5.残された手がかり
シドはクリンの両脇を抱えて、軽々と暗室から引きずり出した。担ぎ出されたクリンは、気は失っているものの、命に別状はなさそうであった。
それを見ていたモネが、ショックのあまりしゃがみ込んで、がたがたと震えだした。二階堂氏が寄り添って、モネを落ち着かせようとしていた。シドはモネの様子が気になったものの、まずは倒れているスキンヘッド男の状況を確認することを優先した。クリンの心臓は動いていた。
「大丈夫だよ、モネさん。こいつは意識を失っているだけだ」
すこしでも安心させてやろうと。シドはそういったつもりであったが、モネは両手で顔をおおって、相変わらず震えている。するとその時、ポチが暗室の中から、のこのこと出てきた。
しまった、ごたごたの最中で、こいつのことをすっかり忘れていた、とシドはあとで後悔した。
「おい、何をしていたんだ」と、シドがポチを問い詰めると、
「あっ、うん。ええと、暗室に脱出口がないかどうかを、調べていたんだ。結局、何もなかったよ……」
ポチは右手で頭のうしろを掻きながら、悪びれた様子もなさそうであった。
シドは倒れているクリンに眼を向けて、「おい、起きろよ。大丈夫か」と、頬に張り手を数発かました。やがて、クリンは眼をあけたが、瞳はうつろに天井をさまよっていた。
ついにクリンが口を開いた。「ここは……、どこや?」
「白雪邸の書斎だよ」と、抱きかかえているシドが答えた。
「書斎――、そうだ。あの野郎!」
そういって、クリンは立ち上がろうとしたが、そのままよろけてしまった。
「おい、無理はするな」
「畜生――。頭が……、くらくらする。何か薬を飲まされたんや」
「薬を――、誰に?」
「決まってらあ。あのやぶ医者によ」と、クリンが突っ放す。
「へー、ドクがね……。どうやって?」
「あいつが勧めたハイボールを飲んだら、急に身体がしびれてひどいめまいが襲ってきたんや。あいつのにやついた顔を前にして、俺は意識を失った……」
「その時刻を覚えているか」
「何? うん、たぶん……。そうだ、グラスを持ってきた二階堂のじいさんが部屋から出ていってから十五分も経っていなかったと思う」
シドは老人の方を向いた。「二階堂さん、あなた、いつ頃にグラスを運ばれましたか」
「はい。ええと、八時十五分くらいだったと思います」
「そうだよ。たしかに、それくらいに広間の前を歩いていったね」と、ポチが同意した。「ところで、クリンのにいちゃんよ。あんた、何か盗られたものはないかい」
一瞬、クリンははっとして上着のポケットを探るそぶりを見せたが、「いや、何も……」と、小声で答えた。そして、よろよろと立ち上がると、語調を強くして「ええい、けったくそ悪い。あのやぶ医者は、今、どこにいるんや」と叫んだ。
「そこに、寝転んでいるよ」と、シドが遺体を指差した。
「何……?」
ようやく、クリンはドクの死体に気づいた。意気込んでいた顔は、急に怖気づいて、みるみる蒼ざめていった。
「俺じゃない! 何も覚えとらんし……」と、クリンは駄々をこねる子供のようにひざまずいた。それをあやすように、シドが付け加えた。
「クリンさん。あんたには都合が悪い事実だが、この部屋は内側から鍵がかけられていて、密室になっていた。そして、室内には、遺体と化したこのお医者さんと、気を失ったとみずから証言しているあんたの、ふたりしかいなかった」
「まさか、俺を疑っているんか。俺があいつを殺しても、一文の得もならんやんか」
「それに、あんたはしびれ薬をそこのテーブルで飲まされたと証言しながら、実際には暗室で倒れていた……。矛盾してますよね。どういうことですか」
そういって、シドはクリンの顔をのぞき込んだ。
「全く、わからない……。だいたい、俺が意識を失った場所は、そこのソファーだったんや」と、クリンは頭を抱え込んだ。
「ソファーで倒れたはずなのに、実際には暗室に?」
うしろで黙って聞いていたポチが、興味深そうに身体をのり出した。主導権を支配していたいシドは、それを見て眉を動かした。シドはあわてて、ポチが何かいいだす前に、相手を変えて質問をすることにした。
