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第一部 のんきな高校生

第一章 光と影


 天空海闊(てんくうかいかつ)。降り注ぐ陽光。

 大地を力いっぱい走る生徒たち。体操服姿が目に眩しい。

 ひとりが一直線に集団のなかを突っ切った。

「わああ!」

 凄まじい歓声が上った。

「すごいぞヒロシ!」

 またひとり追い抜いた。

「うわあ!」

「がんばれヒロシぃ!」

 ひとりの生徒が次から次へとゴボウ抜きを演じている。無限疾走だ。

 運動会のハイライト、4×200メートルリレー。

 丘の上に位置する校庭のなかでも一段と高い場所にあるグランドは綺麗に整地されている。生徒たち自ら飾りつけた陽の当たる場所には、華やかな応援団と大歓声。

「また追い抜いた!」

「行け行けヒロシぃ!」

「ヒーローヒロシだ!」

 間髪入れず前を走る生徒を追い抜いているヒロシは、大柄でもなく、運動選手らしい筋肉もついておらず、走り方も我流だ。それにもかかわらず、とにかく前の走者を続けざまに追い抜くものだから、応援する生徒たちは意表を衝かれて拍手喝采、大盛り上がりだ。

 トップで次の走者にバトンを渡し終わったヒロシこと緑井比呂志(みどりいひろし)はトラックの内側に駆け入り、そのままの流れで、歩きながら大きく肩で息をした。

「ふう、はあ、ふう」

 ヒロシは荒い息を整えようと、数歩、前に歩いた。ヒロシはそれほど男前でもなく平凡な顔つきなのだが、これほど活躍すればやはり黄色い声援も飛べば、褒められもする。生徒席から口ぐちに声が飛んだ。

「すげえぜヒロシ!」

「やるじゃないかよヒロシぃ!」

「きゃー、ヒロシ!」

 ヒロシはかなりのお調子者で、歓声に応えようと両手でVサインを作り、ぐるっと360度回転し、グランド全体を見回した。

 するとヒロシは両目を大きく見開き、棒立ちになった。時が止まり、歓声も拍手も一切聴こえなくなった。

 ヒロシが呆然と立ち尽くす視線の先に、その女性(ひと)はたたずんでいた。トラックの内側から百メートルほど離れた貴賓席兼保護者席の中で、ただひとり、若い女性が立っており、光沢のあるブルーのワンピースに身を包んでいる。ヒロシの目はクギ付けだ。なにしろ、ハッとするほど美しい。燦燦と輝いている。天から降りてくる陽光は、見渡す限りこの地球上、この女性だけを照らしているのではなかろうか。

 ヒロシは、おのが目を疑った。生徒だれかのお姉さんだろうかか? だれにも似ていないけど。

 百メートルは距離があるのに、匂うがごとき薫風が漂ってきた。なぜかヒロシには、その美女が発する芳香だと確信できた。桃の香りに近い甘さがあるが、もっと動物的で、しっとりした匂いだ。

 するとそよ風のいたずらかワンピースの表ひだが、ふわっとそよいだ。

「ひゃあー、なんて麗しいんだ……」

 謎の女性はオトナの色香を発散させているものの、ただし、決して淫猥ではない。立ち姿は気品に満ち、全身から優雅さを醸し出している。ヒロシはどうしても目が離せなくなった。

 すると青いワンピースの女は、胸の前に組んでいた腕をおろした。自然と胸が揺れた。

「うわああ!」

ヒロシが初めて見るオトナの女性だ。胸の膨らみといい、腰部のなだらかさといい、オンナっぽさに満ち溢れ、心が吸い込まれそうだ。

「ああぁ、妖艶すぎる……」

 なぜこんなところに、地球上すべての男性をいざなうほど色気に満ち満ちた女性がいるのか、不思議でならない。この上なく謎めいた存在だ。

「いったい誰なんだろう? あまりに素敵すぎる。オイラ、謎を突き止めたい。そしてあわよくば、あの女性と人生初の、チューしたい……」

 これが、ヒロシが初めて謎の女性を見た瞬間だった。ヒロシは一陣のそよ風が吹く間に心を奪われたのだ。

 呆けたように立ち尽くすヒロシは、いきなり背後から肩を揺すぶられた。

「やるじゃないかよヒロシぃ」

 仲間数人に囲まれた。

「ビックラこいたぜヒロシぃ~」

 瞬時にヒロシは現実に引き戻された。

 高台にあるグランドは風通しもよく、色付き始めた木々に囲まれ、秋晴れの陽光を軽やかに浴びている。生徒たち皆がリレー競技に夢中になっている背後、数十メートル奥には、五、六段ほどの階段があった。

「みんなで体育館裏へ行こうぜ、な!」

「いいねえ、行こう、行こう」

「よーし、先生にバレないように……」

 皆は歩き始めた。階段を降りた一角は、学校の敷地のなかで最も凹んだ低地部分だ。ふだんは誰も立ち入らず、風に吹き飛ばされてきた落ち葉と枯れ草が折り重なっているだけだ。

 その奥には、今は使用されていない旧体育館があり、さらにその裏へ回ると、雑草が生い茂っている。緑のペンキが剥げてしまい、どこもかしこもササクレ立った錆だらけのネットフェンスと、旧体育館との間の数メートルの空き地は、すえた空気の吹き溜まりだ。

 朝から晩まで日陰になり、年じゅう湿っている。

 そんな見棄てられた場所に、二人の生徒がいた。二人とも体操着姿だ。ということは運動会を抜け出てきたのだ。

「おい、ヘソ原少多しょうた!」

「ボク、ヘソ原じゃないよ!」

「じゃあ、クソ原かよ!」

 いじめている生徒、夜須弘士やす・ひろしは背が高い。色白で、面長のイケメンだ。背が低い生徒の首根っ子を抑えつけている。

 夜須弘士はいじめながらも、なぜ自分がこの弱弱しい同級生をいじめているのか、ふと疑問に思った。

 どうして俺はこんな無益なことをしているのか? 

 すると突然、小学校の授業が脳裏に甦った。小学三年生当時だ。

 中年太りの女性の先生がクラスの児童たち全員に向けて言った。

「みんな、自分の名前がどうして名付けられたのか? 興味あるでしょ?」

 まだまだ幼さが抜けきらない児童たちは、にこやかな表情を浮かべうんうん肯いた。

「きょうの宿題にします。みんなおうちに帰って、調べてきてください。おうちの人に、どんな理由で自分の名前が付けられたのか、きいてきてね。わかりましたか?」

「はーい」皆は無邪気に答えた。

 そして翌日。座席順にクラス皆の前で発表することになり、十人め(・)あたり、緑井比呂志の番になった。

 夜須弘士が思うに、こいつはクラスで一番のおしゃべり野郎だ。無責任なチャラ男で、その上、自制心はゼロ。いつもフザケテやがる。真剣な表情など見たことがない。どうにもこうにも、いけ好かない。

 そんな緑井比呂志は特段緊張した様子もなく、にやけた表情で教壇に立った。そして平素と変わらぬデレデレした態度で話し始めた。

「オイラ、緑井比呂志のヒロシって名前は、立派な人だったからって理由で、お祖父ちゃんの名前をそのまま受け継ぎました」

「へ~え」

「そうなんだあ」

 クラスの皆は素直に感心して、肯いた。先生はコメントした。

「あら、素敵だわね。お祖父ちゃんのお名前を受け継ぐなんて素晴しいわ。はい、みんな拍手」

 発表した全員に対して拍手はあるのだが、緑井ヒロシに向けてはあきらかに拍手の音は大きかった。

「やるじゃんヒロシぃ」

「そうさ。オイラ、クラスのヒーローヒロシだもん!」

 ノンキな小学生の発言にクラスは大受けだ。この発表以降、緑井ヒロシはことあるごとにヒーローヒロシと呼ばれることになった。

「イエーイ」

 ヒーローヒロシは両手でVサインを作り、意気揚々とクラスのど真ん中にある自分の席に戻って、デーンと着座した。

「では次の人」

 先生は、緑井ヒロシの後ろに座る児童を促した。だが、次の児童はなかなか前へ出ようとしない。

「次は、夜須(やす)くんでしょ?」

「……はい」

 夜須と呼ばれた児童は、いまこの光景を回想している夜須(やす)弘士(ひろし)自身だ。しぶしぶ立ち上がり、俯き加減に教壇へ向かった。背は高く、色白で、幼いながらもハンサムだ。鼻筋がとおり、アゴが細く、お殿様顔である。

 教壇に立ち、クラス皆のほうに向き直った夜須弘士は、観念したかのように話し始めた。

「……夜須弘士です。ぼ、ぼくの、名前の、ひろしは、立派な人だったお祖父ちゃんの名前をそのまま受け継ぎました……」

 どっかーんと爆笑の渦が発生し、地鳴りのごとく教室を揺るがせた。

「うわあ、夜須ヒロシが真似した!」

「ニセモノだ!」

「ニセヒロシだ!」

「アハハハ!」

 皆は呆れて嘲笑った。

「真似真似ひろし、真似ひろし!」お調子者の城門(しろかど)くんが叫んだ。♪オマエの母ちゃんデベソ!と同じ節でだ。「偽偽ひろし、偽ひろし! 真似真似ひろし、真似ひろし!」

 発表する順序がひとつ前後になってしまっただけで、緑井ヒロシが本物のヒロシになり、夜須弘士は偽者になってしまった。

 俯いたまま、夜須弘士は自分の席に戻った。恥ずかしくて、恥ずかしくて、その場から消えてしまいたかった。真似したんじゃなく、本当のことなのに。

「真似真似ひろし、真似ひろし!」城門くんは両腕を大きく動かして、高校野球の応援団のようにクラスの児童たちを扇動した。「偽偽ひろし、偽ひろし!」

 高校生になった今でも、かつての同級生たちは言う。

「あ、あいつね、真似シのことだよね」、だとか、「ウソシのことだよね」、とか。噂に上った時でさえ、夜須弘士はきちんと名前を呼んでもらえないのだ。よくて「夜須シ」と呼ばれている。

 何と不条理なことだろう。お祖父ちゃんから名前を貰ったと発表した緑井ヒロシは先生から褒められて、ヒーローヒロシというニックネームまで定着した。

 直後に発表した夜須ひろしは、まったく同じ事実があったので同じ事を言っただけなのに、完全にニセモノ扱いだ。

「真似した!」「マネマネひろし、マネヒロシ!」と罵られ、クラス全体から軽蔑されてしまった。恨むなら、すぐ級友たちを注意しなかった先生を恨むべきなのだが、先生は、こうコメントした。

「夜須くんも立派に発表しましたね。素晴しい名付け方ですよ。同じ理由で同じ名前になるなんてことがあるのね。先生は感心しました」

 先生は先生なりにフォローした。よって多くのクラスメイトは「へえぇ、同じ理由、同じわけってこともあるんだぁ」、と素直に感じ入った。

 しかしただひとり、夜須ヒロシ本人だけは違った。

「あいつのせいで、恥をかかされた! あいつは俺の終生の敵だ!」、と一方的に恨みを募らせた。勝手な被害妄想だが、この夜、ベッドのなかで激情に駆られた。

 囃したてた城門くんや、その城門くんをすぐ制止しなかった先生を恨むなら、まだ気持ちはわかる。だが、なぜか夜須弘士は、同じ名付けられ方をして同じ名前になった緑井ヒロシを恨んだ。同じ名前のほうが、恨みの対象にしやすかったのかもしれない。

 一方、緑井ヒロシは何も考えず、何にも思わなかった。緑井ヒロシ自身、まだ子供子供した子供だったので、夜須弘士をフォローしてあげようという大人びた考えは思い浮かばなかった。

 というより高校三年生になった今でさえ、緑井ヒロシは単純を絵に描いたような人間で、誰かを思い遣るだなんて思いもよらない。それどころかこんな事件があったことなど、その日のうちに忘れてしまっていた。夜須弘士の存在なんて、元よりまったく気にしてないのだ。

 ところが運命の火蓋は切って落とされた。この日より、ふたりのヒロシは、世にも珍妙な間柄になった。

「くそう、緑井ヒロシめ、許しちゃおけん!」

 片方だけがもう片方を、因縁積み重なる宿敵とみなし、終生のライバルだと勘違いし、打倒すべき仇だと勝手に思い込んだ。

 一方的な感情だという視点に立てば、決して相手に届かぬ片想いと同じなのだが、逆様(さかさま)片想いというか、片嫌いというか、世にも不思議な感情を抱くことになった。

 その一方、もう片方のヒロシは、もう一人のヒロシのことなど、はなから眼中にない。恨まれている事など露そ知らない。呑気なものだ。

 こうして、届かぬ想いを抱えた夜須弘士は、一方的に片想いならぬ片嫌いを募らせていった。

 でも回想は一瞬だった。いや。回想したことさえ、夜須弘士自身、認識していない。そして緑井ヒロシと特段関係が深くもない別の生徒をイジメている。

 だがこのイジメには、イジメている本人さえ自覚していない理由があった。運動会のメインイベント、リレー競技において大活躍をしたあの男。学校じゅうからヒーロー扱いをうけた憎きあの男の残像が瞼に残っている。それが意識下で夜須弘士を突き動かしているのだ。

「くそっ。人気者になりやがって!」

 怒りが込み上げてきた。感情の赴くまま、相手の腹に蹴りを入れそうになったところをなんとか(こら)えた。骨折でもされると後々厄介なことになるからだ。夜須弘士は狡知に長けているのだ。抑えつけていた男子生徒を押し倒すようにして、雑草の上に転ばせた。

 高校生レベルの格闘は、体格が大きく左右する。いとも簡単に夜須弘士は、小柄な生徒、木曽原少多きそはら・しょうたを転がした。雑草の上、みじめに尻餅をついた木曽原少多を、激情に駆られた夜須弘士は見下ろした。

「じゃあオメエよ。ヘソ原かクソ原か、どっちがいいんだ? オマエの新しい綽名あだななんだ。希望を聞いてやる」

 いいようにしてやられていた木曽原少多は、ついに堪忍袋の緒が切れた。

「クソーッ!」

 一瞬、夜須弘士はビクンっと怯んだ表情を浮かべたが、すぐに表情を崩した。

「ワッハハハ、アッハハハ。そうかい、そうかい。オマエが希望すんだから、新しいニックネームは『クソ原』で決まりだな。アハハハ」

 口を閉じていれば秀麗であろう顔を醜く歪めて、夜須弘士は木曾原少多を指差して嘲笑った。

「クソ原め! アハハハ」

 と、その時、ガヤガヤと人声や足音が聴こえてきた。

「ヤベエっ。先公か?」

 夜須は動揺の色を見せた。そして、声がするのとは逆の方向へ泡を食って逃げ出し、体育館裏から消えた。ほんの一瞬だ。

 すると体育館裏に現れたのは、賑やかな一団だ。生徒が男女合わせて十名近く、ほがらかに話しながら現れた。その中心にいるのは、先ほど大活躍したヒーローヒロシこと緑井比呂志だ。

