されたのだ。

 教会で教育される日々は退屈なものであったが、提供される衣食住に抗えるものではなかった。神父と修道士は常に笑顔を浮かべており、戦災孤児であるケインは「この人たちが信仰する神様ならば、きっと素晴らしいものなんだろう」と疑うこともなく信じていた。

 少女は「ここは変だよ」と不気味なものを見たときの怪訝な色を湛えた瞳で訴えていたが、ケインは首肯しなかった。

 何故なら、神父や修道士は"良い人"なのだから。

 何の利得もない自分たちに関わってくれる。無条件で、無償で、血すら繋がっていない自分を育ててくれる。

 ケインは盲目な羊だった。

 目が開かれたのは手遅れになってから。

 それは……。


「……つっ!」


 思い出したくもないものが夢の中に出てくる。

 愚かな自分が唯一と信じていたものが瓦解した日のことは、どうしても忘れることができない。


(ここまで美人さんじゃなかったよなぁ……?)


 涙でかすんだ視界の中、木窓の隙間から射し込む鮮烈な陽光を反射して輝く金色は、しずしずと何かを編んでいた。

 狭い小屋の中の隅っこに置かれた丸椅子に座り、真剣な面持ちで何かをやっている。

 それは、編み物だった。ケインが持ってきた布と糸を使い、これ以上ないほどに集中して服を作っているのだ。そういう知識にはとんと縁がなかったケインはさして興味があるはずもなく、少女が熱心にしているものに遠慮するつもりもなかった。


「朝飯まだか?」


 反応はなく、金糸の如き髪の娘は微動だにしない。

 無視をされたのか、気付いていないのか。どちらにしてもむっとしたケインはベッドから立ち上がると、アンリのすぐ間際まで寄って、耳元に唇を寄せた。大きく息を吸って、


「朝飯、まだか?」

「ひぅっ!?」


 囁きかけるように呟くと、アンリは跳び上がった。顔は真っ赤になっており、うなじの部分に手を当てている。


「何なんっ!? それ、何なん!? ぞわっとしたやん!!」

「知るか。俺は腹が減って気が立ってんだ。さっさと餌よこせ」

「餌て……えぇけども。ちょい待っててな」


 作りかけの何かを丁寧に折り畳むと、アンリはいそいそと台所へと向かう。


(天使……ね。俺は馬鹿か)


 小さな背中を見て、最初アンリに持った印象を思い出すだけで苦笑を禁じ得ない。

 確かに、美しい。幼女趣味の男にでも売りつければどれほどの価値になるかわからないほどに、アンリは上物だろう、とケインは思う。以前のケインなら傷が治り次第アンリを攫い、奴隷商人に売りつけた事だろう。

 だが、不思議とそんな気はおきなかった。

 一緒に生活し始めてどれほどの時が経ったのか。常に優しく接しられ、人間扱いをされ続けた。

 うすら笑いを浮かべている神父や修道士はどこか賢しらな空気を醸し出していたが、アンリはそんなことはない。見る限り、少女に仲間はいない。

 独りぼっち。

 だからこそ、安心してしまうのだろう自分に吐き気がする。

 自分と一緒だ、と同族を見つけたときのような妙な安心感がたまらなく憎悪の対象になる。


(俺は……)


 傷は癒えた。ここにいても迷惑になるだけということはケインは自覚している。

 彼は、盗賊なのだから。

 しかし、


「できたでー」


 アンリの笑顔の前では太陽の輝きすら霞む。

 ここにいたい。

 ケインはらしくもなく、そんなことを考え始めていた。




 6.


