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処刑エンドの悪役皇子に転生したので経費を削減していたら、黒幕と恐れられました

作者: 宇多川マチ
掲載日:2026/07/17

 処刑台の夢を見た。


 星一つ見えない夜。燃える松明が、灰色の広場の濡れた石畳を照らす。突きつけられる罪状は「浪費および軍費横領」。ギロチンの刃が落ちる寸前、群衆の中で誰かが笑った。


 そこで目が覚めた。天蓋つきの寝台。銀糸の寝衣。見覚えのない、白い手。


 知らないはずの名前が、喉の奥まで上がってきた。

 ヴィルヘルム。ヴェルグガルド帝国第三皇子、十七歳。


 前世でやり込んだ暗いRPG『プラチナ・レガリア』の冒頭には、帝国皇族の一覧が出る。そこに「第三皇子ヴィルヘルム(17)」とだけ載っていた。今の僕と同じ名前、同じ年齢だ。


 ヴィルヘルムが次に画面へ出るのは、第三章の始まりだ。黒い画面に「三年後」と字幕が出て、処刑台のムービーが始まる。今の僕が十七歳なら、そこまであと三年。二十歳になった「浪費癖の引き籠り皇子」は、母と妹もろとも処刑される。中ボスですらない。


 そして前世の僕は、子会社監査ばかり回される経理屋だった。年度末の修羅場で倒れて、気づいたらここにいる。


「今から三年後に処刑、か」


 寝台の上で、僕はまず深呼吸をひとつした。パニックは監査の敵である。前世で三十年、数字と向き合って学んだことがあるとすれば、こうだ。


 どんな破滅にも、必ず帳簿上の予兆がある。


「帳簿を持ってきてもらえますか。ここ三年分、全部」


 侍従長が「はっ?」という顔をした。無理もない。昨日までの僕は、帳簿という単語すら知らなそうな引き籠りだったのだから。


     ◇ ◇ ◇


 三日かけて第三皇子宮の帳簿を精査した結果、僕は頭を抱えた。


 請求書、納品記録、支払証書を日付順に並べ、同じ商会名に印をつける。実物のある支出と、紙の上にしかない支出を分けるだけで、嘘はかなり浮く。


 ひどい。何もかもひどい。


 花瓶の定期購入(月十二本。誰が使うんだ)。夜会用衣装の仕立て(着ていない。僕は引き籠りだ)。厨房の食材発注は相見積もりなし、燭台の蠟燭は最高級品を毎日総取り替え。極めつけは「趣味娯楽費」という科目に、僕の記憶にない支出が毎月ごっそり計上されている。


 一方で、母上の薬湯代は「予算不足」で二度差し戻されていた。


 ……なるほど。腹が立ってきた。


 これが「浪費癖の皇子」の実態か。周りが勝手に使って、僕の名前で計上していただけじゃないか。


「よし。全部止めます」

 僕は第三皇子宮の使用人を集めて、宣言した。


「本日より、第三皇子宮の支出を見直します。花瓶の定期購入は廃止。衣装の新調は年二回まで。食材の購入は三者以上の相見積もりを必ず取ること。蠟燭は燃え残りを計量して使い切ってください。あと『趣味娯楽費』、この科目は今日で廃止です」


 使用人たちがざわめいた。古株の家令が青い顔で進み出た。


「殿下、それでは、我ら使用人も減らされるのでは……」

「解雇はしません」


 これは即答した。前世でリストラの実務をやらされた人間として、あれだけは二度とやりたくない。それにゲーム知識のうえでも、恨みを買った使用人の証言が処刑裁判の決め手になる。怖い伏線は、早めに折るに限る。


「配置転換です。花瓶担当だった者は納品記録の清書を。衣装係は繕い物と古着の払い下げ管理を。あなた達の仕事は減らしません、減らすのは無駄だけです。皆さんの給金は、無駄を削った分から少し上げます」