「やったねヒロシ」

「ヒロシがあんなに足が速いなんて知らなかったわ」

「イエーイ」お調子者ヒロシの、普段と変わらぬノーテンキな声だ。

「いつもはフザケてるけど、ヒロシは、やる時はやる男なんだよなあ。すげえよ」

 そう言って、珍しく他人を賛美しているのは城門仁也しろかど・ひとなりだ。

「予想外だったわね、ヒロシの活躍」

 一団のなかには、女子生徒も数人混じっている。

「ヒロシって、一生懸命やれば何でもできるタイプだったのかしら」

 この声は中小林弥生なかおばやし・やよいだ。

 実は城門仁也と中小林弥生の二人も、夜須弘士や緑井比呂志と同じ小学校に通っていた。彼らにも因縁があった。

 それは六年生の時だった。初めて歴史を習った授業直後の休み時間、いつものごとく、城門は悪乗りし始めた。クラスの女子たちから親しみを込めて弥生と呼ばれていた中小林弥生を、いきなり指差して囃し立てた。

「弥生人! 原始人!」

 城門は大声で捲し立てた。

「弥生人! 原始人!」

 名指しで悪口を言われたことなど、生まれて始めてだった弥生は気が動転した。座席にひとり、屈辱に耐えながら俯くしかなかった。

「原始人! 弥生人!」

 悪乗りした城門は激しく弥生を野次った。正真正銘のお調子者なのだが、どのクラスにも一人か二人、必ずこういう男子が存在することもまた確かだ。弥生は涙が出そうになった。

 すると忽然と、もうひとりのお調子者が現れた。トイレから戻ってきたのだ。両腕を大きく広げてクラスの皆を扇動しようと努める城門に詰め寄り、城門のひたいをドーンと指差した。

「おまえジョーモン、おまえ縄文!」と大声でまくし立てた。

 城門仁也はビクッとし、声を失った。その隙に、ヒロシは踊りながら盛り上げた。

(じょう)文人(もんじん)! 城門(じょうもん)(じん)! 縄文人! 城門仁!」

 後で現れたお調子者は、一人め(・)のお調子者より、さらに目立とうとしただけで、弥生を助けようなんて殊勝な心がけは一切無かった。

「おまえ、縄文! おまえ城門!」

 確かに的を得ているというか、ツボを押さえているというか、ヒロシこと緑井比呂志の逆襲のほうが大受けだった。

 その場にいた男子全員で大合唱になった。

「おまえ、縄文! おまえ城門!」

 それまでいい気になっていた城門は真ッ青だ。

「縄文人や! 城門仁也(じょうもんじんや)! 縄文人や! 城門仁也!」

 城門仁也はほうほうの態で、教室から逃げ出すしかなかった。

 逆転ホームランを放ったヒロシのお手柄だったのだが、ヒロシ本人はこんなことがあったことなんて、とうに忘れている。

 しかし城門仁也は、いまだに縄文人と綽名で呼ばれていた。しかも城門仁也シロカド・ヒトナリという堅苦しい本名が重荷だったのに、面白いニックネームを付けてもらったと喜んでさえいる。実際のところ城門仁也は縄文人という愛称がやけに気に入って、高校三年間連続して、自ら文化祭で縄文人の仮装をした。ヤッホー、おれの出番だ、と喜び勇んでだ。いまでは名付け親のヒロシに感謝している。

 そして危うくおかしな綽名を付けられてしまうところを救われた中小林弥生は、実は、小学三年生の時もヒロシと同じクラスだった。

 名前の由来を発表する時だった。

「……私、中小林弥生です」

 おとなしく目立たない存在だった弥生は、初めて立った教壇の上で、クラス皆に見つめられ、ドキドキバクバク、緊張で胸が張り裂けんばかりになった。

「わ、私、三月生まれなので、三月の和風(わふう)月名(げつめい)から弥生って名付けられました」

「え? なにそれ?」

 ヒロシが質問したので、弥生はこう答えた。

「日本ふうの月の名前、昔の(こよみ)で使われていた和名のことよ」

 のんびりと頭の後ろで両手を組んでいたヒロシは、感心して言った。

「へええ~っ。三月に和名があるなんてなあ。知らなかったなぁ」

「ヒロシくん、和名はすべての月にあるのよ」

 弥生がそう指摘したので、クラスの皆は吹き出した。弥生の返答が、絶妙のツッコミになったのだ。

「あっはっはっはっ」

「あら、弥生さんは物知りネ! 立派に発表して、クラスメイトからの質問にも的確に答えることができました。先生はとっても感心しましたよ」

 先生は大きく肯いて褒めてくれた。

「じゃあ、きょうのヒロインは弥生だあ!」

 照れ隠しにヒロシがそう言ったので、弥生は自分が本当にヒロインになれた気がした。

 クラス皆の前で初めて発表して、好感触を得たことは、自信につながった。逃げも隠れもせず発表できたし、質問にもきちんと答えることができたのだから満点だ。しかもヒロインだといってもらえた。

 休み時間になると、クラスメイトたちが寄ってきた。

「弥生すごーい」

「弥生の発表が一番だったわね!」

 この日の授業での受け答えは、三月生まれというハンディもあってそれまでクラスで目立たない存在だった弥生が、生来の活発さと気立てのよさをオープンさせて、元気印を発揮するキッカケになった。そして恋心とまではいかないが、弥生がヒロシに心を許すスタート地点になったのは間違いなかった。

 そして誰よりも影が薄い木曽原少多の発表は、誰も覚えてなかった。

 時を戻そう。いや、すすめよう。

 体育館裏。影の世界。木曽原少多をいじめていた闇の男、夜須弘士は賑やかな声を耳にすると、一目散に逃げ出した。

 入れ替わるかのようにやってきた生徒たち十名ほど。その中心にいるのは学年一の人気者、ヒロシこと緑井比呂志だ。いつもの調子で、深い考えもなしにベラベラしゃべっている。あくまで陽気で快活、ノンキな口調でだ。

「やっぱりオイラ、駆けっこも天才的だな。イエーイ!」

 ヒロシは得意の両手Vサインを連発だ。

「ねえヒロシぃ。教えてよ。運動部にも入ってないヒロシが、どうやって運動会であんなに活躍できたんだよう?」

「そうよそうよ。陸上部員でさえ出来ない四人抜きなんて、どうしてヒロシがやれちゃうわけ?」

 皆は興味津々だ。

「実はコツがあってさ」

 ヒロシは意外なことを口にした。常日頃とまったく変わらぬ調子、軽いノリなのだが、気の許せる仲間たちに囲まれている今、ウソをつく必要のないシチュエーションだ。

「え? コツがあるの?」

 皆は目を白黒させた。

「マジで? 運動会で目立つのに、コツなんてあるの?」

 仲間からの問いかけに、にっこりとヒロシは言った。「リレーでは、必ず二番手を走るべし!」

「えっ、ホント?」

「どうして二番なのよ?」

 皆からの質問に、ヒロシは朗らかな調子で答えた。

「オイラが独自に考える法則によればだな、リレーで目立つためには、走者本人の鍛錬や努力より、順番が最も大切なんだ。それが一番大事~なんだよ。スピード? そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ」

「ええっ? マジかよ!」

 皆は耳を疑った。

「ちょっとヒロシぃ。それどういうことよ?」

「そうだよ、そうだよ。ちゃんと説明してくれよう」

「よし、オイラいまから説明するね。よく考えてよ。現実的にさあ、運動部に入ってて、足に自信ある奴は、リレーでは判で押したように三番手か四番手を走るんだよ」

「まあね、そうだわな」

「で、三番手や四番手をだなあ、たとえ陸上部でナンバーワンに足が速い奴が走っても、まわりの走者も速いからそうそう追い越せるものではないんだよ」

「ふむふむ、確かに三番走者、四番走者、だれも目立たなかったなあ」

 ヒロシは続けた。

「しかもだなあ。三番四番ともなるとさ、走り始める前から、すでに結構な差が開いててさ、あれじゃあオリンピック選手でも追い越せない」

「ふむふむ、確かにそうだな」

「やるじゃんヒロシ、(けい)(がん)じゃん」

「だろ? でだ。足が遅いくせに、クラスでジャイケンで負けて無理やりリレーメンバーになった奴らは、やっぱ自信が無いからリレー前半の一番めか二番めを走ることになる」

「うん、そうだな」

「そうだった。確かに遅い奴らは前半だった」

 そう皆が口ぐちに答えると、ヒロシは言った。

「で、仮にオイラが一番め(・)で走ったとして、いかに速く走っても、誰も追い抜けないからぜーんぜん目立たない」

「ああっ!」

「だから二番手で走れば、遅い奴らを簡単に追い抜くことができて、メッチャ目立ってヒーローになれるのさ、きょうのオイラのようにね、わははは」

 ヒロシは高笑いした。いい気なものだ。

「さすがヒーローヒロシ。学年で一番いいかげんな奴なのに、運動会で一番目立ったもんな」

「えへへへ。オイラ、これで日頃サボってるのも帳消しだ。体育で落第するってことはなくなったな。イエーイ」

 ふたたびヒロシは両手でVサインを見せた。あくまで陽気で悪気のない男子だ。

 生徒たちが着ている体操服は、生地の色は白。女子はサイドに二本の赤いラインが入っている。男子は緑色のライン。

「この体操着見てよ。緑のライン入り。どこまでもオイラが主役なんだよ。ナハハハ」

 陽気にはしゃぐ緑井ヒロシにつられて周囲も笑った。どこにでもいる愉快で安穏とした高校生の集団だ。

「あ。こんなとこに、少多(しょうた)がいる」

 ヒロシがそう言ったので、集団は立ち止まった。

 誰もいないはずの雑草の上に、木曽原少多が倒れこむように座りこんでいた。

「どうしたんだよ少多?」

 ヒロシは少多に声をかけた。実は木曽原少多も、皆と同じ小学校出身だった。だがまったく目立たない少多のことを、誰も覚えてなかった。何の印象も無いのだ。

 緑井ヒロシにとってもそれは同じなのだが、満場の拍手喝采を浴び、ほどよく気分が高揚している時にちょうど目に入ってきたのだ。ベラベラひょうきんに喋るムードそのまま声をかけた。喋っているついでといってもいい。ノリがいい時そのままの流れで話しかけたといった按配だ。

「ああ、うん……」

 木曽原少多は言葉少なげだ。それは普段どおりである。

 木曽原少多は、夜須弘士からのいじめを誰かに訴えようとは思わなかった。小学校以来、長年続き、もう諦めの気持ちになっていたのだ。

 また、いじめというものは訴えて停止できるようなものでないことが、身に染みていた。仮に先生に訴え、その先生にオカシな形で動かれると、余計にマズいことになる。おのれが先生に訴えたことが夜須弘士に伝わり、さらに酷いいじめをする口実になってしまう。小学校のときに経験済みなのだ。

 さらにだ。「アイツ先生に告げ口した、密告したゾ、卑怯者だ」と言葉が一人歩きして、クラス全員を敵に回すことになりかねない。教室とはそういう世界だ。少多は、夜須弘士から嫌われるのは構わないが、クラス全体から嫌われるような事態を怖れたのだ。

 誰かの声が聞こえた。

「あっ。ここからも女子のリレーが見えるぞ」

 運動会のメインイベント、男子リレーの次は女子リレーだ。

「ほんとだ、見えるわ」

 その声に一団は皆、グラウンドのほうを見た。もう、木曽原少多のことなど意識の外に追いやってしまっている。

「もうアンカーよ!」

 バトンが最終走者にわたり、とある女子生徒が颯爽と走り始めた。

 速い、速い。

 表の世界では、大声援が飛んでいる。ヒロシのような小細工ではなく、賭け値なく速い。

 日本人には珍しい姿勢の良さ。本物のアスリートのようにすらりと伸びた四肢で、ストライドが大きい。しなやかで美しく、圧倒的に速い。次々と前を行く走者を追い抜いていく。見事だ。

「すげえぞ!」

「ほんとだわ」

 体育館裏の日陰の世界から、皆は呆気にとられて快走に見とれた。その女子生徒は、燦々と輝きながら疾走している。

 吹き溜まりに生きるしかない木曽原少多にとっては、衝撃そのものだ。同じ高校の同級生なのに、まるで別世界に生きる女神そのものだと感じられた。

「なんて素敵なんだ! ……まるで本物の女神様だ」

 木曽原少多は呆然となって、遥か遠くに輝く女神の快走に目を奪われた。

 一団は口ぐちに声を上げた。

「マジやばい~!」

「行けえ~、進めえ~」

 城門をはじめ、集団の半数以上は歓声につられてグランドのほうへ戻っていった。女神様の快走をもっと近くで見たいのだ。

 体育館裏に残されたのは三人になった。ヒロシと弥生と木曽原少多だ。

「でも、こんな凄い女子、うちの高校にいたっけかなあ。オイラ、ぜ~んぜん、知らなかったなあ」

 素朴なヒロシの疑問に、モジモジしつつも少多が答えた。

「……転校生なんだよ、うちのクラスさ」

「へええ。オイラとちがって、正真正銘のスーパーランナーだなあ」

白樺美智しらかば・みちさんていって、素敵なひとなんだよ」

 感じ入った様子で、遠くを走る女神に見呆けている木曽原少多の声。ふと何かに感づいたヒロシは、ニキビだらけの少多の横顔を見つめた。

「はあ~、すげえなあ」

 木曽原少多は恥も外聞も無い。クソもヘチマもなく、涎も垂らさんばかりだ。

 大歓声が渦巻く中、白樺美智は堂々、一着でゴールテープを切った。どよめきが波になり、歓声と賞讃の嵐が体育館裏まで届いてきた。

「うわ~すごいスピード、あの走りは本物ね」

 もうひとり、体育館裏に残っていた弥生の正直な感想だ。

 すると声が聴こえた。

「ああ、一度でもいいからなあ。あんな素敵なひとと恋に落ちてみたいなあ。そしてできることならなあ、いつの日か結婚できればなあ」

 木曽原少多はポツリとそう洩らした。闇から仰ぎ見る光の女神の活躍に我を忘れ、羞恥心も追いやり、つい本音を洩らしてしまったのだ。乾きかけた汗と、枯れかけた涙とともに。

