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第三章 来たー!!


□ 第八章 予期せぬ?依頼客


 前々からの打ち合わせ通りだった。

 もし、依頼者が来店した場合、誰が接客するのか?

 最適任者は満場一致で、コミュニケーション能力の鬼・弥生だ。

 あと選ばれたのは、人の心の痛みがわかる優しさ溢れる人間。ここに集うメンバーが両想いになるよう環境を整えた実質的な依頼客第一号であり、なおかつ成功例になりつつあるショーンこと木曽原少多。お客様の気持ちになって話が聴けるのではないかという期待を込めて選抜された。

 最後にヒロシ。選抜理由は、他に仕事がなくて暇そうだから。少しは責任感を持ってほしいから。あとはノホホンと陽気で屈託がないところが功を奏するのではないかという希望的観測だ。

「ヒヤリングというか、カウンセリングだよね。オイラ思うんだけど、互いにうちとけるきっかけは、本来、裸のつきあいがいいんだ」

「そういえば、ボクたちもそうだった」と少多。

「オイラの理想を言わせてもらえは、本当は依頼者も相談員もいっしょくたになって、銭湯のだだっ広いお湯につかるのが一番なんだけどなあ。このオフィスに大きな湯船つくれないかなあぁ」

 夢想するヒロシに対し、アラナは牙を剥いた。

「夢見る無責任男子が、依頼者が目の前に立って待ってるこの土壇場になって、いきなり何かほざいてるね」

「最初から一人対三人では、依頼者さん、萎縮しないかしら」

 弥生は心配顔だ。するとヒロシが答えた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。弱気の固まりショーンは人数に入らないから」

「ぷっ」これには、少多本人が吹き出した。「確かにボクは弱気の虫だけど、その言い草は、あんまりじゃないかよう」

「話し方が柔らかくて、物腰ていねいな男子相談員は貴重な存在よ。ねえチョッとヒロシぃ、私の話、聞いてるの?」

 弥生がヒロシをたしなめる姿を見てアラナがケラケラ笑っている。その間にも、依頼者を待たせては悪いと、少多は玄関先にスッ飛んでいった。

「どうぞ、こんにちは。いらっしゃいませ」少多が柔らかく声をかけた。「どうぞお入りください」

 恋愛結婚株式会社に、遂に現れた相談者第一号。

 皆は、ジロジロ見てはいけないと思いつつ、ついつい見てしまう。観葉植物の陰に隠れたり、デスクの下に潜ったり、柱の影に隠れたりして相談者をじっと観察した。

 ――相談者は、二十代前半と思しき女性だ。まったく冴えない容姿をしている。

「こりゃあんまりだ!」

 毒舌キャラで鳴るアラナは大きな声を張り上げそうになり、死に物狂いでおのれの口を押さえた。あらん限りの力を振り絞った。やっとのことで声は出さずに済んだが、慣れないことをやったので、喉は詰まり、心臓は危うく止まりそうになった。

「くうう~。ウケない~」

 やっぱり毒舌ギャルは相談員にはなれないと認めざるを得なかった。


 翌日。心地よく晴れた日より。

 初めて少多は、美智とふたりきりで会った。看護専門学校のお昼休み、少多は美智を訪ねたのだ。

 念のための予約しておいたお店で、ともにランチを食べ、食後のコーヒーが運ばれてきた頃合だった。

「美人を絵に描いたような美智が、こんなブサイクなボクとつきあって、本当にいいの?」

 少多がそう言い出す前に、美智は珍しく熱弁した。それは独白のようでもあり、また、前々から考えていたことをようやく話せる機会がやってきた、持論を初めて展開できる場を用意してくれた青年に対し、感謝の意が籠もった告白のようでもあった。

 美智はしっかり少多の目を見て言った。

「私のことわかってくれてるショーンだから、本音で話すね」

「……うん」なんの話が始まるか見当もつかず、少多は戸惑った。

「決して私が自慢してしゃべってるんじゃないってわかってくれるあなただからこそ、忖度抜きに、こうやって何でも隠し立てせずに話せるの」

「うん。遠慮せず、なんでも話してよ」

「ええ。私ね、小さな頃からいまにいたるまで、美形だ美形だ、二言めには美人だ美人だって、飽きるほど聞かされて育ってきたでしょ?」

「……考えるだけでたいへんだね」

「ゾッとするわよ。世界中の人がルッキズムに囚われてる気がしてね」

「……美智の実感がこもったセリフだ」

「確かに私の顔はきっちり左右対称で、中心線の鼻筋は通っていて曲がってないし、両目は深くて大きくて、まあ、皆がそういうんだから整ってるんでしょう」

「うん。整った顔って、美智にためにある言葉だよ」

 美智は大きく深いため息をついた。

「そうなのよ。だから単なる『美しさ』とか『美』はね、もう十分なの。もう十二分にね、間に合ってるの。どうってことないのよ、生まれつきだから。努力して手に入れたんじゃないから。美はもう十分、満腹なの。だからなのよ。世の中に美男美女のカップルが思いのほか少ない理由は、そこなのよ」

「むむ?」

「美しさはもう子供の頃からゾッとするほど味わってきたから。うんざりするほどね。だから恋愛の相手には、他のことを求めるの」

「え? 美智って、恋愛する相手は美男子じゃなくていいってこと?」

「美形は自分ひとりですでに十分。飽きるほど十二分なのよ」

「ひゃあぁ、そうかあ」少多は感心した。本当に美智は本音を語っているのだ。

「だから私はね、相手に望むことは、話しやすさだったり、誠実さだったり、思いやりだったり。ちょっとキザにいうと、真心だったり。それを求めてるの。世の多くの美男美女って評されてる人の多くがそうだと思う」

「そうかあ」少多は感歎した「それは美智のような本当の美人じゃないとわからない世界だ……」

「うん、だからね。ショーン達がやってる恋愛結婚株式会社。私はアドバイザーなのに何も出来なくて心苦しいんだけど、唯一、アドバイスできるのなら、これだけ。『無理に美男と美女をくっつける必要はない』ってこと」

「……ありがとう。こんなアドバイスできるのは、美智だけだ」

「だからショーンにはね、これからもずっと話しやすい人でいてほしんだ」

「わかった、そうするよ。ボクになら何でも話せるよう、立派な聞き手になれるよう努力する」

「それをね、不自然な努力をせずとも生まれつき出来てしまうところが、あなたの魅力なのよ」

「えっ?」

「自分の美点を自覚して、大事にしてね」

「あ、ああぁ……」

「恋愛結婚株式会社で相談員に抜擢されたんでしょ?」

「う、うん」

「プライベートでも、私には、いい相談相手でいてね」

「美智の相談役だなんて責任重大だな」

「難しいことは考えないで。ただ聴いてくれるだけでいいの」

「う、うん」

「いままでどおりにね」

「うん」

 ようやく少多は笑顔になった。美智は心から少多を信頼しているのだ。


□ 第九章 本物の恋とは


 その日の夕方、恋愛結婚株式会社にて、皆は報告し合った。

 というのも、昨日、岩斬厳子と内来日和の二人組は用事があって欠勤し、相談者第一号に会えなかったからだ。

 少多が推測するに、岩斬厳子に用事があって休まねばならなかったので、一人では何もできない内来日和も一緒に欠勤したのではなかろうか。

 でも二人組は、きょうは通常どおりに出勤してきた。

 そこで皆は、岩斬厳子と内来日和に、昨日の相談者第一号がどんな人物だったか説明しようとした。

 岩斬厳子は皆に依頼した。

「記念すべき我が社への訪問客第一号さんの、覚えてる限りのことを教えて欲しいの」

「ええっとお~。どんなひとだったっけ?」とヒロシ。

「髪型は……」と弥生。

「うーん、髪型ねえ。覚えてないわ」とアラナ。

「まったく印象に残らない髪型だったのかな」と少多。

「ええっと、多分、長かった、かも、ね」とヒロシ。

「じゃあ服装は?」重ねて岩斬厳子は訊ねた。

「服装! うう、記憶に残ってない」とヒロシ。

「服ねえ、忘れちゃった」とアラナ。

「ということは、多分地味めな衣服だったのかなあ?」と少多。

「ではバッグは?」さらに岩斬厳子は質問した。

「持ってなかったんじゃない? いや、どうだったかなあ」アラナは考えているが憶えてない。

「バッグかリュックを持ってたような……。あれ? 違ったかも」と少多。

「わかんないワ」と弥生。

「記憶してないや」とヒロシ。

 いぶかしんだ岩斬厳子は真剣に問うた。

「じゃあ、立ち居振る舞いは?」

「うーん、印象なしネ」とアラナ。

「キビキビとは多分してなかったかも……。しっかり覚えてるわけじゃないけどさ」とヒロシ。

「推測するに、オドオドしてた? いや、あくまで勘というか、想像の域を出ないな……。おかしいな、確かに見たはずなのに」と少多は戸惑っている。

「少多、あんたは面談したんでしょ?」とアラナ。

「ごめん。ボク、わからない……」

「オイラも、どーしても思い出せない」

「それほど存在感が薄かったの?」なんとなく岩斬厳子は合点がいったようだ。

「そうか。本当に存在感の無い人だったんだ……」とヒロシ。

「まさか幽霊?」とアラナ。

「まさかね」と弥生。

 皆はごくりと唾を呑み込んだ。

「『ご相談シート』に名前を記入する様子とか覚えてないの?」と岩斬厳子は重ねて訊ねた。

「うーん、そういやあ、書いては消し、書いては消し、って感じだったかも。今になって振り返れば、かなり慎重な人だったのかなあ」ヒロシは、考えあぐねてそう言った。

 皆、どうしてもはっきり思い出せない。

 岩斬厳子と内来日和は依頼者第一号が記入したご相談シートに目を落とし、二人で何やら囁きあった後、皆に述べた。

「記入して頂いたこのご相談シートの文字を見ると、字はかなり薄くて、読めるか読めないかギリギリのところね。字のサイズは小さくて、いかにも自分に自信がなさそうな印象だわ」

「そうね、そうだったわ」皆は肯いた。

 再び岩斬厳子は皆に訊ねた。

「店舗スペースに四つあるブースのうち、どこに座ったかも覚えてないの?」

「う、うろ覚えというか、あっちかな、いやこっちかな?」

「ダメだ、全然わかんないや」

 皆はお手上げだ。

「じゃあ、最後に聞くけど、彼女の名前は?」

「ええっとー。うーーんと」

 皆は頭をひねって考えた。

「あっ思い出した!」ヒロシが声を上げた。

「え、何?」と弥生。

「綽名!」

 ヒロシの返答に応じ、皆は声を合わせて答えた。

「ダサか!」

 この有り難くないニックネームをきっかけとして、皆は昨日の依頼人のことをありありと思い出すことができた。

 地味で目立たないどころか、ズバリ、薄倖そのものの印象を与える女性だった。だがしかし、彼女が話した内容には熱いものがあった。

 面談のスタート時、相談者はおずおずと小声で話した。

「わ、私、地方の出身で、地元の田舎の学校でありがたくない綽名をつけられてしまって、小中高とずっとその綽名で呼ばれてました」

 相談者第一号を目の前にして、弥生は相談シートに目を落とした。

 本名は、飯山貞花いいやま・さだか。二十三歳。

 子供の頃のニックネームの欄には、歪んだ文字で綽名が書き連ねてあった。

《いいや、まさか!》

《ダサいだけか?》

《ダサか》

《ダサいダサか》

《ダサ子》

《いいやまダサかってマジで、ダサかあ》

 文字までが苦しげだ。

「わ、私、本名が『さだか』なので、名前をもじって、『ダサか』って綽名がついちゃって……」

「ピッタリ!」

 観葉植物の陰に身をひそめていたアラナは、そう叫んで大笑いしそうになった。だがここで失笑を洩らしてしまえば、全ては一巻の終わりだ。アラナはやっぱり自分は相談員になっちゃいけない人間だとあらん限りの力で歯を喰いしばり、ほうほうの態で笑いを封じ込めた。

 虚ろな表情で相談者は続けた。

「だからクラスで、キモイ女子の代表格みたいにされちゃって、小中高とずっとそうだったから、このまま地元にいても一生、彼氏もできないでしょうし、結婚も難しいと考えて、高校卒業後、思いきって東京に出てきたんです……」

 いかにも薄倖そう。話し方も、座り方も、顔色も、生き生きしているとはまるで感じられなかった。

「では、貞花さん、東京に出てきてからはどうだったのでしょう?」弥生は訊ねた。

「事態は、……似たりよったりです。男女問わず友人は少ないですし。……というより一人もいないんです」

「はあ」ヒロシはため息をもらした。

「そんなとき、インターネットで恋愛結婚って検索したら、真っ先にこの会社のホームページが出てきたんです。とっても素敵なデザインで……。私の惨めな人生を変えるのは今しかないって、熱い思いで、相談の予約をさせていただきました」

 これは責任重大だ。もしこの相談者の夢をかなえることができなければ、薄倖なこの女性は死んでしまうかもしれない。

 それほどの生気の無さというか、周辺の空気全体をネガティブ一色に染め上げる強烈な陰鬱さが染み出ていた。いや、暗闇オーラが四方八方に発散されていたと表現しても過言ではない。

 相談者・飯山貞花の話は熱を帯びてきた。

「情け無いですが、本当のことなんです。私が故郷を逃げ出した理由は、『ダサ子』『ダサか』って綽名が不本意にも定着してしまって、地元では彼氏が出来そうにないから。だから私、もう彼氏はできなくてもいいから、結婚がしたいんです。好きな相手もいない私だけど、一生に一度でいいから本気で恋愛がしたいんです。本気の意味は、その恋愛の先に結婚があるって意味です。だから私の人生、唯一最大の目標は、恋愛結婚することなんです!」

 涙が両の頬を伝った。

「だから、私の生きるすべは、恋愛結婚株式会社しかない。そう思い詰めて、ここへ来ました……」

 心の底からの叫びだった。貞花の涙は、この場にいた社員全員の胸を打った。

 この熱い思いがあれば、必ず夢は実現できる、いや、我々みんなで実現せねばならない。そのためにはおのれをすぐ卑下する癖をどうにかしないと。

 そう少多は思った。めったやたらと自分を卑下してしまう口癖は、少多自身に長年染み付いていた習慣でもあったのだが。その悪しき癖や考え方は、いま隣に座っているヒロシが払拭してくれたのだ。

 その時、ヒロシはこう考えていた。

 少多の場合は、同じ学校に片想いの彼女がいた。美智という憧れの人だ。そして、いつかつきあいたいという夢があった。だから少多の学校生活に美智という一筋の希望の光が射し込み、その光が突破口になって、少多は自分で自分の殻を破り、自分の運命を切り開くことができた。

 ――だから夢や希望は、とんでもなく大事なのだ。

 この相談者の現状はどうなのだろう。当然、気になるところだ。

 すると弥生が質問した。

「相談者さんは、好きな人はいないとのことですが、片想いだとか、少し気になる程度でもうかまわないですから、いいなと思う男性は、いま周囲にいますか?」

「……いないんです。好きな人がひとりもいない、こんな私でも、恋愛結婚できるでしょうか?」

「それは……」弥生は口ごもった。「貞花さんの、これからの努力次第ですよ」

「そうだよ~」ヒロシはいつものように陽気に言った。「さきほど話してくれた熱い思いがあれば、きっと夢は実現するはず。オイラたち、恋愛結婚株式会社が一丸となって手伝うよ」

「ボクも、このメンバーのお蔭で、片想いの人と、ふたりきりで会うところまでこぎつけたんです。一緒にがんばりましょう!」

 少多が珍しく熱くなり、人を勇気付ける発言をしている。

 弥生はこうまとめた。

「ではまず好きな人を見つけるところからスタートしましょう」


 以上が、昨日の初顔合わせの詳細だった。

 岩斬厳子は皆に訊ねた。

「薄給の事務員さんだったのね?」

「薄給かつ薄倖のね」とヒロシ。

「そう。確かに幸せ薄い印象を受けたわ」と弥生。

「ありありとね」とアラナ。「小柄でぱっとしなかったァーー。あの人に恋愛結婚なんてできるのかなあーー? アタシたちぃ、けっこうマジで、かなりなピンチじゃない?」

 すると岩斬厳子は述べた。

「もし依頼者がそれほど存在感が薄い人なのであれば、仮に気に入った男性との出会いがあったとしても相手が覚えてくれない。同じ時間に同じ場所にいたとしても、相手に存在を認識してもらえない。ならば、いくら我々が出会いをお膳立てしても無駄になってしまうでしょう。だから、相手に好きになってもらえるか嫌われてしまうかそれ以前に、まず存在を認識してもらわなければなりません。それにどうせなら、相手に良い印象を残せるような認識にしないとね」

「ああっ!」

 突然ヒロシが大声をあげた。

 皆がヒロシの視線の先を追うと……。

「あああっ!」

 玄関先に、依頼者こと飯山貞花が立っていた。亡霊のようだ。

 影が薄くて誰も気がつかなかったのだ。

 昨日店舗に居た?、覚えてない?、どころではなく、現実にいま目の前にいても、圧倒的なまでに存在感は薄かった。その希薄さの度合いは、天下無双と称しても決して言い過ぎではない。