 返事はなかった。使用人たちは顔を見合わせ、それから全員が、なぜか一斉に僕から半歩下がった。


 やがて家令が、震える声で言った。

「殿下は、すべて、ご存知だったのですね」

「え? まあ、帳簿を見れば分かりますよ」

「帳簿を見れば分かる?」

 家令は目頭を押さえた。

「なんと恐ろしい」


 いや、恐ろしくはないだろう。経理の基本だ。


     ◇ ◇ ◇


【使用人たちの噂話】


「聞いたか? 殿下は第三皇子宮の帳簿を三日で読み切っちまったらしい」

「花瓶の水増し請求、去年の分まで言い当てられたって、商人が真っ青になってたぞ」

「解雇はしない、給金は上げる、ただし嘘の数字は一つも見逃さない」

「あのお方は全てお見通しじゃ。情けない引き籠りは、世を欺く仮の姿よ」

「恐ろしい。だが悪いお方ではない。むしろ嘘さえつかなければ、前より暮らしやすい」


     ◇ ◇ ◇


 さて、浪費フラグは折った。次は本命、「軍費横領」の濡れ衣だ。


 帳簿の精査で、既に見当はついていた。月別に合計し、商会別に並べ替え、端数だけ別紙に抜き出す。すると、第三皇子宮の「趣味娯楽費」から、毎月同じ日に金が消えていた。帳簿上は複数の商会を経由していて行き先が見えない。だが請求額の末尾だけが、どれも不自然に「七」でそろっていた。


 経理屋は知っている。数字の丸め方には、人の癖が出ることを。


 同じ「七」の癖を、僕は皇族にも閲覧が許される予算抄本で発見した。軍需調達費だ。大口の軍需調達なら端数など出にくいはずなのに、毎月の請求額が七で終わっている。誰かが第三皇子宮の金を吸い上げて軍需商会の水増し請求に混ぜ、その帳尻を「第三皇子の浪費」で誤魔化している。三年後、これが「軍費横領」として僕に着せられるわけだ。


 書き写した数字の列を眺めているうち、指先が冷たくなっていることに気づいた。


 相手は三年という歳月をかけて、皇子ひとりを合法的に殺す帳簿を組める人間だ。前世の粉飾決算でも、ここまで手際がいい帳簿は見たことがない。負ければ死ぬ。母上の薬湯の匂いと、エリーゼが蜂蜜菓子を両手で隠す癖が、いっぺんに脳裏に浮かんだ。負けて死ぬのは、僕だけじゃない。


 落ち着け。パニックは監査の敵だ。


 僕のやることは変わらない。証拠を揃えて、静かに、合法的に、金の流れを一本ずつ断つ。派手な告発はしない。裁判で勝てる帳簿だけが、僕たちを守るのだ。


 まず、第三皇子宮の支払いをすべて記名式の支払証書に変えた。引き出した者が記録に残るようにしたのだ。証書には通し番号を振り、欠番が出たら侍従長の印なしでは再発行できないようにした。次に、経由地になっていた商会との取引を、「相見積もりの結果」という中立の立場で打ち切った。最後に、僕の印章を新調して、旧印章の使用停止を宮内会計課へ届け出た。


 全部、ただの経費削減と経理実務である。

 そのはずだったのだが。


     ◇ ◇ ◇


【某伯爵から某侯爵への書簡】


『例の第三皇子、ただの引き籠りではないぞ。奴が「取引を見直した」商会が、立て続けに三つ潰れた。いずれも例の筋の金庫番だった商会だ。おまけに印章の切り替えで、裏帳簿の仕込みが紙屑になった。あの若さで、剣も魔法も使わず、書類だけで派閥の資金網を三つ切った。恐るべきは第三皇子。あれは帝国の金脈を、裏から牛耳るつもりだ』


     ◇ ◇ ◇


 おかしい。ただ経費を削減しただけなのに、宮廷の空気が変わった。


 廊下ですれ違う貴族が、僕を見ると壁際に避けて最敬礼をする。夜会の招待状が急に増えた(全部欠席した。引き籠りなので)。第一皇子派と第二皇子派の両方から、それぞれ「お茶会」の誘いまで来た。


