銀色の重力、あるいは屋上の境界線
プロローグ:羽音のない降臨
その男、自称「ミカエル」は、ちっとも天使らしくはなかった。
背中に白い翼が生えているわけでもなければ、頭の上に光る輪っかが浮いているわけでもない。安物のチャコールグレーのスラックスに、くたびれた白シャツ。どこにでもいる、少し顔色の悪い事務員といった風情だ。
ただ一点、彼が「人間ではない」と証明していたのは、彼がビルの十階、その縁にある幅わずか二十センチのコンクリートの上に、重力を無視したような軽やかさで立っていることだった。
「そこ、座ると冷えますよ。いや、もうすぐそれどころではなくなるんでしたっけ」
男は、隣で同じように縁に腰を下ろしている僕に向かって、事務的な声を出した。
僕は、震える手で持っていた缶コーヒーを一口すすった。冷え切った微糖の液体が、喉を通り抜ける。
「……君、誰?」
「天使です。あなたの担当の」
「天使? 嘘だろ。もっとこう、後光が差してたり、ハープ弾いてたりするもんじゃないのか」
「それは中世の絵師たちの過剰演出です。僕らは公務員に近い。あなたの『最後の手続き』の立ち会いに来ました」
僕は、目の前に広がる夜景を見下ろした。
ネオンの光が、まるで壊れた宝石箱をぶちまけたように美しく、そして残酷に輝いている。ここから一歩踏み出せば、僕はあの光の一部になれる。そう思ってここに来た。
「最後の手続き、か。じゃあ、君は僕を止めに来たわけじゃないんだな」
「まさか。僕らに自由意志を曲げる権限はありません。ただ、記録するだけです。あなたが何に絶望し、何を捨て、最後に何を思ったか。それを報告書にまとめるのが仕事です」
ミカエルと名乗った男は、懐からタブレット端末のようなものを取り出し、手慣れた手つきで画面をスワイプした。
第一章:落とし物の履歴書
「ええと、佐藤晴希さん、二十八歳。IT企業のシステムエンジニア。残業時間は月平均百二十時間。先月、三年付き合った恋人に『あなたの隣にいても、透明人間と付き合っているみたい』という理由で振られ、一昨日は仕事で致命的なバグを出し、上司から一時間立たされたまま罵倒された……。なるほど、典型的な『累積疲労による境界線越え』ですね」
ミカエルは淡々と僕の人生を読み上げた。まるで他人の履歴書を読み上げているかのような、感情の起伏がない声。
「……勝手に見るなよ。恥ずかしいだろ」
「恥ずかしがる必要はありません。全人類、似たようなものです。みんな何かしら、自分だけの『終わりたい理由』を抱えて生きている。ただ、あなたはそのカードを引くのが少し早かっただけだ」
ミカエルは、僕の隣にひょいと腰を下ろした。彼が座っても、ビルの縁にある砂埃ひとつ舞わなかった。
「なあ、天使」
「はい」
「死んだら、楽になれるのかな。この胸の奥にある、鉛を飲み込んだような重い感じ、消えるのかな」
ミカエルは夜空を見上げた。その瞳には、星の光も街のネオンも反射していない。ただ、深い虚無があるだけだった。
「物理的な重力からは解放されますよ。でも、魂の重さは変わりません。僕らはそれを『未練』と呼びますがね。……そうだ、死ぬ前に一つだけ、僕の仕事に付き合ってくれませんか」
「仕事?」
「ええ。あなたの記録を完了させるために、一つだけ、あなたの『忘れ物』を回収しなきゃいけないんです」
第二章:過去へのダイブ
ミカエルが僕の肩に手を置いた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
ジェットコースターで急降下するような浮遊感。目を開けると、そこは夜のビル屋上ではなく、西日の差し込む小学校の教室だった。
「……ここは?」
「あなたの記憶の断片です。思い出してください。小学五年生の、夏休み前」
教室の隅に、十歳の僕がいた。
放課後、一人で残って、粘土細工を作っている。作っているのは、不恰好な鳥の形をした何かだ。
「ああ……これ。図工の時間に、最後まで終わらなくて居残りしてたんだ」
「何を作っていたんですか?」
「……翼だよ。どこまでも飛んでいける、大きな翼。これを完成させたら、僕もどこか遠いところへ行けるって、本気で信じてたんだ」
小さな僕は、必死に粘土をこねている。でも、翼は重すぎて、胴体にくっつけようとするとポロリと崩れ落ちてしまう。何度も、何度も。