 すると木曽原少多は、おのれの声にドキッとした。真隣に立っている人間に立ち聞きされてしまったのではないかと怖れたのだ。叶うはずのない野暮な夢を聞かれてしまったのではないか? そう思い当たり、ギクリとし、凝固した。身構えたといってもいい。

 慣れているのだ。まず飛んで来るだろう言葉の暴力の襲来に備えた。少なくとも、からかわれる程度のことはあるだろうと、心理的に防御の体勢を整えたのだ。

 しかし能天気を絵に描いた男・ヒロシこと緑井比呂志は違った。周辺にいる皆を手当たり次第にからかうことはあっても、特定の人間を集中的にいじめる心境に陥ったことは一度も無かった。あまりに安穏とした日々を送り、日がな太平楽に生きてきたがため、いじめに至る心理的ストレスを感じたことがなかったのだ。

「オイラ、知らなかったなあ~。白樺美智さんっていうのかあ。少多は知ってるんだ? どんな人なの?」

 木曽原少多は肩透かしを喰らった。

「オマエなんかにゃ無理に決まってンだろうが!」「とっととオッ死ね」などという罵声も飛ばず、からかいのセリフさえ飛来せず、ごくありきたりの返事が返ってきたからだ。

 安心した木曽原少多は、思い切って本当のことを告白した。

「そ、それがボク、同じクラスなのに、……まだ一度も喋ったことないんだ」

 高校も三年生にもなると、確かに同じクラスの同級生でも、一度も言葉を交わしたことがない、そんな間柄も珍しくない。とくに異性の場合。

「そうかあ。見た感じは颯爽としてて、しなやかなアスリートで、って感じなんだけど、弥生は何か知ってる? 白樺美智さんのこと?」

 ヒロシは、小学校時代からの知り合いの弥生に訊ねた。

「そうねえ。私、一度も同じクラスになったことないから何も知らないわ」

「そうかあ、情報網の広い情報通の弥生でも情報無しかあ」

「別に私、情報網広くないけど」

「そう? 四六時中、女子は女子たちだけで固まってオシャベリしてて、ず~と朝から晩までオシャベリやめないじゃん。だから噂ぐらい知ってるかもしれないって思ってさ」

「ちょっとぉ。それ、何だかカチンとくるわ。女子に対して失礼な言い方じゃない?」

「そうかなあ? オイラさ、少多のために一肌脱ぎたいんだよね」

「あっ、ヒロシ。もしかしてテキトー男が、いつものようにチョーテキトーなこと、口からデマカセふうに言ってない?」弥生はヒロシを咎めた。

「テキトーじゃないさあ。弥生もさ、少多と小学校ん時から同じクラスだったじゃん。そんな少多の願いを叶えようよ!」

 少多は真っ赤になった。すべて聞かれていたのだ。ヒロシは畳みかけた。

「木曽原少多一世一代の、両想い大作戦決行だよ、応援してあげようぜぇ~」

「え、ええ。私、反対はしないけど……」

 少多その人が目の前にいる状況で、なにがあろうが無理だなんて反対するのは、本人を傷つけるだけだ。

 でも少多本人は、よして欲しかった。「いやイヤ。高嶺の花、届かぬ夢、叶わぬ想いだってわかってるから、潔くあきらめるよ」と言ってしまおう。

「雑草の根っ子レベルのボクが血迷っただけさ。一方的な片想いだから」

 そう言ってしまえば楽になる。もう、やめてもらおうと思い、実際そう言い出そうとした、その刹那だった。

 なんと噂のヒロインが登場した。

 長身で背筋が凛と伸びた健康的なアスリート。近くで見ると、白い肌がまるで陶磁器のようだ。汗を拭きふき、体育館裏へたったひとりで歩いてきた。

 今頃クラスメイトたちに取り囲まれ、モミクチャに祝福されてるはずが、ひっそり静まり返ったこんな場所へ一人で来るなんて、弥生には予期できなかった。外見や能力とは裏腹に、案外と地味な性格なのかもしれない。

「あら、白樺さん」

 弥生は、思いきって近寄っていった。

 すると見る間に圧倒された。それほど体格の差が歴然としているのだ。弥生は純日本人的な体格で、最近とみにぽっちゃりしてきた。身長は平均的だが、体重は平均よりやや重い。

 そんな弥生が近づいていくと、白樺美智と話すには、アゴをかなり上げて、仰ぎ見なければならない。170センチは確実に超えている。それに筋肉質というべきか、体型がアスリート体型だ。

 顔の造作も異なる。

 弥生は平凡だ。適度に鼻が低く、目はクリクリッと大きいものの、顔の輪郭が横に長い。お世辞でも、美人だとか美形だとか言われたことは一度もない。健康的に陽灼けしているので特段目立たないが、実は弥生は浅黒いほうだ。

 ところが白樺美智は、肌が抜けるように白い。色白なだけでなく、白く輝く健康的な肌は生き生きとした生命力を発散させている。輪郭は面長で、目鼻立ちがハッキリしており、鼻は芸能人のように高い。切れ長な目は、女の弥生が見ても、見惚れるほど美しい。それでいて口元はキリリッと引き締まっている。

 近寄ってみて、弥生は圧倒された。白樺美智は突出していた。唯一の類似点は、ともに髪が短いことぐらいだろうか。でも短髪なのは校則で規定されているからだ。弥生はかわいらしさを目指したボブスタイル。美智は、耳が出るほどのベリーショートだ。

 人の気配に美智は立ち止まった。思いきって、弥生は続けた。それほど美智の疾走に感銘を受けたのだ。

「いまのリレー、凄かったわね。大活躍おめでとう」

 ストレートな弥生の物言いに、弥生はドギマギしている。

「あ、ありがとう……」

「突然ごめんね。私、3年1組の(なか)小林(おばやし)弥生っていうの。よろしくね」

「ええ、こちらこそ。私、白樺美智です。3年生の2学期の初めに転校してきたの。高3のこの時期に転校してきたから知り合いが少なくて……」

 美智の話す口調は穏やかで、落ち着いている。思いの外、なごやかで柔らかい声だ。

「オイラさ、3年1組の緑井比呂志っていうんだけどさ。いまこの雑草の上に座ってる木曽原少多とは小学校の頃から同級生なのさ。少多とは同じクラスなんでしょ?」

「え、ええ」美智は肯いた。「でも私、男子とはほとんど口をきいたことがなくて……」

「まあせっかく、ここでみんな仲間になったんだからさ、ええっと」

 そういうと、いったんヒロシはことばを切った。その先を考えてなかったのだ。

 ヒロシは躍起になって何かを考え始めた。

「なによヒロシぃ」弥生は咎めた。「話し始めたのに、途中で話すのやめちゃうなんて変よ。おかしいでしょ? でもまあ、いつものヒロシらしいけどね」

 プッと吹き出すように、少多と美智は笑った。基本的に後先考えずに発言するヒロシにとっては、日常茶飯事、よくあることなのだ。

「はははは、もう弥生には何もかもバレてるね。あははは」

 一番大笑いしているのは注意されたヒロシ本人だ。

「オイラ、実は銭湯が大好きでね。毎週水曜日は六時間目が体育の授業だから、いつもきちんと着替えすにさ、六時間目が終わったら銭湯へ直行してるんだよね」

「え? それホント?」少多は目が点になった。

「まあヒロシは自由人だから、何でもありなんでしょう」

 弥生は半ば呆れている。ヒロシはノンキな声で言った。

「じゃあまあ、いまここにいるメンツで『銭湯同好会』を結成して、みんなでこれから出かけない? きょうは水曜だしさ」

「銭湯なんてどこにあるの?」弥生は訊いた。

「実は、この高校のまわりにふたつも銭湯あっから、オイラ一週間置きに両方とも通ってるのさ。じゃあ、きょうはイチオシのとこ行こう」

「え? いまから?」少多はドギマギしている。

「今からに決まってんじゃン。みんな運動会に参加したんだからサ、汗とホコリを洗い流したいでしょ? じゃあ銭湯同好会に入るしかないじゃン。みんな入部してよ」

「う、うん」弥生は同意せざるをえない。「じゃあ私、銭湯同好会に入るわ」

「まあ確かにボクはホコリまみれだ」少多もNOという理由はない。雑草の上に放り投げられて、頭から砂埃を被ったようなものだからだ。「ボクも、銭湯同好会、入会するよ」

「じゃあ、私も銭湯同好会に入るわ」白樺美智も汗を掻いたのは事実だ。

「OKぃ! まずは三人入会。まだ他にもいそうだよ」

 生きのいい魚のように陽気にそう宣言したヒロシは、体育館裏を見回した。すると他にも体操服を着た同級生たちが隠れていた。

「ねえ、さっきからオイラの目にはサ、奥の木立の影にチラチラ見えてるんだけど、ハスムカイさんも行くでしょ?」

「いいけどォ―」

 ひときわ、大きな声がした。皆は、声がしたほうを振り向いた。果たして、そこには一人の黒ギャルが立っていた。校則のせいで髪こそ染めてないが、両手の爪は真っ赤で、運動部でもないのに見事に黒々と陽灼けしている。一目瞭然、陽灼けサロンだ。

 黒ギャルは言った。

「アタシぃ、石鹸もタオルも持ってきてないけどォー」

「大丈夫だよ。銭湯で貸してくれるよ」とヒロシ。

「ネイル命のアタシのネイル、銭湯で落ちないかなぁ?」

「落ちない落ちない、ネイルは大丈夫。オイラが保証するよ」

「そっかあ。じゃあ、アタシぃ、銭湯同好会に入りたいけどォー、でもギャル友とつるむ日もあるから、毎日は参加できないヨー、それでもいい?」

「週一でいいんだ。銭湯同好会は毎週水曜だけ集るンだよ」

「じゃあァー。アタシ参加するぅー 早く汗、ながしたい~」

 一も二もなく黒ギャルは銭湯同好会の一員になった。

「ハスムカイさんは、オイラと同じクラスなんだよ」

 ヒロシが皆に黒ギャルを紹介した。

「アタシぃ、斜向井新菜はすむかい・あらな。ギャル仲間からは、アラナーって呼ばれてる。ヨロシク」

「よろしくね、アラナ」

「よろしく」

 皆が挨拶を交わしたが、少多は怖がっている。

「アタシさあ、運動すんのマジうざくてェー、朝からずっとここに隠れてサボってたんだけどォー、ホコリだけはチョゲキにかぶったんだヨネ」

 そういうと、むず痒くてたまらないといった風情で背中を掻いた。

「ついでにオイラ訊かせてもらうけどさ、アラナはここで何してたの?」

「苦手な運動でェー悪目立ちしたくないからぁー、サボってただけなんだけどォー、何か文句ある?」

「無い無い無い無い」

 ヒロシは慌てて首を横に振った。ちょっとした反抗期ギャルなのだ。

 すると弥生は誰かと目が合った。

「あっ、リーサ。こんなところで何してるの?」

 人当たりが良く、誰にでも好かれるタイプの弥生は交際範囲が広く、知りあいを見つけたようだ。

「あら、弥生。弥生こそ、こんなところで何してらっしゃるの?」

「それはこっちのセリフでしょ、リーサ」

 木立のさらに奥から現れた女子生徒は、リーサこと冷村悧依紗ひえむらりいさだ。

 悪びれもせず毅然とした態度が印象的だ。キラリと光る銀縁眼鏡と、シュッと引き締まった口元が、この生徒の宿す知性を表している。痩身のリーサは、左の手には基礎解析の参考書、右手には代数幾何の問題集を抱えていた。

 とにかく、見るからに勉強が出来そうな人物だ。

「ワタクシはここで学習しておりましたの」

 高校生なのに年がら年じゅうスーツ姿で、喋り口調は怜悧そのもの。学年ナンバーワンの頭脳明晰女子なのだ。

 皆、校内のどこかしらにおいて、リーサの姿を見たことがあった。この高校は、私服通学OKの都立高校なのに、リーサはなぜかビジネススーツで三年間登校していた。雨の日も風の日も。運動会の日も、遠足の日も、ダークスーツに銀縁眼鏡がトレードマーク。

 皆と同じ高校三年生なのだが、普通科の皆と異なり、理数系特別進学コースの生徒であり、しかも既に早景大に推薦合格が決まっている。学年ナンバーワンの秀才との噂だ。

 さらに合格が決まっていても、それでも勉強が好きで好きで片時もやめられないのだ。

「ねえ。リーサも銭湯同好会に入って、私たちといっしょにこれから汗を流さない?」

「そうね。ワタクシ、ここで半日勉強しておりましたが、たったそれだけでホコリまみれで御座いますの。ワタクシで宜しければ、是非ご一緒させて頂くわ」

 リーサの喋り方は、ドラマや映画に登場する『出来る』『やり手』のビジネスウーマンそのものだ。

「じゃあリーサも、銭湯同好会に入会決定ね!」

 弥生はにっこり、リーサを迎えた。こうして365日スーツ姿の不思議な高校生も一行に加わることになった。

「では、こちらに寝転んでいらっしゃる我々の同級生はどうなさいます?」

 リーサは銀縁眼鏡を光らせ、チラッと地面の上を見遣った。皆がその視線の先をたどると、砂と石ころだらけの地面の上に寝転んでいる女子生徒が一人いるではないか。

 運動不足なのか、甘いものの食べ過ぎなのか、どてっとした感じで寝そべっている。ただし背が低いので、それほど肥満体には見えない。そして地面の上にカバンとタブレットを置いて、タッチペンでなにやら熱心に描いている。

「あれ、こんなところに? カレン?」

 弥生とヒロシがタブレットを覗きこむと、ひたすら熱心にイラストを描いている。

 黒ギャルのアラナが言った。

「カレンも運動会サボって、ここで寝転んでイラスト描いてたわ、ずっと飽きずにネー」

 自分のことが話題になっているのに、いっこうにカレンと呼ばれた生徒は少しも反応しない。そこで弥生は皆にむけて言った。

「彼女、去年同じクラスだった二車可憐にぐるま・かれんちゃんよ。かなり無口な子なので、無理に喋らせるのはやめといてあげようね」

 運動会の日にもかかわらず、朝からずっと校舎裏に隠れてイラストを描いていたとは、かなりのツワモノだ。

「でもさ、それならそれで、かなりホコリかぶってんじゃねえかな。オイラたちといっしょに銭湯へ連れてってあげようぜ」

 ヒロシが安直にのたまわった。弥生はやさしく問いかけた。

「ね。カレンも銭湯同好会に入って、いっしょに銭湯行かない?」

「……」

 ようやく手を止めて弥生を見上げたカレンは、無言で肯いた。どうやら、かなりの人見知りなのだ。

 こうして我らが銭湯同好会が結成された。メンバーは以下の七名。

 いいだしっぺのヒロシこと(みどり)()比呂志(ひろし)。学年一のノンキ者で、どこまでも陽気な単細胞男だ。

 そして一見平凡だが社交性の高い中小(なかお)(ばやし)弥生(やよい)

