8.シドのメモ
自室である月光の間に籠ったシドは、ベッドの上に大の字に横たわり、高い天井をじっと眺めていた。時刻はもう夕刻になっていた。すでにそとのあらしは止んでおり、美しい夕焼けが、穏やかになった大海原を、やさしく照らしていた。あんな恐ろしいことがあったにもかかわらず、シドは扉にチェーンをかけようとはしなかった。シドは、手にしたメモをもういちど読み返してみた。そこには、今回の事件でシドが知り得た出来事が、時刻にそって箇条書きに、まとめられてあった。
【午後六時】 宿泊客全員が、食堂で夕食をとる。
【午後六時四五分頃】 二階堂氏を除く六人は、広間で団らん。二階堂氏は、厨房で炊事。
【午後八時過ぎ】 ドクが広間を去る。直後、クリンも続く。
【午後八時一五分頃】 ドクに依頼されて(?)、二階堂氏が書斎までウイスキーセットを運ぶ。
【午後八時半頃】 クリンが、ドクにしびれ薬を飲まされて意識を失う。(もっとも、この証言はクリン自身によるものであるが)
【午後九時十分】 書斎から、(ドクの声で?)二回目の電話が厨房へかかる。
【午後九時一五分】 二階堂氏に依頼されたモネが、書斎へ向かったが、差し込みボルト錠がおろされていて、中にはいることはできなかった(モネによる証言)。
【午後十時前後?】 ココが、就寝のために大地の間に引き下がる。この時、二階堂氏に飲み物を要求する。
【午後十一時】 気が付くと、広間にひとりで寝ていた。(ポチはいつのまにか姿を消していた)その後、二階堂氏に起こされて、書斎を調べに行く。途中で、ポチも同行する。
【午後十一時十五分頃】 書斎で、ドクの遺体を見つける。
【午後十一時二十分過ぎ】 モネが林檎を運んでくる。
【午後十一時四十五分頃】 暗室で倒れていたクリンを発見する。
【午前零時十五分頃】 ココが泊まる大地の間に行く。(ココは寝ていた)
【午前零時四十五分頃】 クリンを森林の間に帰してから、自分、ポチ、二階堂、モネの四人が厨房へ行く。
【午前一時過ぎ】 広間に戻ってから解散。それぞれが自室へと戻る。二階堂氏だけは広間に残る。
【午前二時?】 ポチが寝泊まりしている火炎の間の方向から、扉が閉まる音がした。
翌朝、【午前七時半】 食堂でモネに会う。彼女は二階堂氏と食事の仕度中であった。
【午前七時四五分頃】 ココ、ポチといっしょに、クリンの泊り部屋である森林の間に行く。そこで、クリンの遺体を(窓の下に)見つける。
【午前八時】 庭までおりて、クリンの遺体を直接確認する。
【午前八時二十分】 五人が、食堂で朝食をとる。
【午前八時五十分頃】 二体のこびと像が破壊されているのを、発見する。
メモをひととおり読み終えると、シドは黙って眼を閉じた。
シドが考えていることは、ただひとつ――、クリンがドクを殺す動機だ。人を殺すとなれば、それなりに理由がなければならない。昨日が初対面であるはずのふたりのあいだに、殺意が芽生えることなんてあり得るのだろうか?
昨晩、ドクが広間を出るとすぐに、クリンも部屋に引きさがった。あのあとで、間違いなく、ふたりは書斎にいって、何ごとかの会談を行ったのだ……。
突然、シドはガバッとベッドから跳ね起きた。ちょうど、オレンジ色の夕陽が、水平線に隠れようとしていた時だった。
これだ――。これですべてがきちんと説明できるぞ!