結局、十歳の僕は、崩れた粘土をぐちゃぐちゃに握りつぶして、泣きながらゴミ箱に捨てた。
「あの時、あなたは『飛ぶこと』を諦めた。その瞬間、あなたの背中に生えるはずだった見えない翼の一部が、ここに置き去りにされたんです」
ミカエルが指を鳴らすと、ゴミ箱の中から淡い銀色の光が立ち上がり、彼の手に吸い込まれていった。
「一つ、回収完了です。次は……高校の理科準備室ですね」
場面が次々と切り替わる。
好きだった女の子に渡せなかった手紙。
本当は行きたかった美大のパンフレットを隠したクローゼット。
「大丈夫だよ」と嘘をついて、一人で泣いた夜の公園。
ミカエルは、僕がこれまでの人生で「捨ててきたもの」「諦めてきたもの」を、一つひとつ丁寧に拾い上げていく。それはどれも、淡い銀色の光を放っていた。
第三章:銀色の重さ
気がつくと、僕たちは再びビルの屋上に立っていた。
ミカエルの手元には、先ほどまで持っていたタブレットではなく、銀色の光が詰まった大きな革袋があった。
「これで全部です。あなたの『未練』、あるいは『可能性の残骸』。結構な重さになりましたよ」
ミカエルはそれを僕に差し出した。
「持ってみてください」
受け取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わった。
重い。けれど、それは決して不快な重さではなかった。まるで、冬の日に厚手の毛布に包まれた時のような、あるいは、誰かに背中を預けている時のような、確かな体温を伴った重さ。
「……これ、全部僕のものなのか」
「ええ。あなたが捨てたつもりで、実は心の奥底でずっと握りしめていたものです。これを抱えたまま飛び降りると、あなたは光になんてなれませんよ。ただの重たい塊として、地面に叩きつけられるだけだ」
ミカエルは冷たく、けれどどこか慈しむような目で僕を見た。
「佐藤さん。天使っていうのはね、人間を天国へ連れて行くのが仕事じゃないんです。人間が、自分自身の重さを愛せるようになるまで、横で見守るのが仕事なんです」
「……僕の重さを、愛する?」
「ええ。あなたが今感じている絶望は、あなたがかつて何かを強く望んだ証拠だ。あなたが今感じている孤独は、あなたが誰かを深く愛したかった証拠だ。その重さこそが、あなたが人間であるという証明なんです」
僕は銀色の袋をぎゅっと抱きしめた。
目から、熱いものが溢れてきた。
会社を辞めたい。逃げ出したい。全部終わりにしたい。
その気持ちは消えない。けれど、この「重さ」を捨ててまで、何もない虚無になりたいのかと問われれば、僕は初めて首を横に振った。
「……ミカエル」
「はい」
「これ、返していいかな。僕の、中へ」
ミカエルは少しだけ、本当に少しだけ口角を上げた。
「もちろんです。もともと、あなたのものですから」
エピローグ:夜明けの足音
彼が指を鳴らすと、銀色の袋はさらさらと砂のように解け、僕の胸の中へと吸い込まれていった。
途端に、心臓が強く打つのを感じた。ドクン、ドクンと。
生きて、血が巡っている音がする。
「さて、僕の仕事はここまでです。報告書には『対象者は境界線で踏みとどまり、重力の再獲得を選択した』と書いておきます」
「……ありがとう。あの、君はこれからどうするの?」
「別の現場ですよ。この街には、自分の重さに耐えかねている人が、星の数ほどいますから」
ミカエルの姿が、朝焼けの光に溶けるように薄くなっていく。
最後に、彼は一度だけ振り返って言った。
「佐藤さん。翼がなくても、人間は歩けます。重たい靴を履いて、一歩ずつ。……次はもっと、まともな場所でお会いしましょう。できれば、あと六十年後くらいに」
太陽が、地平線の向こうから顔を出した。
ビルの屋上、強い風が吹き抜ける。
僕はゆっくりとコンクリートの縁から降り、屋上の床に両足をつけた。
地面は固く、冷たい。
でも、その感触が今はたまらなく愛おしかった。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、実家の番号を探した。
まずは、誰かに「おはよう」と言うことから始めよう。
背中に翼はないけれど、僕の足には、この地面を踏みしめるための確かな重みがあった。