「あら飯山貞花さんね。初めましてこんにちは、岩斬厳子です。いつからそこにいらしたの?」

 慌てた様子を見せず、落ち着きを払って岩斬厳子が訊ねた。さすがは出来る仕事人だ。

「わ、私、たったいま来ました」

 ほっとした無言のため息が、どよめくように社内に溢れ流れた。立ち聞きはされてないのだ。皆、胸を撫で下ろした。

「では、どうぞお入りください」と岩斬厳子。

「お好きな席にお座りになってね」と弥生。

「さ、さ、ご遠慮なく」と少多。

 ブースに着席した飯山貞花の存在感の気薄さは、やはり半端なかった。

 きのうと同じ、弥生、ヒロシ、少多が同席した。

 すると意外なことに、真っ先に少多が口を開いた。

「ボクさあ」

「どうしたショーン?」

「ボクがヒロシに片想いのこと相談した時、ヒロシは何てアドバイスくれたか覚えてる?」

「えっ? そんなの覚えてるわけないじゃん」ヒロシは平然として返した。

「あらら、許してね。こういう人なの」

 弥生は、飯山貞花にヒロシのひととなり(・・・・・)を紹介というか弁解している。

「あの、貞花さん。ボク、人に自慢できるようなこと、一つもない人間ですが、恥ずかしながらお話ししますね」

「……ええ」

 俯き加減で誰の顔も見ていなかった貞花は、やや顔を上げ、少多の顔を見た。イケメンでもなく、頭が切れそうでもない少多の容姿を見て、貞花は少しホッとしたようだ。

「いじめられっ子で、内気なだけのダメ人間だったボクが、思い切って自分の恋愛についてヒロシに相談した時、銭湯の湯船の中で、ヒロシにすすめられたんです」

 少多の声は震え、顔は真っ赤に上気している。

「ショーン、いったいそれ何だったっけ? もったいぶらずに教えてくれ」ヒロシはのうのうと言った。

「ヒロシはこう助言してくれたんだ。『じゃあさ、ショーンってさ、セルフプランニングしようよさあ。自己プロデュースだよ』って」

「そうだっけ?」ヒロシはポカンとしている。

「ヒロシはそう言って、『ショーン』っていうニックネームを授けてくれたんだ」

「ああ、そうだった、そうだった」ヒロシはのほほんと手を打った。「オイラ思い出したよ。自己演出の一環さ」

「そうなんです貞花さん。それまでクソ原とかヘソ原とか悪口ばっか言われて、毎日いじけてたボクは、身分不相応にショーンってロックスターみたいな呼び名を授けられたんです」

 貞花は真剣に聞き入っている。少多は続けた。

「でも、ショーンって呼ばれるようになったら、ホントに自分がスターに成れた気がして、自信持って生活できるようになったんです」

「そ、そうなんですか……」

 ようやく貞花は重い口を開いた、やっぱり内気オーラを発散させてしゃべる少多に対しては、内気な貞花も話しやすいようだ。

「な、なんだかショーンさんって、ぴったりなニックネームの気がします。……羨ましいです」

「私、思うんだけど」弥生が言った。「貞花っていう名前はとてもかわいい素敵な名前だから、貞花さんの場合、呼び方は貞花のままでいいと思うの。社会人だから職場でニックネームというのも使い辛いだろうし」

「ええ、まあ」

「だから自己紹介するときの紹介方法を工夫してみればどうかしら。いままではどうしてたの?」

「ええっと、こんな感じです」貞花は一礼して言った。「『……私、飯山貞花です。漢字では、貞子の貞に、フラワーの花です』って言ってました」

「アチャー」ヒロシはひたいを押さえた。「ホラー映画の主人公を連想させちゃあいけないよ、たとえそのほうが通じやすくても。というかそのものズバリ言ってたのかあ」

 弥生は言った。

「自己紹介では、『貞淑(ていしゅく)(てい)と、花びらで、貞花です』って言おうね?」

「さだ、とは言わないのがいいや」とヒロシ。

「は、恥ずかしい……。でも、言ってみます。『貞淑の貞に、花びらで貞花です』、か。なんだかいいですね」

 そう感想を洩らした貞花に対し、弥生は笑顔を向けた。

「わたし、古風な親に育てられて。クラスでたったひとりだけ、真っ赤なランドセル買い与えられて、恥ずかしかった。消え入りたいぐらいに……。それに弥生なんていうふるめかしい名前を与えられ苦しんだの。でも、どうせ同じ名前なら、相手にいい印象を与えるようにしましょ」

「……はい」

 恥ずかしげながら貞花の頬に、小さな明るさが灯った。弥生はさらに貞花を元気付けた。

「結婚相手には貞淑って大事なコトだし、出合った相手に結婚をそれとなく意識させる紹介方法よ」

「ありがとうございます。私のために考えてくださったのですね。でも弥生さん、弥生ってかわいい名前で羨ましいわ。可愛さだけでなく品もあって、知性も感じられて、本当に素敵な名前」

「あら」予期せず褒められた弥生は真っ赤になった。「子供の頃、『弥生人、弥生人』ってイジメラれそうになったことがあった名前だけど、褒められるだなんて……」

 すると少多がすかさず言った。

「弥生がさ、『弥生人、原始人』って貶されて、いじめられそうになったその時なんですけど。無責任を絵に描いたようなこのヒロシが、悪口言った相手をとっちめたんです。小学校の同じクラスだったから、ボク、その場にいたからよく覚えてる」

 貞花は目を見開いた。

「そうかあ、あたしの場合にも、ヒロシさんのようなヒーローが現れて、助けてくれたらあんな綽名なんて広まらならなかったかもしれないのに……」

 思いがけず貞花に褒められたヒロシも紅潮した。

「ああっ。ヒロシが照れてる!」弥生は照れ隠しに大袈裟に指摘した。

「初めて見た。ヒロシが赤面してら」と少多。

「だ、だってよ。オマイラとは違って、貞花さんは社会人なんだぞ! 社会人の方に褒められたら嬉しいぞ。学生とは有り難味が全然ちがうんだから」

 ヒロシはますます真っ赤になって照れている。

「違うよヒロシぃ。ボクたち恋愛結婚株式会社の社員なんだから、もうとっくに全員社会人なんだよ!」

「あっ」

 仰天したヒロシはおのれのひたいを打った。いまにもイスから滑り落ちそうだ。

「アチャー! オイラ、あとで弥生に叱られる」

「プーッ!」

 思わず貞花までもが吹き出した。どうやら初代依頼者は、恋愛結婚株式会社の面々を気に入ってくれたようだ。

「ではね、飯山貞花さんの夢を叶える二段階作戦よ」

 弥生は前のめりだ。

「ひとつはいま、ヒロシとショーンが話した自己演出。セルフプロデュースよ」

「うん。じゃあ、そこからだね」少多は穏やかながらも毅然とした口調で話した。「自己プロデュースをして、まずは存在を覚えてもらおう! そこから開始だよ」

「ふむふむ、ショーン、言うじゃないの」ヒロシは肯いた。

 すると弥生が訊ねた。

「じゃあ、存在を覚えてもらうには、どうしてらいいの? ね、ヒロシ」

「え。あ。オイラ?」ヒロシはキョトンとした。

「そうだよヒロシぃ」と少多。

「う~~ん」ヒロシはいつものように考えながらしゃべった。「存在を覚えてもらうためには、やっぱやっぱり存在感を増す。それにはドーンと迫力を出せばいい。迫力を出すためには、まず、筋肉をつけるんだ」

「むむ?」少多はポカンとした。

「筋トレしてだな、筋肉量をアップさせて、健康オーラを全身から醸し出すんだ」

「なるほどね」と弥生。

 ヒロシは続ける。

「男たるもの、無意識下ながら女性に対して、自分の子を産んで、育てて欲しい、と思ってる。意識してなくても、どこか意識の外でそう考えてるはず」

「確かに、いわれてみれば」と少多。「オスがメスを選ぶなら、健康体のほうがいいもんなあ」

「だからオイラの考えによると、筋肉をつけ、免疫力をアップさせると、異性を惹きつけることにつながる。これは男女かかわらずだよ。筋肉量を増加させて、免疫力をアップさせると、自然と異性はよってくるはずなんだ、うん」

「とすると、筋トレがいいのかあ」と少多。

「じゃあ、いまからここで、みんなでやるか」

 そう言うとヒロシは立ち上った。

「え、何を?」弥生は目を丸くした。

「筋トレさあ。皆、モテたいでしょ?」ヒロシはもうノリノリだ。

「ぎゃー」とオフィススペースで会話を聞いていたアラナが叫んだ。

「だって貞花さんひとりじゃ可哀想じゃん。みんな、こっち来て!」

 ヒロシの号令でいまこの場にいるメンバー全員、店舗の床に寝転んで、腕立て伏せ、腹筋、背筋など、皆でトレーニングを始めることになった。

「ねえちょっとヒロシぃ。アンタさ、またもや自分の趣味に皆をつきあわせてるだけじゃないのさ? しかも無理やり」運動嫌いのアラナは不満顔だ。

「気にしない、気にしない」ヒロシはいつもの陽気な笑顔だ。

「あやしーーっ」

 アラナのイカリっぷりが可笑しいらしく、またもや貞花は吹き出している。

「じゃあ、腹筋30秒いきます。3、2、1、はい、足上げて! 十センチ! あし揃えてぇ~」

 ヒロシの号令で、仰向けに寝そべった皆は、足を上にあげた。

「ね、弥生。貞花さんがいる前だけどさ。ほんとにこんな結論でいいの?」足を上げながら岩斬厳子が訊ねた。

「うう、筋トレだけじゃないの。セルフプロデュースに取り組むから、髪型、服装、持ち物、メイクなの、うーッ」

 皆は天井を見上げながら、てんで勝手に話し始めた。

「どんなファッションが貞花さんに似合うかな~」

「真っ黒&ショッキングピンクがいい~。ギャル系がおススメェー。あ。ダメか~」すでに余裕がなくなり、必死の形相で足を上げながらアラナが自問自答している。「じゃあ、ド派手ネイルぅ~ あ。ダメか」

「危ない危ない、う、腹筋が……」

「ああ、どんな髪型がいいかしらぁ、う」

「余計な連想させないため、バッサリ、ショートヘアはどうかしら、ううっ」と岩斬厳子。

「うううっキツイ。貞花さん、ショートヘアどう、で、すか?」

 弥生の問いかけに貞花が答えた。

「あああ、あたし、いつか、いっかいショートにしてみたかったの。うう、これまで、きっかけがなくて、うう」

「うああ、じゃあ、これをきっかけに」

「はい、ああっ、やってみます。ううっ、弥生さんみたいな髪型、いいな、ああっ」

「はい、30秒。足おろして!」

「ひゃあああ」

「効いたあ」

「でも楽しかったわ」

「これゃあボク、あした筋肉痛になるかも」

「毎日やれば慣れるわよ、きっと」

「はい、次は二十センチ」あくまでヒロシは陽気だ。

「え?」

「あんた、マジぃ?」

「30秒いきます。3、2、1、はい、足上げて~。二十センチ! あし揃えてぇ~」ヒロシは爽やだ。

「ぎゃああ」

「うっくっくく……」

「ヒロシ、なんでアンタ、こんな時だけ爽やかな声が出せるのよ……う」

 皆が耐え忍ぶなか、誰とは無しに少多が訊いた。

「あ、あ、そういえばね、免疫力をアップさせるには、よく笑うのもいいって聞くけど、ホントウかなあ、あ、う」

「どうやらホントウよ、う、うう」と岩斬厳子。

「じゃあ貞花さん、毎日ここに来なよ。毎日笑わせたげるよ、オイラと弥生たちで」

「いやーっつ。一緒にしないで~」

 弥生のセリフに貞花は爆笑だ。

「ひゃああ、腹筋しながら笑うと、ちょーキツイ」

「アタシぃ、ちょーマジ鍛えられてるわー」


 さて翌日。

 仕事帰りの飯山貞花が来店する前に、皆で作戦会議だ。

「きのう弥生は二段階作戦って言ってたけどォー」とアラナ。

「そうそう。ひとつめは自己プロデュースでしょ」と少多。

「二つめはなんだっけ?」とヒロシ。

「ごめん、私、まだ言ってなかったわ」と弥生。

「なんだ、そうだったのか」

「じゃあいま教えてェー」

 すると弥生は言った。

「二段階作戦の二段階めは、当然、出会いについてだけど」

「確かにね」

「出会いは、いい印象を持ってもらいたいから、ある程度、セルフプロデュースが形になってきてからがいいわね」と弥生。

「うん。そうだね」

「で、セルフプロデュースが完璧にできたとして、何かいい出会いの方法あるの?」

「それがないの」と弥生。

「ひゃあ、それはテエヘンダ、テエヘンダ」ヒロシはいつものようにおどけている。

「ねえヒロシぃ。アタシ訊くけどさあ。アンタ、ホントに大変だと思ってるの?」

「いいや、全然」

 プッと皆は吹き出した。

「なによ、怒るわよ!」

 アラナの怒声に対し、ヒロシは素早く反応した。

「待て、オイラたちには必殺技があるだろ?」

「何それ?」

「恋愛結婚株式会社には、岩斬厳子サンっていう『ザ・出来る仕事人』がいるじゃないか。出会いのアイデア教えてもらおうよ」

「ひゃあ、そんなことか。でも確かにね」

「岩斬さん、出会いについて何かいいアイデアないかしら」と弥生が訊ねた。

「あ」

 皆はオフィスを見回した。

「岩斬さんがいないぞ」

「あ。メール着信」

 弥生が急ぎスマホを見た。唖然としている。

「岩斬厳子さん、退職です……」

「ええええっ?」皆は驚きの声を上げた。

「一番頼りにしてたのに!」残念そうな少多。

「そういえば、リーサが引き抜かれたって聞いたときィ、珍しく岩斬さん、右往左往してたもんねェー」とアラナ。

「じゃあ岩斬さんも夜須弘士のラブ・マジッリ・インターに引き抜かれたのかな?」と弥生。

「あーーっ」ヒロシが叫んだ。「ちと待てよ」

「どうしたの?」

「岩斬厳子さんが退職したってことは、内来日和さんはどうなった?」

「あああっ!」

「内来さーん!」

「日和さ~ん!」

 皆は内来日和を探した。店舗エリアとオフィスエリアを隈なく見回した。

 すると、果たして、内来日和はオフィスの一番隅に、ひとりで佇んでいた。

 ということは、二人組、二人組と把握していたのだが、それはこちらの勝手な思い込みであり、二人は別々の道を歩み始めたのだ。

「内来さん?」弥生がやわらかく呼びかけた。

「は、はい……」内来日和はおずおずと消え入るような声で返事をした。

「いま、岩斬厳子さんはどうしてるの?」

「まさか夜須弘士のやってるラブ・マジッリ・インターにヘッドハンティングされちゃったの?」

 ヒロシの問いかけに、日和は細々と答えた。

「そ、そうなんです……」

「ああ、やっぱりい!」

 皆はずっこけた。やはり岩斬厳子だけが引き抜かれ、内来日和に声はかからなかったのだ。

 ――でもある意味、それは当然かもしれない。

 結果的に、我らが恋愛結婚株式会社には、内来日和だけが残ることになったのだ。

「まあまあまあ、」ヒロシは陽気な声を出した。「辞めちゃった人のこと、どうこう言っても仕方ないでしょ。皆でアイデア出し合おうよ。内来さんもこっちへおいでよ。ブレインストーなんちゃらっていうんだっけ。とにかくさ、みんなでアイデア出しあおうよ」

「そ、そうですね」俯き加減に日和は返答した。

 皆は円形に椅子を並べて座った。内来日和はゆっくり一歩一歩前へ進み、最後の最後にミーティングの輪に加わった。

 すると、真っ赤に紅潮したアラナが立ち上がった。

「皆さん、ついに我々の愛する恋愛結婚株式会社は、ぎりぎりの崖っ淵に追い詰められました」

 ギャル語ではないアラナの口調に耳を疑った皆は、アラナを見上げた。

 愛する会社が大ピンチに陥り、アラナは、ついに本来隠し持っていた何かが、体の奥底から目覚めたのだ。

「いま、愛する我が社は、未曾有の大ピンチにあります。世界一センスのあるウェブデザイナー二車カレンをあこぎな夜須弘士に引き抜かれ、軍師のリーサを奪われ、今またさらに『ザ・頼りになる女』こと岩斬厳子さんが奪取されてしまいました」

 アラナ本人さえ自覚していなかった秘めた実力を発揮すべく、アラナは滔々と語り始めた。きわめて論理的な喋りくちだ。

「しかし、我々は今現在、顧客第一号の飯山貞花さんの夢を叶える大作戦の真っただ中にいます。撤退は断じて許されません。我々が諦めたら最後、繊細で弱弱しい貞花さんは人生を諦めて死んでしまいます。だから何があってもやり遂げなければなりません!」

 アラナは、皆を舐めまわすように見た。

「貞花さんの全身セルフプロデュースは現在、弥生が中心になっておこなってるので、早晩、達成できるでしょう。では、次のフェーズは、肝心要の出会いについてです。どうすれば、我らの大事なファースト依頼人・飯山貞花さんに出会いの場を提供できるでしょうか? 皆さんからのアイデアを承りたいです」

 そういい終わると、アラナは着席した。興奮した両眼が潤んでいる。愛する恋愛結婚株式会社のために本気ちゅうの本気モードが溢れ出たのだ。

 しかし、誰も発言しない。いいアイデアが思い浮かばないのだ。

 しばし沈黙の後、内来日和が咳払いをした。いかにも、今から話し始めるわよ、という咳払いだ。

 皆は顔を見合わせた。なぜなら、内来日和が話す姿など、誰も見た覚えが無いからだ。

 そういえば入社以来、いや入社前の採用面接時も含めて、誰も内来日和がきちんと話す姿を目撃した者はいなかった。

 もう一度、内来日和は咳払いをした。先程よりもやや大きめの咳払いだ。あたかも、皆こちらを見なさいと、上司が部下を叱責し、集中させるための空咳だ。

(わたくし)、発言して宜しいでしょうか?」

 内来日和の頭頂から(じか)に発せられたかのようなその声は、真っ直ぐ天頂へ達するがごとく轟き渡った。凛と澄みわたり、しかも深い響きのある声だ。

 呆気に取られた皆は、大きく肯いた。

(わたくし)が思いますに、もう少し依頼者本人からの聞き取りが必要です。職場に出会いはないとのことでしたが、どのような仕事を何人で遂行しているのか? 職場は女性ばかりなのか? もしくは男性はいるものの既婚者ばかりなのか? お付き合いできる相手を紹介してくれそうな人がいるのなら、職場関係を当たるのも、ひとつの出会いの方法です。職場の線、ここは再確認してください」

 目が飛び出るほど流麗な発声だった。まるでモーツアルトのピアノソナタだ。あまりのことに皆は声を失った。

「返事は?」内来日和は脚を組み直した。

「は、はい……」

 皆は声を揃えて返事をした。まるで小学校の生徒のようだ。

「そして皆さんは、肝心なことを確認していません」

 少多には、そう指摘した内来日和が大巨人か、経営の神様のように思えた。

「え。な、何でしょうか先生?」

 つい少多は先生と言ってしまった。

 内来日和先生の口調は厳しかった。

「恋愛して結婚するんですから、まずもって肝心なのは、依頼者の好みのタイプです」

「あ。しまった……」少多は頭を掻いた。

「多様性の時代ですから、求める相手は若い男性に限りません。思い込みは大きな間違いのもとです。広い世の中です。レズビアンのかたもいれば、年上好み、年下好み、さまざまな方たちがいらっしゃいます。すべての人を尊重してあげてください。宜しいですか?」