シドは、二階堂氏に指示して、全員を大広間に集合させた。まもなく、銘々が広間へやってきた。ひとりだけココが嫌がって、清流の間から出てこようとしなかったが、全員がすでに集まっているという事実を聞くと、すごすごと姿を現した。
「やあ、ココさん。清流の間にいらしていたのですね」と、シドが気をつかって、声をかけたが、
「そうよ。チェーンが壊された部屋にいるのは、とっても危険ですからね」と、ココは皮肉とも取れる悪態を吐いた。
「全員を集めて、いったい、これから何をしでかそうというんだい」と、胡散臭そうにポチが、シドに訊ねた。
シドは咳払いをひとつすると、「ここにお集まりいただいたのは、昨日の事件の真相がわかったからです」と宣言した。
五人の眼が、いっせいにシドに注がれた。
「つまり、ドクとクリンのふたりが不可解な死を遂げた真相を、あんたがここで説明してくれる、とでもいいたいのかい」と、難癖をつけるポチは、いつになく、緊張しているように見えた。
「そのとおりです」
そういって、シドは横目でちらっとモネの顔を見た。モネは両手をひざの上において、肘掛椅子にちょこんと腰をかけながら、上目づかいに真剣なまなざしを、シドへと向けている。
ココは、ふっと小馬鹿にしたような吐息を、ひとつ入れて、「それじゃあ、名探偵さん。ご説明してくださいな」と、シドに催促した。
シドは、もったいぶりながらゆっくり立ち上がると、うっすらと口もとに笑みを浮かべながら、聴衆たちを順番に見まわしていった。
「それでは、昨夜の事件から考えてみましょう。ご存じのとおり、ドクが書斎で遺体となって発見されました。発見された時刻は十一時過ぎ。ドクが広間をあとにした時刻が八時過ぎですから、必然的に事件は、八時から十一時のあいだに起こったことになります。
まず、八時一五分頃ですが、書斎から厨房の二階堂さんに、ドクの声で、ウイスキーのセットをふたり分運んで欲しい、との依頼がありました。二階の書斎と一階の厨房のあいだには、特別の回線電話がひかれていて、それによって会話ができるようになっております。そして、二階堂さんが数分後に書斎に行った時には、ドクとクリンのふたりは健在で、テーブルを囲んで仲よく談話をしていたそうです。そのあと――八時半頃に、これはクリン自身による証言ですが、ドクが差し出したウイスキーを口にしたクリンは、ひどいめまいを直後に感じて、意識を失ってしまったそうです。
それから一時間くらいたった九時十分頃ですが、ふたたび、ドクの声で書斎から電話があったそうです。こんどは、氷を取り換えに書斎に来て欲しいと、モネさんが指名されました。モネさんは、すぐさま書斎の前まで行ったのですが、なぜか扉には差し込みボルト錠がおろされていて、中にはいることができなかったのです。えへん、ちょっとのどが渇くな……。二階堂さん。すみませんが、水を持ってきてもらえませんか」
「はい、ただいま」というと二階堂氏は、ガラス製のピッチャーとグラスを、シドの前まで運んできた。
水をひと口飲むと、シドは話を続けた。「さらに、十一時過ぎのことでした。私と二階堂さんとポチ君の三人で、扉を破壊して、強行に書斎の中へ踏み込んだのです。そこで私たちは、図らずも、ドクの遺体を発見することになります。すこし時間が経ってから、厨房にいたモネさんも、林檎を持って、書斎にやってきました。私たちは、すべての窓を調べましたが、そこから何ものかが出はいりすることは、絶対に不可能であることを確認しました。ほかに隠し扉も見当たらず、書斎は完全な密室であったはずでした。ところが、実際にはそうではなかった。書斎の奥の暗室に、クリンが倒れていたからです。
クリンは気を失っているようでした。やがて、意識を取り戻したクリンは、ドクからしびれ薬を飲まされたと証言します。しかし、彼が意識を失ったと証言した場所は、ソファーの上でしたが、実際に見つかったのは、暗室の中でした。したがって、この証言は明らかに矛盾を含んでおります。
翌朝、こんどはクリンが、二階にある森林の間から、とびおりて死んでいるのが発見されました。森林の間の扉には、チェーンはかけられておらず、また窓は開かれたままでした。机上にあったパソコンに、クリンの自殺をほのめかすテキストファイルが残っていました。以上が、ざっと事件の概要です」