 シュヴァルツは柔らかい朝陽を浴びながらライ麦パンを食べていた。

 少し暑いな、そんなことを呟き、木陰で腰を下ろして質素な食事を楽しんでいたときのことだ。

 視界の端からどたどたと慌ただしく走ってくる見知った村娘が見え、何ごとだろう、とシュヴァルツは思う。


「騎士様! お話が……っ!」

「どうした?」


 随分と走っていたのか。肩で息をする村娘はけっこうな汗をかき、乱れた髪はぴっとりとうなじにはりついていた。

 心配そうにシュヴァルツは村娘を見上げていたが、村娘は膝を地面につけると、腰を屈めて――咳込んだ。


「……大丈夫か?」

「は、はいっ」


 興奮気味の村娘を宥めること数十秒、落ち着いてきた村娘はようやく話し始める。


「盗賊がっ、魔女の住処で見つかったそうですっ!」

「……そうか」


 思ったより早かったな、と思いつつもシュヴァルツは平静を装う。

 来るべきときが来た、という程度の認識だ。


「村の男たちはいきり立って森狩りをすると……」

「待ってくれ。みんなが出ることもないだろう。私一人でどうとでもなる」


 そう、どうとでもなることでしかない。


「盗賊の一人くらい、相手にもならない」


 そして、シュヴァルツ一人で話をつけなければならないことであった。

 食事を終えるなり、シュヴァルツは森へ足を向ける。


 ◆


 森の中にあるアンリとケインが住まう小屋。

 その近くに茂っている大振りの木の陰から、ケインは問いかける。


「アンリ、どこに行くんだ?」

「んぁー、採集やけど?」


 アンリは小屋の扉の前でグッと伸びをしながら間の抜けた声で答えた。

 やや緊張感に欠ける表情はだらしないものであり、一応男である自分に対して無警戒すぎるではないだろうか、とケインは思う。

 そんなことは億尾も出さずに慣れない不器用な笑顔を浮かべて「そうか。気をつけて行けよ」と手を振ってやるのだが。


「……で、何の用だって?」


 アンリが森の中に行って見えなくなった頃合いを見て、ケインは視線を向ける。

 木の陰から出てきたのは銀色の鎧を纏う精悍な顔立ちの青年――シュヴァルツだった。

 小難しい表情で、かつてケインに向けていた敵意などは全くない表情で、シュヴァルツはケインと相対する。


「少女を連れて逃げろ」


 唐突に放たれた言葉にケインの顔は一瞬歪み、醜悪な笑みへと変じていく。


「そいつぁごめんだね。あんなガキなんざどうでもいい。殺すならさっさと殺せよ。お前に勝てるなんて思ってないしな」


 諸手をあげて降参しているように見えるが、諦めているようには見えない。ただ単にシュヴァルツを馬鹿にしているだけのようだ。

 当のシュヴァルツは諭すようにケインに話しかける。


「……鴉のケインは仲間にすら笑顔を見せたことがないと聞いている。だが、さきほど確かに……貴様は笑っていた」

「命の恩人に愛嬌振りまくくらいは当然だろ?」

「本当に……それだけか?」


 探るような眼光を向けてくるシュヴァルツからケインは目を逸らし、


「……それだけだ」


 震えた声音でそう言った。

 ふん、とシュヴァルツは鼻で笑う。


「一緒に逃げて、暮らしていけ。尻拭いくらいはしてやる」

「ハッ! 俺から全部奪った俺がどういう心境の変化かは知らないけど、随分と親切だな?」

「謝るつもりはない」

「喧嘩、売ってんのか?」


 威嚇の態度をとるが、そこに力はなかった。


「仮に、だ。逃げてどうしろってんだ? 盗賊の俺に何ができる? 俺は奪うことは知らねぇ。あのガキと一緒に暮らしていく方法なんか思いつかねぇっ!」

 盗賊ができることは二つ。殺すか、奪うか、もしくは両方か。

 幼いころから盗賊としてのイロハを叩き込まれて育ったケインはそれ以外の生きる術を知らず、他人と一緒に合わせて生きていかなければならないなんて吐き気がするほどに嫌悪する。

 不思議と、アンリだけは一緒に暮らしたいと思える程度の楽しさがあったわけだが。

 ケインの逡巡を見切っているのか、シュヴァルツは射るように碧眼の双眸をケインに向ける。逃げることは許さない、そんな視線を受けてケインは瞬間、硬直した。

「けれど、お前は確かに幸せを与えているはずだ。少女の過去を知らないとは言わせない」

「――過去?」

「知らないのか……」


 そんなものをケインが知るはずもなく――


「真実かどうかはわからない。それは貴様が判断しろ」


 語られた内容は信じがたいもので、ケインにとっては信じたくないもので……あんなに笑う少女に辛い過去があるなど、想像したくもなかった。

 アンリもまた、奪われている側の人間だった。

 愉快な話だ、とケインは思う。

 自分が好きになった最初の少女は――一緒に逃げ延びた少女は、教会の運営費となるためにどこぞの金持ちへと売り払われた。それはきっと二束三文の安い金なのだろうし、運営費が足りないのなら誰かを売って多くの人間を救ったほうがいいことも理解できる。