「二階堂さん。あなた、まさか運んだグラスに何か細工をなされましたか」
「滅相もございません」と、真っ青になって二階堂氏が否定した。
「ドクがあんたに薬を仕込む機会はありましたか。クリンさん」
「俺は一度だけ用足しに部屋を出た。その時に仕込もうと思えば、たぶんできたはずや!」
「何時頃、用足しに?」
「二階堂のじいさんが部屋から出て……、すぐだ」
「そもそもおふたりは、わざわざ書斎までやって来て、何を話されていたのですか」と、シドの唱えた台詞の抑揚が、ひときわ高くなったが、
「いや。普通に世間話や」と、クリンに軽くいなされた。
きまり悪そうに、シドがいった。「まあ、我々は警察ではない。これ以上の追及はしませんけど、状況証拠はどう考えても、クリンさん、あんたに不利であることは、疑いない事実ですからね。ところで、二階堂さん。すぐ警察に連絡してください」
「かしこまりました」
老人は一階におりていった。例のポーンという音が聞こえてきた。
シドが思い出したように訊ねた。「モネさん。そういえば、あなた九時過ぎに広間の前をとおって、二階にいきませんでしたか」
モネは一瞬、ビクっと細い肩を震わせたが、すぐに冷静な口調で、「はい、そのとおりです……」と答えた。
「どちらまで行かれたのですか」
「あの、二階堂さんに頼まれて、氷を取り換えに……」
「それで、どうだったのですか」
「書斎の扉は閉ざされていて、中にははいれませんでした」
「何か、もの音や話し声とか、聞こえませんでしたか」
「いえ――。あのお、ごめんなさい、わたし……よく覚えていないんです……」
モネが今にも泣きだしそうになったので、シドはこれ以上の詰問を断念した。
すこししてまた、エレベーターの到着音がした。廊下から二階堂老人が、「困りましたねえ。電話が通じません。こんなことは初めてです」と、困惑した顔つきでいった。ポチがポケットから携帯電話を取り出して、警察にかけようとしたが、こちらは画面に電波圏外の表示がされただけだった。
「ああ、携帯電話はこの島では通じませんよ」と、老人があっさりというと、
「そうだったよな」と、ポチは舌打ちをした。
「しかし、固定電話が通じないのはおかしい。何者かが回線を切断したのか」と、シドはいうと、キッとクリンを睨みつけた。「――おい、お前か?」
「いったい、なんのために?」
クリンはムッとして反論した。シドの右手のこぶしが震えているのを見て、老人があわてていった。
「あさってになれば、連絡船がここにやってきます。とにかく、それまではどうしようもありませんね」
「このあらしで、船が予定どおり来てくれればいいのやけどな……」とクリン。
「いいかえれば、いくら犯人が逃げたいと思っても、ここから逃走することはできないということだな」と、シドが怒鳴った。
シドとクリンのやり取りにずっと無関心だったポチがいった。
「ココ姉にも事件を伝えといた方がよさそうだな。彼女は、今、どこ?」
「ココ様は、おそらくご自分のお部屋かと……」と、二階堂氏がいった。
「まさか、彼女の部屋は大地の間だろ? ここのすぐ隣じゃないか。この騒ぎが耳にはいらないのかね」
ポチが不思議そうに聞き返すと、
「さようでございますよね」と、二階堂氏も戸惑いながら返事した。
二階堂氏を先頭に、一同はココが泊まっている大地の間の前へとやってきた。まず二階堂氏が扉を叩いたが、反応はなかった。扉をあけようと試みたが、チェーンが引っかかって半開きで止まった。二階堂氏はその隙間から手をこじ入れると、壁にある電灯のスイッチを押した。部屋の中が明るくなった。
「ココ様。起きてください」と、二階堂氏が呼びかけたが、依然として反応はなかった。
「緊急事態だ! この扉も壊そう」と、シドが意気込んだ。
「それでは、鎖を道具で切断いたしましょう。どうかドアを壊すことはご勘弁ください」
そういうと、老人は下におりて、金属用のやすりを持ってきた。シドが隙間からの切断を試みたが、 結局、チェーンを切断するまでに数分を要した。ようやく、一行はココの部屋にはいった。