 運動会で女神の快走を見せた転校生、白樺(しらかば)()()

 美智への秘かな好意があらわになったイジメラレっ子、クソ原こと木曽(きそ)原少多(はらしょうた)

 ネイル命の黒ギャル、アラナこと(はす)向井(むかい)新菜(あらな)

 学年一の秀才、リーサこと冷村悧依紗(ひえむらりいさ)

 無口なイラスト大好きっ子、カレンこと二車(にぐるま)可憐(かれん)

 のちにこのメンバーこそ、われらが恋愛結婚株式会社の創業社員になろうとは、この時点では誰一人思わなかった。

「ふむふむ、われながら最強のメンツが出揃ったぜ。黄金の七名だな」

 そう豪語したヒロシに対してアラナは言った。

「男子は二人とも最強じゃないしぃ。アンタのどこが黄金なのぅ?」

「プッ」

 アラナの毒舌に皆が吹き出した。

 するとグランドのほうから校長の声がマイクに乗って聴こえてきた。

『それではこれにて閉会式を終了します。生徒は教室に戻らず、このまま直ちに帰宅するように。以上、解散!』

 その声を聞いて、みなはずっこけた。

「なんだ、いつのまにか運動会が終了したぞ」

「閉会式の最後の最後になって、ようやくマイクがオンになったんだな」

「いいじゃないかよ、だったらもう、このまま銭湯へ行こう!」

 そう言うとヒロシは、いつものように靴のカカトを踏んだまま、先頭に立って闊歩し始めた。

 そのまま校門を出て、七人はにぎやかに語らいながら歩いた。校門を出てしばらく行くと、なだらかな坂道になる。

 住宅地の真ん中を突っ切るように、広々としたゆるやかな坂道が続き、他に人通りもなく、車も滅多に通らないので、銭湯同好会のメンバーは、横一列になって歩けるほどだ。

「きょうは、どの銭湯がいいかなあ」銭湯の場所を知っているヒロシが、どうしても会話の中心になる。「あの美人のオカミサンがいるとこがいいなあ」

「もう何よヒロシ。美人のオカミサンの存在が、銭湯通いの理由だったの?」

 弥生はプンプンしてそういった。

「ノーテンキなチャラ男につける薬は無いわ」黒ギャルのアラナはあくまで毒舌だ。

「でもヒロシは、きょうの運動会でヒーローになったんだよ」

 少多の発言に対して、アラナがこう言った。

「マジで? ヒロシが? う~ん。――どう考えてもウソでしょ? アタシはさぁ、自分の目で見てないものは絶対信じないのォー」

 皆は吹き出した。

 アラナは、勝手にサボって体育館裏にいたことなどどこ吹く風だ。とにかく何でもかんでも思いついたことをズケズケ口にするのだ。

 少多は憧れの美智の後姿をチラチラ見遣りつつ、皆とともに進んだ。ヒロシの銭湯通いの理由がどうあれ、美智と一緒に行動できることがこの上なくワクワクドキドキするのだ。

 ところがこの賑やかな集団の背後を、秘かにつけ歩く男の影があった。

 人も車も滅多に通らない、長くて広々とした坂道だ。幅は二、三十メートル以上ありそうだ。道の両脇には歩道があり、さらにその周囲は一軒家ばかりなので、見晴らしはかなり良い。

 一行が中腹を過ぎた頃合いだった。

 不気味な尾行者の存在を嗅ぎ取ったのは、人一倍繊細な神経を有するカレンだった。イラストに耽溺しているカレンは、背景を描く際に参考にしたい、だから近隣の風景を目に焼きつけようと、四周をしっかり見回しながら歩いていた。

 無口を絵に描いたカレンは一行の最後尾について、誰とも話さず、景色だけを見て黙々と歩く。ところが、何かがおかしい、何かが臭う。ぐるりと360度見回した景色をもう一度見ると、差異が明らかになった。

「あっ! ウソシだ……」

 ――性懲りもない。ウソシこと夜須弘士だ。カレンは内心、思った。この年齢の男子なら、尾行するならするで、せめて気になる女子の後をつけるとかポジティブな理由であとを()けてほしいところなのだが、表情は邪悪に満ちている。とにかく曲がりクネって成長してしまったウソシに正論は通じないのだ。

「しまった、あの口無しデブに見つかった」

 夜須弘士はとっさに電柱の影に隠れた。

 そんな夜須弘士は中学生の頃、少しグレかけたことがあった。

 しかしすぐに仲間を売る、すぐに先生に告げ口する、徹底して情け無い奴だと不良仲間から見棄てられ、不良にもなれなかった。

 本名・夜須弘士の「士」という漢字は、「志」という漢字に比べると、部首「心」が付かない。だから「心が無いほうのヒロシ」だと罵倒された末の、不良グループからの放擲だった。仲間がいなくなったので、その後はひとりで悪巧みを計画することが常となった。

 現在のクラスメイトたちからは、本名ヒロシなのに「ウソシ」とか「夜須(やす)シ(し)」と呼ばれている。それは同じ学年に人気者のヒロシがいて、紛らわしいからだ。さらに影では、「真似シ」「夜須まねシ」と陰口を叩かれている。夜須シからイジメられた生徒たちからの、恨みは深いのだ。

 夜須弘士本人の心の中には、小学校低学年のときの精神的モヤモヤがいまだ根深く巣食っている。実は、はなはだ意思が弱いのだが、被害妄想だけは強い。ヒーローヒロシへの一方的な恨みが骨髄まで達し、談笑する一行を()けた。憎き同名の同級生を追ったのだ。

 夜須弘士は両目を吊り上げて坂を下った。ところが繊細で鋭敏なカレンに存在を嗅ぎつけられてしまった。

「くそう、イラストデブめ。こうなったら最後の手段だ」

 正体を露見させた尾行者は、体育館裏の泥をこねてつくった土饅頭を、背後から一行に向かって投げつけた。渾身の力を込めて投げた土饅頭は、大きく弧を描いて宙を飛び、カレンの頭上を飛び越えた。そしてカレンの前を歩く黒ギャルに危うく当たりそうになった。

「あぶない!」

 泥がベチャー!っとアスファルトの路面に跳ねた。しかしアラナは気付かない。

 トントン、とカレンは黒ギャルの背を叩いた。

「どーしたのー? カレン」

 アラナは振り向いた。無口なカレンは喋らないが、アラナはカレンの視線を追った。

 すると――、いるではないか、不審な男が! 電柱から電柱へと飛べないムササビの如く、ススッスっ、ススッスっと素早く移動している。両手には物騒な爆弾を握り締めている。

「チョッとアンタァ、それで隠れてるつもりぃ?」毒舌がほとばしった。「ザケンなよおっ。夜須シぃ!」

 アラナは、夜須弘士を『夜須シ』と呼んでいた。

「あら、お珍しい。真似ヤスシがワタクシ達の背後にいるのですか?」リーサが後方を振り返った。「確かにいますね。電信柱の影に隠れているのが丸見えです」

「アンタ、何ちょこまか、アタシら尾行してんのさ? とっくにバレてんだよお!」アラナに罵倒され、夜須弘士は立ち竦んだ。「夜須シぃ、そんなとこに潜んでないで出て来なさいよ!」

 すると電信柱の影から夜須弘士は土饅頭を投擲した。腕が縮こまってしまい、土饅頭は一行のはるか手前の路面に跳ねた。

 しかしそれは黒ギャルを怒らせるに十分な敵対行為だった。

「この! 卑怯者。マネマネ夜須シ、マネ夜須シ!」

 アラナは火がついたように罵った。体育館裏での陰湿なイジメを目撃していたからだ。

 もうひとり同級生がいるのならついでに誘ってみようと、先頭を歩くヒロシと弥生が後方を振り返った時には、もう夜須弘士は遠くへ走り去り、その場から消え失せていた。

「真似ヤスシ。あさっての方向へトンズラしましたね」リーサは冷静だ。

「逃げ足だけは速いわ、あの真似シ」アラナはおかんむりだ。

「はあ~、頼りになる黒ギャルだ」イジメっ子張本人と同行せずにすみ、木曽原少多はホッとした。

 毒舌アラナは止まらない。「まさか土饅頭を投げてくるとはねぇ。夜須真似シ、銭湯同好会まで真似して発足させようって魂胆なの?」

 それを聞いたヒロシは、無責任にのたまわった。「いいじゃない? 二、三人貸してあげようか?」

「イヤよ、あんなヘンタイ野郎と同じ同好会なんて、ねッ?」アラナが皆に同意を求めた。

「ボクはイジメっ子は厭だ。このメンバーが断然いい!」少多が本音を叫んだ。

「イジメっ子は困るわね。男子はヒロシと少多だけでいいじゃない。ね?」弥生も賛同したので、残りの皆も大きく肯いた。

 するとヒロシが、ノンキきわまる口調でこう吹いた。

「弥生はオイラに惚れてるからなあ。他の男は要らないんだよなあ。あーぁ、モテるオイラはつらいなあ~」

「バカー、そんなわけないでしょ!」

 弥生が叫んだので、美智は吹き出した。

「ヒロシさ。バカ言うのもたいがいにしないと、そろそろ弥生に殺されるよ」

 アラナはヒロシに釘を刺した。少多も美智も、無口なカレンまで抱腹絶倒だ。

「あれっ?」

 急に立ち止まったヒロシが遠くを見ている。

「どうしたの?」と弥生。

「いま、どこか目の端に、チラリと見えたような気がするんだけど」

 ヒロシは心ここにあらずの表情だ。

「何が見えたの?」心配した弥生が再び訊ねた。

「謎の女性。妖艶な青いワンピースの女が確かにいたんだ……」

 ヒロシは再度、ぐるうっと周囲を見渡したが、すでに民家と電柱しか見えない。

「おかしいな。もう、いない。風とともに去ったんだ……」

「何ほざいてんのサぁ、このエロ男! 朝から晩までオンナのことばかり考えてるから、とうとう幻を見たんだよ!」アラナが叱り飛ばした。

「サカリのついたこんな殿方は脇においておき、ワタクシたち女子はとっとと先へ移動しましょ!」銀縁の眼鏡を照からせ、リーサも言った。

 もとより弥生はご機嫌斜めだ。ヒロシを案じた少多がオロオロして訊いた。

「ねえヒロシ。現実と幻の区別がつかなくなっちゃたの?」

 これを聞いた皆は爆笑だ。

「言われてるよ、幻覚男!」

 こうしてワイワイガヤガヤと坂を下っていくと、民家の屋根越しに、銭湯のエントツが大きく迫ってきた。

「あっ、オイラの大好きな銭湯が見えてきた。ヤッホー」

 ヒロシはノンキに声を上げた。


□ 第二章 銭湯同好会


 例年十月開催だった運動会は酷暑のせいで、今年から十一月に移行されていた。皆が和気藹々と歩いている間に、そろそろ夕暮れ時が近づき、肌寒くなってきた。温かいお風呂が恋しくなる肌寒さがちょうど迫ってきたのだ。

 銭湯同好会のメンバーのうち、男子は二人だけだ。

 脱衣所でとっととスッポンポンになったヒロシは、一足先に浴場に向かった。ヒロシは中肉中背で、どちらかというと色白のほう。でも高校生らしく健康的に陽灼けしている。

 内気な少多は他人に裸を見られるのが恥ずかしかった。さんざん逡巡した挙げ句、ようやく服を脱いだ。なにも、片想いしている白樺美智に裸を見られるわけじゃないんだと、ようやく決心がついたのだ。

 そんな少多は美智より背が低い。浅黒くて、痩せ気味。ニキビ面で冴えない容貌だ。鏡を見るたび、自分をブサイクだと思う今日この頃。悲しくなるので、最近は鏡を見ないようにしている。

 小学校の頃は体が小さくて、どんくさくて、泣き虫だった。鬼ごっこやかくれんぼやドッチボールで、必ずといってよいほど狙われた。

 そんな少多はオロオロしながら浴場へやってきた。他には誰もいない。ヒロシと少多はともに背中を流しあい、どっぷりと湯船につかった。

「はああ~。やっぱ銭湯はサイコーだなあ」

「ボク、銭湯久し振りだけど、ホント、いい気分だね」

 壁一面のタイル製の富士山を見ながら、少多は話し始めた。

「実はね、ボク……」

「どうした、少多」

「きょうはメッチャうれしかった。だって、美智が転校してきた二学期の初めから、ずっといいなあ~、いいなあ~って思ってたから」

「あっ、あっ、そうっかあ。そんなに好きだったのかあ」実はこのときヒロシは、銭湯に来たきっかけが、少多の初恋を叶えるためだったことを忘却していた。

「うん。さっき、チョビッとだけど、初めて喋れたのはヒロシのおかげだよ、ありがと」

「なんの、なんの」

 お湯の中、どっぷり温もりに包まれた少多は、いまなら何でも話せる気がした。

「ヒロシってさ、校内で見かけるたび、いつも陽気で楽しそうにしゃべってて……」

「で、かっこつけだろ?」

 ヒロシの一言に、少多はぷっと吹き出した。

「あははは。そしてヒロシは、人を笑わせる才能がある!」

「よせやい」

 ふたりは笑顔だ。大きな湯船にゆったりと両脚を伸ばし、顔はもくもくと湯気に包まれ、ひたすら心地よかった。

「ヒロシはよくさ、ゲームとかするの?」

「それがチョイ苦手なんだよ。オイラ、集中力が持続しなくてさ」

「へ~え。じゃあ映画は観るの?」

「それがオイラ、映画もすぐ眠たくなってしまってさ。どんな映画見ようとしても最後まで眠らず見れたためしがないんだ」

「へええ。じゃあ趣味とかないの?」

「これだよ。銭湯通いだよ」

「あははは、そうだね」

「オイラの勝手な趣味につきあわせて悪いな」

「でも、皆を巻き込んで同好会にしちゃうなんてすごいよ」

「ああオイラ、きょうは一日じゅうスゴい、スゴいって言われっぱなしだ、あははは」

「ボクも、一度でいいから言われてみたいな」

「ヒーローとかも言われたい?」

「ボクにヒーローは無理だよ」

「どうして? オイラだって高1の入学式では『校則破りのヒロシ!』って、大合唱だったんだぜ」

 高校の入学式でヒロシは、髪の毛を茶色に染めていた。校則無視も甚だしい新入生だったのだ。

「目立ったよねえ~、いきなりだったから。でもあの茶髪事件のお蔭で、皆がヒロシは大した奴だ、肝っ玉が据わったビッグな野郎だって、なんとなく認めたんだよ」

「へええ、そうかなあ。オイラ、校則なんて知らなかっただけなんだけどなあ~」

「あはは。あとヒロシは、銭湯以外に好きなことあるの?」

「そうさな。あと、漫画は好きだな。自分のペースで読めるからね。最近ではキメツとか、カイセンとかね」

「いっしょだ! うれしいなあ。ボクも、キメツとカイセンは全巻読んだよ」

 好きな漫画が同じなだけで、少多は勇気が出てきた。

「あとヒロシはさ、人と話すのが好きでしょ?」

「まあね。放任家庭で自由に育ったからかなあ」

「出くわすたび、愉快に笑ってて、明るくて人気者でうらやましいよ」

「で、軽薄で、反省しないザ・いいかげんな奴」

「ぷははは」少多は吹き出した。

「三枚めキャラで、面白いことが大好きで、二十四時間楽しみたい、ラクしたい、遊びたい、チョーデタラメ人間なんだ」ヒロシは自分のことを愉快げに語った。

「ひゃああ」

「こどもっぽくておっぱい好き。イベント好き。騒ぐの大好き」

「盛り上げ上手で、すばしっこいよね。小学校の頃から、ヒロシは足が速かったよね」

「オイラ悩まないんだ、アレコレ考えないから。だから読書や勉強は大の苦手さ。深く考えずに喋るクセがある。ナハハハ。だから少多さ、オイラに、何か気に障ること言われても気にしないでくんろ。言ったこっちは忘れてっからさ」

