2.白雪邸
波止場では真っ白な髪と口ひげをはやしたタキシード姿の老紳士が立っていて一行を出迎えた。
「こびと島へようこそ。長い船旅で、みなさん、さぞかしお疲れのことでしょう」
真っ先に船から下りてきたのはチビであった。
「ひどい海だったよ。こんな船旅は二度とごめんだね」
「それは申し訳ありませんでした。
わたくしはみな様のお世話をさせていただきます二階堂です。どうぞよろしくお願いいたします」と、老紳士が丁重に頭を下げた。
「失礼ですが、ゲームでのお名前をお伺いしたいのですが」
「ああ、俺? ポチ――」と、チビは素っ気なく返事した。
「ポチ様ですね。ではこのバッジをお召しください」
老紳士が差し出した右手にのっていたものは、『Pochi』と大きく書かれたネームプレートであった。
こんなダサいものを、と一瞬戸惑いの表情を見せたものの、チビはしぶしぶ渡された名札を左胸に取りつけた。
老紳士は、続いて下船した眼鏡をかけた来客に声をかけた。「お名前をお願いいたします」
「ええっ、本名を?」問いかけられたデブは真っ青になった。
「失礼いたしました。わたくしはゲームで使われているお名前を伺いたかっただけでして。ここではリアルのプライバシーを公開する必要は全くございません」
「ああ、そういうことですね。びっくりした。ぼくは、ドクです」
老紳士は、太った青年医師に『Doc』と書かれた名札を手渡した。
すると、ポチが突然くしゃみをした。
「なんか、鼻がむずむずするな」といって、ポチは右手の親指と人差し指で鼻を押さえた。
「シド『Sido』です。どうぞよろしく」と、最後に下船した筋肉質の男がいった。
乗客がひととおり下船し終わるのを見計らってから、船員の片方が老紳士に声をかけた。「それでは、二階堂さん。あさっての朝、ここにお迎えにあがればよいですね?」
「さようでございます。帰りは六名のお客様が乗船されますので、くれぐれもよろしくお願いします」と、老紳士が答えた。
その後、一行は老紳士を先頭にして、小高い丘の斜面に造られた九十九折りの白い石段を、ゆっくりとのぼっていった。丘のいただきには、まるでカリブ海にある白い教会を思わせるような優美な建造物がたっていた。
「あれが白雪邸です」
二階堂氏の説明に、すかさずドクが首をかしげた。
「雪? この近辺にも雪が降るのですか?」
「おっしゃるとおりですね。この島に雪は降りません。この建物は、もともと白砂邸と呼ばれていました。島の美しい砂浜にちなみましてです。しかし、この島を買いとられた時に、ユーノ様が白雪邸と改名されたのです。彼女はディズニーがたいそうお好きでして」
「なるほどね。どおりでディズニーのキャラクター像があちこちに置いてあるわけだ。くしゅん」と、ポチがまたくしゃみをした。
「ポチ様、お風邪を召されましたか」
「ううん、たぶん花粉症だろう。俺、ブタクサのアレルギーなんだ。くしゅん」
「おお、それは、それは――。早く邸内にまいりましょう」
たしかに、庭園の池のほとりや、小道の脇には、アリスやくまのプーさん、ミッキーやドナルドの彫像が点々と置かれていた。
急に、鉛色の空から小雨が落ちてきた。みながあわてて手渡された傘をさした。
「あいにくのお天気ですね。さあさあ、玄関まではもう一息ですよ」と、老紳士がみなにはっぱをかけた。
こびと島にひっそりたたずむ白雪邸は、直線を基調としたジャコビアン様式の二階建ての建造物で、その大きさは小学校の校舎を思わせるほどであった。建物を上空から望むとT字の形状になっていて、Tのたて棒の末端が玄関口となっている。
ようやく、長い丘を登り切ると、そこには自生の芝生が生い茂った美しい庭があった。芝生の地面から、十段ほどの大理石階段をのぼると、上は広いテラスになっていて、クラッシックな白いロッキングチェアがふたつ並んでいた。複雑な模様が刻まれた四本の円筒柱が、重厚な玄関口の屋根をがっしり支えていて、その奥には、葡萄の実と蔓の図柄のステンドグラスをはめ込んだ、荘厳な両開きの玄関ドアがあった。