「もったいぶっていないで、あんたの考えている真相を、早く説明しろよ」と、待ちくたびれたポチが、茶々を入れた。
「それでは、いよいよ、真相を説明いたします」と、コホンと咳をひとつ入れて、シドは話し出した。
「書斎のそとにいた人物がドクを殺すことは、明らかに不可能です。必然的に、ドクの死は、ドク自身の不慮の死か、あるいはクリンによる殺人、のいずれかでなければなりません。
まず、ドクが不慮の死を遂げた場合について、考えてみます。例えば、発作的な目まいか立ちくらみで、ドクが倒れたとしてみましょう。さらに運の悪いことに、倒れた頭部の先に大理石が横たわっていた、と仮定します。こうして、ドクは命を落とします。
しかし、それが真実であるならば、クリンは加害者ではないので、クリンが嘘をつく理由は何もなくなります。すなわち、証言どおりに、クリンは、ドクにしびれ薬入りのウイスキーを飲まされたことになります。しかし、そうだとすると、なぜドクは、危険な薬を仕込んだりしたのでしょうか? 初対面のふたりのあいだにいざこざがあったとはおおよそ考えられないし、仮に書斎で世間話をしているうちに喧嘩になったとしても、しびれ薬を仕込むほど相手を恨むなんてことは、まず考えられません。それに、たとえ医者とはいえ、人を一瞬で気絶させてしまうほどの劇薬を、ドクは常時携帯していたのでしょうか? さらに、クリンが暗室で倒れていたという事実についても、ドクの不慮死説では、何も説明することができません。気を失ったクリンを、わざわざ暗室に運ぶ動機がないからです。
以上の事実より、ドクの不慮死説は否定せざるを得ません。ということは、必然的に残った可能性が、真実であることになります。つまりそれは――、ドクを殺した犯人はクリンである、ということです」
「ええっ、そんな簡単でいいの?」と、説明に耳を傾けていたポチは、思わずこう叫んでいた。
ココも、さすがに、我慢できずに咎めてきた。「ちょっと待ってよ。クリンさんがドクさんを殺したのなら、動機はいったい何なのよ」
「動機ですか? 実は、動機などはなかったのです」
「はあ?」
「まず、広間での会話を思い出してください。ドクが本土へ通信ができないという些細なことで怒り出したのを、クリンはいち早く気づいて、いさめました。ひょっとしたら、ドクには、何か緊急で連絡しなければならないことがあったのかもしれませんね。そして、ドクが広間を去った直後になって、アドバイスすべきであった妙案を、クリンはひらめいたのだと思います。そこで、クリンはあわててドクを追いかけます。最初は廊下で立ち話程度でしたが、そのうちに、書斎でじっくりと話をしよう、ということになったのでしょう。
ふたりは書斎にはいって、二階堂氏に酒の手配を指示します。そして、ウイスキーを飲みながら会談が進行するうちに、ひょんなことからふたりの間にいさかいが生じます。それは、永遠の剣でのいざこざであったのかもしれないし、まさかとは思いますが、リアルでクリンはドクの患者であり、その際に受けた治療に対して前々から不満をいだいていたなど、クリンがドクを恨む理由はいくらでも考えられます」
ポチがほくそ笑んだ。「はっ、何をいいだすかと思えば。あんた、さっきふたりは初対面だから、ドクがクリンに薬を仕込む動機は考えられない、と断言したばかりじゃないか」
シドはムッとしながら弁解した。「あれは、ドクがクリンを恨む理由がないといっただけで、クリンがドクを恨む理由ならば十分にありうる、と主張しているのだよ」
「わかったわ。続けて」と、ココが仲裁した。
「そのいさかいで、クリンがドクを突き飛ばした。ついかっとなっての行動です。しかし、気がつくとドクは暖炉で頭をぶつけて死んでいた。これが事件の真相だった。つまり、明確な動機などは存在しなくて、突発的に起こった事故であったのです。ドクの死は」
さっきまでシドを咎める一方であったポチが、この瞬間、両手で頭を抱えてうずくまっていた。
「『突発的な、事故』ね……。
なるほど、そうか! ずいぶんと間抜けだったな、俺は。真相は、きっと、そうに違いない」
ぼそぼそと訳のわからないことを唱え続けるポチを無視して、シドは説明を続けた。