「あははは。ヒロシって面白いねえ。陰キャのボクの相手なんかしてくれないと思ってたよ。ボクなんか典型的なイジメラレっ子がだからサ、片想いがうまくいくとは思えないんだ……」

「そうとも限らないぜ」深く考えず、ヒロシはそう返した。

「どうして? イジメラレっ子とつきあいたい女子なんていないと思うんだけど……」

「オイラが思うにだな。知らないんだよな、美智は。だって転校生だから!」

「あ、そっかあ」

 美智は転校生なので、小中時代のヘソ原少多を幸いにも知らない。悪口を言われては泣きベソかいたことも、授業中おしっこを洩らしたことも、まったく知らないのだ。

「小学校ん時だろ? 繊細だなあ。オイラ小学校のことなんて何も覚えてないよ~。それに美智は、人の悪口言うタイプには見えなかったな」

「うん、そう。それが一縷の望みだよ」

 ふたりはまったり話しこんだ。

 さて女湯では――。

 脱衣所で弥生、美智、アラナ、リーサ、カレンが服を脱いでいた。こちらにも、他にお客さんはいない。すると突然、黒ギャルが声を上げた。

「ワオワオワオ、凄オオィぞ、これはァ!」

 弥生はギョッとして振り向いた。アラナは指差した。

「弥生ぃ。いままで隠してたの? アンタね、正真正銘、神の乳を持つ女よ!」

 いきなり片乳をワシ掴みにされた弥生は叫んだ。

「ぎゃああ!」

「これ本物よね? ウソグラマーじゃないわよね?」

「ほ、本物だけど、掴むのはよして……」

 弥生は名前のとおり、古風な価値観を持つ両親に育てられた。父母を説き伏せ、テニスは中学高校六年間やり遂げたので、弥生の身体には適度な筋肉がついているのだが、でも一見ぽっちゃりして見られてしまう。胸のせいだ。

「ぽっちゃり娘だと思ってたら弥生、その理由がその両乳よお!」脱衣場で、毒舌の黒ギャルは遠慮なく言い渡した。「貧乳のアタシから見ればチョーうらやまスィー」

 そういうアラナは確かにノッペリしている。

 実はテニス部の女子たちの間では、弥生は天下一のグラマー女子だと評判で、『世界最高の乳房を持つ女』という隠れたニックネームを持っていたのだ。

「いまさら隠そうとしても、もう遅いわよ弥生ぃ」アラナは弥生の両胸の張りをガン見した。「……すごいわ。マジあこがれェー」

 皆はおのれの、そしてメンバーの胸を見たが、弥生は比較の対象がないほど爆発的だ。

「ド迫力ね。弥生、アンタ牛乳の呑み過ぎじゃないの? どうして神様レベルになったか秘訣をアタシたちに教えて!」

「秘訣なんてないわよ」

「マジぃ? これ欲っすイィ!」

「きゃあ、触らないで!」

「片方だけでいいから頂戴!」

「ムリよ~」

 皆は爆笑だ。

「どうしようもないのよね、遺伝だし。さ、いこう」

 弥生を先頭に、皆は浴室へ向かった。


 その頃、銭湯の出入口では小さな揉め事が発生していた。

「俺ゃあ大富豪の息子だから、あとでお手伝いさんが必ず払いに来るから!」

 そう主張して引き下がらない両手が泥だらけの男子高校生が執拗に食い下がるのだ。

「うちはツケ払いはしていません。他人に頼らず、自分でおうちに帰ってお金を持ってきなさい」

 何度もそう言い聞かせようとするものの、細身で長身でちょっとイケメンなその高校生は粘りに粘るのだ。いったん考えが凝り固まると、考え直すことができない性質なのだ。

「どうしても、今じゃなきゃならないんだ、あとじゃダメなんだ。裸を罵倒したい野郎がいるんだ」

 そう主張して譲らず、揉めに揉めた。これではまさに一旦帰宅してお金を持ってきたほうが早かったに違いない。銭湯に入れず入口で足止めを喰らった夜須弘士にひきかえ、銭湯同好会の面々は男女ともに、まったり、お湯の中で語り合っていた。

「実はボク……」

「どうしたんだい」

 男湯は、いまだヒロシと少多の貸し切り状態だ。

「ネットで怖ろしい記事を見つけて、」

「ん?」

 湯船でじゅうぶんあったまり、両手両脚をぐう~っと伸ばしたふたりは、毛穴もひとつ残らず全開、完全リラックス状態だ。

「その記事はね、社会学が専門の大学教授が研究した、数十年に渡る調査の結果なんだよ。将来結婚したいって望んだ若者たちが、その後結婚できたかどうかって追跡調査でね」

 少多は珍しく熱く語り始めた。

「うんうん」

「何十%かが結婚できて、何十%かができなかったって結果だったんだけど」

「で?」

「結婚相手がね、高校生や大学生時代に見つからないと、かなりの高確率で恋愛結婚は無理なんだって。社会人になってから恋愛結婚の相手にめぐりあう可能性って、驚くほど低くてね、たった数%しかない。だから、東大に合格するよりもはるかに難関なんだって」

「うへっ」

「よってボクが卒業してこのまま社会人になったとすると、恋愛結婚できる可能性は遠ざかるいっぽうなんだ。で、見合い婚ってなると収入とか学歴とか身長とかでボクなんて足切りにされちゃうから、それこそ完全に不可能。だからこのままだとボク、必然的に永遠に結婚できなくなっちゃう。だからどうせあがくなら、社会人になる前に、あらゆる手段を講じてどうにか彼女を見つけるしかないんだよ」

「そうかあ、だから美智に執心してたんだな」

「この研究記事はスマホに取っといたから、後で見せてあげるよ。心配性のボクが眠れなくなってしまった残酷極まる研究結果なんだよ」

「そうかあ、切実だなあ」

「ボク、このままじゃあ、結婚も出来ずに孤独中年にまっしぐら。最後には孤独老人になって一人おっ()ぬ。そんな悲しい未来しか待ってないんだ!」

「そうかあ、このままじゃあいけないってえのが、少多の自己診断ってところなんだな」

「うん。だからボクだって変わりたい。背が伸びて、イケメンになって、頭脳明晰な秀才になったり、ネアカな性格になって、彼女つくりたいんだ。そして将来なにがあっても絶対結婚したいんだ!」

 日頃おとなしい少多にしては、滅多にない熱弁だ。グイィィと、湯船で大きく伸びをしたヒロシは意表をつかれ、こう言った。

「じゃあさ、ショーンってさ、セルフプランニングしようよさあ。自己プロデュースだよ」

「ショーンって何?」

「セルフプロデュースの一環さ。クソ原とかヘソ原とか言われてる場合じゃない。自分で自分の綽名を開発するんだ。どうだ、ショーンっていかす呼び名だろ?」

「確かに。ボク、ショーンって気に入ったよ。でもチョッピリ恥ずかしいなあ」

「ショーンだけは広めようぜ。だってその研究によれば、今この瞬間、ショーンは、将来結婚出来るか出来ないかの瀬戸際に立ってるんだからさ」

「う、うん」

「ニックネームはショーンって、訳も無くカッコイイじゃん」

「そ、そうだね」

「美智のボーイフレンドに似合う呼び名だよ」

「ああ、確かにそうだ。でもヒロシ、ボク心配なんだ」

「何が?」

「モテモテヒーローのヒロシが美智を好きになっちゃったら、取られちゃうんじゃないかって」

「えっ?」ヒロシはキョトンとした。

「ボクは、モテ男のヒロシが美智を好きにならないか心配なんだよ」

「ふう、そんなことかよ」言葉を切ったヒロシは、運動会のリレーを回想した。「オイラ、見ちまったんだよ」

「え?」

「謎の美女を! 青いワンピースの女を!」

「何なのそれ?」

 少多は湯舟の中で首をかしげた。今度はヒロシが熱く語る番だ。

「保護者席にヒロインを見つけたんだ。むっちゃオトナびていて、青いワンピースが風にそよいでさ、よだれが出るほど見目麗しき美女なんだ。気品たっぷりなんだけど、上品ななかに醸し出す、たおやかさと色っぽさ。あんな素敵な女性、生まれて初めて目にしたよ」

「それって、幻じゃなかったの? いつ見たの?」

「きょう、リレーで走り終わった直後、まだフィールド内でぜいぜい息してた時に、見初めちまったんだ」

「ヒロシが学校中から拍手喝采されてるさなかに? ホント?」

「そ。人生百度めの一目惚れだ」

「へええ、あの瞬間にねえぇ。すごいよ~驚きだあ。だってあの瞬間、学校中の人間がヒロシを見てたんだよ。でもヒロシだけはその女性を見てたんだね」

「そうさなあ。綺麗だったなあ。妖艶だったなあ。背はそうさなあ、けっこう高め。168センチぐらいかな。遠目だったんだけど、艶のあるオトナの女性の肌。フェロモンが満ち溢れて、チョー肉感的で色っぽい。モデルか女優か、理想を絵に描いた年上の女性(ひと)。髪は長かったよ。ロングでウエーブがかかってて、チョーいかしてた。ヤバかった。とにかくオトナっぽいんだ」

「あの4人抜きの激走のなか、よくぞ……」少多は感心した。

「でも、この銭湯のオカミサンもオイラは大好きさ」

「え?」

「だって色白で、目が大きくて、おっぱいデカイだろ?」

「そ、そうだけどさ。ヒロシって本当に女好きなんだね」

「どうして?」

「だってさ、ヒロシはつきあってるんじゃないの、弥生と……」

 少多のか細い声は、ノーテンキな声に掻き消された。

「オイラはこの銭湯のオカミサンが好きでここに通ってるんだ、もう十年以上も!」

「えええっ? ということは、」

「小学生の頃からだよ」

「わあ。ヒロシって、やっぱ年上好みなの?」

「年上も、好き!」

「銭湯のオカミサンや、謎の女性にねえ。ボク、感心したほうがいいのか、あきれたほうがいいのかわからない。――ヒロシって気が多いの?」

「ははは、そうかもね、明けても暮れても一目惚れ。オイラは始終見初めちゃう。朝から晩まで初恋だ♪」歌うようにヒロシは言った。

「ひゃあ」

「でもいい加減さを相手に見抜かれて?、またもやオイラの恋は成就しないんだ。でもオイラはいっこうに気にしない。だってそれがオイラだから、深く受け止めないのさ、アハハのハ!」

 男湯は盛り上がった。

 憧れる気持ちと諦める気持ちが交互に押し寄せ、少多は湯当たりしそうだった。緊張感、屈辱、孤独、焦り、敗北感、虚しさ、悔しさ、怒り、お湯の中ではすべてがミックスしあい、溶け合った。憧憬する気持ちも、思慕の念も、ごったまぜだ。

 女湯では、弥生、美智、カレン、アラナ、リーサがお湯につかっていた。こちらにも、他にお客さんはいない。

 湯船に座った位置関係から、弥生と美智が話し、アラナとリーサが話し、無口極まるカレンは元々誰とも話さないという感じになった。

 弥生は、背はやや低め、平均的な日本人だ。先ほどまではそう思って生きてきた。しかしさっき、脱衣所でアラナに指摘されてしまった。神の乳を持つ女だと。

 しかしそれ以外は、いたって平凡な女の子だ。非凡なのは、弥生の真隣で湯に浸かっている美智のほうなのだ。

「ねえ。美智は、二学期から転校してきたの?」

「そう、高校三年生の九月にね。珍しいでしょ、そんな時期に。はあ~、父の仕事で、うちは小学生の頃から転勤族なの」

「あらあ、それはちょっとたいへんね」

「うん、もう慣れちゃってるんだけど」

「うちの高校には卒業までいられるんでしょ?」

「うん、幸いにもね」

「そっかあ、だからあんなに足が速いのに、いままで知らなかったんだあ。一年生の時からいれば、かなり目立ってたと思うわ」

「まあ私、全然目立ちたがりじゃないから、本当は恥ずかしいの」

「本当? もったいないというか、なんというか……」

「背が高いのも実はコンプレックスでね。妙に周りから浮いてるようで気恥ずかしいのよ」

「引き立ってるのよ~。自慢していいことよ~。とはいえ、私もさっき胸のこと言われてチョー恥ずかしかったけど」

「うふふ。男子にいわれたらチョッと耐えられないかもね」

「でも、誇るべきアスリート体型の美智が、背が高いのがコンプレックスだなんて、思いもよらなかったわ」

「私、目立つのがイヤなの。でも、だからって背を丸めて生きるのも何だか変でしょ? 手を抜いてわざと遅く走るのもおかしいし。だから思いっきり走ってみたら、必要以上にやけに目立っちゃって……。ああ、それが恥ずかしくてたまらなくって体育館裏に来てみたんだ、さっきね」