「くそったれだな。あぁ、くそったれだっ!」


 どんな理由があっても、そんなことをした時点で悪人でしかないが。正義の名を冠して悪行を働くものは、悪人よりも性質が悪い。

 そう、ケインの幼馴染は大人の都合で売り払われ、命の恩人の少女は意味のわからない教会の教えで不幸を背負う。

 とてもくそったれで、笑い話にすらならない胸糞悪い話だった。


「ク、ハハハハハ……お前はあいつに同情したってわけか?」


 シュヴァルツは何も言わず、ケインの瞳を見続ける。


「三日だけ待ってくれ。その間に答えを出す……」


 そう言うと、ケインはアンリが行った方向へと走り出した。

 時間はもう、あまりない。


 ◆


 小さな身体でちびちびと木の実や果物を籠の中に入れていく少女は、意外にすぐ見つかった。

 蜂蜜色の髪は風にもてあそばれていて、見ているだけで頭を撫でたくなる。

 無音で近づくと、ケインはぽふりとその頭に手を置くと、「んぉ?」と間抜けな声で反応するそれの後頭部にデコピンを喰らわした。


「お……っづぅ! 痛いやないかっ!」


 勢いよく立ちあがり、アンリはぷりぷりと頬を膨らませて吠える。

 大きな目はくりくりとよく動き、ケインのことを睨みつけていた。

 そんな態度はどこ吹く風といった感じにケインはアンリの隣に座り込むと、一緒に採集をし始める。謝る気はないようだ。


「お前も毎日こんなことしてて大変だな」

「変な男が転がり込んできたんや。自然と食い扶持も増えるわな」


 大仰に嘆息しながらアンリは答える。かなりの毒を含むその言葉にケインは苦笑を漏らす。


「そりゃすまないことをしたもんだ」

「感謝の気持ちが感じられへんでー?」

「別に感謝してねーし?」

「あんたらしくていーな」

「そりゃどうも」


 親しみの感じられるくだらない会話。

 一か月以上も一緒にいればこうなるか、とケインは思う。一か月以上も一緒に暮らした相手など、数えるほどもいないが……。

 昼下がりになるまで黙々と採集を続けていたケインとアンリは、どちらともなく休憩をし、木陰で寄り添って果物を齧っている。

 しゃくり、と水気のある音を果物を齧るときに発しながら、ケインはアンリの様子を窺っていた。

 気付いたアンリはケインのことを上目遣いで見上げると「何なん?」と聞く。

「いや……」とケインは視線を逸らすが、すぐさまアンリと目を合わせると、言った。


「なぁ、お前はなんで俺の過去とか聞かないんだ? 気にならないのか? いきなりわけわかんねー奴を拾ってさ。どういうつもりなんだ?」

「藪から棒にどうしたん?」


 疑問符を浮かべてアンリは言うが、


「気にならないのか?」


 ケインは真摯にアンリを見つめる。

 ふーん、とアンリは逡巡して、


「……聞いて欲しいんか?」

「別に、そんなことはねーけど……」


 何とも言えずにケインは口ごもる。

 そんなケインのことを見つめるアンリの表情は、全てを見透かしているように見えた。


「人には誰だって言いたくないこととかあると思うんや。もちろんウチだってあるし、ケインにだってあるやろ。

 で、あんたはとても健全な生活を送ってきたようには見えへん。聞くべきではないやろ?」

「……襲われるとか、思わなかったのか? お前はわりと綺麗な部類に入るぞ」


 脛に傷があるのがわかっているのなら何故一緒に暮らしたのか、ケインには理解できない。


「思わへんかったなぁ。ケインはウチのことそういうふうに見てへんし」

「……そうかい」


 確かにケインはそういう視線でアンリを見ていなかった。

 何故なのか自分でも理解できていないことだが。


「俺は、盗賊だ。いっぱい人を殺したし、奪ったし、悪いことなら何でもやった」

「へぇ」

「驚かないんだな?」


 あまりに少ない反応に拍子抜けする。普通はもっと驚くだろ、とケインは思うのだが……。


「それくらいえぇんちゃうの? 人間なんて身勝手なもんやで。自分より弱い奴にはどこまでも残酷になれるもんや。あんたより弱い人間がいっぱいいた。それだけの話やろ」