邸内にはいると、三人の来客はさらに眼を丸くすることになる。玄関のホールは吹き抜け構造になっており、その天井は果てしなく高くなっていた。廊下の長い壁は純白で、床に敷かれた絨毯は薄桃色であった。薄暗い山吹色の照明がしっとりとした雰囲気を演出している。
一行は白雪邸のT字のたて棒を下から上に向かって進んでいった。この動きは、方位でみると北から南へと進んでいることになる。
両サイドの純白の壁には、レコードのLP版ジャケットが、まるで絵画のように額に入れて飾られていた。よく見ると、ビートルズの歴代アルバムが全て並んでおり、それ以外にも、ジョン・レノンやウィングス、メリー・ホプキンやビリー・プレストンなどの有名ミュージシャンたちのジャケットがところせましと陳列されていた。
「いまどき、LP版ですか」と、ドクが感心してうなずくと、
「はい、ユーノ様がここを買いとられる以前に見えたあるじ様のご趣味でございます」と、二階堂氏が説明した。
廊下の中央までやってくると、豪華な円筒形のシャンデリアが遥か頭上で煌びやかに輝いていた。そしてその真下には、ひとりの少女とそのまわりを無邪気に戯れるたくさんの小さなおとこたちの陶器の彫像が、陳列してあった。
『Schneewittchen und die sieben Zwerge』と文字が彫り込まれた真鍮板が、巨大な台座に貼ってあった。横文字をじっと見つめていたポチが、
「白雪姫と七人のこびと――、か?」と呟いた。
ひときわ目立つ白雪姫の像は、背丈が人間の子供とほぼ同じくらいあり、顔は極めて精巧につくられていた。西洋のアンティーク・ドールのような白い肌は、陶器という限定された素材にもかかわらず、息をのむほど見事なリアリティがあった。能面のような冷たい表情は、足もとで戯れるこびとたちを優しく慈しむというよりは、なんともいいようのない鮮烈な妖美さを、見るもの全員に誇示しるように思えた。
それとは対照的に、こびとたちは、銘々が無邪気で勝手気ままなかっこうをとっている。みな、鼻がぶざまに膨らんでいて、まるで宮廷に仕える道化のように、いやらしくにやけていた。白雪姫を崇拝するように見つめているもの、丸い鼻眼鏡をかけているもの、大きな耳でひとりだけあごひげを生やしていないもの、まつ毛が長いもの、ふてくされているもの、無気力な顔をしているもの、鼻が赤くはれ上がっているもの、がいた。それらは、およそ愛らしい天使という感じはしなかった。どちらかといえば、鉤つき尻尾をはやした小悪魔というイメージのほうが、しっくりいった。
彫像の脇を擦りぬけると、すぐ廊下はつきあたりになっていて、そこからT字の横棒に相当する長い廊下が、東西両方向にのびている。つきあたり三叉路の真正面には、大広間と呼ばれる大きな部屋への扉があった。
のちになされた二階堂氏の説明によれば、白雪邸のT字の横棒部分は二階建て構造になっていて、一階は、大広間を東西の中心として、そこから東に向かって順に、火炎の間、月光の間、太陽の間という三つの小部屋が並び、その先には二階へあがるためのエレベーターがある。大広間から西側の方向には、清流の間と呼ばれる小部屋があり、その先は食堂となっていた。
二階堂氏がコホンとひとつ咳をした。
「みな様の宿泊されるお部屋をお伝えいたします。ええと、ドク様は太陽の間、シド様は月光の間、そしてポチ様は火炎の間にお泊りいただきます」
それを聞いたポチは「ええっ、そんな居心地悪そうな部屋はごめんだよ」と、なさけない声を発した。
「これは失礼いたしました。たまたまお部屋の名前がそうなっているだけで、中のつくりはどの部屋も同じでございますよ」