「そっかあ、そこで私たちに出会っちゃったのね? うふふ、そして今は銭湯に入ってるって、不思議な縁ね」

「うふふ、そうね。今朝学校へ行く時は、帰りに同級生と銭湯へいくだなんて想像もできなかったわ」

「うふふ、それは私もよ!」

「ちょっとビックリよね」

 ふたりの話が弾んできた。

「美智は、アスリート体型でしょ。運動部とか部活はやってなかったの? 高3の2学期だから、すでに引退している時期だけど、前の学校とかで」

「中学の時はバスケ部でけっこういい線までいってたんだけど、引っ越した先では女子バスケ部が無くってね。未経験のバレー部に入って補欠にしかなれなかった」

「あらああ」

「で、バレーが上手くなった頃にはまた転校」

「ああっ」

「転校転校また転校の学校生活だったの」

「ちょと、それあんまりだわ!」

「でしょ?」

「じゃあ彼氏もいないの?」

「当然よ。男女かかわらず、友達ができてもすぐサヨナラになっちゃうし」

「こんな美人な美智に彼氏がいないなんて、それは不条理だわ、やっぱり」

「ふう。私、かなり奥手だから、引越しせずにどこか一か所にいたとしても、彼氏はできなかったかも」

「ちょっと意外だわ。美智の外見は、肉食系アスリートそのものに見えるのに!」

「きゃあ。私のこと、美智って呼んでくれるの、弥生だけよ。クラスでは美智サン、美智サンって、ずっとサン付けなの」

「ええ? どうして? こんなに話しやすいのに。ああっ、そうかあ、アスリート体型の色白美人だからって、一方的に距離を置かれてしまうのね」

「うん、多分そう。だからね、私、友達を作ろう、そのためには努力しなきゃって思って、そのために転校早々、保健係に立候補してみたんだけど、……何も仕事がなかったわ」

「あら、せっかくの努力が……」

「私ね、見た目と違って、なんだかあんまり積極的な性格じゃないの。みんなとの間にある見えない距離感を打ち破れるほど前向きな性格じゃないし、サン付けが取れた頃にはスグまた転校で、さらに転校で、なんだかもう諦めが先に来てたのね。だから弥生、同じクラスじゃなくて残念だけど、これからもヨロシクね」

「うん、ヨロシクね美智」

 ふたりは湯舟の中でグータッチだ。

「ところで弥生は、ヒロシとつきあってるの?」

「プーッ! まさか、まさか。大まさかよ」

「あらそうなの? 私の勘違いかしら。仲が良さそうに見えたんだけど」

「ねえ美智、よしてー。ヒロシは小中高と同じ学校に通ってたから、友達ではあるけど」

「小中高ずっと同じ学校って、私からみれば神様級の奇跡だわ。うらやましい」

「そっかあ。そっかなあ」

「かなり贅沢」

「でも私にとって、ヒロシだけじゃなくて、少多もずっと一緒だし、そのほかにも十人ほどいるわ」

「へええ、いいわねえ。十人もね、夢みたい。でもその十人のなかでも、ヒロシは特に仲良さそうに見えるけど」

「実はね……」

 弥生は小学校で、「弥生人! 原始人!」と囃し立てられて泣きそうになった時、ヒロシが助けてくれたエピソードを語った。

 美智はこのエピソードを聞くに及んで、弥生のヒロシへの内に秘めた恋心を悟った。それは単なる好意をはるかに超えていた。

「いいわねえ、幼馴染かあ。私の人生にはありえないわ」

「ちょっとした自由人なのよ、ヒロシって。私がね、型にはめられた古めかしい教育しか受けられなかったからだと思うんだ。だって私の両親って、おかしいほど旧態依然とした価値観の持ち主でね。その両親に対する反作用っていうか、反発で、ああいうノーテンキさが羨ましいのよね」

 弥生は自分がこうもヒロシのことや、自分自身のことを分析していたのかと、自分ながら驚いてしまった。照れ隠しに弥生は続けた。

「私って、名付けかたからして保守的でしょ? 父も母も、万事用心深くて慎重派そのものなの。中学生になって女子テニス部に入る程度でも、『女の子が、何てハシタナイ!』って眉をひそめるどころか、目くじらを立てたりして。時代錯誤を地で行く両親なの。読書以外の趣味は認めてくれないの」

 ふたりはまったり話しこんだ。

 その頃、まだかまだかと銭湯の外では、男子ふたりが大きなクシャミをしていた。

「あっ。ヒロシ、またモテてる。女子がヒロシの噂話してるんだよ」

「ショーンもクシャミしたじゃん。ショーンも噂の種になってるんだぜ」

「だったらいいなあ。美智が一言でもボクのこと、話してたらなあ、いいのになあ」

「ショーンはいかにしてショーンになったのか? なんて話してたりしてね」

「ボクのニックネームがショーンになったことは、まだヒロシしか知らないよ」

「そっか、そりゃそうだ、あはははは」

 愉快そうにヒロシは笑った。すると続け様に「ハクション! ハクション!」とクシャミが出た。

「ずるい! やっぱヒロシだけモテてる!」

 少多がそう指摘するや否や、「ハクション! ハクション!」と少多もクシャミが出た。

「こりゃいかん。いくら汗かいたとはいえ、もう十一月だ。オイラたち二人とも風邪ひくぜ」

「あははは。ホント、くしゃみの数だけ女子にモテてたんならいいんだけどね、ハクシュン!」


□ 第三章 階段事件


 銭湯同好会は毎週水曜が活動日だ。

 同じ同好会のメンバーなので、定期的に顔を合わせはするものの、美智と少多の距離はそれ以上、なかなか縮まらなかった。接点はできたのだが、化学反応が起こるほどではないのだ。

 そんなお昼休みのこと。校舎三階の階段の上で、少多はヒロシに懇願していた。

「ヒロシ、無理を承知でお願い!」

「でもショーン。それって犯罪だぜぇ~」

 日頃は軽いノリで、深く考えずナンでもカンでもOKしてしまうヒロシが、どうしても首を縦に振らないのだ。

「ヒロシぃ、簡単なことだよ。ここでボクを一発、ブン殴ればいいだけなんだよお」

「さすがにそれは無理だよショーン~」

「美智は保健係だからさ。ボクがここで転倒したら、きっとやってきてくれて、保健室に連れていってくれるに違いないんだよ。もうチャンスはそれしかないんだ。ね、ヒロシ、僕を思いっきり拳で殴って!」

 少多の懇願に負けそうになり、握り拳を固めたヒロシは、少多の無垢で健気な顔を見た。すると、どうしても躊躇してしまう。

「いいか、ショーン。ここでおまえをブン殴れば、おまえは階段の上から踊り場へ転落するんだぞ」

 少多は階段を見下ろした。すると、急に忘れていた記憶が甦った。小学生当時の笑えない記憶だ。

 放課後、皆で公園にいた。ランドセルを背負ったままだったので、学校帰りだったはずだ。だからクラスメイトたち、男女あわせて二十名以上はいっしょにいたはず。

 公園には高いブロック塀があった。高さはおおよそ1メートルはあっただろう。

 小学生の少多は、その場にいた全員にむかって高らかに宣言した。

「ボク、この塀の上を、端から端まで歩いてみせるよ」

 あえて大見得を切ったのだ。

「おおおおっ」

「マジかよヘソ原!」

 場は沸いた。塀の上部の幅は十センチ程度で、高さは一メートル。端から端まで十メートルはある。普通の子供なら怖気づいてしまう。

 しかし少多には勝算があった。今朝、登校する前、秘かに練習したのだ。あくまで練習だが、仮に塀の上にいればこう歩くぞと想像して、塀の下を歩いたのだ。その時は、苦もなく端から端まで歩けた。

 だからクラスのヒーローになるのは今しかないと、果敢に宣言したのだ。

「見といてよ、みんな」

 少多はクヌギの木を登った。そして枝伝いに、ブロック塀の上にえいっと飛び移った。両手を塀の上部に着いたが、なんとかこれで準備完了だ。

「おっ。なかなかやるじゃないの少多」

 クラスのヒーロー、ヒロシが褒めてくれた。さあ、あとは自分がやるだけだ。ただし実際に塀の上に来てみると、勝手が違った。わずか1メートルの高さだが、足がすくんだ。

 高過ぎて、目がクラクラしてしまうほどだ。

「おい、ヘソ原、早くやれよ」

「そうだ、そうだ!」

 級友たちに急かされ、少多は恐る恐る塀の上に立ち上がった。そして慎重に、怖々と足を前に一歩、踏み出した。さらにもう一歩出した。さらに、

「ああっ」

 無惨にも、少多は転落した。落ちたのはちょうど芝生の上だったので、たいして痛くはない。幸い、怪我は無かった。

 すると、誰かが囃し立てた。

「約束守れよ、少多!」

 夜須弘士だったかもしれない。

「約束守れよ、少多!」

 大合唱になった。

「約束守れよ、少多!」

 少多は絶体絶命の大ピンチに陥った。ついさっき、端から端まで制覇すると豪語したのは自分自身なのだ。惨めな気持ちになった少多は泣きそうになった。たった二歩で転落したのだ。一メートルも進めなかった。さきほどの体験からすると、何度やり直しても、とてもではないが出来そうにない。高いところはもう懲り懲りだ。

 するとだ、天の助けか、夜須弘士が言った。

「じゃあ、真打登場だ。俺様が見本、見せてやるぜ」

 そう宣言すると、塀の傍らに立つクヌギの木に取り付いた。しかし、いつまで経っても、ブロック塀に飛び移れない。やっぱり怖いのだ。

「じゃあ俺がやる」

「じゃあその次、オレ」

 競うように次々とクラスメイトたちがチャレンジしたものの、誰もミッションを達成できない。塀の上まで辿り着いた級友も、せいぜい半数程度だ。

 だから少多はまだマシなほうだったのだが、最初に大見得を切ってしまったので、ことさら印象が悪かった。ウルトラ大失敗した情けない奴という烙印を押されてしまったのだ。

 すると夜須弘士が、嫌味ったらしく言った。

「そうだあ、緑井比呂志がやってねえぞ。オマエ、できねえからって、ハナから逃げてんだろ、意気地なしめ」

 ところが、真打とはヒーローヒロシのことだった。

「おおっ、ついにヒロシ登場だ」

 クラスメイトたち皆は期待した。

 深く物事を考えないヒロシは、両手でVサインをして、すでにミッションを完遂したように意気揚々としている。まだ何もしてないのに。

「イエーイ。オイラ、遊びの天才だから、何でもパーフェクトだぜぇ」

「すげえ、ヒロシならできそうな気がしてきた」

 少多は本当にそう思った。よしんば出来なかったにせよ、ヒロシは既に任務を完璧に遂行したヒーロー気取りで、まるで祝賀パーティーの主役といった風情だ。

「みんなぁ、ノッテルかい? オイラ、やっぱヒーローだな。ヒーローヒロシだな! ヤッホー~」

 いつものように陽気で、悠々としている。仮にこのあと失敗したとしても、皆はヒーロー気取りのこのVサインは確実に覚えているだろう。闘わずして、すでにヒロシはヒーローヒロシ、この勝負の勝者なのだ。

 サササッとヒロシはクヌギを登った。

「イエーイ! やっぱオイラ天才だ!」

「そうだ、ヒロシが一番速かった!」

「さすがはヒーローヒロシ。木登りはナンバーワンだあ!」

 観衆はもう、ヒロシのワンマンショーに呑み込まれている。

「じゃあオイラいくよ~。端から端まで渡りきるよ~」

 軽々とブロック塀の上に飛び移ったヒロシは、両腕を大きく広げた。まるでサーカスの綱渡りショーのようだ。

 そしてヒロシは皆の注目を一身に集め、颯爽と歩き始めた。少多のように恐る恐るではない。日頃、道を歩く歩調よりも速く、すいすい進んだ。

「おおおおっ!」

「きゃあヒロシ、すごいスピード!」

 女子はビックリしている。

 あれよあれよという間に十メートル進み、端まで到達したヒロシは、そのままピョンっと飛び降り、芝生の上に着地した。

「うわわわああ!」

「凄いぜヒロシ、神技だあ!」

 拍手喝采とはこのことだ。こうしてヒロシはまたもやヒーローになった。

 そして今。

 高校三年生になった少多は階段の上に立って、下を見下ろしている。両脚がぶるぶると大きく震えた。あの塀の上に立った時よりもっと怖い。

 いくら呼び名がショーンに変わっても、おのれが意気地なしなのは変わらない。ここから下に転がり落ちたら痛くて痛くて泣いてしまいそうだ。そんな惨めな自分が想像できた。とてもではないが、憧れの美智に見せられるものではない。

「な、ショーン。やめとこ、危ないよ。怪我したら保健係には手が負えなくなって、病院直行で早退になっちゃうよ。しかも入院したら、しばらく会えなくなるぜ」

 ヒロシは無謀な少多をどうにかして説得しようとしてくれている。退くなら今しかない。――その時だ。

「なにチャラチャラ七面倒臭いことやってんだヨオぉ!」長身のハンサムボーイが出現した。「やっぱクソ原はいくつになっても約束守んないのかヨオぉ!」

 夜須ヒロシはふたりの会話を背後から立ち聞きし、自分自身でも、ブロック塀の出来事を思い出していた。実は夜須ヒロシの精神的苦痛には先があった。夜須ヒロシがブロック塀歩きに参加したことを、現場に居たただの一人も覚えてなかったというオチがついていたのだ。

 実は夜須ヒロシは木曽原少多に対してつい昨日、イタズラをしかけた。昼休み、少多が席を外した隙に、少多の机の横に掛けてあった水筒を引っつかみ、内部の水をすべて呑んでやった。そして空になった水筒に、水道水を満タンになるまで入れておいたのだ。

 その結果、昨日の午後ずっと、木曾原少多はお腹の調子が悪かった。しかし、冷水を無理して一気呑みした夜須弘士自身も腹をこわしたのだ。

「くっそう!」

 ますます怒りが込み上げてきた夜須弘士は、背後から突進した。

「自業自得だ、天誅だ! あの世へ落ちろ、弱虫少多!」

 そう叫ぶなり、背後から少多を蹴り落とした。

「ああっ」

 偶然、その場に通りかかった男女生徒たち全員が震撼した。

 階下へともんどりうって転落してゆく少多は、無情にも頭から落下し、回転しつつも、驚愕した形相と同時に喜悦の表情を浮かべている。

「きゃあ!」

 弥生とアラナ、カレンもその場に居合わせた。

 後にカレンはこの有り様を連続イラスト画に残した。固い階段を落下しながら、恐怖に脅えているはずの少多はなぜか涎を垂らしており、その目は悦楽の境地を彷徨っている。対照的に、その背後に仁王立ちする闇の男、般若の形相をした夜須弘士のほうこそ後ろめたさに蒼褪めている。

 泡を食った弥生は、急ぎ、保健係の美智を連れてきた。

 幸いにも死なずにぜいぜいと荒い息を吐いている少多は被害者であるにもかかわらず、満願成就の清々しさを湛えた笑みを浮かべている。そして自身より背が高く、体幹もしっかりしている美智に支えられ、ふたりして保健室へ向かったのだ。そしてこれらすべてを背景として、ヒロシは大あくびして廊下に寝そべっていた。

 以上が、卒業文集に掲載されたカレン直筆の連続イラスト画だ。

 現実世界においては、あとは黒ギャルアラナが夜須弘士を罵倒するばかりだった。

「夜須シぃ! アンタいい加減にしなよ! 少多が死んだらどうするつもりなのよ!」

 皆は、今にも夜須シに掴みかからんとするアラナを羽交い絞めにして、懸命に宥めるしかなかった。

 さて、命を賭けた少多の蛮勇は、果たして現実を動かしたのだろうか? ふたりに発展はあったのか? 現実は、カレンが描いたイラスト画の表情のとおりになった。

 保健係の美智が少多を保健室へ連れて行ったのと同じ週の銭湯同好会では、もう行きも帰りもふたりで話している。

 際立つほどの色白アスリート美人も、性格は思いのほか柔和で内省的だった。そんな美智と、地味地味少多は、こうしてよく話すようになった。

 やったね!

