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『形だけの夫婦だ』と白い結婚を突きつけられたので、自作した契約書通りに『形だけ』の業務を遂行していたら、なぜか旦那様が本気で焦り始めました

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/07/10

初夜の寝室というのは、本来ただの業務交渉の場であるべきだ。

少なくとも、前世で契約法務と役員秘書を兼任し、過労死の末にこの異世界へ転生した私――ヴィオラ・アンセルにとっては、そうだった。


私の実家、アンセル伯爵家は没落寸前の家門だった。


そこへ舞い込んだのが、王国の財務卿にしてヴァルハイト公爵家当主、クラウス・ヴァルハイトからの縁談である。


条件はただ一つ。実家の借金を一括返済する代わりに、形だけの公爵夫人を用意すること。


絵に描いたような政略結婚だ。

私は実家を救うため――そして正直に言えば、前世よりはるかにまともな就職先を確保するため、この条件を喜んで受け入れた。



挙式を終えたその日の深夜。

豪奢な主寝室で、クラウスは開口一番、氷のように冷たい声で言い放った。


「君を愛するつもりはない。この婚姻はあくまで家門の体面と実務上の都合によるものだ。君には公爵夫人としての義務だけを果たしてもらう。――要するに、白い結婚だ」


クラウスは非常に端整な顔立ちをしていた。

サファイアのような冷ややかな瞳に、月光を溶かしたような銀髪。


若くして国の財務を牛耳る天才であり、社交界では「冷血無比」と恐れられている男。


私を見下ろすその視線には、明確な軽蔑が混ざっていた。

――どうせ君も、私の財産と権力に目が眩んだ令嬢なのだろう、と。


私は胸の中で盛大にガッツポーズを決めた。

夜の同衾義務なし。求められるのは実務のみ。

なんて素晴らしい労働条件だろう。


顔には前世で培った「完璧なビジネススマイル」を貼り付け、深く頭を下げる。


「かしこまりました、閣下。合理的で明快なご提示、感謝いたします」


「…………何?」


クラウスが怪訝そうに眉をひそめた。

想定していた反応――泣くか、縋るか、逆上するか――のどれとも違ったのだろう。


私はドレスの袖から、あらかじめ用意しておいた書類の束を取り出し、テーブルの上にすっと滑らせた。


クラウスの噂から、ある程度この状況は予想できていた。

ここまで早くにクラウスから申し立てがあったのは意外だけれど。


私は魔法スキルで、用意していた書類にさっき申し立てられた条件を追加で記入した。


「お互いの認識の齟齬を防ぐため、ご提示いただいた条件を明文化した『特約合意書』を作成いたしました。ご一読のうえ、署名と捺印をお願いいたします」


「……合意書、だと?」


クラウスは半信半疑のまま書類を手に取った。

そこには、前世の法務知識を総動員した条項がずらりと並んでいる。


『第一条 本契約は、対外的な公爵家の信用維持を目的とした業務委託契約とする』

『第三条 両当事者間に肉体関係およびそれに類する親密な接触の義務は発生しない』

『第五条 ヴィオラの業務範囲は、夜会の同伴(月2回まで)、領地視察の同行、邸内の内務管理とする』

『第十二条 午後八時以降および休日は業務時間外とし、クラウスは乙の私生活に関与しない』

『第十五条 両者は業務時間外において、最低1.5メートルの物理的距離を維持する』


書類をめくるクラウスの目が、みるみる見開かれていく。

彼は書類と私の顔を何度も往復させた。


「……君は、本気でこれを言っているのか?言っておくが、婚姻後に条件の改定を求めて泣きついてきても、私は一切応じないぞ」


「当然でございます。契約とは信頼そのものですから。むしろ閣下にとっては、将来の不当な要求を予防できる有利な契約かと存じます。なお、違約金条項は第十八条に記載しておりますので、あわせてご確認ください」


「…………」


プライドを刺激されたのか、クラウスは無言でペンを取り、力強い筆跡で署名した。


「いいだろう。署名した。これで満足か」


「ありがとうございます。契約成立ですね」



私は署名済みの合意書を回収し、バインダーに丁寧に収めた。

そして、ベッドの脇に置いてあった荷物が入ったトランクの持ち手を、迷いなく握る。



「では、契約書第十二条に基づき、私は北翼の客室へ移動いたします。今夜からそちらを私室とさせていただきますので。――それでは閣下、明日の朝礼業務にてお会いしましょう。おやすみなさいませ」