 これは馬鹿でもわかる。踏み絵だ。どちらに付いても、三年後の処刑ルートで「政争に加担した」の一行が増えるだけだ。なので、僕は両方に同じ返事を書いた。


『予算の中立性を守る立場ゆえ、いずれの会にも出席いたしかねます。ヴィルヘルム』


 我ながら完璧に事務的な文面だった。経理は派閥に属さない。それだけの意味だった。


 翌週、宮廷はこの返事の解釈で持ちきりになったらしい。


「両派閥に対し同文・同日・同時刻の返書。『どちらの派閥も俺の掌の上』という宣言だ」

「第三極の樹立か?」

「いや、あの方はもっと上を見ておられる。『予算の中立性』とは、どちらにも与しないという意味ではない。帝国の金庫そのものを握るという宣言だ」


 見ていない見てない。僕が見ているのは帳簿と母上の薬代と、エリーゼのお菓子代だけだ。


     ◇ ◇ ◇


 極めつけは、皇帝陛下である父上からの呼び出しだった。


 呼び出された場所は玉座の間ではなく、書庫だった。人払いをした薄暗い部屋で、帝国でいちばん偉い人間は、その息子をじっと見下ろして言った。


「ヴィルヘルム。お前は何を企んでいる?」

「第三皇子宮の経費削減です」

「余の前でも、ただの節約だと言い張るか?」

「はい。ただ、その途中で妙な数字を見つけました」

 僕は持参した写しを差し出した。


「陛下、帝国の軍需調達費に、末尾が七でそろう不自然な請求が毎月あります。誰かが数字をわざと切り上げ、差額を抜いているのです。第三皇子宮から消えていた金にも、同じ末尾の癖がありました」

「だからなんだと言うのだ?」

「僕が企んでいることがあるとすれば、それはこの癖の主より長生きすることだけです」


 父上は写しを長いこと眺めていた。それから、初めて聞く種類の声で笑った。


「自分の皇子宮の帳簿から、軍需費の穴まで嗅ぎ当てた者はお前が初めてだ。余は今、息子より帳簿が怖くなった」

「帳簿は怖くありません。怖いのは、嘘をついた数字です」

「そういうところだ」

「どのあたりでしょうか」

「父を前にして、軍費横領より端数の癖を気にしているところだよ」


 違うのだが。


 いや、少しだけ合っているかもしれない。


 結局その日、僕は「帝室会計の公式な相談役」という、引き籠りには最悪の肩書きを頂戴して書庫を出た。おまけに翌朝から、監視だか護衛だか分からない生真面目な女騎士が一名、第三皇子宮の書庫前に立つようになった。エスメラルダと名乗ったその人は、僕が帳簿をめくるのを、燃えるような目で観察している。なんなんだ、一体。


「殿下。本日のご予定は?」

「今日は経費の締め日です。引き籠って帳簿をつけます」

「また、何かを企んでおられるのですね」

「いや、だから、経費の締め日です」


     ◇ ◇ ◇


 夜。母上の薬湯の匂いがまだ袖に残っているころ、妹のエリーゼが僕の部屋に忍び込んできて言った。


「お兄さまがこわいひとになったって、みんな言ってる」

「怖くないよ。ほら、浮いたお金で買った蜂蜜菓子」

「わぁい。あのね、エリーゼ知ってるよ。お兄さまは、こわいひとじゃなくて、けちなひと」

「節約家と言いなさい」


 妹を寝かしつけて、僕は一人、帳簿の最終頁を開く。


 処刑ルートの入り口は塞ぎつつある。浪費の実態は消した。横領の経路も半分断った。あとは端数「七」の癖の主を突き止めれば、母上と妹と三人、静かに引き籠って暮らせるはずだ。


 そう思いながら頁をめくった僕は、手を止めた。

 最新の帳簿の末尾。昨日付けの支出承認欄に、僕の新しい印章が捺してあった。気品ある獅子を模した印章だ。


 僕はまだ、この印章を一度も使っていない。登録前の確認として、新印章の登録用図案を宮内会計課、宰相府、軍需局へ一通ずつ回しただけだ。完成した印章を正式な印影として届けたことは、まだない。