 銭湯への広々したなだらかな坂道を皆で下りながら、弥生はヒロシに、そんな意味を込めて目配せした。

 少多と美智は明らかに接近したのだ。

「ね、ヒロシ。あとは化学反応が起きるかどうかね」

「えっ。何それ?」

「ええっ? ヒロシ、まったく何もわかってなかったの?」

 弥生は、目の玉が飛び出る思いだ。完全なる肩透かしを喰らわされたのだ。

「そうよ弥生。その男、何もわかっちゃないわよ」

 アラナの毒舌に反応し、寡黙なイラスト職人カレンは吹き出した。

「あっははは、ウケル~~」

「ほら。常日頃は無口なカレン画伯も、ついに声に出して笑っているではありませんか」

 天才リーサはそう指摘した。

「リーサはどう思う?」

 弥生の問いかけに、リーサは銀縁眼鏡をギラリと光らせて答えた。

「とっくに化合していますわ、あのおふたり」

 世事に疎いガリ勉タイプのリーサの目にも、化学反応は明白であり、間違いないようだった。美智と少多のふたりは、皆といっしょながらも、先頭に立ってふたりで歩いている。なだらかで広い坂をゆっくり下りながら話し込んでいた。

 皆と歩調をあわせつつ、アラナは言った。

「男子ってマジでダメねェー。ヒロシに限らず、男ってミーンナ、まるっきり鈍感だからぁー」

「え? オイラ、ダメ男で鈍感なの? やっぱり?」いつものとぼけた口調でヒロシが聞き返した。

「単細胞男子って、なーんにもわかっちゃいないのよ。その代表格が、あんたよ!」

 黒ギャルアラナの毒舌に、カレンが再びプッと吹き出した。本日何度めだろうか。

「あれっ?」

 ヒロシが立ち止まった。視線が宙を泳いでいる。

「まさかヒロシぃ。あんた、また幻の美女を見たとか何とか言おうとしてる?」

「うん! 大正解!」

 そう言いつつも、ヒロシはキョロキョロ周囲を窺った。

「弥生ぃ、遠慮は要らないわ! いますぐこのチャラ男を八つ裂きにして!」

 アラナの声に、弥生は複雑な表情でヒロシを睨んだ。

「わあ、オイラまだ死にたくない。やめて、逃げろ!」

「待てぇ!」

 坂道を駆けくだろうとするヒロシを、腕を伸ばしてアラナが捕まえようとした。

「まるで浮気王子でございますね」

 リーサの一言に、皆はもう大笑いだ。

 こうして銭湯同好会一行は、通い慣れた坂道を下っていった。


□ 第四章 対決


 皆のお蔭で少多は、美智といい感じで話せるようになった。

 階段の踊り場から遠慮なく蹴落としてくれた夜須弘士に対しては、感謝していいものか、それとも謝罪を求めるべきなのか? 判然としないものの、結果的にかなり美智との距離は接近した。

 でも少多とて、血気盛んな年頃の若者だ。内心、忸怩たるものがあった。

 学校ではおとなしく、常にビクビクしている存在だが、それでも血は通い、脈拍もあれば血圧もある。生きている人間なのだ。

 夜須弘士は夜須弘士で、卒業までに、宿敵と目する緑井ヒロシに痛撃を与えたい、一泡吹かせたいと隙を窺っていた。

 今朝も夜須シは登校前、一心不乱におのれの髪を弄っていた。夜須シ専用の鏡台が鎮座するのは、だだっぴろいおのれの部屋のど真ん中だ。今朝も一人、鏡台の前で睨めっこだ。

「俺ゃあ完璧なイケメンだ」

 夜須シは、鏡の中に映るおのれに語りかけた。

「学校でよ、最新ファッションを身にまとって登校してる伊達男は俺様だけだゼ」

 私服通学が認められている都立高校へ、夜須シは毎朝ブランド物で全身を固めて登校しているのだ。

「俺のヘアスタイルを見てみろ。アイドルと同じだぞ!」

 整髪料の臭いを始終プンプンさせ、周囲に座る生徒は迷惑千万なのにも気がつかない。

「人気、特に、女子からの人気面で、少しでもヒロシの野郎に追い付くためには、これくらいの手間は当然だ」

 夜須シは年から年中オシャレを欠かさない。さらに目立ちたい一心で、四六時中、キザに行動した。でもそれがかえって人気の低迷に拍車をかけていることに、残念ながら本人は思い至らない。

「よし!」

 急に立ち上った夜須シは、せっかく着込んだブランド服をすべて脱いだ。全裸になり、鏡におのれの全身を写した。

「俺様の姿を見てみろ。スラットした細身で、アゴが細くて、最強のモテ男だ。どんな女子が採点しようが、評価は最高レベルに違いないゼ、ウフフフ」

 アゴが細いのは、実は意思薄弱な証拠かもしれない。

「俺ゃあ人も羨むイケメンで、運動がそこそこ出来て、勉強もそこそこできるのに……」

 全くモテナイのだ。厳しい現実だ。

「どうして俺が、じゃないほう扱いなんだ?」

 ヒネクレ者だから、『じゃないほう』扱いになってしまったのか? それとも『じゃないほう』扱いを受け続けたから、ヒネクレ者になってしまったのか?

「くそう。どうしてお調子者でニヤケタ野郎がホンモノ扱いなんだ?」

 クラスの人気者として、愉快にのどかに成長したのは緑井比呂志。

 そのいっぽう、夜須弘士はネジくれて成長した。

「緑井ヒロシめ。オマエを、俺の終生のライバルだと認めてやろう。小中高、ともに同じ学校に通う運命になった同名の男としてな」

 鏡の前で全裸の夜須シは絶叫した。

「野郎! きっと蹴落としてやる! 残り少ない高校生活の目標だ! 俺の学校人生の生き甲斐だ!」

 巨大な叫び声に、室内の調度品が揺れた。豪華な輸入品ばかりだ。

 夜須シの父は何の仕事をしてるのか、子の夜須シにさえハッキリしないものの、かなり羽振りはいい。ズバリ、成金だ。

 そういえば昨日、教室のなかで毒舌の黒ギャル、アラナが夜須弘士を評して言った。

「あいつのキャッチフレーズ思いついた。『カネはあるが、人望は無い。人望ゼロ男』」

 そう言って、クラスの皆を爆笑の渦に撒きこんだ。小学校低学年の頃から、体格に劣る木曽原少多をイジメてきたのを知っての毒舌だ。

「いじめがアラナにバレてしまったが、アラナなんていう下層階級民はどうでもいい、そんなの関係ねえ。問題はヒロシだ。あのオトボケ野郎だ!」

 夜須シは、鏡の中に映るイケメンに問いかけた。

「どうしても許せないことがある。いったいどうしてだ? 今も昔もな、どれだけ俺が嫌がらせしようが、あいつは一切、気にしやがらねえんだ! このっ! 悔しい、無念過ぎる……」

 どれだけ鏡の前で咆えようが、釈然としない。想いが届かないのだ。夜須シの胸のモヤモヤは、いっこうに晴れない。

「よし、きょうこそ積年の恨みを晴らしてやる。いくぞ!」

 全裸のまま、夜須シは部屋を飛び出した。

「きゃあー! お坊ちゃま、登校するには服を着てください!」

 家政婦の叫ぶ声が廊下にこだました。

 

 さて、その朝。

 朝一番で、校舎内にダミ声が響き渡った。

『副校長だ。よく聞きなさい。強制呼び出しを命ずる。今から名前を呼ばれた生徒は、至急、進路指導室に来なさい!』

 校内放送で名前を読み上げられたのは、卒業が目前に迫ってもいっこうに進路が決まらない面々だ。

 二十余名の生徒が直ちに進路指導室に集った。だがその一方で、副校長も、進路指導担当の教員もいまだ来ていない。

「何だ、せっかくダッシュで来たのに先生がいないぞ」

「フン、毎度のことだ」

 そううそぶきながら、ヒロシがゆっくり現れた。

 進路未定者として集められたのは、緑井ヒロシ、木曽原少多、城門仁也、そして夜須弘士など。女子は黒ギャルの斜向井アラナ一人だけだ。

「ああ、ドッキリしたぁ。ボクどうしよう……」

 登校するといきなり呼び出しを喰らい、舞い上がってしまった少多は、ヒロシの傍に寄っていき、心配そうに訊ねた。

「ヒロシは進路どうするの? ねえヒロシ? ね、焦らさずに教えてよ」

 ヒロシは相変わらずニヤニヤしている。まだ半分、寝ぼけているようだ。

「ねえ、ヒロシは進学するの?」

 一方的にヒロシを宿敵だと逆恨みしている夜須弘士や、城門仁也など他の生徒たちも、人気者ヒロシの進路に興味津々、耳をそばだてている。

 すると珍しく背を屈めたヒロシは、両手で顔を覆った。「うっうぅ、うう……」

 いきなりヒロシは、泣き始めるではないか。

「アハハハ。さすがの緑井ヒロシの野郎も、将来のことマジ心配になって、涙を流すほど追い込まれてるんだな。アハハハ、愚かな奴め」

 そう見抜いた夜須シは、万歳三唱したい存念に囚われた。

「しめしめ、とうとう緑井ヒロシをやっつける時が来た。奴が凹んでる今この瞬間こそ、最大のチャンスだ」

 遂にヒロシにつけいる隙を見つけた夜須シは、小躍りして喜んだ。ここぞとばかりに攻勢に出るつもりなのだ。

「泣きべそかくなよヒロシ!」

 鬼の首でも取ったかのように声を張り上げた。

「進路が決まらぬヒロシ!」

 ここで会ったが百年目、夜須弘士は痛烈に言い放った。

「朝から泣くなよヒロシ!」

 節は例によって、「オマエの母ちゃんデベソ!」と同じだ。

 夜須弘士は獰猛な狼のように、目を吊り上げて声を張り上げた。しかし、誰も同調してくれない。ヒロシ本人にいたっては無視といおうか、皆に背中を向けたまま泣きべそをかいている。