老紳士がにっこりとほほえむと、ポチは無邪気に安堵のそぶりを見せた。
「それから、白雪邸の正面玄関のドアですが、夜の八時から朝の五時までは自動で鍵がロックされるように安全システムがセットされておりますので、夜間に建物からは外出されないようご注意お願いいたします」
うしろから巨漢のシドが「ほかに宿泊客はいますか」と、手をあげた。
「はい、みな様のご到着前に、すでに三名のお客様が見えておりますよ。『永遠の剣』で使用されているお名前は、モネ『Mone』様、ココ『Coco』様、それにクリン『Kurin』様の三人です」
「ああ、クリンも来ているのか。あいつの素顔はいったいどんなやつだろう?」ポチがボソッと呟いた。
「その方々が泊まっている部屋は」と、こんどはシドが問いかけた。
「ええと、ココ様は清流の間、クリンさんが森林の間で、モネ様が黄金の間にお泊りですね」
「なるほどね。部屋の呼び名が曜日に対応しているのか。じゃあ、このほかに泥の間なんて部屋が、きっとあるのだね?」と、ポチが得意げな顔で指摘した。
「はい、泥の間ではございませんが、大地の間というお部屋がございます。ご予定ではスカル『Skull』様がそこにお泊りされるはずでしたが、どうも用事で来られなくなったみたいですね」
すると突然、ドクがうなるような声で叫んだ。
「なんだって、スカルが来ない? そ、そんな、ばかな……」
みなが一斉に振り向いた。それに気づいたドクは、きまり悪そうに下をうつむいた。
「ユーノさんは……」と、心配そうな顔をして、シドが訊ねた。
「ユーノ様は、本日の夕刻に到着予定でございます。どうしても片づけなければならない急な用事が生じたらしく、少々遅くなるようです」
二階堂氏の答えにシドはホッとした表情を見せた。
「荷物をご自分のお部屋に運ばれたら、広間にお集まりください。すでにお泊りのお友だちがお待ちですから。それから、申し訳ありませんが、それぞれのお部屋の扉にはチェーンロックしか取りつけられておりません。貴重品の管理は各部屋に置かれている小型金庫を利用してください」
「戸じまりがチェーンロックだけとは、いささか不用心ですね」と、ドクが指摘すると、
「申し訳ありません。白雪邸はもともと宿泊目的でつくられてはいないので、白雪の間と書斎をのぞいた部屋には、鍵の類は何も設置されていなかったのです。ただ、ときどき見えるお客様のご要望もありまして、最低限の設備をあとからつけさせていただきました」
それを聞いたシドが、「そんなのどうでもいいよ。ここの泊り客に、もの盗りをする悪いやつなんかいないさ」と、楽観的に断言した。
ポチ、シド、ドクの三人は、銘々の宿泊部屋にわかれていった。
シドの宿泊部屋は月光の間だ。ドアノブをひねると、扉は容易にあいた。二階堂老人がいっていたように、チェーンロックが装着されているだけで、扉に鍵穴はなかった。そこは心地よい広さのワンルームであった。はいってすぐ左手には、トイレつきのユニットバスがあった。そのほかには、ベッドと木製の荷棚くらいしかめぼしい家具は見あたらず、テレビやラジオなどの娯楽機器類は何もなかった。ベッドの脇には聖書が置かれ、さながらホテルのシングルルームのようであった。二階堂氏の説明にあった小型金庫もすぐに見つかった。シドは財布と身分証明書、カード入れやキーホルダーなどのひととおりの貴重品を入れて、金庫の鍵をしめた。鍵には長さが十センチほどの棒状の透明なプラスティック片がついており、『月光』と文字が彫られていた。
部屋の南側に大きな窓があった。あけてみると、広大な芝生の丘の向こうに、荒れ狂う海と白い砂浜が見えた。ここは一階なのだが、それでも窓の下の舗装された地面まではかなりの高低差があって、気楽にとびおりてやろうなどという気は、さすがに起こらなかった。天気がよければ、さぞかし壮大な景観なのだろうな、とシドは小声で呟いた。