「は、はい」

 すると内来日和の声は、格段と野太くなった。

「よしんば同年代の若い男性が好みだとしても、丸顔がいいとか、面長が好きだとか、色白で痩せたタイプがいいとか、ヒヤケした筋肉マッチョがいいとか、それとも全然こだわりなど無いとか、好き嫌いは色々とあるでしょうが。きちんとヒヤリングしてください。いいこと!」

「はい!」皆は声を揃えた。

「見た目の好みを聞きだす際、多様な写真を用意しておくのもひとつの方法です」

「はい、わかりました。さっそく顔写真を集めます」とアラナ。

「あの、先生?」ようやく弥生が口を開いた。

「社内で先生はおかしいですね。いままでどおり、内来さんとか、日和さんで結構ですよ」

 あくまで内来日和は落ち着き払っている。

「では、あの内来さん。私たち、いままで内来さんのこと誤解してました」

 弥生の意見に、皆も同感だ。

「それはそうね。実は本当のことをいうと、二人組の性格は、皆さんが思っているのとは真逆だったの」

「……」

 内来日和が話す内容が理解できず、皆は混乱し、沈黙した。

「常に逡巡して狼狽して、混乱するだけなのが岩斬厳子だったの。名前が与える印象と違ってね」

 皆は唖然として口がきけない。

「決断即実行できる果断な仕事人が私、内来日和です。いっぽう、内気で内向的で臆病すぎる子が岩斬厳子なの」

「えええっ!」

「厳子は私がいないと何も決められないダメ人間なのよ。皆との会話もね、私が逐一GOサインを出さないと無理だったの。あの子は自分ひとりだけだと一言も喋れないの」

「ひゃああ」

「厳子はある意味、悩み深い日本人の典型。あれこれ考えすぎて、気を遣い過ぎて、忖度し過ぎて、どうしても自分で決めることができない。周りを気にし過ぎるというか臆病すぎるというか。だから一つ一つどうすべきか、どう発言すべきか、私が厳子に逐一指示を与えていました」

「なんと!」

「私たち幼馴染だし、長きに渡る友情というものがあるから、今までずっと私は彼女の面倒を見てきました。でも、ようやく気がついたの。私がずっとそばにいるという環境が、彼女をダメにしていたんじゃないかって。親友を究極の指示待ち人間にさせてしまっていたのは、実はこの私なんじゃないかって」

「はああ。逆だったんだ~」

「そうです。皆さんの持つ印象、真逆です。私たち二人組の性格は、皆さんが思っているのと正反対だったのです」

「そうだったのかあ~」

「じゃあ、見た目とは違って、気が弱くて、常に周章狼狽、四六時中逡巡していたのが、実は岩斬厳子さんだったの?」弥生は驚き、訊ねた。

「そうよ。すべての決断は、内気で消極的だとばかり思われていた私、内来日和が下して参りました。厳子のこれまでの発言は、私が発案したものを心配性な厳子が一言一句、完璧に丸暗記していたのです」

「ああ、びっくらこいた!」

「つまり第一印象とは正反対に、果断な性格で決断即実行できるのがあなた、内来日和さんだったっていうわけなの?」弥生は呆然としたままそう問うた。

「そうです。常に二転三転して私がそばにいないと電話一つかけれない超弱気の虫が岩斬厳子だったのです」

「ひえ~~~!」

「驚天動地の大どんでん返し~」

 皆の頭脳はひっくり返った。内来日和は野太い声で続けた。

「私は、夜須弘士さんの経営するラブ・マジッリ・インターナショナルINCから引き抜きの話があった際、これを機会に彼女を独り立ちさせようと決断しました。岩斬厳子を一人の社会人として一本立ちさせる最高の機会だと確信したのです。だから、このたび、あの頼りない子がたった一人、採用が決まって、私、本当に喜んでいますの。長年あの子のために骨を折ってきた甲斐があったというものです、うっうう」

 内来日和の目には、うっすらと涙が滲んだ。

「それはそれはご苦労様でした」

 そう言うヒロシでさえ呆然としている。

「あっ。飯山貞花さんがお見えになりました!」

 少多が声を上げた。

「あの、内来さん?」弥生が問いかけた。恐る恐るだ。

「どうかしまして?、弥生さん」

「ぜひ、私たちと同席して。飯山貞花さんのインタビューに参加してもらえませんか?」

 弥生からの同席依頼を耳にすると、内来日和はゆっくりと、厳かに首を横に振った。その存在は、山のように大きく見えた。

「聞き取り調査に私は同席しません」

「えっ?」皆は耳を疑った。

「内来さんは傑出した実力をお持ちなのに、どうしてですか?」

 すると内来日和はニヤリと笑ってこう言い放った。

「私が参加すると、若いあなたたちが伸びないからよ」


 相談ブースの前回と同じ席に、飯山貞花が座った。弥生、ヒロシ、少多とだ。

 そこへアラナが届け物を持ってきた。大至急プリントした雑多な男性たちの顔写真を綴じたファイルだ。

 内来日和はオフィスの片隅から、皆の様子をじっと監督している。腕を組んでだ。

「えええっ!」

「ギャー!」

「どうしてこの写真が!」

 ブースから驚きの声が上った。アラナは答えた。

「どうしてって、この前カレンがサイトを見つけて、顔写真入りで代表者挨拶う? なんてキザな野郎なの、ぶっ飛ばすって覚えてたからァー」

「ひゃー、まさかなあ」ヒロシはたまげた。「若い男性百五十人のうち、まさか夜須弘士がドンピシャリ、貞花さんの好みの顔だとは……」

 少多も困惑した。「確かに夜須シは、顔だけならイケメンではあるけれど……」

 内来日和が目配せしたので、アラナは至急伝言を聞きに行き、すぐに取って返した。

「でも皆さん」アラナは言った。「好みのタイプとは外見だけじゃありません。どういう性格の男性が好きか? 内面についても好き嫌いは重要ですよ」

「あ。そっかあ、そうだった」ヒロシは相変わらずノンキだ。

「男性的でマンリーなタイプが好みだとか、正直で誠実な男性がいいだとか、いろいろな性格の男性がいるわね」と弥生。

「キザでかっこつける男がいいとか、おとなしい人がいいとか」と少多。

「オイラみたいにノーテンキで無責任な野郎が好きだとか」

 飯山貞花はぷっと吹いた。「無責任な男性は、私には向いてないわ」

「そうよねー?」と弥生。

「すぐ人真似して、カネの力でよその会社から大事な人材を三人も引き抜くような男は?」少多が訊ねた。

「お金の力で物事を解決しようとする考えには、私はまったく賛同できませんし、人真似ばかりというのもみっともないですね」

 おとなしい貞花にしては珍しく果断にそう言いきった。よほどの意思なのだ。

「ああ」

「良かった」

「実はこの写真の男性、今言ったとおりの人なの」弥生は解説した。「恋愛結婚株式会社を真似して同じような社業の会社を立ち上げてね。高給を餌に、うちの会社からもう三人も社員を引き抜いたの」

「そんなひとは困ります。実は私……」

「はい、何でしょう貞花さん」

「実は私、男性は、外見で決めるタイプじゃないんです。私が求めるのは、誠実さや、人を思いやる気持ちです。結婚して半世紀以上、ともに生活するのですから、ウソをつかず、裏切らず、真面目で素直な人が希望です。あ、そんな素晴しい方に私がつりあうという意味ではなく、単なる願望なんですが……。ああぁ恥ずかしい……」

 貞花の口は止まってしまった。

「いいのよ、どんどん続けて」弥生は励まし、促した。「私たちには包み隠さず何でも話してほしいの」

「はい、ええっと」貞花は勇気を出して続けた。「その、私、思うんですけど。おカネで何でも解決しようとするその人の考えの、根っ子にある部分、大元にある人生観のようなもの。それに私は共鳴も共感もできません。だからそんな人との結婚はありえません。私、強く、そう思います」

 貞花は、おのれの思いを言いきった、

「そうかあ、貞花さんは結婚相手に、きわめて当然なことを希望してるんだ」とヒロシ。

「普通の人だけど、いそうでいない人ね」と弥生。「いざ探すとなると、いそうでいないわ」

「人生、おカネじゃないと理解してる人かあ」と少多。

「オイラ、まだまだ苦労してないから、そんな立派な悟り開けてないもんなあ」とヒロシ。

「でも依頼者の貞花さんの希望が確認出来てよかった。すっきりしたわね!」と弥生。

 貞花は大きく肯いた。

 少多は言った。「うん、極めて常識的な男性だけど、いそうでいない。よほど苦労しないとそこまで悟れないぞと、永遠に悟れなさそうなヒロシが言ってる」

「くははは。言われてるなオイラ」

 ヒロシの屈託のない笑顔につられたのか、飯山貞花の表情に笑みが戻った。

「よし、やるぞ。オイラ見つけるぞ」

「ボクもやるぞ、貞花さんのために」

 すると弥生は壁時計を見た。「じゃあ貞花さんと私は、これからいっしょにヘアサロンに行ってくるわ。予約してあるの」

「え。何それ? ヘアサロ……」ヒロシは首をかしげた。

「美容院のことよ!」

 女子社員全員が吠えた。

「アンタどこまで寝ボケてるのよ! も~~お!」アラナは、シャープなピンク色に金銀の星がきらめく華麗な爪で、空を掻き毟った。

 貞花は笑みを浮かべている。

「弥生さんどうもありがとう。私、弥生さんの髪型が気に入って、同じ美容師さんに切ってもらいたいから」

 二人は仲良く連れ立って外出していった。

 その後、ヒロシと少多は、きょうのインタビュー内容を内来日和とアラナに伝えた。

『大切なことは全社員で共有する』という内来日和の教えに則って、アラナもすべての打ち合わせに参加することになった。

 内来日和は腕を組んだ。「そうね。よくわかりました。依頼者がお相手に希望するのは、自分と同年代、もしくは少し年上の男性。見てくれよりも内面を重視する。お金よりも、思いやりの心や誠実さがポイントね。よく理解できました。じゃあ次に、そんな男性とどこで出会えるかだけど」

 皆は考え込んだ。

「クラブじゃあないしぃー」アラナは頭をひねった。「キャバクラでもホストクラブでもないしぃー」

「ラブ・マジッリ・インターナショナルにもいそうにないな」と少多。

「皆さん、お待ちになって」内来日和は真剣だ。「外見は徐々に整っていくとして、この依頼者さんの場合、このままの状態で出会いがあっても、その出会いを生かしきれないんじゃなくて?」

「え」

「あ」

「報告によれば依頼者さんには、小中高と長年、抱え込んできた心の痛みがあるんでしょ? 現に今、異性恐怖症かもしれない。同性の友人もいないとのことだったので、同年代の女性と話すのも怖いのかもしれない」

「さすがは日和さん、鋭いなあ」とヒロシ。

「対人恐怖症のようなものがあるのなら、まずそれを克服するのが先決じゃなくて?」

 内来日和の指摘に皆は同感した。

「確かに!」

「そうだわぁ」

「理想を言えば、貞花さんが心の傷を克服するなかでこれぞという男性(ひと)とめぐりあって、結ばれてくれたらいいでしょうけど、なかなかそうすんなりいくとは限らない」内来日和は腕を組み直した。

「でもそれが理想だあ」ヒロシはヒロシなりに考えた。「対人恐怖症を乗り越えられるような場所ってあるかな?」

「温かい心の持ち主が、多く集るところかなぁー」とアラナ。

「う~~ん」少多もじっと考えている。「優しいひとが集る場所かあ」

「自分より無力な人が目の前に現れたなら、私が手を差し伸べなきゃって、自然と人見知りを克服できるかもね」ヒロシは心に浮かんだことをベラベラ述べた。「ああ、でも人見知りと対人恐怖症は別かあ」

 メンバーがそれぞれ口に出してアイデアを言い始めたので、内来日和はニコニコと黙って聴いている。

「社会的弱者といえばご老人とかかな」

「無力な人たちといえば乳幼児かな」

「あら、あなたたち、的確なアイデアだわ」内来日和は肯いた。

「じゃあ、そういう人たちが集るイベントがあるかどうか検索してみよう」ヒロシは提案した。

「そうだ!」

 三人は手分けして、お年寄り対象の集いや、乳幼児向けのイベントをパソコンで検索した。検索しながらヒロシは言った。

「貞花さん曰く、『私は自称冴えない事務員で、職場で浮き上がるどころか浮き下がってる』ってことだったけど、やっぱり会社勤めということは、活動可能なのは土曜と日曜と祝日だよね?」

「うん、そうだわ。だからじゃあ、勝負は土日祝か。地域のイベントないかしら、お年寄りやちいちゃな子供が参加するようなァー」

「あ、近場でひとつ発見、高齢者向けのイベントだ」とヒロシ。

「どれどれ。あ、でももう出展者申し込み期間が過ぎてるぅー」

「あ、乳幼児イベント発見。こっちはまだ間に合う」と少多。

「じゃあ応募しちゃおう」とヒロシ。

「何に応募するのサ」

 アラナの問いに、少多が答えた。

「『乳幼児向けの手作り玩具や、体を動かして親子で遊べるゲームなど、ブースの作成と運営をともにお任せできるイベント出展者を募集しています。ぜひご応募ください』って書いてあるけど……」

「それってアラナが最も得意とするところじゃん。皆で手伝うから参加だ!」ヒロシが言った。

「そうね、アタシぃやってみたい、貞花さんと一緒に」

「よし、一個決まりだ」少多はノリノリだ。

「ところで皆さん」

「はい」三人は内来日和に振り向いた。

「高齢者向けのイベント、申込期間が終わってるとのことでしたが、一度電話してみたらどう?」

「え?」

「あ」

「こういった地域イベントは千差万別で、申し込む団体が少なくて主催者が困ってる場合もあるわ。念のため電話で問い合せてみればどうかしら?」

「確かに! ダメモトでかけてみよう」ヒロシがその場で電話した。

「……もしもし、はい、はい、こちら恋愛結婚株式会社の緑井比呂志っていいますが、四月二十九日の高齢者向けイベント、今からでも申し込めますか? ハイ、ぜひ出展したいんです」

 ヒロシは躊躇なく行動に移れる行動派だ。少多には無い特性だ。

「……えっ! いまからでも大丈夫! ああ、良かったあ~。電話してホント良かったあ。申し込みはホームページを通して? じゃあ、必要事項を入力します、はい、はい、出展者説明会はあしたですね、はい、必ず参加します!」

 ヒロシはにっこりして電話を切った。

「さすがは内来さん! 神通力だ、なんでわかったんですか?」

「念ずれば通るってね、ことわざどおりよ」

「さすがだなあ。敏腕の、出来る仕事人だあ」少多は脱帽した。

「日和さんのお蔭で、アタシたち、着実に前に進んでるって実感できるぅ~」とアラナ。

「じゃあまず、高齢者向けイベントについて意見を交換しよう」ヒロシが言った。「どんなブースにすればいいかなあ」

「大前提として、地域にお住まいのお年寄りの方々に楽しんでもらう」と少多は言った。

「うん、それとともに、依頼者の飯山貞花さんに何をやってもらうかが肝心だぞ」おとぼけヒロシは言った。「あれ? どうしてだっけ?」。

 するとアラナと少多は代わる代わる言った。

「できれば貞花さんの負の記憶を払拭したい」

「貞花さんに自信を取り戻してもらいたい」

「貞花さんに成長してほしいというか、視点を変えて生きやすくなってもらいたい」

「じゃあ、貞花さんに、何をやってもらえばいいかなあ」とヒロシ。

「やっぱりお年寄りたちと、じかに接することがいいんじゃない?」とアラナ。

「そうだね、心温かなお年寄りたちと接すれば、傷ついた心も癒されるはず」と少多。

「じゃあオイラたちのブースに、たくさんお年寄りが集ってもらうためには、どうすればいいかなあ?」

「お年寄りがワンサカ来てくれるブースね。ナイスでグッドなアイデア、ないかなァー」

「いいアイデア出てこないかなあ」

「どうすれば多くの人が来てくれるのか? う~~ん」

 皆は煮詰まった。

「こういう時はブレイクタイムよ」内来日和が助言した。

「さすがは日和さん、的確なアドバイスだ」とヒロシ。

「ブレイクって何さ?」

「休憩ってことだよ」

「なーんだ、ハッピー。アタシお手洗い行ってこよっと」

「ボクもだ」

「ヤダ、ついてこないで!」

 日和を吹き出させながら、アラナと少多はトイレへ行った。

「うう~」大きく伸びをしたヒロシは言った。「オイラ、ちょっと散歩にいってくらあ」

 どうぞ、っといった素振りで内来日和は肯いた。

 ヒロシは屋外に出た。

 もう真っ暗だ。

 寒くはない。朧月夜だ。

「そうだ、あそこに行ってみよう」

 先日、幻の青いワンピースの女性が立っていた小さな橋に向かって、ひとりヒロシは足を進めた。

「青洞院彬子さんって、いったい何者なのだろうか? 会社をいくつも持ってるってカレンが言ってたけど、どうしてあんなに艶やかでグラマラスなのに、気品があって天女みたいなんだろう? あまりにオイラの好みのタイプにピッタリなんだよな~」