 アンリはケインが思っていた以上に達観していた。

 彼女は常に奪われ続けてきた立場にいる。だからこそ、ここまでの酷な考え方が身についてしまっているのだろう。

 あまりに哀れで、ケインですら同情してしまいそうだった。

 自然と顔が歪む。


「――らしくないで。どうしたん? 悩み事あるんなら聞くけども……」


 そんなケインにおずおずとアンリは話しかける。

 悩み事があるなら聞く、などと人生初めて言われ、ケインは噴き出した。

 重くなっていた空気は軽くなり、いつもの飄々とした仮面を貼り付ける。それは簡単なことだった。


「ふと考えることがあるんだよ。このままでいいのか、ってな」

「哲学者みたいやな」


 アンリの揶揄するような言葉にケインは三度苦笑する。

 一瞬の沈黙。

 そして。


「お前には、夢はあるか?」


 空気に染み込むように、その声はよく響いた。

 アンリは見つめてくるケインの静謐な声に目を見開くと、にっと口元を吊り上げる。


「夢――なぁ。笑わんって約束できるか?」

「笑うわけねーだろ」

「この森から離れてな。うちのことを誰も知らない街に出て行きたいもんやね。でね、でね。お金貯めて家買って、服屋をしてみたいなぁ! まぁ、先立つものがあらへんけどな」

 自分のことを誰も知らない街――さりげなく詰め込まれた言葉に哀愁を感じる。

「良い、夢だな」

「やろっ!?」


 叶えてやることはできるだろうか。


「本当に、良い夢だ」


 できるとも。

 ケインはひそかにそう思った。


 7.


 三日後の朝、アンリが起きたときには小屋の中にケインの姿はなかった。


「ケイン……? おらへん」


 どこを探してもおらず、森の中に行った気配もないし、最初に持っていた武器も全てなくなっている。

 そんなことは今まで一度もなく、そもそもとしてケインがアンリより早く起きた試しは一度としてない。


『俺は、盗賊だ』


 脳裏に巡った言葉がとても不吉に感じられる。


「今は盗賊ちゃうやろっ!?」


 そう、今はただの根なし草でしかない。ケインはアンリの家にいるだけで、他の誰からもモノを奪っていない。


「まさか……っ!?」


 夢を聞き、自分を語る。

 本来なら不必要なそれはアンリに一つの予想を浮かばせた。

 当たらないでくれ、と祈りつつ、アンリは森の中へと飛び出した。


 ◆


「盗賊様のお出ましだぜっ!」


 ケインがいる場所は以前襲ったことのある――もともとはアンリが住んでいた村だった。

 ショートソードを片手で構え、近くにある樽などを蹴り飛ばしながら、悠々と歩を進めていく。


「鴉のケインだっ! くそっ、みんな出ろっ!」


 村人たちは各々に剣や鍬、鎌などを持ってケインに向かっていくが、


「ハッ、お前らに用なんかねぇ。騎士を出せよ。騎士をよぉっ!」


 ケインの身体に触れることはかなわず、武器は全て叩き落とされ、切り裂かれていく。

 シュヴァルツに負けこそしたが、彼が来るまではケインがここらでは最強だった。村人たちが束になろうとも勝てるはずもない程度には。

 次々と襲いかかる村人を殺さない程度に打ちのめし、ケインは村の中央で剣を振るう。

 次第に村人たちはケインを囲うように立ち尽くし、近づかないようになっていった。

 勝てない。こいつには勝てない。勝てるのは……。


「前は世話になったな。ぶっ殺しに来てやったぜ」

「……貴様」


 村に滞在する銀色の鎧を纏う騎士だけだ。

 シュヴァルツは大振りのロングソードを鞘から抜き放つと、ケインのことを見据える。

 何故逃げなかった、視線はそう訴えかけてきているが、ケインは意図的に無視をする。

 ケインは高笑いをすると、一気にシュヴァルツに斬りかかる。

 大上段からの袈裟斬り。

 シュヴァルツはそれを難なく受け止め、鍔迫り合いとなる。

 鼻が触れそうなほどに近距離の力の比べ合いは遠目から拮抗しているように見えるが、相対しているケインにはわかる。シュヴァルツは押そうと思えばいつでも押せるということを。