ココはベッドで仰向けに寝ていた。
「普通に呼吸している。つまり、ただ寝ているだけってことさ」と、シドがいった。
「それでは、寝かせておいてあげましょう」と、老人が提案したので、みなはそとに出た。そして、二階堂氏が最後に扉を閉めた。
「じいさん。隣の白雪の間も見てみたいけどな」と、ポチが要望したが、
「申し訳ありません。あそこはユーノ様専用のお部屋でして、彼女しか鍵を持っていないです」
「ふーん。じゃあ、いわゆる『あかずの間』ということか……」
「そういうことになりますね」
それを聞くと、ポチは満足そうに「もう遅いから解散にしようぜ」と背伸びした。
シドが眼を丸くした。「おい、そこの殺人の重要参考人をどうするんだよ。ほうっておくのか?」
「心配なら、あんたが見張っていれば? 大丈夫だよ。このあらしで、この島だぜ。――逃げたくてもどうしようもないじゃないか」と、ポチは平然としている。
「でも、こいつがまた次の犠牲者を狙わない保証はないぜ」
シドはクリンを睨みつけた。
「せいぜい、自室にチェーンでもかけておくんやな」と、クリンが捨て台詞を吐いた。
「シドのいうとおりになっちまったら、その時はその時――。おい、クリンのにいちゃん。あんたは俺たちが指示するまで、自室に籠って一歩も出ないようにしてくれよ。そのくらいはできるだろう」と、ポチがクリンに指図すると、
「別に俺はかまわんよ。もっとも、俺は犯人じゃないけどな。こいつは罠や。俺は罠にはめられたんや!」と、クリンがぼやいた。
すかさずシドが、「ふん。あんた以外にこの犯行ができるならば、ぜひその方法をご教授いただきたいね」と皮肉った。
クリンは舌打ちをひとつして、自室に戻っていった。
悔しそうな顔をして、シドがいった。「本当にどうなっても知らないぞ」
「まあまあ、みなさん。もう遅いことですし」と、二階堂氏がなだめた。
「もうひとつだけ、確かめておきたいことがあるのだけど」とポチ。
「何でございましょう?」
「台所を拝見したいです」
二階堂氏とモネが互いに顔を見合わせた。シドが怒っていった。
「おい、チビ助――。何が狙いだ?」
「心配するなよ……。どうせこの事件は、他人に嫌疑をかけないようにわざわざ用意周到に密室を作り上げてから実行された、愚かなクリンによる犯行か――、足を滑らせて運悪く大理石に頭をぶつけて勝手に死んでしまった、間抜けなドク自身による事故か――、のいずれかに違いない。今、俺が調べたいのは全く別のことさ」と、ポチは無表情で答えた。
「別にかまいません。ポチ様が納得されたいことがあるのなら、いっしょに確認しておきましょう」と、二階堂氏は快く承諾した。
ポチ、シド、モネと、二階堂老人の四人が厨房に向かった。厨房に行くためには、一旦食堂にはいり、さらに食堂の西側にある扉をとおらなければならない。
厨房には、巨大な冷蔵庫と電子オーブンレンジに、本格調理用のガスコンロが数台用意されていて、ほかにもありとあらゆる調理器具が、全てそろっていた。
「まるで、一流レストランの調理場だな……」と、シドが感心しながら、冷蔵庫の扉をあけてみた。そこには七人の胃袋を優に三日は賄えそうな、様々な食材が詰め込まれていた。
「へー、モネちゃんって、結構、几帳面ですね。この林檎の皮、きれいにつながっているよ」
生ごみ入れに捨てられた林檎の皮を手にとって、ポチが感心していた。
「おい、チビ――。お前が調べたいことって、いったいなんだ」
いよいよ、シドは焦れてきた。それを無視してポチは、
「ふむ。捨てられた林檎の芯が八つということは……、ひとりで八個も林檎をむいたんだ、モネちゃんは。よく我慢できたね」と、モネをほめた。
「ええ。わたしって、いつもひとつのことに、つい夢中になってしまうの」
そういうと、モネは顔を赤らめた。
「おい、チビ。俺の話を聞いているのか」と、こらえきれずにシドが怒鳴った。
「ああ、わかったよ……。じいさん、さっきいっていたアスコルなんとかっていう溶液は、どこにあるの」