 そうつぶやきながら、謎の青いワンピースの女を脳裏に思い浮かべた。ふ抜けた気分になったヒロシはふらふらと小橋を渡った。

 通行人は誰もおらず、車も通らない。

 そのとき、危険な芳香が漂ってきた。男という男を骨抜きにする、濃厚で、甘い薫香だ。

「ああぁっ」ヒロシはニタ~~っと惚けた表情になった。「あのひとが現れるときには、必ずこのあま~い香りに包まれるんだあ~」

 さらにふ抜けた状態に陥ったヒロシは、よろよろと足を進めた。すると――。

「ああっ」

 目の前に、青いワンピースの女が立っていた。

「あっ、あなたは!」

 ヒロシは釘付けだ。

「うふふふ」

「会いたかった……。青洞院彬子さんですね?」

 目を奪われたヒロシは立ち止まった。

 あの日のままの青いワンピースが、春の微風にゆらりゆらりとヒロシの鼓動を早めるように揺れている。

「よく私の名前をご存知ね」

 天から降ってくるような声は清らかで、尚かつ艶かしい。とろけるような甘い声だ。

「デザイナーのカレンから教わって。あっ、オイラ、恋愛結婚株式会社の緑井比呂志です。皆からは、ヒロシって呼ばれてます」

「ええ、そのようね」

 ちょうど上空に風が吹いたのだろうか。雲が動き、月が完全に顔を出した。煌々と照る満月に照らされ、キラリと青洞院彬子の顔が輝いた。

 ヒロシを見つめるその両眼は、慈悲深い天女のような温かさだ。じっとヒロシを見つめている。

「まさか、まさか、今夜お目にかかれるとは思いもよらなかった……」

 いまだヒロシは呆然と突っ立ったままだ。

「そう? どうしたの、そんなに思案しあぐねた表情なんて。本来のあなたらしくないんじゃなくて?」

 なんて優艶な声なんだ。

 ヒロシはよろこびに悶絶しそうになった。

 口ごもったヒロシに対し、ムード満点の美女は申し出た。

「ヒロシ。なにか相談したいことがあるなら、遠慮なく言ってみて。私でよければお話しを聞かせてもらうわ」

 憧れのひとからの、思いもしなかった問いかけに、ヒロシはドギマギした。

「あ、あ、あの。いま、オイラたち、恋愛結婚株式会社の皆でいっしょに考えてるんですが」

「なあに?」

 温かな大きな瞳に包まれた。

 もう、ヒロシは心底とろけそうになった。

「あ、あの、高齢者さん向けのイベントにブースを 出展することになって、せっかくだから多くのお年寄りに集って欲しいんだけど、誰もいいアイデア思いつかなくて……」

「どうして?」

「だってオイラたちまだ若いし、そんなしょっちゅうお年寄りに会うわけじゃないから、どんなブースにすれば来てくれるかなんて、想像つかないっていうか、雲を掴むような気持ちっていうか、高齢者さんたちの気持ちがわからないから、どうすれば喜んでもらえるのか……」

「そうね。ただ来て欲しい、単に集ってほしいだけではなく、喜んでもらえればいいわね、そのとおりよ」

「そうかあ、喜んでもらえばいいんだ!」

 彬子はにっこり笑みをこぼした。はからずしも途轍もない魅力が、笑顔とともに四方八方に飛び散った。この世に稀に存在する本当の美人から発散された魅力。その直撃を受けたヒロシは瞬時に悩殺され、よろめいた。

「あああ……。オイラ、もうイチコロで……」

「目を覚まして、ヒロシ。そうよ。喜んでもらうのよ。それにはね、付け焼刃的なことよりも、あなたがたの社業、天から授けられた本業を活かせばいいいんじゃなくって」

「えっ? それどういうこと?」

「うふふ。あとはヒロシ、あなたにお任せします」

「え、教えてよ!」

「私、あなたには一目置いてるの。これから先は、あなたが自分自身で考えたほうが、きっとうまくいくわ」

 そう言うと、青いワンピースの女こと青洞院彬子はウインクした。煌めきとともに、目に見えぬ何かが飛散した。

「ああっ」

 瞬時に、ヒロシの脳髄は破壊された。両目から脳へと続く視神経に、甘く薄紅色に光り輝く光の矢が突き刺さり、あやうく失神して倒れそうになったところを、駆けつけた少多に抱きとめられた。

「どうしたのヒロシ? 転倒するところだったじゃないか!」

「ああ、ショーン。助けてくれたのか? オイラ瞬殺されて、このまま昇天したかったんだけど……」

「なにバカなこと言ってるの? もう休憩時間が終わったから呼びに来たんだよ」

「ああぁそうかぁ、ああぁ夢なら醒めないでって思ったけど、醒めちゃったのかなあ」

「ああ、ほんとに寝惚けてる。さあ、しゃんとして! 起きてよヒロシぃ!」

 こうして少多に引き摺られるようにして、ヒロシは会社に戻っていった。さすが裸のつきあいをした仲だ。


 ブレイクタイムが終わり、皆は着席した。

 ヒロシは心ここにあらずだ。「しかしなあ、しまったなあ。アイデアのことばっかし話して、彬子さん本人のことはなんにも聞かずじまいだった。ああぁ、しくじった。大チョンボだ。でも、それにしても素敵だったなあ。素晴しかったなあ。月の光で白く輝いたとき、頬笑んでくれた。オイラの顔を見つめてくれた。あれ? 確かオイラの名前、知ってたぞ。いや、あれはオイラが名乗ったからか。でもヒロシって、呼びかけてくれた。微笑みかけてくれた。いい香りが漂ってた。声がまるで、天界から降ってくるように、甘く、柔らかく、まるで天女の声だった。やっぱりあのひとは天女なのかなあ」

 ヒロシはデレ~っと、ヨダレを垂れ流した。「そういえばアドバイスしてもらったなあ。何だっけ? ムムっ? そうだ、恋愛結婚株式会社の本業って言ってたよな、あったかいあの声で。天から授けられた社業ってなにかな、オイラたちの~」

 口の端から垂れたヨダレがおのれの腕に落ち、水溜りを作っていた。

「ねえちょっと、ヒロシぃ」アラナがヒロシのヨダレを見咎めた。「あんたチョット、少しは考えたの?」

「ちょっとヒロシ、口からヨダレが溢れてるよ!」

 アラナと少多は、いまだ心ここにあらずの与太者をなじろうとした。

 その時、ヒロシが叫んだ。

「あった~あ!」

「どうしたのヒロシ」

「何があったのよォ?」

「アイデア発見!」いまだヒロシは夢見る目つきだ。

「マジでェ?」

「話してみてよ」

「本業だよ、オイラたちの社業だよ!」

「どういう意味?」

「オイラたちの会社は『恋愛結婚株式会社』。皆さんに、恋愛結婚をしてもらう会社だ」

「うん、そうだね」

「で?」

 夢見る顔つきのまま、ヒロシはイタコさんのように述べた。

「つれあいを先に亡くされてる人も多いだろうし、年齢的に今さらもう結婚はしないまでも、今からでも恋愛してもらおうよ!」

「お年寄りの恋愛ってこと?」

「そうだよ、皆さんに喜んでもらえるよ!」ヒロシは笑顔で言った。

「きゃああ、アタシぃ賛成ぃ!」

「やったね、ボクも賛成!」

 内来日和もにこやかな表情で大きく肯いている。

「オイラたちのブースで、皆さんに恋愛してもらって、大いに喜んでもらおう!」

「きゃあぁ、ついに決定ね! 恋愛結婚株式会社がプロデュースする究極の恋愛ブースだあ!」アラナはノリノリだ。

「本業を役に立て、本業の役にも立つ。よくヒロシ、このアイデア思いついたね~」少多は感心した。「ボク、脱帽しすぎて若ハゲになりそう」

 アラナはプッと吹き出した。

「ショーン、あなた最近おもしろいこと言うようになったわね~。ウケる~」

「ただいま~」弥生の声がした。

「あああ。可愛くなってるぅ~~」

 アラナが指摘したとおりだ。弥生の隣に立つ貞花の髪には薄くパーマがかかり、いい感じのウェーブがかかっている。長さは弥生とほぼ同じぐらいのショートヘアだ。

 オシャレな髪型になった貞花と弥生も元気満々に帰社し、ミーティングは皆でワイワイ盛り上がった。

「恋愛するんだから、高齢者さんどうしがどうしても会話しなけりゃならないゲームとかがヤッパいいのかなー。迷うなーアタシぃ」とアラナは熟考中だ。

「人と人を結びつけるってホント、難しいわねえぇ、年齢にかかわらずね」当事者である貞花も、お年寄り恋愛イベントの内容をあれやこれや考えた。「ゲームやクイズで接点は作れても、晴れてカップルになるかどうか、こればかりは」

「そうなのよねえ。合わない二人を無理にくっつけても、だれも幸せにはならないしねー」と弥生。

 皆はそれぞれ頭のなかに、出会いを想像して語った。なかでも髪型が変わっただけで、貞花がよく喋るようになった。

「頭の中でシュミレーションしてみたらね、」貞花は言った。「出会いの場は提供できても、どちらも一歩踏み出さなかったら出会いは消え失せて、出会いが出会いにならないのよね~」

「そうかあ~。いま一歩の勇気が必要なのかあ」と弥生。

「男女が出会っても、化学反応を起こすかどうかは当人たち次第っていうか、相性次第っていうか」と少多。

「化学反応ねえ、美智とショーンがなあ」とヒロシ。

「最初はまさかって思ったけど、意外や意外、いまとなれば相性ぴったりって気がするから不思議よね」と弥生。

「謎だ。恋愛の神秘だ」とヒロシ。

「人生の先輩なんだからサ。高齢者さんたちのほうこそ、恋愛の謎、とっくに解き明かしてたりしてェー」とアラナ。

「そのとおりかも! アラナ鋭い!」と弥生。

「アハハ、そうだったらオイラたち全員、教えを乞わなきゃナ。だってまだみーんな独身なんだもん」

「ぷっふふ」貞花は、日増しにほくほくとした笑みがこぼれるようになってきた。

 こうして恋愛結婚株式会社はしばらくの間、依頼者・飯山貞花のセルフプロデュースと、高齢者向け恋愛イベント出展につき大忙しとなった。


 高齢者イベント当日がやってきた。

 恋愛結婚株式会社の面々は準備してきたことを活かし、精一杯活動した。誤算もありつつ、想定外に首尾よくことが運んだこともあり、ブースは賑わった。

 そしてイベントが終了し、撤収作業を開始する頃だった。

 ひとりの腰が曲がったお婆ちゃんがやってきた。

「貞花ちゃんはいるかえ?」

「はい、ここです」

 ポスターをきれいに剥がそうと工夫していた貞花は一体なんだろうと、おずおずと進み出た。

「ああ、貞花ちゃんかい。きょうはありがとね。楽しかったよ」

 お婆ちゃんは貞花を抱きしめんばかりにして、両手を繋いだ。きょう様々な話をしてくれた参加者だった。

「あんたはほんに穏やかで、いい人やね。優しくしてくれてどうもありがとね。イヤな顔ひとつせんと、わたしの話聴いてくれた。一日あんたのお蔭で楽しめた、感謝感謝や」

 お婆ちゃんは両手を離さず、くりかえし何度も貞花にお礼を言った。仮に仕込みだとしても、ここまで何回も何回もお礼を言わないだろう。

「とっくの昔に亡くなったけど、うちの人に出会った頃のこと、思い出したわ。はああ、もう何十年も大昔、半世紀以上も昔のことやけどなあ」

 顔を上げたお婆ちゃんは、遠くの空を眺めるような目をした。

「ありがとうな、ほんまにありがとうなあ。貞花ちゃん、あんたも幸せになってな」

 顔をくしゃくしゃにして、皺だらけの大きな笑みを浮かべるお婆ちゃんに接し、貞花は涙ぐんでいるようだ。

 お婆ちゃんはお迎えの人が来て、老人ホームへ帰っていった。

「東京でもこんなりっぱな夕陽が見えるんだね」

 そう言ったお婆ちゃんは、いつまでも貞花にむけて手を振っていた。その瞬間、貞花の脳裏には、いままでの人生の辛かったこと、さびしかったこと、くやしかったことが走馬灯のように浮かんだ。そしてそれらの負の記憶は、お婆ちゃんの皺くちゃの笑顔に上書きされていく。そう実感した。思いきって、大声を上げて泣き叫びたい気持ちになった貞花のむこうには、巨大な夕陽が輝いていた。

 気が付くと、いつの間に弥生がかたわらに立ち、そっと手を握ってくれた。この温もりを、私は終生忘れないだろう。貞花はそう感じた。


 さて。

 次の予定はもうすぐそこまで迫っていた。

 乳幼児向けの地域イベントは、五月後半の連続した土日二日間に開催予定だ。その初日に向けて、恋愛結婚株式会社の面々は作業をすすめた。アラナがデザインした、ド派手カラーのブースを手作りするのだ。

 ド派手なのには理由があった。先に行われた高齢者向けイベントでも、赤と黒が主体で、ラメ入りで、どぎついパンチの効いたブースは珍しく、唯一無二だった。当たり前だが他に無かった。

「ディスコというのかクラブというのか、このブースはやけに迫力満点ですな」

「こういうケバケバしいところ、死ぬまでに一度は入ってみたかった。ササッ、参りましょう、参りましょう」というお年寄りたちがわんさか押し寄せ、老男老女がひきもきらぬ大人気になったのだ。

 では次のイベントもド派手でいこう! ネイルで鍛えたファッションセンスと手先の器用さを活かし、アラナがブース作りの中心になった。

「みんなー、赤黒金銀よ!」

 ちょうどアラナの音頭で、色塗りをしている最中だった。

 衝撃的なニュースがもたらされた。

 定時よりやや遅れて、内来日和がオフィスに駆け込んできた。

「みんな、最新ニュースよ。冷村悧依紗(ひえむらりいさ)の正体がわかったって、ラブ・マジッリ・インターの岩斬厳子から情報が入ったわ」

「え? リーサの正体?」

 皆は、内来日和の次のセリフを待った。

 日和は皆の目を見て話した。

「夜須弘士のラブ・マジッリ・インターに、経理部長兼取締役として迎え入れられたリーサこと冷村悧依紗だけど、しばらくすると、まったく出社してこなくなったんですって。心配した人事部員が、リーサの履歴書に書いてあったタワーマンションを訪れると、そんなタワマン自体がこの世に存在してなかった。早景大学に問い合せたところ、そんな学生はいない。しかも、あなたたちが卒業した高校に連絡したところ、そんな卒業生はいないってことだったの」

「ええええ?」皆は完全に虚を突かれた。

「でも、だって、オイラたち同級生だったはず」とヒロシ。

「でも一緒の教室で授業を受けた人は誰もいないんでしょ?」日和は訊ねた。

「だってリーサは私たちとは違って、理数進学特別コースだったから」弥生は説明した。

「それ、噂だけで、誰も実際には確認してなかったんでしょ?」

 皆はコクンと肯くよりほかない。

「すべてウソだったのよ」日和は告げた。

「えええ? じゃあァあ、どうして運動会にいたのかしらァー」アラナは首をひねった。

「あああっ! 本当の生徒じゃないから運動会に出場できない。だから、体育館裏に隠れてたんだわ!」ようやく弥生は合点した。

「あちゃあ、騙された!」ヒロシはあんぐりと大きな口を広げた。

「まさかリーサが……」少多は呆気に取られた。

 日和は冷静な口調で続けた。「警察に問い合わせたところ、有名な詐欺師だったんですって。年齢は三十一歳。当然、冷村悧依紗って名前も偽名よ」

「ぎゃあ!」弥生はひっくリ返るほど衝撃を受けた。

「リーサっていうニックネームも、誰がどこで名付けたものやらって感じなのよ」日和は腕組みした。「業界内では札付きのペテン師。とんでもない嘘つき人間として名うての存在でね。ラブ・マジッリ・インターINCの開業資金、全部持ち逃げしたんですって」

「アチャアア!」ヒロシは開いた口が塞がらない。「校舎裏でも、いつでもどこでも堂々としてたから、全然、気づかなかった!」

「自分は理数特進クラスの優待生だっていう噂を流して、私たちと同じ教室にいなくて当たり前という雰囲気を作り上げてたのね……」弥生はあまりものショックでピクリとも動けない。

「私服OKの都立高校なのに、リーサって、なぜかビジネススーツで三年間登校してた。雨の日も風の日も。遠足の日も、運動会の日も」と少多。

「詐欺師という存在もいわば社会人だから、だから毎日決まってスーツだったのかなあ、ナハハハハ」ヒロシはひとり苦笑した。

「いかにもできそうな銀縁眼鏡だったのにィー」アラナも仰天している。

「あれは、変装のための伊達眼鏡ですって」と日和。

「ぎゃあ! まさかァー」アラナはさらに仰天するしかない、

「こりゃ、オイラ、外見と名前に完全に騙されてたよ」さすがのヒロシも驚嘆した。

「リーサは資格も沢山持ってるって噂だったけど、確かに漢字をたくさん知ってて、計算も早かった」と少多。

「今考えれば、そんなの今どき、スマホがあれば片手でチョイチョイよねェー」

「あぁ、できる軍師は外見だけだったのね」

 度肝を抜かれた皆は、口ぐちに感想を洩らした。

「うん。当方を裏切って、ウソシの元へ走ったけど、その後、ウソシまで裏切ってたとは」

「はなから裏切るつもりで潜入してたんだよ」

「ああ、まさか同級生じゃなかったとは!」

「全然関係ない詐欺師が、三年間、校舎に紛れ込んでたなんて! びっくりドッキリ、とんでもないゼ~」

「そうかあ。もしかして実力派の詐欺師が、成金で有名な夜須弘士からお金を盗み出せないか、接点を求めて三年間も高校に潜入してたのかあ」

「ひゃあ~。実体は、想像を遥かに超えた辣腕ペテン師だったんだー」

「恋愛結婚株式会社の法人登記をしてくれたって感謝してたけど、あっ!」弥生は口を押さえた。

「それ、かなりの確率でしてないわね」と日和。

「あぁ」弥生は頭を抱えた。

「とんでもない札付きの詐欺師だから、私たちの被害がそれぐらいなら、まだマシだわよ」

 そういって日和は弥生を慰めようとした。

「夜須弘士に取り入るために、リーサはのべつまなしにアイデア出してたようだけど、ターゲットは夜須弘士が親から貰った開業資金だったのよ」

「5億8千万円も着服してトンズラかあ。リーサめ、儲けやがったな」

「次会ったときには、スーツが高級ブランド品になってたりしてね」

「アハハ。銀縁眼鏡がゴールドになってたりして、ムハハハ」

 皆は呆れ果て、苦笑いするしかなかった。


 さて、次のイベントは刻々と迫っていた。

 前回、高齢者向けイベントで貞花は、自分より遥かに弱弱しく無力なお婆さんにとても親切に接し、何度も何度も心からお礼を言われた。

 この出来事は貞花の心に響き、なにがしかのポジティブな影響を与えているはずだ。

 さて5月末、土日連続で開催される乳幼児向けイベントの一日めだった。

 恋愛結婚株式会社のブースは、アラナがデザインしたド派手な外観が功を奏し、多くのこどもたちが集まり、入り浸り、皆、てんてこ舞いの忙しさになった。

 中でも貞花の評判は良かった。特におとなしめのこどもたちが自然になついて、大人気だったのだ。

 貞花は無垢で甘えんぼの乳幼児たちに頼りにされ、誰かの世話をするという自分の新たな面を開拓したのだ。否応なしに、弱者の面倒をみなければならない環境にほうりこまれた結果だ。帰り際のお母さんたちから口ぐちに感謝され、貞花は自信をつけた。