「なるほど。向こうも、経理ができるわけだ」


 こちとら前世だけで経理歴三十年。数字の嘘は、だいたい数字が暴く。

 僕は引き出しの奥から控え台帳を取り出し、三通の控え図案を机に並べた。


「殿下」


 書庫の扉の前に立っていたエスメラルダが、低い声で呼んだ。


「その図案を、なぜ三種類に分けておられるのですか?」

「偽印章の元になった図案がどこから漏れたか、獅子が教えてくれるからです」

「獅子が?」


 エスメラルダは首を傾げた。僕を探るようだった視線が、ふと手元で止まった。


「殿下、手が」

「え?」

「震えています」


 僕は慌ててペンを置いた。インクが、摘要欄の端に小さな黒い池を作っていた。


 情けない。数字を追っている間は平気なつもりだった。だが偽印章を見た瞬間から、処刑台の夢がやけに近い。落ちてくる刃の音を、耳が勝手に思い出す。


「怖いですよ」

 言ってから、しまったと思った。監視役に弱音を吐いてどうする。だがエスメラルダは笑わなかった。


「では、私が見張ります」

「監視役ですからね」

「いいえ、違います」


 彼女は腰の剣に手を添えた。儀礼の動きではなかった。


「今夜からは、護衛として殿下を見張ります。陛下の命令ではありません。私の勝手です」

「……僕が本当に横領犯だったら?」

「その時は、私が最初に捕らえます」

「厳しい」

「ですが、殿下が怖がっているのは罪が露見することではありません。誰かに罪を着せられることです」

「どうして分かるんですか?」

「本当に横領した者なら、今ここで証拠を増やしません。三部署の控えを分け、台帳に残し、監視役の私にそれを見せるなど、逃げ道を自分で塞ぐだけです」


 信じる、とは彼女は言わなかった。だが彼女が見張ってくれたおかげで、その夜の僕の手の震えは、少しだけましになった。


     ◇ ◇ ◇


 三日後、父上の前で問題の支出を調べる会議が開かれた。御前会計検分、というらしい。


 議題は、僕の新印章が捺された軍需局への臨時支出についてだった。これがこのまま通れば、僕が横領犯にされる帳簿だ。


 呼び出されたというよりは、こちらから開かせたに近い。偽印章の疑いがある支出を、「確認が必要な支出」として宮内会計課へ回しておいたのだ。宰相府が揉み消すにせよ、僕を犯人に仕立てるにせよ、父上の前で帳簿を開くしかなくなる。


 とはいえ、大理石の床に膝をついた瞬間、普通に胃が痛かった。転生して皇子になっても、偉い人だらけの会議室は苦手だ。広間の上座には父上。右手に宰相ワイドアウト。左手に第一皇子と第二皇子。壁際には、呼びつけられた軍需商人たちが青い顔で並んでいる。


 そして中央の卓上に、例の帳簿が置かれていた。


「第三皇子ヴィルヘルム殿下」


 宰相の背後から、痩せた会計官が進み出た。名をドルツという。宮内会計課の副官で、今回の支出を帳簿に清書した男だ。いつも指先に紙の粉をつけている。


「こちらの支出承認についてご説明を。軍需局への臨時支出、金貨七千七百七十七枚。殿下の新印章がございます」


 見事な七だらけだ。もう少し隠してほしい。

 父上が帳簿を見下ろしながら言った。


「ヴィルヘルム。お前が承認したのか」

「しておりません」

「お前の印章があるぞ」

「それは偽物です」


 広間がざわついた。

 ドルツ会計官が、わざとらしく目を伏せる。


「殿下。畏れながら、印章が偽物だとおっしゃるなら、それを証明なさいませんと。帳簿は、感情では覆りません」

「その通りです」


 僕はうなずいた。帳簿は感情では覆らない。だから好きだ。


「まず、帳簿どおりの品が納められたか確認します。納品物を拝見できますか」

「納品物?」

「金貨七千七百七十七枚で、何を買ったことになっているのか。帳簿には『北方軍冬営用外套、五百着』とありますが」


 壁際にいた軍需商人の肩がぴくりと跳ねたのを、僕は見逃さなかった。


 兵士が箱を運び込んだ。蓋が開かれる。中に詰められていたのは、外套とは名ばかりの薄い布だった。端がほつれ、染めむらがある。これでは冬営どころか秋の夜番にも耐えられないだろう。


 父上の眉が動いた。


「これを北方へ送るつもりだったのか?」

 誰も答えない。


 僕は一着を手に取り、襟の内側をめくった。小さな織り印がある。薔薇を抱いた鹿。劇場用の古布を扱う、南市の古物商の印だ。


「この布、先月まで夜会用の垂れ幕でした。第三皇子宮で衣装新調を年二回に減らした時、この薔薇鹿印の商会から『余った絹を買いませんか』と営業が来ました。見積もりが高かったので断りましたが」