「アスコルビン酸ナトリウムですね。俗にいうビタミンCのことです。こちらの瓶にはいっています。わたくしどもはいつも林檎の酸化防止剤として利用しています」
老人は、ポチに透明な液体のはいった大きなガラス瓶を手渡した。
「へー、こんな溶液なんだ……」
ポチは興味深げに瓶をのぞき込み、蓋をあけてにおいを嗅ぐしぐさをした。
「おいおい、たったのそれだけかよ」
シドはがっかりした様子だ。
「おいおい、わかってないなあ。こいつは今回の事件の鍵を握る重要事項だぜ」
「ふん。まるで探偵気取りだな。ミステリーの読みすぎじゃないのか」と、シドがやり返した。
三人が、厨房から広間へと引き返していったが、ただひとり、ポチだけがこっそりと厨房に居残った。彼はきょろきょろと見まわして、周りに人がいないことを確認した。やがて、棚の上にあった空になった広口のガラス瓶を見つけると、彼はそれを手に取った。ふたをひねって瓶をあけると、彼はその中に、厨房にあったあるものを、注意深く挿入した。ふたをしっかりと閉めると、彼はガラス瓶をふところにしのばせた。誰からも見られていないことを再度確認したポチは、ほっとため息を吐いた。どうしても手に入れたかったものを、手に入れたのだ。ポチは白い歯を見せて笑った。
広間では、シドが大きく深呼吸をした。「もう、一時をまわっているのか? ところで二階堂さん、あなたは今晩どこで寝るのですか?」
「わたくしは、この部屋で……」と、老人が答えた。
「それじゃあ、邪魔しちゃいけないな。モネさんも、そろそろ部屋に引き上げましょうか」と、シドが提案した。
「あら、ポチさんが戻ってませんよ。まだ厨房にいるのかしら」
モネが心配すると、まもなくポチが広間にやってきた。
「お前、何していたんだ」
シドが怒っていった。
「うん。ちょっとね……。じゃあ、遅くなったし、そろそろ寝よっか」
そういうと、ポチはすたすたと自室に引きさがった。
「それでは、我々も」
二階堂氏ひとりを残して、シドとモネも広間をあとにした。
シドが泊まる月光の間の前で、メイド姿のモネが愛らしい笑顔をしながら、おやすみなさいと小声であいさつした。シドは軽く手を振って答えた。両手を前で組み背筋をピンと伸ばしながらエレベーターを待つモネの横姿は、清楚でとても美しかった……。
ベッドにはいったあとも、シドはなかなか寝つかれなかった。書斎の扉を破壊するために酷使した全身はズキズキ痛むし、不可解な謎に悩まされた脳みそは混乱を極めていた。密室だと思われた事件現場は、暗室の中にいたクリンの存在により、全くナンセンスなものとなった。
「あいつの所為で台無しだな……」
昔からシドは頭脳労働に憧れていた。警察がさじを投げてしまった難事件を解決する名探偵などは、まさにシドの究極の理想像でもあった。もしも今夜の書斎が完璧な密室であれば、その謎を解明することで、愛らしいモネの尊敬を得ることができたかもしれない。
それにしても、クリンとは実に不思議な男だ。わざわざ犯行現場を密室にしておいて、自分だけが現場に残るなんて、まともな頭脳の持ち主がすることではない。そもそも、クリンがドクを殺さなきゃならない動機なんて存在するのか。初対面の見ず知らずの人間を殺して、何か得があるのだろうか?
「何としても、その動機をこれからひねり出さなければならない」と、シドは心に誓った。
その時、近くの部屋で扉の閉まる音がした。方向から察するに、おそらくポチの火炎の間だ。こんな遅くにポチは部屋から出て、いったい何をしてきたのだろう?
シドはポチという男について考えてみた。絶えずシドの先まわりをしていると思い込んで、いつもしたり顔でいるポチ――。おそらく、俺のことは愚直な堅物だとでも思っているのだろう。シドの口もとがかすかに緩んだ。しかし、俺はやつが知る由のないある事実を知っている! そして、今夜の犯罪でそれが重要な役割を担っていたことも。
その後も、寝床の中でシドは、自身が抱える疑問の追及を行っていたが、やがて深い眠りへと落ちていった。