10.ドクという人物
ココは、首をうなだれたまま、黙っていた。見かねてシドが、恭助に詰め寄った。
「おい、チビ、現実の世界だったらクリンとスカルが同一人物であったとしても、問題はない。スカルは、結局、最後まで姿を見せなかったからな。しかし、『永遠の剣』の中では、クリンとスカルは、全くの別人だぞ?」
「クリンは、ゲームのアカウントをふたつ申請していたんだ。ひとつはクリンとして、そしてもうひとつはスカルとしてだ。ゲームの中では双方のアカウントを同時に立ち上げて、それぞれの会話のタイピングを交互に行って、あたかも別人であるかのように振る舞っていたのさ。タイピングがすこしだけ遅いふりをしていれば、ゲームをしている他人からは、ふたりは別人のように思われる。さらに、クリンは鍛冶屋で、スカルはトレジャーハンターだ。危険地帯でふたりがいっしょにいることは、まずあり得ない。せいぜい、安全な街なかで、世間ばなしレベルの会話をするだけだ。十分に、ひとり二役は可能だと思うよ」
「だとしてもだ。クリンは、どうやってドクの診療所にあったマル秘データを持ち去ったんだ? 三重県にいる人間が、横浜市の診療所にあるデータをくすねるなんて、どう考えても不可能だよ」
「ふふっ。三重県と神奈川県に住んでいるあかの他人同士をつなぐものといったら?」
「インターネット……」
「ご名答! いつかネット上で話題になった、『永遠の剣』のバグ問題を覚えているかい」
「覚えているけど……、正直いって俺にはよくわからない事件だったな。なんでも、ゲームをしているうちに、相手のパソコンに侵入できてしまう危険があるから、そのバグを取り除くメインテナンスのために、三日くらいゲームができなくなったことだろ」
「そうだね。じゃあ、そのバグを利用して、クリンがドクの診療所のマル秘データを奪っていたとしたら」
「そ、そんなことができるのか」
「あの時、問題となったバグは、具体的にいえば、ゲームの最中にトレーディング・モードを立ち上げたふたりの間で、意図的にある操作を行うと、相手側のパソコンのディレクトリーがのぞけてしまう、というものだった。普段ならば、いくらパソコンがインターネットでつながっていても、途中でいくつかの関所が設けられているので、相手のパソコンの中まではのぞくことができない。しかし、『永遠の剣』で遊んでいるうちに、クリンは、トレーディング・モードを利用して他人のパソコンに侵入できるという、とんでもないバグの存在に気がついた。こいつは使い方によっては、とてつもない富を生み出すものだ。クリンは、歓喜のあまり飛び跳ねたことだろうね。しかも、鍛冶屋という職業柄、クリンはトレーディング・モードをしばらく開きっぱなしにしておいても、相手から怪しまれることがない。トレーディング・モードを利用しながら、クリンはひそかに俺たちひとりひとりのパソコンをのぞき込んで、何か有益な情報がないかどうかを、あさっていたのさ」
「そんな……。気持ち悪い」と、モネがこぼした。
「モネちゃんがゲームの中でクリンと知り合っていたら、やつの格好の餌食になっていたかもしれないね」と、恭助が苦笑いした。
「そうこうするうちに、クリンはドクのパソコンに侵入した。お坊ちゃま医師のドク――。昼間、診療所のデータを管理していた職場のパソコンを、夜になると、ちゃっかりとゲーム機として無断で使用していたんだな。でもそれは、とてもおろかで危険きわまる行為だった。
ドクのパソコンに侵入したクリンは、診療所の患者の個人情報という、マル秘中のマル秘データを発見した。そのデータを奪い去るのは、ドラッグ・アンド・ドロップで一瞬のことだった。まんまと個人情報をくすねたクリンは、こんどはドクをゆすりにかかる。