「思いもしなかったわ。私、自分が甘えん坊だとばかり思ってたけど、存外に世話好きだったのかしら……?」

 こうして無事に一日めは終了した。

 皆、ヘトヘトだ。明日もがんばるためには若者といえども休息が必要だ。一刻も早く帰途につかねばならない。

 夕方、恋愛結婚株式会社のメンバー皆で公民館から出て、左へ曲がる急カーブの下り坂を歩いているときだった。かなり急な坂道だ。

 物凄いスピードで一台の自転車が、猛然と貞花の目と鼻の先を通り過ぎた。

「きゃあ!」

 貞花は叫び声を上げた。

 パニック寸前の自転車配達員は、急峻な下り坂のカーブを上手に曲がりきれず、貞花の目の前で転倒した。キュルキュルキュルと暮れなずむ景色を引き裂くようなブレーキ音を残し、結局は何にも当たらず、ぶつからず、自分だけ地面に横転した。見事な自損事故だ。

「あ痛タタタ……」

 配達員の若い男性が、泣いてるのかと心配になるほど惨めな声を上げた。

 いままでの貞花なら、驚き、慄き、怯え、足早に通り過ぎただけだったろう。だが、その時、小さな子供の世話を半日し続けた流れで、つい、かがみこんで問いかけた。乳幼児に接するようなやんわりとした態度と声で。

「だいじょうぶ?」

 それは、漢字の大丈夫では決してないニュアンスだった。

「あ。す、すみません」

 気が動転している配達員の青年は、大慌てで起き上がろうとしたが、

「あタタ……」

 まだ無理なようだ。

「おケガはありませんか?」

「おケガはありませんか?」

 偶然ながら、ふたり同時にまったく同じセリフを口に出した。

 ふたりの目が合った。

「ふふふふ」

「はははは」

「どうやらだいじょうぶなようですね?」

「ええ、はい、僕はだいじょうぶです。ご迷惑かけて申し訳ないです。あなたがおケガなく、だいじょうぶそうで、良かった」

 ようやく青年は身体の向きを変えて、起き上がろうとした。

「あテテテ」

 青年は左足のくるぶしあたりに痛みがあるようで、まだ起き上がれない。路上に座ったままだ。

「アタタた、参ったな」

「どうやら私を避けようとして転倒されたようで、なんだか申し訳ないわ」

「いえいえ、ちょっと急ぎすぎて……。バカだなあ、ここ通るたびこうなっちゃう……。ここ、かなり急な下りのカーブで危ないから、前来たときも危うくこけそうになったのに、注意散漫でした。いまさら反省しても遅いけど、ハハハ」

 力ない、自虐的な笑いだ。

「そんなに急いで配達しないといけないんですね。というか、まさか荷物がグジャグジャに? なってしまったかしら?」貞花は心配した。

「そ、それが幸いなことに、配達が終わった後だったので、荷物入れは空っぽなんです」

「ああ、それは良かった。不幸中の幸いね」貞花はホッと胸を撫で下ろした。

「ええ、だからそんなに急ぐ必要なかったんだけど、土曜の夜はかき入れ時で、急げば次の配達注文ゲットできるかなって、取らぬ狸の皮算用で急いじゃって……。ああ、ホント馬鹿だなあ。巻き込んでしまって、ホントごめんなさい。こんなバカ男のトバッチリ、ほんとうにすみません」

 青年はひたすら謝っている。話し方はすこぶる自嘲気味だ。

「いえ、私はなにも迷惑なんてかけられてないし、そんなに謝ってくださらなくて結構ですよ」

「そ、そうですか。そんならいいけど、ああ、チョッと痛むなあ」

「こ、骨折ですか?」

「あ、いえ、そんなにひどくはないようで、ちょっと足をぐねっただけだし、二、三日すればスグ良くなると思います」

「念のため、お医者さんに診てもらったらどうですか? でも土曜のこの時間だから、どこもやってないかしら。明日も日曜日だから救急病院以外は閉まってるかもしれませんね」

「うん、たぶん、医者に診てもらうほどひどくない、ほっときゃあ治りそうです。でも、今日明日はもう駄目だな。全速力でペダルを漕ぐのはチト無理っぽいな、あははは。いったい何のために焦ってブッ飛ばしたのやら、ホント、自分が情け無い。こんなんだったら、いっそ死んだほうがマシだ……」青年から、とことん卑屈なセリフがこぼれ出た。

「死ぬなんてそんな……。ごめんなさい、私を避けようとしたばっかりに」

 気弱な青年は、どうやら貞花よりもさらにへりくだる習性があり、自暴自棄になりかけている。

「ああ、なんて愚かな……。ごめんなさい、ごめんなさい」

 ひたすら謝り続ける惨めな青年を路上で倒れたままにしておけないので、貞花は勇気を出して提案してみた。

「お手を貸しましょうか? こんな、急カーブで急な坂道、おひとりで立ち上がるの大変ですよ」

 貞花はきょう半日ずっと、無力な乳幼児の相手をしていたクセがついてしまったので、同じようなマインドで問いかけた。弱者を手助けしたいという持って生まれた人間性、自然な優しさが発露されたのだ。

「……ああぁ、こんな僕に。いいんですか?」

「もちろんですよ!」

「じゃあ甘えちゃおうかな」

「では、持ちますね」

 貞花は思いきって青年の両手を握った。

「1. 2の3で起こします。では、1、2の、3!」

 貞花は両手を思いっきり引き、全体重をかけて青年を助け起こした。

 青年はようやく立ち上がることができた。

「ふうう~、やっと立てた」

「立てて良かったわ」

 青年は痩せ型で、身長は中位。冴えない顔つきだ。

「あー、ありがとう。お蔭で助かりました。道の真ん中で、ずっと一人で倒れてたら、情けなくて泣いちゃったかもしれません」

 青年はペコリと頭を下げた。感謝の表れだ。

 でも青年が一礼したことで、お別れの挨拶のような雰囲気になってしまった。礼というものが持つ、日本人に染み込んだ何がしかの意匠とその威力が、はからずしも発揮されてしまったのだ。

 礼儀正しい青年の一礼のお蔭で、貞花はこの場を立ち去らなくてはならなくなり、青年も自転車に乗って出発せねばならなくなった。そんなつもりは無かったのだが、結果的にそんな一礼になってしまった。

「じゃあ、これ以上お引止めするものなんだし、僕、これで……」

 二人がこのまま別れてしまいそうになったので、日頃はノンビリ屋さんヒロシが慌てて声をかけた。

「あいや、待たれい!」ヒロシは大袈裟にいった。「アチャー、大転倒でたいへんだ。こりゃあ無理っぽいぜ。あした自転車こげないぜ」

 貞花の背後には、恋愛結婚株式会社の面々が、少し間隔を空けて立っていた。

「ね、貞花さん。もしも足を挫いてあす自転車に乗れないようだったら、あしたのイベントに来てもらえばどうかしら」

 すかさず弥生が提案した。青年にも聞こえるようにだ。貞花の瞳が輝いた。

「あ、そうね。弥生さん、いいんですか?」

「もちろん! 私たちと同じボランティアでよければ大歓迎よ」

 貞花はバッグからチラシを取り出し、青年に見せた。

「あの、突然ですが。私たち、実は今日明日と、坂の上の区民集会所でやってる乳幼児向けイベントに出展してるんです。あの、もし、あした自転車で配達ができなさそうだったら、いっしょにイベントやりませんか? いきなりでビックリでしょうがぜひ!」

 貞花は、青年にイベントの説明をし始めた。青年は、この足では明日は配達できないと観念してたようで、すると突然、明日の予定が無くなってしまったのだ。

「乳幼児向けのイベントで、ボランティアとしていっしょに遊んであげるんです。私たちは、男性が二人しかいないから、もうひとり男の人がいればとっても助かるんです」

「……はい」

 突然の展開ながら気弱な青年は、興味を惹かれている様子だ。

「とはいえ参加するこどもたちは、ようやくヨチヨチ歩きができるかできないかなの。だから、走りまわったりはしないので、足に負担はかかりません。マットの上に座って、指とかおもちゃで遊んであげるととっても喜んでもらえて、楽しいですよ」

「そっかあ、楽しそうですね。じゃあ僕、いかせてもらおうかなあ。でも、急に参加したりしていいんですか?」

 不安になった貞花は、皆のほうを振り向いた。

「だいじょうぶ~い。団体として参加登録が済んでるから、ね、弥生?」アラナがさらに弥生に確認した。

「だいじょうぶよ。団体として今日明日の二日間、出展者登録してあるから、是非ご参加ください」弥生もプッシュだ。

「そうそう、是非きてほしいんだ」

 ヒロシをはじめ、皆、口々に援護射撃だ。

「では、僕、あす参加させていただきます」青年はうれしそうな顔つきでそう答えた。

 気をきかせてヒロシは、倒れた自転車を起こしてあげた。

「どうぞどうぞ」

「ああ、どうもありがとうございます」

 青年は、ヒロシから手渡された自転車のハンドルを両手で握った。

(しかしヒロシは、余計な事をしやがったと、あとでアラナにこっぴどく叱られた。)

「じゃあ明日!」

「待ってまーす!」

 皆は口々に、あすの再会を約して別れた。

 自転車に腰かけた青年は、ゆっくりと急坂をすべり下りていき、とっぷりと陽がくれた住宅街に吸い込まれていった。

 皆は温かな表情で、青年を見送った。青年の背中は、すぐに闇のなかに見えなくなった。

 何かが動いた。

 大きな前進があった。

 またとはない大きな接点になった。

 奥手を絵に描いたような貞花にとっては、一生に一度の機会だったかもしれない。貞花はその接点を、自らの手で好機に変えたのだ。その時だった。

 真っ青な表情で弥生が叫んだ。「あーーっ」

「どうした弥生?」

 ヒロシの問いかけに弥生が答えた。

「連絡先きいてなーい!」

「あああ!」貞花は叫んだ。「名前も聞いてない!」

 皆は頭を抱えて、ため息を洩らした。

「自転車起こす暇があるならヒロシぃ、もっと考えて行動してよォ~。も~ぅ」

「ごっめ~ん、オイラなりに気をつかったんだけどさ。気を遣うだなんて人生初めてで、ああ、空回りだ~」

「あぁ、あした来てくれるかなあ」心配性の少多は洩らした。

「来てくれたらOK」弥生は前を向いた。

「だけど来てくれなかったら大チョンボだぞ」珍しくヒロシが不安げだ。

 皆は顔を見合わせた。


 その夜、一行が解散したあと、責任を感じたヒロシは闇をさ迷っていた。

 あの男性が去った方向へ急ぎ足で向かえば、追い付けるかもしれない。そしたら連絡先と名前を教えてもらおう。そう願って夜の住宅地を二時間以上、うろうろさ迷ったのだが、見つけることは出来なかった。

「はあ、ふう」

 気が付いたら、あの小橋の上にいた。欄干にもたれかかり、ひいふうと荒い息を吐いていた。

「ああ、ついに発見できなかった……」

 もし明日、あの青年が現れねば、貞花はかなり凹むだろう。なにしろ貞花の人生で、最初で最後の出会いだったかもしれないのだ。

 そしてさらにヒロシが怖れていたのが、本来は活発で明るい弥生が、責任を背負い込んで強烈に落ち込んでしまうことだった。落胆する弥生の姿はもう見たくなかった。弥生にはいつも、はちきれんばかりの笑顔でいてほしい。

 しかし、もうどうしようもない。

「ああ、オイラ、まだまだだな」

 深いため息を吐いたときだ。

 ヒロシの脳髄を瞬時に破壊してしまうほど、濃厚な桃香が漂ってきた。闇夜になまめかしい絹擦れの音がしたかと思いきや、憧れの麗人が目と鼻の先に立っていた。

「あぁ、彬子さん!」

 ヒロシは我を忘れて棒立ちになった。

 謎めいて、つややかで、悩ましげな美女。ヒロシがいままで出会った中で、比較の対象が一人もいない麗しき天女。

「オイラ、彬子さんに会いたかった!」

 ヒロシは目を大きく広げた。なだらかな腰部といい、はちきれんばかりの峰々といい、細部にいたるまで青洞院彬子を見つめたい。だが、闇夜に煌々と光り輝く女身を直視することなど畏れ多く、また恥ずかしすぎる。経験が浅く、実はウブで純情なヒロシには、桃白色の薄衣を身にまとった憧れの麗人を凝視することなど、できようはずもなかった。

「こんばんは、ヒロシ。お元気?」

 温かで艶のある天女そのものの声だ。

「は、はい。彬子さんに会えて、オイラ、うれしいです……」

「でも、こんな夜中にたった独りで。しかも不安げで疲れ切った表情、あなたらしくもないわね。ねえヒロシ、どうしたの?」

「ああ、彬子さん……」

「あなたが落ち込んでいてどうするのよ?」

「だって、もし、あした、あの青年が来てくれなかったら……」

 ヒロシは真摯に胸のうちを訴えた。

 すると彬子は、まさに天女しか有さない頬笑みを見せてくれた。謎めいていてなおかつ、色艶たっぷりの唇の動きは、男の中枢にダイレクトに突き刺さる破壊力があった。

「きっとだいじょうぶよ。あの青年は間違いなく現れるわ」

「そっ、そっかなあ。オイラ、自信ないよ」

「きっとだいじょうぶ。だからあなたは、家に帰ってぐっすり眠りなさい」

「ど、どうして?」

「なぜなら、あなたが疲れ果ててたら、せっかく明朝その青年が来てくれても、あなたは対応する活力も陽気さも失ってしまって、元も子もなくなってしまうんじゃなくって?」

「た、確かにそうだけど……」

「すぐおうちに帰って休みなさい。寝ないとお仕置きよ」

 青洞院彬子は、まっすぐヒロシの目を見て忠告した。

「ああぁ」

 ヒロシは、危うく、お仕置きしてくださいと叫びそうになった。

「でも、彬子さん。もし来なかったら?」

「どうしたのヒロシ。あなたらしくないわね、いつからそんなにネガティヴ思考の心配性になったの? 何があろうが朗らかで泰然自若としてるのがあなたの取り柄でしょ?」

「オ、オイラの取り柄?」

「そうよ。長所よ。ヒロシはいいとこがたくさんあるわ。人を笑わせて、愉快な気持ちにさせて、場を明るくさせる。そうでしょ?」

「う、うん」

 憧れの美女が発した言葉は、ダイレクトに胸に響いた。

「ご自分の美点を自覚して、有効に活用してね」

「あ、あ。オイラ、オイら……」

 不覚にも目頭が熱くなった。堪えようとしたものの、涙で両目が塞がれ、前が見えなくなった。ヒロシは何も見えていないのに、幼稚園児が母親に抱きつくようなかっこうで、憧れの青洞院彬子のもとへ駆け寄ろうとした。

「彬子さん、大好きです!」

 青洞院彬子は、羽衣を身に纏った天女そのままにひらりと身を翻し、ヒロシをやり過ごした。

「ダメよ」

 ヒロシは宙を抱きしめる恰好になった。

「ヒロシ、目を覚ましなさい」

 ヒロシはうろたえた。

「あなたは、クリクリ目玉の可愛いお嬢さんが心配なんでしょ?」

「あ」ヒロシは見事に言い当てられてしまった。弥生のことだ。

「考えてもみなさい。あなたが私に抱きつく様子を、もし弥生さんに見られでもしたら、彼女、きっととんでもなく落ち込むでしょ?」

 そう指摘されてしまうと、もう、ヒロシは動けなかった。

「今宵、私が伝えたこと、忘れないでね」

 見ているこちらが誤解するほど、艶やかできわどい瞳は、深く、大きく、天空そのもののように星々を瞬かせている。大宇宙そのものだ。

「私があなたに話したこと、覚えてる?」

「あっ、あ、うう……」

「ヒロシ、復唱してごらんなさい」

「は、はい。早くうちに帰って眠ること」

 青洞院彬子は肯き、片腕を大きく振った。すると出し抜けに、闇の中から強烈な二本の光線が出現した。

「眩しいっ」

 ヒロシは反射的にそう叫んだ。車のヘッドライトが接近してきた。あまりの眩しさに耐えきれず、ヒロシは両腕で目をガードし、瞼を閉じざるを得なくなった。タイヤの軋む音とともに、車が遠ざかる音がした。

 ヒロシが目を開けた時には、青洞院彬子の姿は掻き消えていた。ヒロシが大好きな薫香、満開の桃花を想起させる濃艶な匂香を周囲に色濃く残したまま。


 さて翌日、日曜日になった。

 きょうも天気はいい。公民館の自社ブースに皆は集った。社員全員と貞花はスタンバイOKだ。

「あとは待ち人が現れるかどうかだ」

「ああ来てくれ、来てくれ、来てくれ、来てくれ」

 ヒロシが念仏のように唱えるので、皆に伝染してしまった。

「来てね、来てね、絶対来てね」と弥生。

「来てね、来てね、必ず来てね」と少多。

「来てね、来てね、死んでも来てね」とアラナ。

「来てね、来てね、是非とも来てね」と内来日和まで。

 ところが意外と貞花本人は落ち着いている。

「話した感じ、誠実で、ウソがつける人じゃなかったから、間違いなく来てくれる。いうまでもないわ」

 なんの疑いもなく、固く信じている。集合時間の一分前になると貞花が言った。

「坂の上まで迎えにいきます」

「ね、貞花さん。私も一緒にいってもいい?」

 もしも来なかった場合、不測の事態が起こるとも限らない。そう案じた弥生が訊いた。

「ええ、じゃあ弥生さん、一緒にいきましょ」

「うん!」

 すっかり打ち解けた弥生と貞花のふたりは、一緒に公民館を出た。

 暖かな陽の当たる日曜日の朝九時。

 坂の上は空気も澄み、心地よかった。晴れやかな青空のもと、こんな爽やかな朝の空気を吸えるなんて、貞花にとって決して悪い環境ではないはず。弥生は思った。仮に名前がわからないあの『残念君』が来なくても、この陽気なら、身投げするなんて事態にはならないだろう。