 強いなぁ、とケインは思う。これだけの強さがあれば、きっと自分は守りたいものを守れただろうとも思う。

 もう、手遅れだけど。


「アンリの家の裏に小さな樽がある。そこに俺が今まで貯めてきた財宝がある。ガキ一人養うには十分な金だ」


 小さな声で、シュヴァルツにだけ聞こえるようにケインは呟いた。


「……どういうつもりだ?」


 シュヴァルツは訝しむ。いや、敵意を持ってケインを見る。

 お前は逃げるのか、と。


「あんたは騎士だ。俺とは違って地位も名誉もある」


 それにさ、と諦めたような吐息を漏らし、


「馬鹿な俺じゃ……これしか思いつかなくってよ」


 こんなことでしか救えない自分を罵る罪人でしかないことを、悲しく思う。


「神様に歪められた人生を、盗賊の俺が救ってやるっ! 最高の喜劇だろうがっ! ほら、笑えよっ! 笑ってみせろよっ……!」


 小さな叫び。慟哭は――ケインの偽らざる本音であった。

 しかし。


「笑うものか。お前の選択は決して正解ではないと思う。ないと思うが……間違っているなんて言わせない」


 シュヴァルツの言葉にケインは満足そうに微笑むと、距離をとって剣を掲げる。

 大振りのそれは隙だらけであり、シュヴァルツからすれば止まって見える。

 剣を腰溜めに構え、シュヴァルツは――ケインの腹を薙いだ。


「後は頼んだぜ?」


 倒れていくケインが言った言葉はシュヴァルツの耳に這いずり込むように入ってきて、


「……我が誇りにかけて、任された」


 深く深く、頷いた。


 ◆


 アンリが村についたときには既にケインは地に倒れ伏していた。

 腹の中からどくどくと血を流し、口元からも喀血している。

 痛々しいほどに死に体の彼に、気付けばアンリは走り出していた。


「魔女だ。魔女の娘だ」


 周囲の村人はざわめきを起こすが、アンリの耳には聞こえないし、アンリの目には映らない。

 聞こえるのは今にも途切れそうなかすかなケインの声音と、流れ続けていく生命の雫だけだ。

 近づき、頬に触れる。青ざめた顔はちょっとだけ冷たかった。


「嘘やろ? 死なへんやろ? ほら、最初会ったときもケインはぼろ雑巾みたいな状態やったやん! 今回も生き延びるんやろ!?」


 思ってもいないことを口走っていることをアンリは自覚している。

 冷静な心はケインが死ぬという事実を受け入れ始めているが、感情が追いつかない。

 一緒に暮らしていた家族を失うなど、アンリはもう経験したくなかった。

 気付けば視界はおぼろげになっていて、頬には熱い雫が流れている。

 それは、涙だった。

 アンリのことに気付いたのか、ケインは薄く目を開くと、アンリに対して微笑んだ。

 震える腕を持ち上げて、アンリの涙を拭いさる。


「……この騎士の言う事を聞け。お前の夢は必ず叶うから」


 切れ切れの言葉は、耳によく響いた。


「何言うてんのん? 夢なんて……うちにはあらへん!」


 まるで死ぬみたいなことを言わないでほしい、そんな気持ちを込めてアンリは叫ぶが――


「服屋……頑張れよ」


 アンリの頬に触れていたケインの腕はがくりと落ちた。

 つまり、ケインは――


「あ……あぁぁアアアアぁぁぁっ! アァァァァァッ!!!!!!」


 力のなくなったケインを精いっぱい抱きしめて、アンリは声を荒げて叫び続ける。

 喉からは血が出て、目からは涙が零れ落ちた。体中から汗が噴き出て、何もかもがどうにでもよくなってくる。

 ケインと親しかったと証明するような泣き声は、ひたすらに村人の反感を呼び起こす。ケインのことを匿っていたのは自分だと吐露しているようなものなのだから。

 しかし。


「この娘の処遇は私に一任してもらおう!」


 鶴の一声で治まった。

 騎士の言うことは、絶対だから。



 終.