なにしろ、このデータをネット上で公開すれば、診療所の患者の秘密が、全国に流出してしまう。下手すると、診療所自体が訴訟問題でつぶされてしまいかねないほどの、プラチナデータだ。しかも、それを奪われた原因が、婿である若い医師が、オンラインゲームに興じていたことが発端だったと判明すれば、義理の両親が、娘との養子縁組を破棄して、ドクを追放してしまうことだって、十分にありうる。せっかく掴み取った開業医という順風満帆の人生も、これでご破算だ。ドクも、気が気ではなかったことだろうね」
「それで、ドクはクリンに会いに、クリンはドクと取引するために、それぞれオフ会にやってきたというわけか……」
「おおっ。シドにしちゃ、上出来な推理だね。でも、ここで注意してほしいのは、ずるがしこいクリンは、さらに万全を期して、恐喝者である自分の正体はスカルである、と偽りの情報をドクに伝えておいたことだ。もちろん、クリンとスカルが同一人物であることも、伏せておいてだ。
だから、スカルがオフ会に参加しないと聞いた時のドクのあわてようは、とても尋常ではなかった。スカルに恐喝されていたのに、肝心の恐喝者がこの旅行に不在とはね。さぞかし、ドクは戸惑ったことだろう。
こうして、クリンはドクという人物を、じっくりと時間をかけて観察することができた。そして、昨晩、ドクが大広間から出たタイミングを見計らって、ドクを追いかけた。そこで、自分の正体がスカルであることも告げて、ふたりだけの会談に持ち込んだというわけだ。ココ姉、何か補足することはあるかい」
「お見事ね、坊や。あんたがこんな賢い探偵さんだったなんて、想定外だったわ」と、ココは悔しそうに奥歯をかみしめた。
「あんたは、どこまで事実を認識していたんだい」
「この会に参加しようといいだしたのは、彼よ。あたしは反対だった。別に面白いこともなさそうだし。でも須藤は、とてもおいしい話があるから、場合によっては協力してもらわなければならなくなる、といって、あたしを強引にこの旅行に引きずり込んだの。おいしい話が、まさか恐喝だったなんて、夢にも思わなかったわ」
「じゃあ。あんたは、クリンの目的をずっと知らなかった、と主張するんだね」
「そうよ。信じてもらえないかもしれないけどね。さあ、これであたしは知っていることをすべて話したわ。あたし、これだけは断言できる。絶対に、須藤の死は自殺ではないわ」
「そうはいっても、クリンが自殺でなければ、何者かに殺されたってことだろ? そうすると、ドクを殺した人物も、クリンではなかったということになる。そいつは無理だな」と、シドが反論した。
恭助が声高らかに宣言した。「俺も、ココ姉の意見に賛成だな。クリンは自殺じゃない。そして、ドクはクリンに殺されたのでも、ましてや、自殺や事故で死んだのでもない。ドクは……、真犯人によって殺害されたのさ」
そのひとことで、落雷をうけたかのように、そこにいる全員が硬直した。
「まさか? 何を理由に……」
かろうじてシドが、たどたどしい口調で問い返すと、
「香さ。書斎の事件現場に炊かれていた香――。真犯人は、密室を構成するために、どうしても香を炊かなければならなかったんだ」
「香で密室がつくれるだって? 面白いな。ぜひ、ご説明願いたいものだね」
そういって、シドは唇をぐっとかみしめた。
「それじゃあ、まずは、書斎で会談をしていたクリンとドクのあいだに、何が起こったかを考えてみよう。クリンは、まんまとドクを書斎に連れ込み、ふたりきりになることに成功した。一見すると、クリンの計画は、順風満帆に進行していたように思えた。ところが、すでにクリンの思惑を外す出来事が、起こっていた。ドクが、単なる甘ちゃんじゃなかったということさ」
「それは、どういうことだ」シドが首をかしげた。
「ドクは、黙って金を差し出すよりも、力ずくでクリンからデータを奪い返すことを、選択した。クリンに、しびれ薬を仕込んで眠らせてから、データを探そうとしたのさ。この島でデータを隠し持つとすれば、どうせ、ありそうな場所は限定される。クリン自身が身に着けているか、クリンの部屋の金庫の中だ。さらに、その金庫の鍵は、おそらくクリンが身に着けている。こうして、推測どおりに、クリンの隠し持っていたメモリースティックを、ドクは見つけ出したんだ」