完璧な一礼をして、私は公爵の寝室から退出した。


背後でクラウスが呆然と立ち尽くしていた気がするが――雇用主の感情のケアは、私の業務範囲外である。





翌日から、私の「公爵夫人」としての勤務が始まった。



領地の帳簿整理、使用人の配置転換、邸内の予算管理。

前世で社長秘書まで務めた私にとって、どれも朝飯前だった。


むしろ、終電どころか始発で帰るのが当たり前だった前世のデスマーチに比べれば、この公爵邸の管理業務はあまりにもホワイトで、涙が出るほどやりがいがあった。


「ヴィオラ様、こちら、昨年度の財務諸表ですが……」


「見せてちょうだい。……ええ、ここ。魔石購入費の計上が重複しているわ。それから清掃消耗品の単価が市場平均より二割高いわ。取引先の見直しをしましょう。午後までに相見積もりを用意して」


「は、はい! ただちに!」


使用人たちは当初、「没落令嬢に何ができる」と侮っていた。

それが一週間もすると、私の実務能力の前に完全にひれ伏した。


適切なタスク管理で邸内の労働環境は劇的に改善され、公爵邸の運営コストは前月比三十パーセント減。数字は嘘をつかない。


そして何より、クラウスを驚かせたのは、私の「同伴業務」の完璧さだった。



王宮で開催された春の夜会。


私はクラウスの隣で、仕立ての良いドレスをまとい、非の打ちどころのない「公爵夫人」として社交界にデビューした。



他国の使節にも王国の重鎮にも、前世の役員接待で鍛えた完璧な笑顔と、相手の経歴を事前に網羅した会話術で応対する。


夫を見上げる眼差しには、計算し尽くした「深い愛情」まで乗せておいた。


「ヴァルハイト公爵、素晴らしい夫人を迎えられましたな。これほど聡明で気品のある女性は、王都でも滅多に見かけない」


「……ああ。過分なお言葉、恐縮です」



クラウスは絶賛の嵐の中で、どこか落ち着かない様子で頷いていた。


だが――夜会が終わり、二人きりの馬車に乗り込んだ、その瞬間。


ガタン、と車輪が動き出すと同時に、私は顔から一切の笑みを消した。

姿勢を解き、座席の端へ移動する。

クラウスとの距離、きっちり1.5メートル。


「本日の同伴業務は、すべて滞りなく終了いたしました。ただいまをもって業務時間外となります。お疲れ様でした、閣下」


私は胸元から業務日誌を取り出し、本日の成果を淡々と書き留め始めた。


クラウスが、信じられないものを見る目でこちらを凝視している。


無理もない。ついさきほどまで貴族たちの前で「夫を深く愛する妻」を完璧に演じていた女と、いま隣で無表情にペンを走らせている女が、同一人物だとは思えないのだろう。


「……ヴィオラ」


「はい、閣下。何か緊急の公務でしょうか」


私はペンを止めず、視線も上げずに答えた。


「いや……。今日の夜会での君の振る舞いは、実に見事だった。私への気遣いも、完璧だったと思う」


「ありがとうございます。報酬に見合う労働を提供するのがプロの義務ですので。閣下の体面を保つことは、私の雇用の安定にも繋がります」


「プロ……? 雇用……?」


聞き慣れない単語に、クラウスが眉をひそめる。

よろしい、少しずつ覚えていただこう。


「それと閣下、一点だけ業務上の申し送りが。先ほどダンスの際、腰に回されたお手の位置がやや高すぎました。加えて、お顔の距離も近すぎたかと。契約書第十五条の趣旨に抵触する恐れがございますので、次回からの是正をお願いいたします」