 

 僕は粗末な布を手に、掘り起こした記憶を口にする。


「なぜそんなことを覚えている?」

 父上が言った。

「高かったので」

 僕は即答する。高い見積もりは忘れない。


 壁際の商人が膝から崩れた。額が床に当たり、ごつん、と鈍い音がした。広間にいた全員の視線が、その音へ集まる。


「も、申し訳ございません! ドルツ様に、帳簿上だけ通せばよいと言われたもので……」

 この場の空気に耐えられなかったのだろう。商人は両手をついて頭を下げた。白状してしまえば、罪が軽くなると踏んだのかもしれない。


「黙れ!」

 ドルツ会計官が叫んだ。紙の粉のついた指が震えている。


 僕はその指を見て、少しだけ息を吐いた。怖いのは僕だけではないらしい。

 ひとつ目は崩れた。帳簿に書かれた「冬営用外套」は、実物と合わなかった。


「次に、承認印です」

 僕は自分の懐から、小さな紙片を取り出した。新印章を作った職人の納品書だ。余白に、確認用の印影が押されている。


「僕の新印章には、獅子の尾の先に小さな欠けがあります。職人が仕上げの時に削り落としてしまったそうです。値引きしてもらいました」


 父上がかすかに目を細めた。

「値引き?」

「はい。作り直すと提案されましたが、使えなくはないので値引きの材料にしました」


 僕は卓上の帳簿を指した。

「僕が押した印なら、獅子の尾は欠けたまま写ります。ところが、この支出承認欄の印影では、尾が横へ細く伸びています。これは完成した印章ではなく、どこかへ提出された登録用の図案を見て作った偽印章です」


 ドルツ会計官の喉が鳴った。

「し、しかし、その登録用の図案は宰相府にも軍需局にも渡っているはず……」

「回しましたよ。宮内会計課と宰相府、軍需局へ一通ずつ。どこから漏れたか分かるように」

「は?」

「三通の違いは、控え台帳に残してあります。本物の印章は、職人が削り落としてしまったせいで、獅子の尾の先が欠けたままです。ですが三部署へ渡した図案では、その欠けた尾を少しだけ継ぎ足してあります。宮内会計課へ渡した図案では上へ。宰相府へ渡した図案では横へ。軍需局へ渡した図案では下へ」