 すると、普段はおとなしい少多が突然切れた。柄にもなく逆襲の大声を張り上げたのだ。

「ウザいぞ、ゲスいぞ、真似シ!」

 少多が大声を出したのが珍しく、皆は目を見張った。

「ウザいぞ、ゲスいぞ、夜須シ!」

 それは夜須弘士本人にしてもそうで、一瞬、怯んだ感情が表に出た。

「かーえーれ! 夜須シ!」

 ここぞとばかりに、少多が帰れコールを始めた。面と向かって夜須弘士を指差しながら。

「かーえーれ! 夜須シ!」

 アラナが少多に加勢した。

「それそれそれそれ、ソレソレ、それそれ そらそら」

 応援団のように大きな振り付きで、アラナは少多と並び立って、夜須弘士を追い詰めた。ふたりに乗せられて、他の二十余名も帰れコールに参加した。

「かーえーれ! 夜須シ!」

「かーえーれ! 夜須シ!」

「かーえーれ! 夜須シ!」

 二十名超からの至近距離での帰れコールだ。

 緑井ヒロシにいたっては相変わらず我関せず、先ほどと同様、一人だけかがんで泣きべそをかいていたのだが、ようやく顔を上げて振り向いた。

「これどうよ? オイラ、なかなか演技上手いっしょ? 先生を騙すためにはこれぐらい泣き真似できないとねえ~」

 緑井ヒロシが自慢そうに満面の笑みを浮かべた時には、あらかた片がついており、帰れコールに耐え切れなくなった夜須弘士は部屋から逃げ出していた。

「勝った! ついにボクは勝った!」

 いじめっ子にうち勝った事実に感極まり、少多は傍らの人間に抱きついた。

「ぎゃああー、何よアンタ、このドスケベ!」

 アラナはビンタを張ろうとして腕を引いた瞬間、反対側に立っていた城門仁也の頬に裏拳が誤ってブチかまされた。

「痛ッ!」

 後方へよろけながら城門仁也は鼻を押さえた。

「痛えよおお!」

「コラ、うるさいぞ、黙りなさい!」

 進路指導担当の鬼教師が入室してきた。日焼した丸禿の髭面で、毎度のごとく竹刀を携えている。

「城門仁也! 何を騒いでおるか!」

 助け舟が無ければ城門仁也は、危うく続け様の鉄拳を喰らうところだった。

「先生!」アラナが叫んだ。

「斜向井新菜、どうした?」

「夜須弘士がいません!」

「何だと?」

 鬼教師は肩を怒らせた。

「さっきこの部屋から逃げ出しました!」興奮状態そのまま、少多もいった。

「先生、早く夜須シを捕まえてください!」アラナは畳みかけた。

「ならば探しにいかねば!」

 怒声を残し、踵を返した鬼教師は進路指導室を出て行った。その後姿を見て、

「めでたし、めでたし、だなこりゃ。あははは」

 相変わらずノホホンとした口調のヒロシの一言に、皆、ホッとした。

「これはアラナの大ホームランだぁ。アラナは今朝のMVPだなあ。オイラ感心したよ」

「そうだそうだ」

「アラナやるじゃんかよお」

 口ぐちに皆に褒められ、黒ギャルは得意満面、Vサインだ。

「ブイブイ、アタシやる時はやるヨー、ブイ~」

 アラナは少多を見て言った。

「ショーンも特大ホームラン打ったけど、痴漢はだめよ~」

「そ、そういうつもりじゃ……、ゴメン、許して~」

「アタシぃ、美智に言いつけよっと」

「ギャー、それだけは勘弁して~」

 いまだ興奮冷めやらぬ少多の必死さに、皆、爆笑だ。


 卒業式は、春分の日の午前中に行われた。水曜日だ。

 そう、水曜だ。卒業式の午後、いつものメンバーで集合した。

 銭湯同好会、最後の活動だ。

 校門にそぞろ集って、揃って歩き始めた。これが銭湯同好会としては、最後の活動になる。高校生として最後の活動だ。心なしかしんみりした足取りになった。

 告白すべきかどうか考えがまとまらなかった木曽原少多だったが、告白はいったん措いておいて、やっぱり最後に話はしたい。美智のそばに寄っていった。

「ねえ美智」

「ショーン、卒業おめでとう」

「あ。先にいわれちゃった。美智こそ卒業おめでとう」

 二人は並んで坂を下りた。もちろん、銭湯同好会という集団の中ではあるが。

「ボクはさ、大学四年間で自分の適性を見つけたいっていう、理由とはいえない理由でね、大学に行くことにしたんだけど、美智はどうするの?」

「私、看護の専門学校へ行くことになってるの」

「へえぇ、さすが、偉いねえ。自分の将来の道をもう決めたんだね」

「それがそうでもないの」

 ふだん平静な美智にしては珍しく、苦虫を噛み潰した表情だ。美智は少多の顔を見ながら続けた。

「うちは父が頑固でね。こうと言ったら断固として譲らないの」

「ええっ? お父さんが決めたの?」

「うん……。恥ずかしながらね」

「そ、そんなあ。恥ずかしがることないよ。美智は断じて恥ずかしがる必要ないけど。そっか、美智のお父さんには、看護師は弱者に尽くす聖なる仕事だっていう思いがあるのかな……」

「それがそうでもないの。父が看護学校に決めた理由は、一人娘に男子を近づかせないためだって。アア厭だ」

「えええっ。いまどき、本当?」

 歩きながらも少多は目が点になった。

「それって、あまりにも理不尽じゃない?」こんなに感情を剥き出しにする少多は珍しかった。「それじゃあ、美智があまりに可哀想だよ!」

 少多は目頭が熱くなり、舌の奥に熱いものが込み上げた。でも大好きな美智のことを思うと止められなかった。

「お父さんの転勤が多いから、散々いままで犠牲になってきたんでしょ? それなのに、これじゃあ、まるで虐待だよ、酷すぎるよ。美智の運動能力があれば女子バレーでも女子バスケでもレギュラーどころかキャプテンになって都道府県の代表になってって、十分ありえたはずなのに……」

 気がつくと、少多は涙を流していた。

 少多は共鳴したというより、美智のことばを先取りしていた。相手を思い遣るというより、相手に同化して同じ気持ちになれるほど、少多は繊細な心の持ち主だったのだ。美智本人でさえ、よく認識していなかった理不尽さを、あらためて、初めて気付かせてくれた。

 皆はとっくに銭湯の中へ入ってしまい、玄関口の外で二人っきりになっていたが、少多はまだその状況を把握できていない。ただただ、美智が不憫でならないのだ。

「私のために、そこまで言ってくれてどうもありがとう。私のこと、そこまで想ってくれたひと、今までどこにもいなかったからうれしいわ」

 美智は素直に感謝した。

 少多は美智を見た。他のメンバーはとっくに中に入ったんだとようやく気が付いた。

 美智を早く中へ入れてあげなきゃという思いが湧き上がった。でも、今を逃せばもう永遠に会えない、次の機会なんて死ぬまで無いという恐怖心が上回った。

「美智……。また、会ってほしいんだ」

「ええ、そうね。大学生活のこと、教えてね」

「うん、喜んで。真面目に勉強しなきゃならない美智に比べて、具体的に何の目標もないまま安易に大学生になるなんて、かなり申し訳ないんだけど」

「確かに私の行く看護学校はかなり忙しいらしくて、こんな時間に銭湯に行く時間は取れそうもないの」

「ボクは! ボクは美智に会うためなら、世界中どこへでも行くよ。二十四時間どこへでも行く!」

「うふふふ、大袈裟ね。看護師になったらゆくゆくは夜勤とかあって大変でしょうけど、まずはそこまでじゃないから」

「じゃあ、会いにいくよ」

「待ってるわ」

 再会を約して、二人は女湯と男湯に別れた。

 木曽原少多は、知らず知らず傷ついていた美智の心を大きく動かすほどまでに、心優しき人間だ。

 少多は単なる弱虫じゃなく、心優しい人間だと理解できた美智は、少多同様に心優しき人間であり、少多に対して心を開きつつあった。高校卒業まで、どこにも根を張れなかったという不運、不条理、不合理を指摘するだけでなく、涙を流してまで共感してくれた得がたい人物、それが少多なのだ。


 全身から湯気を立てたヒロシが、少多とともに下駄箱から靴を取り出してる時だ。

 いつの間にか阿吽の呼吸が出来上がり、女子たちもほどなく出てくるだろう。それもきょうで終わりなのだ。

 珍しくヒロシが感傷的になろうかという時だった。

 いまだ興奮冷めやらないのか、いつになく少多は積極的だった。思い切ってヒロシに言ってみた。

「ね、ヒロシ。どうもありがとう。ヒロシと弥生が編み出してくれた史上最大の作戦、いままでのところ、大成功だよ。ふたりには感謝、感激しているよ」

「そ、そうかあ」まさか忘れてたとはいえないな。

「だからさ、これを会社にしてみない」

「え? 史上最大の作戦を?」

「そう、ヒロシと弥生とボクとで株式会社化するんだよ」

「そうなると、さしずめ社名は『恋愛結婚株式会社』ってところだな」

 何もかも深く考えず受け入れるどころか、万事ノリノリで拡大発展させてしまう習性のあるヒロシは、至極、楽天的に返した。

「あっ、それいいね。ピッタリだ」

「賛成! オイラやるよ」拍子抜けするほど、あっけらかんとヒロシは言った。「面白そうじゃん」

「ボク、きっとうまくいく気がするんだよ」

「うん、楽しそうな会社ができたなぁ」ヒロシは朗らかにいった。

「え? 何の会社?」

 中から出てきたアラナが訊いた。

 女性陣も皆、靴を履き替えながら聴いている。

「ショーンとオイラで会社を作るんだ。皆も入社するでしょ?」

「え、この男子ふたりで? 会社?」

 絶句したアラナは、男子ふたりに毒舌を浴びせかけるかと思いきや、まさかの返事を返した。

「アタシぃ、心配だからァ、入ったげるわぁー」

「え? アラナいいの? 何の会社かも聞かずして?」

 弥生は呆れてそういった。

「左様でございますわね。弥生さんのおっしゃるとおり、事業内容が不明なままだと足を突っ込んでいいものか悪いものか、判断つきかねますわワタクシ」

 銀縁眼鏡を拭き拭きしながらも、リーサは疑心暗鬼だ。

「社名は、……」少多はオロオロしてヒロシに頼んだ。「は、恥ずかしいからヒロシ、皆にいってよ」

 するとヒロシは得意のVサインを見せた。

「ジャン! 『恋愛結婚株式会社』だぞ!」

「きゃあ」

 なぜか無口なカレンが驚きの声を上げた。

「それはなかなか興味を惹く社名、チャーミングなネーミングですね」リーサは銀縁眼鏡の奥を光らせた。「新たに始まる大学生活と二足の草鞋でよければ、ワタクシ参加いたしますわ」

「じゃあ、アラナとカレンとリーサは入社決定だね」

 脳天気にヒロシが言った。三人とも乗り気なのか、うんうん肯いている。

「で、恋愛結婚株式会社って、どんなことする会社なのサ?」

 ようやく会社の事業内容をアラナが訊ねた。するとモジモジする少多に代わって、ヒロシが堂々と答えた。

「それはさ、なんと、みんなが期待するとおりの、いや、みんなの期待を上回るすごい会社なんだ」

「で、具体的には?」弥生はいぶかしげだ。

「具体的? それはね、えーっと、えーっと」ヒロシは言葉に詰まった。

「えっ? もう三人も入社するって決まったのに、もしかしてヒロシ、どんな会社なのか、いまになって考えてない?」

 弥生は目をパチクリさせた。

「ええっと、オイラさ、珍しく言葉を選んでただけさ」

 そういうとヒロシはにっこりした。「えへん。それでは発表します。われらが恋愛結婚株式会社は、依頼者のみなさんからの求めに(こた)えるべく、恋愛結婚を成就させる会社なんだ!」

 みなに笑顔が広がった。

「ワオ、面白そうじゃないの。アタシ、入ってよかったわ」

「ワタクシも興味をそそられました」

 カレンも興味津々の様子だ。

 ヒロシにかかると物事こうもうまくいくものかと、少多は心を動かされた。自分も声をかけなきゃと、気が急いた少多は慌てて弥生に訊ねた。

「弥生も入ってくれるでしょ?」

「え? 私? 私は、堅実に生きなさいって両親が口やかましいし、それに、ノーテンキなヒロシが言いだしっぺだから答えはNOよ」

「アチャー」

 男子ふたりはずっこけた。

「看護学校で忙しくなる美智もNOでしょ?」との弥生の問いかけに、美智も頷いている。

「じゃあ美智と弥生は特別アドバイザーに就任してもらおう」

 のほほんとヒロシが言った。

「仕方ないわねえ、強引なんだから、ね?」

 弥生の問いかけに、美智はにっこり肯いた。

「じゃあ決定だ」ヒロシは意気軒昂に宣言した。「とにもかくにも、『恋愛結婚株式会社』結成だ!」

「おう!」

「よし!」

「やるぞ!」

 口ぐちに声が上った。

 リーサはまとめた。

「こうしてワタクシたち銭湯同好会は、恋愛結婚株式会社へと発展的解消を遂げたのでございます」

「あれっ?」

 そのとき、虚空を見つめながらヒロシが凝固した。

「ああぁ、ヒロシまさか……」

 少多は焦った。

 ヒロシはまたもや夢遊病者のようにボーっとして、視線を中空にさ迷わせている。

「銭湯同好会の最終日にまで? マズイよ、ヒロシ」

「オトボケ男、お約束の?」

「幻視か幻想かまぼろしか?」

 皆はからかうように口ぐちに言ったが、当のヒロシは夢うつつの状態で、いまにも駆け出しそうだ。

「ショーン、手伝って!」

「うん!」

 アラナと少多は背後からヒロシを羽交い絞めにした。

「確かに、いた! オイラ、絶対に、見た……」

 ヒロシは魂を抜かれたように呆けてしまい、羽交い絞めにされていることさえ認識できていない。

「さぁ、弥生。やっちまってェ! この浮気男をぶん殴ってやりな!」

「で、でも、私たち、別につきあってるわけじゃ……」

 バチーン!

 なんと、無口なイラスト職人カレンが、満身の力でヒロシの頬を平手打ちした。

「あぁ、カレン。どうして?」目を白黒させた少多が訊ねた。

「弥生の代わりよ。天に代わって浮気者を討つ!」カレンはプンプンして言った。「アンタには弥生っていう可愛い子がいるのに、許せない!」

 バチーン!

 今度はリーサがヒロシを平手打ちだ。

「どうして?」目を丸くさせた少多が訊ねた。

「ついででございます!」

 リーサの返事に、皆はどっと笑った。しかし、いまだ夢から覚めやらぬヒロシは、平手打ちを喰らったことさえ自覚していない。

「じゃあ、アタシぃ、卒業記念に一発お見舞いすッかな!」

「ぎゃー、アラナだけはやめてくんろ! オイラ、会社創業前にお陀仏になっちまう」

 ようやく正気に返ったヒロシがいつものように愉快に騒ぐので、皆は一安心した。

「でも、でもオイラは確かに目撃したんだ、幻の女性を! この目で確かにぃ!」

「このオマセサンが、いまだほざいていらしゃいますね」とリーサ。

「うふふふ」

 美智も笑った。

「美智のビンタは迫力あるでしょうね」

 弥生の一言に、ヒロシは引っ繰り返った。

「ぎゃあァ、よしてぇ~」

 こうして皆は、ワイワイガヤガヤと銭湯同好会を卒業した。

 ふと見上げると、暮れなずむ空に星が瞬き始めている。

「そうだ。蛍の光、歌おうぜぇ」

 ヒロシがまたもや、思い付きを高らかに発表した。ひとりで公言するだけでなく、皆を巻き込もうとするのだ。

「いやよぉ~、そんなガキっぽいこと恥ずかしいでしょ~」

 アラナは抵抗したが、夜道を歩きながらヒロシは構わず歌いだした。

「♪ほーた~るの、ひぃかぁあぁり~」

 人生の転機で何度も聴いたメロディーだ。なんだかアラナもホロリとした。そんな顔を見られるのが恥ずかしかったのかもしれない。

「私、小学校も中学校も、卒業寸前に転校してね。だからこんな気持ちになれなかった」

 意外にも、シャイな美智が歌い始めた。さらにカレンも続いた。

 いつの間にか、皆が唱和していた。

 美智は大粒の涙を流していた。

「私、初めて、ついに卒業できたみたいうっ、うっ……」

 銭湯同好会の仲間に出会うまで、きょうという日まで誰にも一度たりとも理解してもらえなかった美智は、頭一つ半も背が低い弥生の肩に覆いかぶさりながらむせび泣いていた。

 蛍の光の大合唱は続いた。

 誰よりも繊細な心を持つ美智は、とっくに気が付いていた。弥生が新会社に入らないと突っぱねた理由だ。入社できないのは美智ひとりだけだと、今、皆の目の前で発表するのが可哀想だからだ。親の決めた看護専門学校に入り、時間が取れなくなる美智を慮っての発言だったのだ。

「何でよ、どうしてよ……ううっ……。弥生は、弥生は、優しすぎるのよ!」

 美智は、弥生の胸でいつまでも泣きじゃくっていた。まるでこどものように。


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