「……わかった。善処する」


「ありがとうございます。本日の業務報告書は、明朝、執務室にお届けいたします」


それきり、馬車の中にはペンの音だけが響いた。

クラウスは窓の外の暗闇をじっと見つめ、小さく溜息をついた。


その耳の端が――夜会の熱気のせいだろうか――わずかに赤く染まっていた。





それから二ヶ月。公爵邸の空気は、なんとも奇妙なものに変わっていた。


ヴィオラの運営する公爵家は、非の打ちどころがないほど健全だった。


帳簿は整い、無駄な支出は消え、使用人たちは生き生きと働いている。

王都でのヴァルハイト公爵家の評判は「若き天才財務卿と、その家門を陰で完璧に支える賢夫人」として、かつてないほど高まっていた。


だが、当の公爵本人は――日に日に、やつれていった。


「閣下、本日の朝礼および内務報告に参りました」


午前九時ちょうど。私は執務室の扉を叩いた。


「……入れ」


デスクの向こうで、クラウスは書類の山を前に、こめかみを押さえていた。


青白い顔。目の下の薄い隈。――ああ、これは知っている。前世の鏡で毎朝見ていた顔だ。

職業病が手遅れになる前に、私は口を開いた。


「閣下、顔色がすぐれませんね。睡眠時間は確保されていますか。本日は午後の閣僚会議のあとに二時間の空きがございます。仮眠を取られることを推奨いたします」


「……いや、仕事が山積している。休んでいる暇は――」


「却下いたします」


「却下!?」


「体調管理は業務効率に直結いたします。閣下が倒れられた場合、私が処理すべき内務の調整コストが跳ね上がりますので。スケジュールはこちらで再調整いたします」


手帳に素早く仮眠の予定を書き込む私を、クラウスは力なく見つめた。

やがて、ぽつりと。


「君は……本当に、私の健康を心配してくれているのだな」


 その声には、どこか期待するような、甘えるような響きが混ざっていた。


「当然でございます。閣下は私の雇用主ですから。雇用主の健康維持は、労働者の生活安定における最優先事項です」


「……そうか。生活安定のため、か……」


クラウスの肩が、目に見えてがっくりと落ちた。



彼はペンを置き、私を真っ直ぐに見つめる。

サファイアの瞳には、かつての軽蔑の色などもう微塵もない。あるのはただ、縋るような、切ない光だった。


「ヴィオラ。少し……立ち話でもしないか。仕事の話ではなく、ただの雑談だ。今日の天気についてとか、あるいは、君の好きな食べ物についてとか」


私は、すっと一歩後退した。


「お断りいたします。契約書第十二条に基づき、現在は就業時間内でございます。業務に関係のない私的雑談は、職務怠慢に該当する恐れがございますので」


「私が許可すると言っている」


「雇用主の優越的地位の濫用による契約条項の形骸化は、受け入れられません。――それと閣下、先ほどから物理的距離が1.2メートルまで縮まっております。合意書第十五条に基づき、速やかに所定の位置へお戻りください」


クラウスは、椅子の上で天を仰ぎ、眉間を押さえている。



「……1.5メートル、だったな。わかった。戻ればいいのだろう、戻れば」


国の財政を握る男が、不機嫌そうに椅子をずりずりと三十センチ後退させた。

世が世なら歴史書に載らない光景である。



「ヴィオラ。君は……私という人間に、何か不満があるのか? なぜそこまで頑なに距離を置く。私は公爵だぞ。君の実家の借金も、すべて返済した」


「不満など、お門違いでございます。閣下は生活費を遅滞なく支払ってくださる、非常に優良な雇用主です。だからこそ私は、契約書通りの完璧な労働でお返ししているのです。それ以上の感情的なやり取りは――契約の範囲外ですので、提供いたしかねます」



私は一礼し、書類をまとめて退室した。

扉が閉まる間際、机に突っ伏したクラウスの呻き声が聞こえた。


「……金か。やはり私は、雇用主に過ぎないのか……」


(まあ、自業自得よね。最初に『愛するつもりはない』って冷酷に言い放ったのは、そちらなんだから。私はその約束…いや、契約に従うだけよ。)