 きのう勇気がなくて、または機転が利かなくて誘えなかったとすれば後悔しただろうが、当方とすれば、やれることはやったのだ。あとは天命を待つしかない。

 仮に来てくれなかったとすれば、それはご縁がなかったからであり、仮に電話番号を聞いていたとしても正しい番号を教えてくれなかったり、応答してくれなかったり、縁がない人だったのだろう。

 でも、やるべきことはやったのだ。

 澄みきった五月の大空とまったく同じ晴れやかな気持ちで、弥生は待ち人『残念君』を待った。これは青年をバカにした綽名ではない、単にわからないから、呼び名がないと不便だから、便宜上、社内で青年を残念君と呼んだのだ。

 名付け親は何を隠そう、恋愛結婚株式会社随一の毒舌家アラナだ。毒舌を吐くことを常とするアラナに、残念君個人をことさら貶めようとする意図はない。毒舌は単なる習慣だからだ。

 爽やかな風が全身を吹き抜けた。

 眩しいほど陽の当たる坂の上で残念君を待つふたり。弥生のとなりに立つ貞花は、絶対に彼が来ると確信している。

 だからこそ、もし彼が来なければ余計に心配なのだが、貞花には確たる信念がある様子だ。弥生が隣を見ると、貞花の揺るぎなき瞳が、熱い想いを現していた。

 意外や意外、一番肝が座っているのは貞花ではなかろうか? 見直したというよりも、恋愛が彼女を成長させたのかもしれない。

 弥生が貞花に対する認識を新たにしたその瞬間、大きく貞花が手を振った。

「おおおーい」

 こんな屈託のない貞花の声を聴いたのは初めてだった。

「おおおおーい」

 坂の下から、自転車を押して歩いてくる残念君も、大きく腕を振っている。やや足を引き摺ってはいるものの、もう暗くなっていた昨日とはうってかわった姿。晴れやかで清々しい笑顔だ。

「おおおーい」

「おおおおーい」

「足、だいじょうぶ?」

「だいじょうぶだよおおぉお!」

 この瞬間、弥生は確信した。この二人は夫婦になると! 最後の最後まで、貞花はこの男性を信じ抜いていたのだから。


 こうして足を引き摺りながらも、残念君は現れた。貞花は急坂を駆け下りて、残念君を迎えた。五分ほど遅刻だ。

 ひねった足をかばいながら歩くため、機敏に行動できないから遅刻するとマズいと怖れた残念君は、じゃあ自転車で公民館まで行こうとして家に自転車を取りに帰り、しかも結局、自転車も漕げなかったという、なんとも残念君らしい遅刻理由だ。

 そして二人で仲良く自転車を押して坂を登った。

 こうしてついに始まったイベント二日め。ふたりは助け合ってブースでこどもたちを楽しませた。みるみるふたりの距離は縮まってゆく。もともと気があう二人だ。いい感じになってゆく。

 残念君は昨夜、名前も名乗れなかった。それほどの自称・陰キャだ。

 ゆくゆくわかってきたプロフィールはこうだ。

 本名は竹本蔵夢たけもと・くらむ

 両親から『くらむ』という、目もくらむような立派な名前をつけられた残念君は正直なところ、名前負けしてしまった。自分の名前が恥ずかしく、どこへ顔を出しても名前を名乗れない。実母からは将来『蔵』を建てるほど成功して欲しい。稼いで欲しい。現実社会において、経済的に立身出生して欲しいとの願いを込められた。

 実父の思惑はまったく別だった。実父からは、若い頃からの自分の『夢』だった詩人になってほしい、文学の夢を叶えてほしい、そんな願いを託された。

 実の父母から完膚なきまでに別々の、重苦しい願いが込められた名前なのだ。

「両親からテンデバラバラに託された重い思いは、重い荷物を運ぶという仕事をすることによって実現してしまったよ、アハハハ」

 残念君はそう自虐的に笑った。

 蔵夢(くらむ)。蔵と夢。経済的成功と内面的充実。上手に二つの思いをミックスして名付けられたというより、両親の願いは統一されていなかった。

 血は争えないもので、中高生の頃、残念君は日本文学に目覚めた。自ら詩作するとまではいかないものの、好きな詩人も二、三人現れた。だが愛読書を開くたび、詩なんて読んでも何の役に立たないわよと、実母から攻撃を受け続けた。罵倒された記憶は積み重なり、恐怖の記憶として堆積し、いまや内容を問わず、書物の背表紙を見るだけで吐き気を催す。

 地元の高校卒業後、職を転々とし、社会人四年間が過ぎ去った。そして現状、なにもかもボロボロ状態だ。

 長時間のスタンバイと、日々の筋肉痛に耐え、今の仕事は体力的にギリギリなのだ。かろうじて一人暮らしを維持しているものの、経済的に困窮する寸前だ。

 では内面が充実しているのかといえば、決してそうではない。趣味も無く、人がプライベートな時間を楽しむ時間帯に働かねばならないので、数少ない高校時代の友達にも会えず、配達の空時間にネット動画を観て憂さを晴らすのがオチだ。スマホの画面を見つめながら、他人をあげつらうユーチューバーのセリフを聞くとは無しに聞いている。

「アハハハ、言い得て妙だな。アハハ」

 孤独がおのれを苛んでいることさえ自覚できない。

 ただ、社会的に孤立し、精神的に追い詰められた状態にあるは間違いない。

 ――なにもかも沈没する一歩手前の状況だ。

 そしてきのう、危うく通行人にぶつかりそうになった。怪我を負わすか負わさないか。もうダメかもしれないと観念するほど、道行く女性に猛烈なスピードで接近してしまった。

 背後から追突しそうになった。無防備なこの女性にぶつかったら大怪我させてしまう。

 それだけは避けなきゃ。

 追い込まれた残念君は、人間としてギリギリの本能が甦った。

 ありったけの力を振り絞って急ハンドルを切り、貞花の鼻先を掠めるようにして通り過ぎ、一人で転倒するだけで済んだ。はあはあはあ、死ぬかと思った。

「こどもたちの列が、こんな時間になるまで途切れなかったね」

 ヒロシがお弁当とペットボトルを持って、貞花と残念君に声をかけた。

「こんなに遅くなっちゃってゴメン」弥生はふたりに謝った。「ゆっくりしてきてね」

 皆はふたりを昼食休憩に送り出した。

 二人は自然と屋外に出た。

 五月の太陽が燦々と照り、微風が心地良かった。

「坂が見える緑の丘の上で食べましょうか」

「うん、賛成」

 ふたりは見晴らしのいいベンチに並んで腰かけた。

 青々と繁った木々が、急な坂道に沿って並んでいた。

 ほっと一息ついたあと、ふたりは主催者から支給されたボランティア用のお弁当を食べ始めた。

「私、毎朝会社に通うのが苦しくて……」

 お弁当を食べ終わった後、ふたりは話しこんだ。

「竹本さんは、どんなお仕事なさってきたの?」

「恥ずかしいなあ。貞花さんは事務員さんなんでしょ? 羨ましいなあ。僕なんて次の仕事、どんなのがいいか悩んでる毎日さ……」

 へりくだるのが板についている残念君はそうこぼした。

 残念君は、年齢の割に職歴は豊富だ。血も涙も無い殺伐とした現代の競争社会の片隅で、揉まれ、傷つき、本来の人間性がズタズタに切断されていた。社会人になって丸四年が過ぎ去ったところであり、人間として腐る寸前、切り立った崖の上に立たされていた。

「最初に入った会社は工場の夜勤でね。一晩中、立ちっぱなしだった。工場の中に、何本もベルトコンベヤーがあってね、滞りがないよう様々な材料入れたり、完成品が入った箱を運び出して積み上げたり、弾き出された不良品を取り除いたり。体と神経を使って、あれやこれやっていう仕事だった」

「……大変そうですね」

「うん。二年半、太陽を拝めず、友達もできず、休みも少なく、独身寮に缶詰だった。でも、今から考えるとまだまともだったかもしれないな。一応、名の通ったお土産用のお菓子を作る会社だったから、給料の遅配とかは無かったし」

「……厳しそうね」

「やっぱり長く続く人は少なかった。長く居ると、目立たないようにサボることだけはうまくなるんだよ。でも、前向きに生きようってその頃は殊勝に思ってた僕は、サボることだけが生き甲斐って環境に我慢ならなくなったんだ。そんな時、能力主義って言葉に踊らされて、営業の仕事に就いたんだ」

「営業? なにかを売るんですか?」

「そう。水道水の蛇口に付ける浄水器を売る会社に転職してね。自腹営業だったよ。二週間お試し無料キャンペーンとかね、ホームページを見た人がキャンペーンに応募するとね、本社からその個人情報が各営業所に流れてくるんだ。そのお宅へ浄水器を持っていって、取り付けて、そして二週間後、契約してもらうって営業戦略なんだけど、なかなか契約は取れない。口下手な僕なんかには特にね」

「そんな仕事があるんですね」

「うん。完全歩合制だから、契約が取れなきゃ給料はゼロ円なんだ」

「ええっ?」

「しかもね、山梨や長野への出張費用が自腹。契約に失敗すれば丸損」

「あああ」

「僕、ついに一件も成約せず、だった。自分用以外にはね……」

「そんな……、ひどいわ」

「あまりにも適性がなかったから、数ヶ月で辞めたことだけは正解だったよ」

「ふう」

「将来に絶望してた時、これぐらいなら出来そうかもって思って、自転車配達を始めたんだけど。……これももう、駄目かなあ」

「……」

「次はどうしようかなあ。自動販売機に商品を詰めながら東京中を廻る運転手の仕事。これは一ヶ月間、休みがほとんど無いらしいんだよね。正社員っていう待遇じゃないからさ。あと引越し屋さんとか、ショッピングモールの店員とか。あとオフィス街をキッチンカーで訪れてサンドイッチとか売る仕事。全部、立派そうな仕事で、ネットで調べれば募集はしてるんだけど、はあぁ。どれもこれも裏がありそうで、なんだかなあ。クチコミを検索すると、二の足を踏むカキコミばかりが目立っちゃって……」

 とてもおとなしい。だけど盲目的なほど真面目。時代が時代なら、汗水垂らしてこつこつと父祖伝来の田畑を耕していたかもしれない。家族のため、村のため、朝晩労力を厭わず心を込めて働く。遠慮がちで実直。そんな昔ながらの日本の若者が幸せになれない現代社会を、残念君は体現していた。

 残念君こそが、現代日本の縮図だった。

「男の方のお仕事って、そんなのばかりなの? 知らなかった……」

「うーん。ひとつだけね、個人的に誘われた話があって」

「あら、いいんじゃなくて?」

「『あのさ、しばらく俺のラーメン店に弟子入りして、一からラーメン作りの修行してみない? 当然給料は払うよ』ってね」

「ラーメン屋さんかあ」

「工場夜勤の時、一人だけ気が合う先輩がいて、あれこれ手取り足取り教えてくれたんだ。で、その先輩、丸々二年間におよぶ修行の末に、自分でラーメン屋さんを開業したんだ」

「へええ、勇気ある人なんだ」

「で、先輩曰く、『うちでラーメン作りの修行しながら開業資金を貯めて、もし適性あるなら将来自分で開業してみればいいんじゃない? 独立が性に合わないなら、ずっと俺の店にいてもらってもいいし』だってさ」

「あら、いいお話しじゃない?」

「でも僕、お世話になったその先輩だけには、ウソはつきたくなかったからさ。本音を言っちゃったんだ。『なぜ僕? どうして僕なんですか? 売上ゼロ円で破壊的なまでに営業できなかった僕に、接客なんてハードル高過ぎます』って」

「え? で?」

「『蔵夢よ。おまえいいとこあんじゃん。俺は知ってるよ。サボらないし、真面目だし、なぜだか俺と話が合うし。せっかく独立したんだ。どうせお店やるなら気のあう仲間といっしょにやりたいんだ。だからだよ』だってさ」

「あ」

「誘われて、心が揺れ動いてるんだ」

 残念君は涙ぐんでいた。

「今まで、誰にも相談できなかったから、こんな話なのに聴いてくれて、正直、うれしい」

「こんな私に、そんな大事な話を……。話してくれてありがとう。正直な気持ちをいうと、相談してくれてうれしいわ。私、応援する。竹本さんが独立したら、私が毎朝、開店前にテーブルとイスをキレイに拭いて、町で一番のお店になるよう、ふたりで力をあわせればきっと……」

「ぅわああっ!」

 突然、残念君が声を上げた。

 ヒロシは、人間が瀧のように涙をボロボロ流す瞬間を初めて見た。心配して秘かに様子を見に来たのだ。

「ごめんなさい、私、おかしなこと言いました? まだ独立するって決めたわけじゃないのにね。っていうか、まだラーメン屋さんで働くって決めたわけでもないのに、ごめんなさい、私、早まったことを……」

「僕に、僕を、こんなにまで言ってくれた人は、生まれて初めてで、ううっ」

 残念君は両膝に突っ伏して、むせび泣いた。

「人柄ですよ、竹本さんと接すると、私まで、気持ちの和やかな人間になれた気がするんです。きっとお客さんたちも、同じ思いで、またお店に来てくれますよ。竹本さんは、そんな人柄を見込まれたんですよ。心あるひとには、わかるのよ」

 涙が止まらない残念君の背中を、貞花はなんども撫でさすった。

 もう、オイラたちの役目は終わった。そう確信したヒロシはその場を後にした。

 雲ひとつない五月晴れだった。緑の芝生には、ひとつになったふたりの陰が落ちていた。


□ 第十章


 飯山貞花と竹本蔵夢は結ばれた。



□ 第十一章 夜須弘士の逆襲


 もともと顔の作りは、他の追随を許さない美形だ。

 ビシッと決めた姿を鏡で見ると、我ながら惚れ惚れする。天性のナルシスト、それが夜須弘士という男だ。きょうのために美容師を雇い、専属のスタイリストまで付けたのだ。

 父の愛車ロールスロイスを駆って、夜須弘士はある女性の職場前に乗りつけた。

 そしてターゲットの女性が退勤してくるのをひたすら待った。どこで手に入れたか、女性の顔写真を手にして睨めっこしている。

「フフフ、俺様の美貌をもってすれば勝算は100%だ。フラれるはずがない」

 そう独り言を零しつつも、ハンドル下の膝小僧は震えが止まらない。

 その時だった。勤務を終えたお目当ての女性が、雑居ビルの出口から出てきた。人ごみの中、足早に最寄り駅の方向へ歩みを進めている。

「来やがった」

 夜須弘士は運転席のドアを開け、急ぎ、車外へ飛び出た。夕暮れのオフィス外は薄曇りで、生暖かい。

 夜須弘士は、小走りに飯山貞花を追いかけた。サラリーマンらしき男性を数人追い越した夜須シは、貞花に追い付き、いきなり肩をトントン叩いた。

 立ち止まった貞花は、後ろを振り返った。

 どこかで見たことがあるようなないような、長身の青年が立っている。

 夜須シは笑みを浮かべて見せた。ここ数日、鏡の前で何度も練習したのだ。

「飯山貞花さんですね?」

「あ、はい、そうですが……」

 貞花は怪訝な表情だ。

「自己紹介するぜ。俺ゃあ夜須弘士というイケメンで、父の会社のモデルをやったこともあるこの世で最高の遺伝子を持つ男だ」

「はっ?」

 貞花は当惑し、男性をよく見た。モデルだと自称するとおり、たしかに背が高く、痩せていてイケメンではある。オフィス街でタキシード姿の青年は異彩を放っていた。

「何か私にご用でしょうか?」

「見てのとおり、俺ゃあ世界で一番イケてる男だ。だからいうけど、えーと、うーんと、あーと、だからオマエが好きなんだ。俺と付き合え」

 夜須弘士は再びニヤリと笑みをこぼした。一度めほど強張らず、颯爽と白い歯を覗かせることができたはずだ。

「お断りします」

 貞花は即答した。しかし男は怯まない。

「目を開けろ! 大富豪の息子で、イケメンで、世界で一番モテる俺様が腰を低くして告白してんだぞ!」

「私には婚約者がいるんです」

「何だと?、飯山貞花の分際で! この俺様が情けをかけて言ってやってんだぞ! 俺様と婚約しろっ!」

 唾を飛ばす夜須弘士に対し、貞花は果敢に言い返した。

「いいえ、私はくらむさんを一生大事にすると決めたのです。他の人のつけいる隙はありません」

「何だと? よし、野郎ども、かかれ!」

 夜須シはそう叫んだものの、誰も現れない。

「ああそうだ、もうヤカラはいないんだっけ。金の切れめが縁の切れめだな」

「ではさようなら」

 踵を返した貞花はさっさと駅の方向へ歩き始めた。

「待て! 俺のセリフには十万円の価値がある! この俺様がナンパしてやってんだぞ!」

 足早に去っていく貞花を尻目に、夜須シはその場に立ち尽くした。

「こ、ここで諦めてはいかん。がんばれ俺」

 おのれをそう叱咤し、貞花を追いかけようとした夜須シ。

 その瞬間、夜須シの眼前に、ふたりが立ち塞がった。ヒロシと弥生だ。

「暫く! ストップだ!」

「そこまでよ、夜須シ」

 歩道の真ん中で五本の指を広げたヒロシに対し、夜須シは立ち竦んだ。

「ねえ、ちょっと夜須シ」

「オイラ、聞き捨てならないぜ」

 夜須シは、見るからに怯んでいる。「な、なんだオマエら」

 弥生は単刀直入に夜須シに問うた。「夜須シ。本当に、貞花さんのことが好きなの?」

 夜須シは傲然と吐き捨てるように答えた。「バカ言うな。俺ゃあ美人しか好きにならねえ。あんなブス本気で好きになるわけねえだろうが、アハハハ!」

「じゃあ、なんであんなこと言ったんだ?」ヒロシは問うた。「ウソの告白か?」

「そうよ、どうしてよ? ラブ・マジッリ・インターはもう倒産したから、私たちの恋愛結婚株式会社を邪魔しても仕方ないでしょ?」

 弥生に問い詰められ、夜須シは言葉に詰まった。

「何とか言いなさいよ」

 観念した夜須シは、ついに本音を吐いた。「オマエだよ、緑井ヒロシ!」

「えっ? オイラ?」

 夜須シは、キョトンとするヒロシを指差した。

「俺ゃあ、オマエが憎い。にくったらしい。オマエが困ることなら何でもやるって心に誓ったんだ。だから、俺ゃあ、オマエたちが真剣に取り組んでる純愛をぶっ潰してやろうと企んだんだ」