広間に行く前に、邸内を探索してみたくなった。シドは月光の間を出ると、広間とは反対の東側に向かって、廊下を歩き出した。
月光の間の東どなりは、ドクが泊まる太陽の間だ。扉の構造から察するに、太陽の間もシドの月光の間と全く同じ造りであろうと推測される。さらに先に進むと、エレベーターがあって、すぐに廊下はつきあたりになる。そこには、非常口と表示されたドアがあった。シドはドアに手をかけてみた。するとドアは簡単にあいた。
風がビュッと吹き込んできたので、シドはあわててそとに出ると、急いでドアを閉めた。
ドアのそとには避難用に設置された鉄筋の非常階段があった。どうやらそれは二階へと通じているらしいのだが、階段は三度にもわたって折れ曲がっていて、通常の建造物における二階へあがる階段と比べてみても、それは遥かに長いものであった。
「白雪邸の天井の高さは、異常だからな」と、シドはひとりで納得した。
もう確認することは済んだということで、邸内へ戻ろうと、シドはドアノブに手をかけたが、ノブは全く動かなかった。一瞬、困惑したが、シドはすぐに状況を察した。この非常口のドアは、建物の中からであれば、ノブはまわせて開閉が自由にできるのだが、そとからはノブがまわせない構造となっている。いわゆる、一方通行のドアなのだ。
そのまま非常階段をのぼると、予想どおり二階にも同じように非常用のドアがあったのだが、案の定、このドアノブもそとからはまわすことができなかった。仕方なく、シドはふたたび階段を下までおりた。
相変わらず、そとは低気圧による暴風がびゅうびゅうと吹き荒れている。
一階の非常ドアの前に戻ってきた時、シドは足元に落ちているある物体に気づいた。掌に拾いあげてそれを確認すると、それがなんのためにそこにあったのかを、シドは察することができた。満足したシドは、落ちていた所にその物体をもとどおりに置いた。
庭から眺めて初めてわかったことだが、白雪邸の廊下の窓は、たとえ一階とはいえ、地面からは遥か上方にあり、仮に窓があいていたとしても、よほど優秀なロッククライマーでもなければ、窓から邸内に忍び込むことはできそうもなかった。結局、シドには庭を横断して正面玄関まで歩くことしか、邸内に戻る方法は残っていなかった。
中庭にはクリーム色をした巨大な貯水タンクがふたつあり、さらにボイラー室と表札に書かれたコンクリートの四角い平屋があった。それらを横目に足早に歩き続けると、ようやくのことで玄関までたどり着いた。
邸内にはいって、シドはまず強風で乱れた頭髪を手ぐしでなおした。白雪姫とこびとの彫像の前までやって来ると、二階堂老人が熱心に彫像を拭いていた。
「すみません、二階堂さん」
「なんでしょう」
「白雪邸の非常口ですが……」
「ああ、ご注意ください。うっかり出てしまうと、中に戻れなくなってしまいますよ」
「そのようですね。今、さっそく、締め出されてきました」と、シドは頭を掻いた。
「それは、それは、真に申し訳ありませんでした」
「ところで、二階堂さん。この建物の出入り口って、全部でいくつあるのですか?」
「ええと、正面の玄関のほかには、一階と二階の廊下の東端と西端それぞれに合計四つの非常口がございます。非常口はいずれも、中からそとには出られますが、そとから中へはいることはできなくなっております」
「わかりました。どうも、ありがとう」礼をいって、シドは二階堂氏と別れた。
しかし、大広間の前に来ると、たまたまそこをぶらついていたポチに発見されてしまった。
「やあ、マッチョのおじさん、何をしてたんだい。もうみんな、広間で待っているよ」
こうなるとさすがに逃げようがない。シドは探索を断念して、ポチのあとをすごすごとついていった。