「かなり大胆な推理だな。何か根拠でもあるのか」
「これさ。クリンの部屋のくずかごに捨てられていたものだ」
そういうと、恭助はポケットから、くしゃくしゃに丸められたセロハン紙の固まりを取り出して、テーブルの上にそっと置いた。広げてみると、それは何かの処方薬の袋で、一服分の袋が全部で三つ、いっしょになって丸められてあった。いずれの袋も、中身は空だったが、ほんの少量の白い粉がわずかに残っていた。
「中身を分析すればすぐ判明するが、おそらく、これはバルビツール酸系の睡眠薬。即効性が高くて、効果が強烈な劇薬だ。明らかに、クリンが書斎で飲まされたものだ。
それでは、なぜその薬の包装紙が、クリンの部屋から見つかったのか。答えは簡単だ。クリンの部屋に、ドクが侵入して、薬包紙を捨てていったからだ。ドクの計略は、クリンに寝てもらっているあいだに、クリンの持ち物からマル秘データを奪い取ることだった。そして、ドクはあっさりと、その目的を果たした。この部屋の金庫から、メモリースティックを発見したんだ。安心したドクは、ポケットの中にあった薬包紙を、何気なく、ここに捨てた。奪うべきものを手に入れたドクにとっては、薬包紙が見つかっても、なんら困ることはないからね。さらに、ここで捨てられた薬包紙は、三服分あったことに注意してもらいたい。明らかに、基準値を超えた量を一気に使用したことになる。これは、ドクの狙いを考慮すれば、理解できる。クリンにハイボールを数口飲ませるだけで効果を出してもらわなければならない睡眠薬。当然、三袋くらい仕込まないと、目的は達成できないだろう。逆にいえば、この三つの袋こそが、ドクの不埒な計略とクリンの恐喝を支持する状況証拠なのさ」
「まあ、なんて恐ろしい……」と、モネがこぼした。
恭助はニコッとほほえむと、さらに説明を続けた。
「しかし、さらにドクは策をめぐらせた。首尾よくファイルを奪い取ったものの、クリンがデータをバックアップしていれば、今回の強奪も意味がなくなってしまう。もしそうであれば、未来永劫、自分はこの男にゆすられ続けなければならない。眼には眼を。クリンの恐喝から逃れるためには、クリンの弱みを逆に手に入れなければならない」
「弱みといっても、そう簡単に見つかるのかなあ。互いに初対面なんだろう」と、シドがいった。
「そのとおり。弱みなんて、探そうにも探しようがない。となれば、つくるしかない。そこで、ドクはモネちゃんに眼をつけた。ドクは、モネちゃんを書斎に来させるように、じいさんに内線電話で指示を出した」
「おい、まさか……」
「頭に血が上ったドクは、すでに常軌を逸していた。書斎の電気を消して、中を真っ暗にして、モネちゃんがやってくるのを、アリジゴクのように待っていた。そうとは知らないモネちゃんは書斎の扉をあけて、中にはいる。さてと、そのあとで何が起こったのかは、モネちゃん本人に説明してもらおうか」と、恭助はモネを直接名指しした。
「ええっ、わたし?」
「おい、残酷なこというなよ。かわいそうじゃないか」
「モネちゃん――、ふたりの人が死んでいるんだ。そして、クリンは犯人にされようとしている。もう、そろそろ、本当のことを話してくれてもいいんじゃないのかな」
モネは観念したようだった。「わかりました。すべてをお話しいたします」
「モネさん。こいつの口車にのる必要はない。黙っていてもいいんだぞ」と、シドが必死にくいさがったが、モネは首をよこに振った。
「もう、いいんです。わたし、クリンさんをおとし入れるつもりなんて、みじんもなかったのです」というと、モネは両手で顔をおおった。
「みなさんには、本当にご迷惑をおかけしました。わたしが、ドクさんを突き飛ばして、殺してしまったのです!」