 バシッツ

「痛ッ」夜須シは頬を押さえた。

「バカッ!」

「バカッ!」

 平手を張られたほうと、張ったほうが同時に叫んだ。

「ブス女、なんてことすんだ!」

「なんて卑劣なことするのよ!」夜須シにビンタしたのは弥生だった。「これは、依頼者さんの生涯がかかった真剣な恋愛なのよ!」

 珍しく感情を露わにした弥生が食ってかかった。ヒロシも真剣だ。

「二人にとって、人生一度っきりの大恋愛なんだ、余計なことはするな!」

「ううっ……」夜須シは頬を押さえたまま狼狽した。「いい気になってこの俺様に説教垂れやがって」

「恥を知りなさい!」弥生は叫んだ。

「夜須弘士! オイラ、おまえがそんな腐った心の持ち主だとは知らなかったぞ」

「ああ……」夜須シは、そろりと後退りした。

「逃げるんじゃない!」

 ヒロシの言葉にビクンとした夜須シは、逃げることもできなくなった。意外と素直なのだ。ヒロシは言った。

「おまえが乗ってたロールスロイス、親父さんの会社の社用車なんだろ? 改心しないなら、親父さんの会社に苦情の電話をかけるぞ」

「あ。そ、それだけは、勘弁してくれ……」夜須シは、あられもなく狼狽えた。

「それにさ。昨日、一昨日と、全く同じセリフの告白をして、全く同じ断られかたをして、オイラ、同じ人間として情け無い。夜須シ、おまえって奴は一切、創意工夫が無いんだな」

「あっ。……うう、図星かも」

「そうよ。あなたね、他人の猿真似ばかりやってないで、自分で本当にやりたいこと見つけたらどうなの?」弥生は猛然と夜須シを責めたてた。

「くそう。二言めには、じゃないほう、ニセヒロシ、真似シだっていいやがってよう」

「あなたが真似ばっかりするからでしょ? 悔しかったら、正々堂々と物事に取り組んで、自分で自分から、じゃないほうから脱却すればいいでしょ?」

「うう……」

「それが人生ってものでしょう?」

 弥生の熱い発言は心に響いた。夜須シは追い込まれ、にっちもさっちもいかなくなった。

「うう、う。今まで、俺には、そんなふうに(たしな)めて、叱ってくれる友達がいなかったんだ……」夜須シはがっくりと肩を落とし、その場にうずくまった。

 夕暮れのビジネス街を、雑多な靴音が通り過ぎていく。

「聞きたいんだけどさ、どうしてオイラを目の敵にするんだ? ワケがわからないぜ」

「だ、だって、同じ名前なのに、オマエのほうが人気者だから……」

「それでオイラばかりか、オイラの仲間の邪魔をして、いったい何になるんだ?」

「ああ、あぁ、何にもならない。ただの腹いせだった。今、気が付いたよ……」

「じゃあ、オイラたちの邪魔をして楽しかったのか?」

「いいや。楽しくなかった」夜須シはうなだれた。

「恥を知りなさい!」弥生は真剣だ。

「ごめん、謝るよ」夜須シは路上に膝をつき、(こうべ)を垂れた。「……俺、マジで反省したよ」

 ビルの群れの彼方で、夕陽が沈もうとしていた。

 ヒロシは静かに問いかけた。「夜須シさ、人真似ばかりじゃ人生つまらなくないかい?」

「う、うん。俺は小心者だからさ。どうしても失敗するのが怖くてさ。だから人の真似ばかりしちゃうんだ」

「そうかあ。オイラは失敗なんて気にならないけどなあ」

 ヒロシのことばに対し、弥生は腕を組んだ。

「うーん。失敗を回避するっていう意味では、人を真似ることは悪くないんだけど、あなたの場合、もっと根本的なところで人を真似てばかりいるわね?」

「た、確かにそうだ。なにも会社の事業内容まで真似する必要はなかった。俺が浅はかだったよ。俺って野郎は、とことん浅ましかった。俺の負けだ……」

 ついに敗北を認めた夜須シはとことん淋しげだ。この世界でたったひとり、孤立した枯れ葉のような存在だ。

 晩春の微風が吹いてきた。いまの夜須シは、わずかな風でも吹き飛ばされるほどの、小さな存在にしか見えなかった。

「いい加減、あしたは、もう来ないでね!」

「マジで反省したんなら、あしたはもうウソの告白なんかやんなよー」

「わかったよ。もうしないよ。俺、……ようやく恥を知ったよ」

 夜須シは、涙目でブルブル震えている。

「じゃあ、これからどうするつもり?」

「……わからない。これからじっくり考える。大学にはまだ籍は置いてあるから復学するか、それとも親父の会社に入って一から出直すか、これから考えることにするよ。緑井ヒロシをやっつけるっていう、今までの人生の目標が急に無くなったから、何をすればいいか見当つかないんだ」

「そうか。心を入れ替えて、新たなことにチャレンジするならガンバレよ」

「そうよ。人真似じゃなく、心底、自分がやりたいことをすればいいんじゃないかしら」

「……ありがとう」ようやく夜須シは顔を上げて二人を見た。「俺、オマエらふたりがうらやましいよ。オマエらこそ、早く結婚してくれ」

 夜須シの目には悔悟の涙と、明日への希望の光が灯っていた。


□ 最終章 真実


 絵葉書きが届いた。

「また届いたわよ」

 貞花と希望君は、新婚旅行で訪れているヨーロッパ各地から、オフィスへ絵葉書きを送ってくれるのだ。

「幸せいっぱいね」そういう弥生が一番うれしそうだ。「この結婚は、貞花さんにも良かったけど、希望君にとってもね、本当に良かった」

「一日めは名乗らないから、秘かに残念君と呼ぶしかなかった人がね、本当に良かった」とヒロシ。

「二日めは、竹本さんと呼ばれるようになってたね」とアラナ。

「いつのまにかアラナから、希望君という新たなニックネームをちょうだいして、今じゃぴったりだ」と少多。

「この最新の絵葉書ではね、貞花さん手書きのハートマークつきで『チャウダーさん』って、呼ばれてる~」と弥生。

 皆は幸せいっぱいのコメントが書かれた絵葉書きを羨ましそうに手にとっては眺めた。

「どうしてチャウダーさんになったんだろ?」とヒロシが皆に訊いた。

「くらむチャウダーになるからよ!」と弥生。

「そっかあ、イカすニックネームだね。オイラ感心した」

「チャウダーさんかあ。ああ、熱い、熱いィ~」

 アラナから再び絵葉書を渡された弥生は言った。

「全員必ず来てくださいだって~」

「何に?」とヒロシ。

「結婚式だよ」と少多。「結婚式は新婚旅行の後に挙げる予定だって!」

「最近、順序は、当人たち次第なんだってェ~」とアラナ。

「入籍はとっくに済ませてあるって、この前の葉書に書いてあったわ」と弥生。

「どうやら挙式は真夏になるのかな?」と少多。

「ふたりの青春時代はようやく終わったんだ」とヒロシ。

「そうね。これからふたりには、人生の真夏の季節がやってくるのね」弥生はうっとりしてそう言った。

「ボクも大学を辞めて、理学療法士になるための学校に通うことにしたしね」

 美智を幸せにするために、少多は理学療法士になる学校の門を叩いたのだ。

「国家試験に合格しなきゃいけないから、まだまだ道は険しいけど」

 少多は大学を中退したものの、恋愛結婚株式会社は続けることにしたのだ。少多も成長したのだ。

「理学療法士さんって、なるのたいへんよ。会社続けて大丈夫なの?」と弥生。

「ボク、思うんだ。ボクらの事業は、恋愛結婚したい人の成婚率を高めるという社会的意義がある。弱者のために働く理学療法士にも立派な社会的意義がある。ボクは二刀流でいくって決めたんだ」

「ショーンって、逞しくなったわねェ~」とアラナ。

「ボクは、美智に釣り合う男になりたいだけさ」

「それにひきかえ、ね」

 皆はヒロシを見た。

「な、何だよう? オイラ、何か悪い事、したかよう」

「いっこうに成長の兆しを見せない人間っているのよねェ」

 アラナの毒舌に皆は大笑いだ。

「オイラさあ、思うんだけどさ」

「あ、話し出した」

「結婚に必要なのは、出会いだ出会いだって、呪文のようによくいわれるけどさ。オイラたちは、そんな迷信に縛られなかったよな」

「確かにね」と少多。

「結婚したあとのふたりの幸せまで考えて、無理にはくっつけなかったわ」と弥生。

「そうよ。相性って大事だもんねェー」

「だからオイラたち恋愛結婚株式会社のモットー。接点を作ってあげるという方式が功を奏したんだよ」

 ヒロシはいつものように頭の後ろで両手を組んで、相も変わらずのんびりとそういった。

「接点を作るかあ。そういえばそうだった」少多は腑に落ちた。美智と自分とのことを思い返した。「ボクらの場合、銭湯同好会という接点が、スタート地点になったのは確かだ」

「確かにィー」アラナはアラナで、皆でアイデアを出し合い、地域イベントを探した夜のことを振り返った。「様々なイベントに顔を出すなかでェー、ふたりに接点が生まれたのよねェー」

「そういえばカレンから連絡が来たのよ」弥生はスマホの画面を見ながら皆にいった。

「そうそう。アタシぃカレンのこと、ムーチャ心配してたのォー」とアラナ。

「それがね真逆なのよ! 日本じゅうすべての同級生のなかで、一番心配要らないのがカレンなの」

「え?」とヒロシ。「どして?」

「全資金をリーサに持ち逃げされたラブ・マジッリ・インターは倒産して、全従業員が路頭に迷ってるんじゃないの?」と少多。

「うんうん」とアラナ。「カレンはどうしたのよぅ?」

「リーサが暗躍する前、すでにカレンは次の職場に引き抜かれてたんだって」と弥生。

「へ~え。どこの会社に?」とヒロシ。

「知りたい?」と弥生。

「オイラ知りたい」

「ヤフーJAPAN」こともなげに弥生はいった。

「え?」

「グーグルジャパンと激しい引き抜き合戦になった末にね」弥生は目を丸くさせながら話した。

「ひゃあ」

「もし英語ができるならアメリカ本社がカレンを欲しいっていうんで、いまウェブデザイナーやりつつ、会社のお金で英会話特訓中だって」

「ウヒャーあ。コミュニケーション能力さえつけば、あの子、鬼に金棒だからねェー」

 みんなハッピーになった。弥生は心から満足した。

 ヒロシはふと気が向いた。ふらっとオフィスを出て、足が向かった先は、高校時代、馴染みだった聖地。思い出の銭湯だ。


「えっ。おかしいゾ」目を疑ったヒロシはぐるりと一回転した。「どこにも無い! 全体が更地になってる……」

 銭湯がまるごと消え失せ、駐車場になっていた。あたりはもう薄暗く、はっきりとは目視できないのだが、銭湯以外の他の建物も煙のように存在が無い。周辺の区割りが一変してしまっているようなのだ。

「あーッ!」

 素っ頓狂な叫び声を残してヒロシは駆け出した。慌てふためき、大車輪のように両脚を回転させた。運動会の時よりも速く走った。

「あのオカミサンの銭湯も危ない!」

 厭な予感がした。憧れのオカミサンがいる銭湯も、よからぬことが起こってるのではないか。それはもう恐怖の念といってよかった。乳児が母親に引き離される感覚と同じだ。

 ヒロシは恐怖の念に駆られ、暮れなずむ町を駆けに駆けた。猛ダッシュだ。

「くっ……」

 喉から声が洩れそうになるのを懸命にこらえ、ヒロシは大地を走った。物心ついてからずっと通ってきた銭湯だ。すべての歳月を駆け抜けるのだ。

 あの銭湯には、憧れのオカミサンがいる。素敵な人だ。小さな頃から、ヒロシの成長を見守ってくれた女性だ。ありのままの姿を見てくれていたのだ。正真正銘、ヒロシの初恋の人だった。

 銭湯同好会の皆と、決まって通っていた銭湯二つのうち一つは既に、建物ごと消滅しているのを目撃したばかりだ。さらにもう一軒も消え失せたなら、ショックは計り知れない。

「オカミサン!」

 銭湯同好会全員で、ノンビリだべりながら歩いた懐かしの坂を、ものの十秒で駆け下った。するとエントツが見えてきた。建物もある。

「やったぁ!」

 そのまま駆け下り、出入り口の真正面まで来た。でも何かがおかしい。建物はあるのに、人の気配がない。それもそのはず、シャッターが下りたままだ。

「むむっ? なんだこれ?」

 灰色のシャッターに、張り紙が一枚張ってあった。

「永い間、ご愛顧ありがとうございました。後継者がいないため、閉湯させて頂きました」

 ヒロシは目を疑った。しかし閉鎖されているのは確かだ。つねづね通っていた時間帯なのに、シャッターは下りたままだ。夢でも幻でもない。建物の内にも外にも、人の気配が全く感じられないのだ。

「廃業? まさか閉湯だなんて! ああぁ、なんてことだ」

 ヒロシは愕然と、下りたままのシャッターを見つめるだけだ。灰色のシャッターは、遠くの外灯の薄明かりを反射し、冷たい光沢を無言で闇夜に放っていた。

 ヒロシは実感した。いつもとは真逆だ。普段は皆がどれほど焦燥感に駆られようが、対照的に、ヒロシだけはのほほんと能天気にやりすごす。

 でも、今日だけは、皆がハッピー、いっぽうヒロシは悄然と佇むよりほかない。

「いまオイラ、人生の無常を悟ったよ。虚無感と、やるせなさが身に染みた……。子供の頃から通った銭湯なのに」

 まさかオイラ、いま、涙を流しそうになってないか? ヒロシは目頭が熱くなった。

 するとあの芳香が漂ってきた。

「まさか――、この桃の香りは?」

 桃源郷が発する艶美で濃厚な香気だ。天女を想起させるかぐわかしさだ。

 闇の中。揺れている。目を凝らせば、何かが、桃色の薫香のなかを漂っている。薄い物体だ、ひらりひらりと、真紅の絹が宙を舞っている。ヒロシを誘うように揺れている。

「何て悩ましげなんだ……」

 そう思いきや、なまめかしい微風とともに現れた。

 匂いたつ麗しの美女。謎の女がヒロシの目の前に立っていた。闇の中から忽然と。誘うがごとき匂香と、女の色気を撒き散らしながら。

 天女は真紅のドレスを身に纏っていた。ヒロシが生まれてこのかた見たなかで、断然、最も美しく、最もあでやかで濃艶だった。ヒロシは目ばかりでなく、心が釘付けになった。

「ヒロシ。お久し振り」 

 深い失意と目の醒めるような憧憬。感情がジェットコースターのように激しく上下し、ヒロシはわけがわからなくなった。

「あぁ、憧れの彬子さん。オイラ、会いたかった……」

「珍しくあなたが落ちこんでるから、きょうはサービスよ」

 そういうと天女は絹の肩掛けを外した。

 瞬時にヒロシは果てそうになった。なぜならドレスの胸元は大きく開き、いまにもこぼれ落ちそうだったからだ、

 ヒロシは目を奪われただけでなく、金縛りに陥った感覚だ。それほどまでに青洞院彬子は妖艶であり、色気に満ちていた。

「きょうはお礼を言いに来たの」

「お礼? 誰に?」

「あなたによ、ヒロシ」

「ええっ。どうして?」

「現状、経済的には恵まれていないけれども、共感力が高くて、心根のいい旦那さんを見つけてくれて、どうもありがとう」

 頭の中の整理が追い付かず、ヒロシはますますわけがわからない。

「ど、どうしてそれを?」

「知りたい?」

「うん。オイラ、知りたい」

 すると、一陣の風が吹いた。濃厚な香りがヒロシを包んだと同時に、真紅の肩掛けが風に舞い、ヒロシの頬を撫でた。

 眼前に立つ青洞院彬子は、天界に遊ぶ天女そのもののように、にっこりと、たおやかに頬笑んだ、じっとヒロシを見つめて。温かいぬくもりに満ちた天女の微笑だ。すると、薄絹が舞い踊り、幾層にもすっぽりとヒロシを包み込んだ。薄絹に覆われた内部は、なつかしい体温に満ちている。

「ああ、しあわせな気持ちだ……」

 何もかもを包含する慈悲に満ちた母性。天女のぬくもりに委ねられたヒロシの魂は、安心しきった状態になり、純真無垢な幼少期へ巻き戻された。

「ヒロシ、あなたは立派にやり遂げたわ」

 夢うつつのヒロシの魂は、慈愛に満ち満ちた母性が持つ大きな愛に包まれ、さらに幼児化し、いまや赤子に戻った。生まれたての魂は、慈母と一体化した。

「あなたは、健気に励んでくれたわ」

 青洞院彬子の胎内で、慈母の鼓動が赤子の心拍と同化し、ヒロシの魂は癒されていく。

 子守唄のように奏でられるやわらかな慈母の声が、清浄無垢な全身をくるんだ。

「ヒロシ。あなたはとても尽くしてくれた。期待以上の成果を上げてくれた。そのお礼にお話しするわね。当初は、傷ついた心をなごませてくれるだけで十分だと想定していたのよ」