 王都と呼ばれる都市がある。

 そこは王が治める最も繁栄している都市であり、多くの人々が集っている。

 貧乏も金持ちもともに暮らすそこには一軒の服屋があった。

 美人な店主を落とすために足しげく通う人もいれば、ノリの良い店主と会話をするために通う人もいて、服を目当てにやってくる人もいる。

 決して高くはない、庶民向けのその店はたいへんに評判が良く、多くの人で賑わっていた。


「いらっしゃいませー!」


 両開きの扉が開くと、鐘の鳴る小うるさい音が店内に響き渡る。

 今はまだ朝早くで人はおらず、新たにやってきた人も顔見知りだということで、店主――アンリは一気にテンションを落とした。


「シュヴァルツさん、ひっさしぶりやなぁ」


 金色の髪を腰ほどまで伸ばした少女――いや、もう女性といっていいだろう。

 すらりと伸びた身体は華奢と言えるほどに細いが、大きく膨らんだ胸元が女を自己主張しており、反対に、少し幼さの残した顔立ちが人懐っこい。

 やってきたシュヴァルツは今日は鎧を着ておらず、普通の服装だ。

 上下とも黒い服を身に纏うそれはアンリに言わせれば「暗いし、重々しいで」といったものだが、シュヴァルツは服装に興味などないのでいつもこんなものだ。

 きょろきょろとシュヴァルツは店内を見回すと、


「繁盛しているか?」


 と聞く。客など一人もいないのにだ。


「嫌味かいな。こんな朝早くに客が来るはずもないで。基本的に昼くらいにならな開店休業みたいなもんや」

「そうか……」


 ふむ、とシュヴァルツは頷く。


「ウチの服ってけっこう評判良いみたいでな。生活には困らんし、貯蓄もできる。生きててよかった! って感じやね」


 事実としてアンリのデザインした服はよく売れた。

 全て手作りなので大量に売ることなどはできないが、アンリはそれでいいと思っている。

 お金なんて、生きていける分だけあればいいのだ。


「で、どうしたん? いきなり来るなんて珍しいやないの」

「久しぶりに墓参りに行こうと思って、な」

「あぁ……」


 シュヴァルツの言葉にアンリの表情が翳る。 


「ちょい、待っててな。店閉めるから」


 今日はケインが死んだ日だ。


 ◆


 王都の端にある霊園にそれはあった。

 あれから何年も経つのに、墓石はまったく目立った汚れも破損もなく端麗に建っている。誰が気を配っているのか、問わなくともシュヴァルツにはわかった。

 アンリの横顔を見やる。さっきまであれほど明るく笑っていたのに、今はどこにもその片鱗すら窺えない。ただ真っ直ぐに、墓碑銘に強い視線を注いでいた。


「私を恨んでいるか?」


 アンリが、ゆっくりと彼を振り返った。

 この数年のうち、一度も向けることのなかった問いかけだった。シュヴァルツは、目の前の娘が口を開くのを、何らかの行動を示すのをただ待った。

 少女は立ち上がる。あのころより背も伸びて、身体のまろやかな線がまばゆいほど。頬は美しい薔薇色を帯びて、不幸な過去をまったく感じさせない。

 そして。

 シュヴァルツは、はっと胸を突かれる。

 笑っていた。

 彼女は、これまで見せたことがない輝くばかりの微笑みを、美しい顔いっぱいにたたえていた。

 吊られて同じ表情を浮かべそうになったが、視界の端がそれをとらえてしまっていた。

 背中の後ろに回された、彼女の両の腕。そこに隠された鈍色に輝く何か。

 そして。

 彼女は、口を開いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  訛りのある女の子が好きになれますw  アンリと村人との関係を描いた所から一気に引き込まれました。最初は正直ダラダラと読んでいたんですが、そこからは読了までがかなり早く感じました。  …
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