 僕は帳簿の支出承認欄を父上の前へ滑らせた。小さな獅子の尾が、横へ細く伸びている。


「横へ伸びているのは、宰相府へ渡した図案だけです。この偽印章は、宰相府の図案を見て作られています。少なくとも、僕が完成品の印章で押したものではありません」


 広間の空気が固まった。

 ワイドアウト宰相の目だけが、細くなる。


「それが何だというのだ」

 ワイドアウト宰相の声は冷たい。


「宰相府の中に、偽造師へ図案を渡した者がいます。偽造師はそれが目印だと知らず、そのまま彫ったのでしょう」


 広間のざわめきが、今度は波になった。

 ドルツ会計官が一歩下がる。下がった先に、エスメラルダの剣の鞘があった。


「動くな」


 彼女の声は静かだった。

 ドルツは笑おうとした。だが、うまく笑えていない。


「わ、私は命じられただけです。数字を少し丸めろと。第三皇子の浪費に紛れさせれば、誰も」


 そこまで言って、彼は自分の口を押さえた。

 軍需費の水増しを、僕の浪費に紛れ込ませるつもりだった。ドルツは自分の口で、そこまで認めた。


 父上が立ち上がった。広間の全員が膝をつく。


「ドルツを拘束せよ。関わった商会は全契約停止。納入済みの代金は回収し、北方軍には帝室予備費より即日、正規品を送れ!」


「陛下」

 僕は思わず顔を上げた。

「正規品は予備費からではなく、今年度の夜会費から回すべきかと。予備費を使うと、来月の薬草備蓄に響きます」


 父上は僕を見た。怒られるかと思った。

 だが、父上は口の端を少しだけ上げた。


「聞いたか、ワイドアウト。こやつは自分の疑いが晴れた直後に、余の予備費まで気にかけよる」

「まこと、恐るべきご慧眼にございます」


 ワイドアウト宰相が深く頭を下げた。だが、その顔色はうかがえなかった。

 僕は見えない顔より、見えている数字の方を信じることにした。


     ◇ ◇ ◇


【御前会計検分後の宮廷噂話】


「聞いたか、御前会計検分での第三皇子殿下の立ち振る舞い」

「ああ。自分の偽印章すら餌にして、宰相府の内通者を釣り上げたらしいな」

「図案を三通に分けていたらしい。上、横、下だと」

「恐ろしいお方だ。これでは、どちらが黒幕かわからんな」

「だが北方軍の外套代は出たらしいぞ。夜会費を削って」

「恐ろしい……。だが、兵にはありがたいな」

「あの方がいると、無駄遣いがなくなるな」


     ◇ ◇ ◇


 御前会計検分の後、僕は彼女を第三皇子宮の中庭に呼び出した。経費削減のため庭師の剪定回数を減らしたせいで、薔薇が少し勝手な方向に伸びている。一本だけ袖に引っかかったので、僕はそっと外した。使用人らは困った顔をするが、僕は嫌いではない。花は多少、好きな方に咲いた方が花らしい。


「エスメラルダ」

「はい」

「さっきは助かりました。ドルツが逃げかけた時」

 エスメラルダは一度だけ瞬きをした。

「職務です」

「その職務も、今日で終わりですよね。僕の疑いは晴れましたし」

「はい。監視役としての任は、本日で解かれました」

「では」

「ですので、次は護衛としてお仕えしたいのです」

「は?」

「第三皇子殿下の護衛を志願しました。陛下には、すでに願い出ております」

「聞いていません」

「今、申し上げました」

 順序がおかしい。

「僕は引き籠りたいんですが」

「承知しております。引き籠るためには、その扉を守る門番が必要なのではありませんか?」


 何も言い返せなかった。正論ではない。だが、今日の広間での彼女の姿を思い出すと、拒む言葉が薄くなる。


「給金は高くありませんよ。経費削減中なので」

「構いません」

「危ないかもしれません」

「承知しています」

「僕は怖がりですよ」

「四六時中見張ります」

 重い。感情が少し重い。


 でも、悪くはなかった。


「では、契約書を作ります。勤務範囲、休暇、危険手当、あと雇用主への事前相談義務を」

「事前相談義務?」

「僕に確認する前に陛下へ願い出るのは順序がおかしいので」


 エスメラルダはしばらく黙った。剪定を減らした薔薇棚から、細い枝が通路にはみ出している。それが風に揺れて、彼女の肩当てをこつんと叩いた。

 それから、小さくうなずいた。


「努力します」


 そこは断言してほしい。


     ◇ ◇ ◇


 その夜、エリーゼがまた僕の部屋に忍び込んできた。


「お兄さま、今日はこわいひとに勝ったの?」

「勝ったというより、帳簿の間違いを直しただけだよ」

「じゃあ、お兄さまは、国の帳簿係になったの?」

「ならない」

 と、言った直後、侍従長が銀盆に辞令を載せて入ってきた。


 父上からだった。


 【第三皇子ヴィルヘルムを、新設の帝室会計監査局の臨時監督官に任ずる】


 僕は辞令を三回読んだ。三回読んでも内容は変わらなかった。


「お兄さま、出世?」

「違う。罠だ」

「わぁい、罠だあ」

 喜ぶな。

 辞令の下には、初仕事の帳簿が一冊添えられていた。陛下の印の横には、手続き上どうしても必要なワイドアウト宰相の副署。開くと、一行目の支出予定額が目に入る。


 金貨七万七千七百七十七枚。


 やっぱり七だ。


 僕は深く息を吸った。処刑台はまだ消えていない。


 僕は新しい台帳を開き、表紙に書いた。


 【帝室会計監査局・初年度予算案】


 その下に、少し迷ってから小さく付け足す。


 【ただし、僕の引き籠り時間を最優先とする】


 扉の向こうで咳払いが聞こえた。エスメラルダだ。


「殿下。明日は監査局の初登庁です」

「聞こえないことにします」

「聞こえるまで申し上げますよ」


 だめだ。この護衛、費用対効果が高すぎる。


 僕はペンを持ち直した。まずは、監査局の備品購入からだ。

 相見積もりは、必ず取ろう。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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