 すると青洞院彬子は、先とは全く異なる頬笑みを見せた。ヒロシの中枢神経が痺れた。

 妖しげで、どこまでも色っぽい。美しく、あでやかで、しっとり濡れている。

 桃色のオーラを発散させる女性(にょしょう)が、奥深く秘めた洞窟で発する魔術。瞬時に青年に戻ったヒロシの魂は、妖艶きわまる魔女のとろけるような微笑に吸い込まれた。

「うふふふ」

 傷ついた魂は、次に、男として癒されているのだ。

「もうだいじょうぶね。ヒロシ、あなたは立ち直った。常日頃のヒロシに戻ってね。あなたの取り柄は、窮地をチャンスに変えることでしょう?」

 薄い絹がさっと、ふたたび頬に触れた。

 ヒロシはヒロシに戻って、地上に立っていた。

 すべては幻だったのか? しかし目の前の青洞院彬子は、先ほどと同じように立っており、全く別の口調で話し始めた。

「私は、飯山貞花が成長する様子をじっと見守って来ました。幼い頃からよ」

 ヒロシは耳を疑った。

「い、飯山貞花さんをご存知なのですか?」

 闇の中、こくりと彬子は肯いた。

「この話は内密にしてほしいの。いいこと?」

「は、はい……」

「実は、飯山貞花は、大富豪のご令嬢なの」

「ええええ?」ヒロシは目が点になった。

「でも、実家の経済的な豊かさは、貞花の幸せに直結しなかった。おわかり? 経済的裕福さが個人の幸福感に直結しない現実は、あなたほどの感性の持ち主なら、直感的に、十二分に理解できると思ってのことよ」

 ヒロシはさらに混乱しつつも、かろうじて返事をかえした。

「う、うん。確かにそうだね。お金がすべてじゃないってことは、オイラが常々思ってることと一致する。じゅうぶん納得できるよ」

 ヒロシが肯く様子を見て、彬子は続けた。

「ええ、そうね。でも、大富豪の娘として生まれてきた貞花は、そうは育てられなかった」

 ヒロシは眉をひそめた。

 彬子は遠くを見る目をして語った。

「あの子――貞花は小さい頃から、なんでもかんでも親のいいなりだった。可哀想に、一事が万事、自分の意見は無視される。すべて親に命じられたまま。それで上手くいけばいいけれど、現実はそうはならない。集団のなかで一人だけ浮き上がってしまう。小中高と、逆に浮き下がってしまったわ。ひとりの友達もできず、究極の引っ込み思案と化すしかなかった。貞花はそんな自分が厭になり、家出同然に、田舎を飛び出たの」

「……そ、そうだったのか」

 彬子の話は、ヒロシにとって、予想外の展開だ。

「ヒロシ、あなたは私の話を聞いて、裏切られた気持ちになった?」

「いいや。貞花さんは、一言もウソはついてない!」

 それは真実だ。

「そう。それなら良かったわ」

 俯き加減になったヒロシに対し、彬子は続けた。

「そしてね。ヒロシや弥生さんたち、みんなに出会ってから、貞花は変わったわ。目に見えてね。外見も、内面も」

 ヒロシが知るいままでの彬子とは違った声に、ヒロシは顔を上げた。彬子の表情は、真剣そのものだ。

「貞花は、よく笑うようになったでしょ? 自分から話すようになったでしょ? あなたたちのアイデアと創意工夫、温かな尽力のお蔭で、貞花は、徐々に本来の自分を取り戻してきたのよ。生まれ持った人間性を、ついに回復することができたの。……心から感謝しているわ。本当にありがとう。とことん面倒を見ていただいたわね」

 目の前に立つ憧れの存在から、矢のような賞賛のことばを浴び、ヒロシはドギマギした。

「オ、オイラだけじゃないよ。貞花さんと一番仲良くなった弥生とか、アラナとか、少多とか、日和さんとか、皆、助言を惜しまなかった。だけど、変わったのは貞花さん本人の努力だったんだよ」

 そういいつつも、ヒロシはいまだに何がなんだかわからない。

 どうして謎の美女が依頼人・飯山貞花のことを知っているのだろうか?

 ヒロシの疑問を知ってか知らぬか、彬子は続けた。

「そうね。皆さんの手厚い援護と本人の努力の結果、あの子は一皮も二皮も剥け、新たな自分になった。本来持っていた自分の個性、本性が、内面から滲み出すように浮かび上ってきた。ものの見事に貞花は生まれ変わったのよ」

 ヒロシは思い出した。イベント終了後、貞花がお婆ちゃんと話していた時に見せた柔らかな笑い顔。次に、乳幼児を遊ばせていた様子。そして夕闇が迫る中、転倒して心が折れそうになっていた希望君に親身になって接する姿を。

「貞花はね、本来の人生を取り戻したの。物心ついてから初めて、打ち解けあえる仲間を手に入れて、ここ一番に際して、思い切った行動が取れた。誰よりも積極的になれた。ようやく理想の自分になれたのよ。いまは晴れやかな気持ちのはずよ」

 ヒロシは肯いた。

「はい。いま貞花さんは、旦那さんと一緒に、ヨーロッパに新婚旅行に行ってます。バックパッカーとして国から国へと渡り歩く、幸せたっぷりな絵葉書が届くんです」

「うふふふ、良かったわ」

 またもや妖艶なる美女とは、まるっきり別の笑顔だ。普通の人間が見せるにこにこ顔だ。

「あなたがたには感謝してもしきれない。心からお礼を申し上げさせていただくわ」

「は、はい。それで、あのう、……ひとつ謎があって」

 ヒロシは思いきって彬子に訊ねた。

「実は、恋愛結婚株式会社の銀行口座に、莫大な金額が振り込まれていたんです。理由がわからなかったんですが……」

「ウフフ。それはね、貞花の実の両親からよ。結婚を喜んだ両親が、成果報酬を振込んだのね、特大ボーナス付きで。貞花本人は、ひとり田舎を飛び出た時に、とっくに実家と絶縁したと思っているから寝耳に水でしょうけど」

 ヒロシはまたもや目が点になるしかなかった。

「そうだったのかあ。あと、恋愛結婚株式会社のホームページに、ひっきりなしに新規の相談予約の問い合せが殺到してるんですけど、まさかこれは……」

「ええ。地方の一都市ですが、貞花の両親は手広くビジネスをおこなっていて、そのクチコミでしょうね。父母は田舎者ですが顔は広いので。知人の子女たちの多くは東京で暮らしているでしょうから」

「やった! これで恋愛結婚株式会社は存続できる!」

 ヒロシの無邪気なニコニコ顔は、彬子を頬笑ませた。

「お役に立てて何よりだわ」

 ヒロシは続けた。「実は、ヨーロッパで貞花さん夫婦が出会ったバックパッカーたちから、『ニッポンノ男ノ子と、ケッコンしたいデス』、なんていう問い合せがたくさん飛び込んで来てるんです。こりゃあ、テンヤワンヤの大忙しになりそうだ」

「ふふふ、あなた方の努力が報われたのね」

「貞花さんご自身に、隠れた能力があったんです。そのお蔭です」

「妹に? どんな能力が?」

「貞花さんには、本人が驚くほどの温かな母性愛が秘められていて、傷ついた彼の心を癒す才能があったんです」

「そう、それは私にはない能力かもしれません」

「いえ、猛烈にあります!」

 つい今しがた、身をもってヒロシは体験したのだ。興奮状態のヒロシはついに訊ねた。

「彬子さん。あなたは、いったい誰なんですか?」

 ヒロシはまっすぐに彬子を見た。

 ふたりの目が合った。

「ヒロシ。勘の鋭いあなたなら、もうおわかりでしょ?」

「青洞院彬子さん。あなたは、飯山貞花さんの、実のお姉さん?」

「そう、そのとおりよ。わがままに育てられ、早くに家から出奔してしまった姉のせいで、妹の貞花は正反対に、厳しく、これ以上ないほど厳格に育てられた」

 彬子は大きくため息をついた。「思春期になった私が執拗に反抗したばっかりに、妹は反抗することさえ許されなかった。あの子が受けたがんじがらめの躾や教育は全部、姉の私が原因だったの。だから不憫でならなかった」

 遠い目をして彬子は続けた。濃艶さ極まる天女も、やはり血の通った人間だったのだ。

「貞花は、実の両親からの、理不尽なまでの厳格な躾に我慢できなくなり家出した。私は手を尽くして探し回ったわ。痛いほど責任を感じてね。興信所がようやく発見した時には、手取り僅かの給料を得るため、働き詰めに働いて憔悴しきっていたわ。向いてない職場でね、心が病んでしまっていた」

 すると彬子はもともと大きな瞳をさらに大きく広げて、ヒロシを見た。

「その心のリハビリをしてくださったのが、あなた方なの。だから恋愛結婚株式会社のみなさんには、言葉では言い表せないほど感謝してるわ」

「そ、そうだったのか……」

「覚えてるかしら。運動会の時の、木曽原少多くんに対する情け深さ。あなたと、弥生さん、アラナさん、カレンさんたちのチームワーク。見ていて心が温まったわ」

「そういえば運動会の時が、幻の青いワンピースの女を目撃した最初だった……。もしかして、あの頃から?」

「そうよ。あなた方が醸し出すあの温かな雰囲気のなかでなら、私のたったひとりの大事な妹を託すことができる。大切な貞花の『心のリハビリ』をお任せできると確信したの。あの日、ブルーのワンピースを身にまとっていた私は、体育館裏で、あなたがたを見初めたのよ」

「なんと! なんということだ……」

「そもそものきっかけは、私の持つ数ある会社のうち、とある一社のウェブサイトを任せたカレンちゃんからの情報よ。うちの学校に、とんでもないほど陽気で朗らかで活力溢れる男子がいるってね。そう聞いて、私はあなたを運動会に見に来たの」

「ええええっ!」ヒロシは仰天した。「カレンがそんなことを?」

「具体的には、『本当に誰にもわけへだてなく接するノーテンキ野郎がいる』って言ってたわ」

「うへっ!」ヒロシは頭を掻いた。

「あなたの最大の長所よね」彬子は感謝の気持ちが籠もった目で、熱くヒロシを見つめた。

「とはいえ私は影の存在。貞花には、たったひとりでやりぬく決意と行動力が必要だった、一皮剥けて成長するためにはね。だから私は決して妹に会いに行こうとはしなかった。連絡も取らなかった。内心、心配で心配で胸が張り裂けそうだったけれど。姉の私にできることといえば、妹の目に付くところに、恋愛結婚株式会社のチラシを撒いたり、置いたり。それなりに上手に誘導したつもりよ」

「そ、そうかあ。ありがとう彬子さん」

「蔭ながらできることは、私なりにさせていただきました」

「は、はい?……」

「ご存じかしら。恋愛結婚株式会社を立ち上げる際、クラウドファンディングの募集があって、たった数時間で達成したでしょう?」

「ま、まさか彬子さん、あなたが?」

 青洞院彬子はコクリと肯いた。

「あなた方が目指す純愛路線を邪魔する会社は許せない。この世に必要ないので、冷村悧依紗を夜須弘士に紹介して、ラブ・マジッリ・インターナショナルに送り込んだのも私よ」

「何と! そうだったのか!」ヒロシは叫んだ。「だから夜須シはあの夜、彬子さんと一緒にいたんですね? あともう一人がリーサだったんだな」

「誤解しないでね。私はリーサを夜須弘士に引き合わせただけよ。それ以外は何もしてないわ」

 ヒロシはホッと胸を撫で下ろした。

「恋愛結婚株式会社ふうに言うのなら、私は接点を作っただけ。後は二人の化学反応よ」

「そうかあ、接点かあ。いい人間だけじゃなく、悪い人間どうしも接点があれば反応しちゃんだね」

 彬子は無言で肯いた。

「そういえばオイラ、遠くから、絶えず青いワンピースの女性に見守られてた気がしてたんだ」

「うふふ。そのとおりよ。大事な妹の未来がかかっていたんですからね。じっくり様子を伺っていました」

「そうかあ。幻じゃなかったのかあ」ヒロシは感に堪えない様子だ。「じゃあ彬子さん、ひとつ聞いていいですか?」

「どうぞ、なにかしら?」

「彬子さん。あなたは、なぜいつもそんなに色っぽいの? どうして?」

「私が色っぽい? そう? うふっ」

 彬子は、濃桃色に輝く艶やかな唇から、こってり甘い吐息を洩らした。すると周囲は瞬く間にかぐわかしい桃香に覆い尽くされた。中枢神経を貫かれ、瞬時に悩殺されたヒロシは、気を失いそうになった。あやうく気絶する寸前に、最後の力を振り絞って告白した。

「彬子さんは、オイラの理想の女性なんだ!」

「あなたの目の前に、私が絶えず妖艶な姿で出現した理由が知りたいのね?」

 大きく肯いたヒロシは、ゴクリと唾を呑み込んだ。

「その理由は、あなたよ、ヒロシ。あなたがエッチな坊やだからよ。ウフッ」

 ヒロシは真っ赤に紅潮し、卒倒しそうになった。

「年上の色っぽい女性が大好きなあなたの注意を引きつけるためよ。私が差し伸べた救助の手を発見してもらって、恋愛結婚株式会社を軌道に乗せるため。ウフフフ。最終的には妹を助けたいから。私、誰よりも家族思いなの。こんな外見とは裏腹にね。いいこと? 外見は常に内面を裏切るの。そうでしょ?」

 ヒロシは唖然としたまま大きく肯いた。

 こうして謎の美女、青洞院彬子の正体が明かされた。素顔は、妹想いの、慈愛に満ちたお姉さんだったのだ。

 心温かき恩人。恋愛結婚株式会社起業時のクラウドファンディングに、全額ひとりで振り込んでくれたのは彬子だったのだ。

 薄幸な妹を託すに足る人物か見定めるため、後援するに値する人物か見極めようと、常にヒロシたちを観察していた心配性のお姉さん。それが青洞院彬子だったのだ。

「すべては愛する妹さんのためだったのか……」

 ヒロシのつぶやきに、コクリと彬子は肯いた。

 ヒロシは悟った。貞花が幸せになった今、もしかして彬子と会えるチャンスはもう無いのかもしれない。今宵が最後? だから会いに来てくれた?

 永久の別れなんて信じたくない。でも別れが避けられぬのなら……。

 ヒロシは、思いの丈をぶつけたくなった。でももう駄目だ。立っていられない。だって失神寸前なのだから。だからすべての想いを、たった一言に集約して投げかけた。真っ赤に紅潮して。「ご褒美ください! お願いです、彬子さん、大好きなんです!」

 少し間があった。考えてくれているのか?

「もうすこし大人になったらね」

 ガーン

「もうオイラ、大人だよ」

「そうかしら?」

「この銭湯の張り紙を見て、人生の無常を実感したんだ! だからもう大人の感性ができあがったんだよ」

「うふふ。じゃああなたは今の今、大人になったのね?」

「うん!」

 ヒロシの威勢のいい返事に、彬子は吹き出した。

「おほほほ。あなたって人は、いったい何をいいだすのやら見当つかないわ、あははは。こんな能天気で愉快な人だからこそ、貞花を任すと決めたんだったわ、おほほほ」

 彬子は大笑いしている。そのはずみで、盛り上がったふたつの峰が艶かしく揺れた。

「彬子さん! オイラのがんばりは、認めてくれるよね?」

「ええ、感謝してる。百回でも、千回でも褒めてあげるわ」

 その瞬間、妖美な赤い炎はひらりと宙を舞った。気がつくと、ヒロシの鼻の先に、赤いドレスの女が立っていた。と、その刹那、ギューっとヒロシは抱きしめられた。

 温かく、柔らかだった。

「ああっ、うっ」

 ヒロシはそのまま気絶してしまった。

 うわ言で、『ギューはできたけど、チューはできなかった』と、何度も繰り返していたらしい。

「ヒロシ。何だったの、あのうわ言?」

 本当のことは、弥生には、口が裂けても言えそうにない。弥生は、シャッターが下りた銭湯前の路上に倒れていたヒロシを発見し、介抱してくれたのだ。

 あの晩、退勤した弥生は、闇夜のなかヒラヒラなびく薄い真紅の絹布を闘牛のように追っていき、行き倒れ同然のヒロシを発見したという。

 弥生から両頬を何度も激しくはたかれて、ヒロシはようやく蘇生した。

 ヒロシは、すべてが夢だったとも感じた。しかし、忘れようにも忘れられなかった。なぜならヒロシの全身を隈なく覆った匂香がいまだに抜けきらないのだ。

「オ、オイラさ、大金の使い(みち)、ようやく思いついた」

 オフィスにいる弥生、アラナ、少多、日和がヒロシに振り向いた。

 田舎に住む貞花の両親から多額の報奨金が振り込まれていたのだ。とんでもない金額だった。

「ヒロシのアイデアね。なあに?」

 弥生は日頃と同じく、温かい目でヒロシを見守ってくれている。

「アンタ、またオカシなことじゃないでしょうねェー?」アラナも変わらない。

「ヒロシ、焦らさず教えてよ」少多は少し逞しくなった。

「じゃあ、オイラ、発表するね」

 ヒロシはいつもと変わらず余裕綽々、頭の後ろで両手を組んで、ゆるりと言った。

「大金の使い道はズバリ、未来への投資さ」

 ヒロシは毎度同じ、軽口を叩くような愉快なムードで続けた。「恋愛結婚株式会社の将来に、とっても役立つこと。これから現れるだろう相談者の皆さんにも、われわれにも」

「だからなあに?」と弥生。

「もーう~」アラナの両目がいつものように吊り上がってきた。

「早く教えてようー」と少多。

「オイラのアイデアはさ。あの銭湯を購入して、相談者のみなさんとオイラたちが、ともに湯舟に浸かって話をする心のリハビリセンターにするんだよ」

「ああっ」

「あああ、ああっ」

「まさかヒロシぃ、アンタが最高のアイデア出すだなんてェ!」

「ね? 相談者さんとオイラたちの、心の洗い流しスポットにしようよ」

 ヒロシは破顔一笑、弾けるような太陽の笑みだ。物心ついてこのかた、あの湯舟で癒されてきた。玄関先では、最後の晩にまでおのれを甦らせてくれた。正真正銘、聖地なのだ。

 日和は大きく肯きながら言った。

「まさかヒロシがこんなに成長するなんてね」

 皆、吹き出した。

 きょうも恋愛結婚株式会社には、爆笑の渦が巻き起こっている。

 大きな窓から射しこむ初夏の突き刺すような陽光は、若者たちが迎える人生の季節そのものだ。

 澄みわたる青空を背景に、小橋にかかる欄干は、思わず目をつぶりたくなるくらい、まぶしく光り輝いていた。

                   完



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