私は前世のオフィスで会得した「感情の完全シャットアウト」を発動し、鼻歌まじりに廊下を進んだ。





さらに一ヶ月が経ち、王都に夏の風が吹き抜ける頃。

ついにクラウスが、正式な手続きを踏んで私に「交渉」を申し込んできた。


「ヴィオラ。君と、契約の改定について話がしたい」


夕食後の、午後七時五十五分。

つまり、私の就業時間が終わるまで残り五分という、ぎりぎりの時間を狙い澄ましての呼び出しだった。この几帳面さは嫌いではない。



彼の手元には、あの夜に署名した『特約合意書』の写しが置かれている。ずいぶんと読み込まれたのか、紙の端が少し波打っていた。


「契約改定でございますか。内容によりますが、交渉テーブルにつく準備はございます」



私はバインダーを抱え、椅子の前に立った。距離は、きっちり1.5メートル。


「まず、第十一条の『朝食の分離』を廃止し、今後は週に三回、朝食を共に摂ることを提案する」


「朝食同伴業務は、私のプライベートな準備時間を圧迫いたします。追加の労働コストが発生いたしますが」


「……ならば、その時間分の残業代を支払おう。通常の二倍の手当だ」


――残業代。

冷血公爵の口から「残業代」という言葉が飛び出した瞬間、私は少し感動してしまった。教育の成果が、着実に実を結びつつある。


「さらに」


クラウスは合意書の写しを一枚めくり、真剣そのものの眼差しで私を見た。


「第十五条の規定距離を、1.5メートルから――『0.5メートル』に短縮したい」


「大幅な改定案ですね。それは、どのような実務上の必要性に基づくものでしょうか」


「実務上の必要などない!」


クラウスは立ち上がり、机を叩いた。


「私はただ、君の隣に座りたいし、君の顔を近くで見たいんだ!」


財務卿としての冷静さは、そこにはもう欠片も残っていなかった。

あるのはただ、必死な一人の男の顔だった。



「ヴィオラ。君が作ってくれた領地経営の改善案も、財務の監査報告も、どれも素晴らしい。完璧だ。だが――それを受け取るとき、君はいつも私を他人として見ている。私ではなく、契約書の向こう側の『雇用主』を見ている。私は、それが……耐え難いのだ。」


彼は、震える声で続けた。



「『君を愛するつもりはない』と、あの日言った。あの言葉を、全力で撤回させてほしい。私は今、君を深く愛している。だから頼む――この契約を、変更してくれ」


私は、静かにクラウスを見つめた。

前世の私は、過酷なオフィスで使い捨ての駒のように働かされ、心を削りながら死んでいった。


だからこの世界では、感情などという不安定なものに依存せず、契約だけで我が身の安全を確保するつもりだった。


――なのに、目の前のこの男は。


私が築いた契約の壁に全力で頭からぶつかって、傷だらけになりながら、それでも「愛している」と訴えている。


「……閣下。改定交渉を行うには、私に対する具体的なメリットの提示が必要です」


「……何が欲しい?実家への追加援助か?それとも、自由に使える別荘か?」


「いいえ」


私はゆっくりと首を振った。


「私が望むのは、対等なパートナーシップです。第十五条を改定なさるおつもりなら、閣下も条件を一つ呑んでください。私に対する『閣下』としての振る舞いを廃止し、一人の人間として向き合うこと。雇用主と労働者ではなく、クラウスとして…一人の人間として、男として、です」


クラウスは驚いたように目を見開き、それから、熱を帯びたサファイアの瞳を細めて笑った。



「……ああ、約束する。約束するとも、ヴィオラ。だから――早く、その距離を詰めてくれないか?」




その契約改定の日から、私たちは少しずつ距離を縮めていった。

週に三回の朝食を共にし、クラウスは私の隣で、ごく普通に笑うようになった。



私の公爵夫人としての完璧な仕事ぶりは変わらないまま、社交界では「あの冷血公爵が骨抜きにされている」と、二人の仲睦まじさが噂されるようになっていた。



そんな順調に見えたある日。王宮の夜会で、事件は起きた。



「おいおい、没落アンセル家の娘が、ずいぶんと公爵夫人らしく気取っているじゃないか」


話しかけてきたのは、ローグ男爵。

――かつて実家のアンセル伯爵家を経済的に追い詰めた、張本人だった。



彼は嫌味な笑みを浮かべ、社交界の真ん中で、これ見よがしに声を張り上げた。



「どうせ閣下の財産目当てに、契約でも交わしてすり寄ったのだろう?没落貴族の娘が、ヴァルハイト公爵家の格式に見合うはずがない。閣下も、形だけの妻にはさぞ苦労されていることだ」