「クリンは呆然とします。突発的とはいえ、ドクを突き飛ばして殺してしまったのですからね。さて、その時に彼は何を考えて行動したでしょうか。まず、関係のない人を巻き込まないように、クリンは扉にボルト錠をおろしました。しかし、このままでは部屋の中にいる自分が、間違いなく犯人とみなされてしまいます。そこで、クリンはさらに策を講じます。クリン自身がドクによって意識不明にさせられていたことにしてしまえば、彼の身の安全が同時に保障されます。クリンを睡眠薬で眠らせたあとで、ドクが偶発的な事故により、不慮の死を遂げた、というシナリオこそが、唯一、自分も救われる方法だと考えたのです」
「ずいぶんと勝手な憶測ね」と、ココがよこやりを入れたが、シドは大真面目だった。業を煮やして、ココが一石を投じた。「じゃあ、なぜクリンさんはソファーの上でなく、暗室で倒れていたのよ?」
「それはクリンの偽証です。ソファーの上で倒れたことにして、暗室で発見されれば、必然的にドクがクリンを運んだことになる。そうなると、ドクの不慮死説に信憑性が出てくるのです」
「かなり説得力に欠けるわね」と、ココが皮肉った。「なら、今朝、こびとの像を壊した人物は、必然的にクリンさんということになってしまうけど、彼は何のために像を破壊したの? 説明してちょうだいよ」
「そ、それは……」と、予想外の質問に、シドは言葉を詰まらせた。
代わってポチが、ココに問いただした。「へえ、ココ姉。あんた、今、クリンが像を壊したのは、今朝だ、といったけど、何か根拠でもあるのかい」
ココが眉をひそめた。「それは……、ただ何となく口にしただけよ」
すると、メイド服姿のモネが口を開いた。「あのお……、クリンさんが二階からとびおりた時刻って、いったい、いつなのでしょう?」
ここぞとばかりに、シドが同調した。「それは、遺体が発見される八時より前だということは、間違いないけど――、二階堂さん、今朝、像が壊されるような物音を聞かれましたか」
「いいえ、そのような音は全く……」
「いつから起きてみえましたか」
「そうですね、六時前です。昨日は少々遅かったので……」と、いいわけもまじえながら、老人は答えた。
「モネさんも、何か聞かれませんでしたか」
「いえ、何も……」
ポチが落ち着きはらって断言した。「ということは、今朝六時から八時までのあいだに、クリンは像を破壊していなかったことになるね」
シドが反論した。「それなら、二階堂さんが起きる前に、すでにクリンは二体の像を破壊していたのさ。そして、六時頃になって、みずからも二階からとびおりて死んでしまった。それで、万事の説明がつくじゃないか」
その時、モネが申し訳なさそうな顔をしながら、「あのお、実はわたし、今朝、像を見ているんです。その時は、七体とも無事でした」と発言した。
シドが真っ青になった。「えっ? モネさん、その時刻は?」
「七時頃です……」
「どうして?」
「その……。わたし、毎朝、白雪姫さんやこびとさんたちにご挨拶しているんです。おはよう、って」
「陶器の像に挨拶だって……?」シドはポカンと口をあけた。
「あははっ――。モネちゃんの貴重な証言で、クリンがこびと像を破壊するのは不可能であることが、証明されてしまったね」ポチが、膝を叩いて喜んでいた。
シドが腕を組んだ。「クリンが像を壊したのでなければ、いったい誰が……」
ポチが、寄りかかっていた壁から、一歩前に踏み出した。大きく両手を上にあげて背伸びをすると、シドに忠告した。「この事件を解決したいのなら、次の事実の説明ができなければ、だめだ。まず、ひとつ……、ドクの遺体から出てきたメモリースティック」
「単なる患者のデータファイルじゃないか?」
「ひとつ、二体のこびと像が破壊された理由」
「それは……」
「ほかにもあるぜ。ドクが持っていたタオルハンカチ。モネちゃんの衣服の乱れ。書斎で炊かれていた香。これらひとつひとつのピースが、きちんと絵図にはまらなければならないよね」
そういうと、ポチはテーブルの前までやってきた。ポケットをまさぐって学生証をとり出すと、テーブルの上に置いた。広間にいる全員の視線が集中する中、彼は声高らかに宣言した。
「俺の本名は、如月恭助。そして、俺の父は愛知県警に所属する警部補です!」