周囲の貴族たちが、好奇の視線をこちらへ向ける。


私は微笑みを保ったまま、前世のクレーマー対応マニュアルを脳内で検索し始めた。傾聴、共感、そして事実の提示――。


しかし、私が口を開くより先に。


「――ローグ男爵」


氷点下のような冷たい声が、広間に響き渡った。

その見知った声の主は、クラウスだった。


彼はゆっくりと、私と男爵の間に割って入った。


その横顔は、王国の財務を握る絶対的な支配者としての、容赦のない冷徹さに満ちていた。


「私の妻ヴィオラがこの数ヶ月でヴァルハイト公爵家にもたらした利益は、君の領地の年間税収の三倍に相当する。彼女は我が家にとって――そして私にとって、何者にも代え難い、最も尊い女性だ」


男爵の顔から、みるみる血の気が引いていく。クラウスは構わず続けた。


「アンセル家の旧債を私が買い取ったのは、彼女を妻に迎えるための正当な対価だ。むしろ、あれほどの女性をあの金額で迎えられたことは、我が人生最大の黒字投資と言っていい。――男爵。我が妻への侮辱は、ヴァルハイト公爵家、ひいては王国財務省を敵に回すことと同義だ。君の領地の今年度の特別補助金について、いや…今後の付き合いに関しても、明日から精査を始めさせてもらう」


ローグ男爵は真っ青な顔でガタガタと震え、その場にへたり込んだ。

周囲の貴族たちも、公爵の本気の怒りを察して、慌てて視線を逸らす。


私は、隣に立つクラウスを見上げた。

彼はまだ怒りに肩を微かに震わせていたが、私と目が合うと、ふっとその表情を和らげた。



――帰りの馬車の中。

ガタン、と車輪が動き出すと同時に、クラウスは席を立ち、当然のように私の隣に腰を下ろした。


物理的距離は、とうに0.5メートルを下回り――ほぼ、ゼロ。


「……ヴィオラ。先ほどはすまなかった。君に嫌な思いをさせた」


「いいえ、むしろ胸がすきました。閣下の財務権限の行使、非常に的確なリスクヘッジでございました」


「……また『閣下』と呼ぶのだな。それに、敬語もそのままだ」


クラウスは不満そうに唇を尖らせ、それから、私の両手をそっと包み込んだ。

合意書第十五条は、もはや完全に破り捨てられている。


「ヴィオラ。私はもう、君と『契約』で繋がっていたいわけじゃない。契約書などなくても、君が私の隣にいてくれる――そんな、普通の夫婦になりたいんだ。私を、ただの雇用主ではなく……君の夫として、クラウスとして、愛してくれないだろうか」


彼の手の温もりが、じんわりと伝わってくる。

胸の奥で、固く凍っていた何かが、柔らかく解けていくのがわかった。


前世の私は、誰かに必要とされたくて、ただ機械のように働き続けて死んだ。


だが、この男は違う。


私の仕事の有能さだけではなく――私が不器用に築いた契約の壁ごと、ヴィオラという人間そのものを、まるごと求めてくれている。


「……仕方、ありませんね」


私はドレスの隠しから、小さく折りたたんだ特約合意書を取り出した。

今まで肌身離さず持っていたことは、内緒である。


「では、この合意書は本日をもって『契約解除』といたします」


「……っ、本当に、いいのか?」


クラウスの顔が、ぱっと輝いた。国の財政を握る冷血公爵の、飼い主を見つけた大型犬のような顔だった。



「はい。――その代わり」


私は彼の胸にそっと寄り添い、耳元で、悪戯っぽく囁いた。


「新しく、別の『永久雇用契約』を結びましょう。就業時間は、生涯。福利厚生として、あなたからの生涯の愛を請求いたします。……よろしいですね、クラウス?」


「っ!…ああ。私の全財産と全人生を賭けて、その契約を履行しよう」


クラウスは今まで見たことがない笑顔を見せた。

彼は心底嬉しそうに微笑み、私の額に優しいキスを落とした。


馬車の窓の外には、王都の美しい夜景が流れていく。




形だけの夫婦から始まった、私たちの新しい関係。

今度の契約は、きっと一生、解約されることはないだろう。

人生で最も甘い契約書を胸に、私は彼の腕の中で、静かに目を閉じた。



【完】

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