綺麗な湖と最悪の一皿
腹が、はっきりと鳴った。
静かな地底湖に、小さな音がやけに大きく響く。水面に浮かぶ光の模様が、くすりと笑ったように揺れた気がした。
「……笑ってんじゃねえよ」
誰にともなく呟いてから、膝の横に置いていたマジックバックを引き寄せる。
口を開けると、悪趣味なパウチがぎっしりと詰まっていた。
第五層産。
ミノタウルス・レトルトシリーズ。
どれもこれも、パッケージの隅に「健康への影響は保証されません」みたいな小さな文字が書いてありそうな顔をしている。
特にミノカレーの袋はひどい。
ガンギマリしたミノタウルスがスプーンを掲げ、瞳孔全開の笑顔でこちらを見ていた。
こんな顔で勧めてくる飯を、素直に口へ運べる人間がいたら見てみたい。
「お前はないな」
思わず、袋の顔を下向きにしてやる。
視線が合うだけで、正気を持っていかれそうだ。
そのミノ飯たちの奥に、別の顔が並んでいる。
第四層産。
ゴブリン・レトルトシリーズ。
緑色の小柄な影が、満面の笑みで親指を立てている《ゴブカレー》。
鍋を抱えている《ゴブシチュー》。
意味の分からないポーズでエスプレッソマシンを構えている《ゴブンチーノ》。
どこかの屋台の兄ちゃんみたいに丼を掲げる《ゴブラーメン》。
「……どっちもどっちだな」
地底湖へ視線を向ける。
湖面は、相変わらず美しかった。
天井にびっしりと広がる発光苔が、柔らかい光を水に落としている。
淡い緑と青のゆらめき。
水面に映る岩肌の影が、波紋に合わせてゆっくりと歪む。
もしここが地獄じゃなければ、ただの観光名所としてパンフレットに載っていてもおかしくない。
そんな静かな景色と、手元の「ゴブ飯」と「ミノ飯」のパッケージ。
ギャップがひどすぎて、頭が少しクラクラした。
「……何だこの、胃に悪い景色」
綺麗すぎる湖。
悪夢みたいな笑顔のゴブリンと、目の焦点が合っていないミノタウルス。
どっちも現実感が薄い。
だが、目を閉じても、腹の主張は止まらない。
ここ数層の戦闘で、常に緊張とアドレナリンで誤魔化してきたが、限界が近い。
硬質化で無理やり動かした筋肉が、抗議するようにきしんでいる。
このまま何も食べずに第六層へ突っ込めるほど、俺は頑丈じゃない。
ミノ飯か、ゴブ飯か。
神の悪趣味な二択。
「……ミノは、ない」
あらためてミノカレーのパウチを見る。
ガンギマリミノタウルスが、笑顔でスプーンを差し出している。
そのスプーンの先に、謎のキラキラが描かれているのが腹立たしい。
どう見ても、“美味しい”より“ヤバい”方向に振り切れている。
一口食べた瞬間に、視界が多色刷りになってもおかしくない。
あるいは、味は普通でも、変なバフやデバフがつくのかもしれない。
さっきミノタウルスが見せていた、あの狂った動き。痛みを無視して突っ込んでくる、防御を度外視した攻撃。
あれと同じものを、自分の身に通したいかと聞かれたら――答えはノーだ。
「……ゴブ、だな」
ため息をひとつ吐き、ゴブシリーズの中から一つを選ぶ。
《ゴブカレー》。
せめてもの抵抗として、もっとも“料理として成立している姿”に見えるやつを選んだ。
パウチのゴブリンは、相変わらず満面の笑みで親指を立てている。
「信じていいのか、これ」
返事はない。
あるのは、印刷された笑顔だけだ。
しばらく袋とにらみ合ったあと、視線を外して地底湖へ目を戻す。
静かな光の揺らめき。
清潔感しかない水面。
胃の奥からこみ上げてくる嫌な予感を、ぐっと飲み込む。
「……よし」
自分に言い聞かせるように声を出し、パウチの封を切った。
香りが立ち上る。
それを“カレー”と呼んでいいのかどうか、判断に困る匂いが鼻をかすめた。
ここで言葉にしたら、たぶん二度と食が進まなくなる。
俺は、意識的に脳の言語野を閉じる。
目の前には、地底湖。
美しい光景。
箱庭の中で、数少ない“綺麗”と言っていい。
それを、おかずにする。
視界の端にゴブリンの笑顔が入らないよう、パウチをなるべく脇にずらした。
湖面だけを見る。
光が揺れる。
水がわずかに波打つ。
そこだけを見つめながら、口へ運ぶ。
一口目。
味の感想は、言葉にしない。
二口目。
言えない、というより――言いたくない。
三口目。
喉を通る度に、体のそこかしこが「本気か」と抗議してくる。
それでも、咀嚼して、飲み込む。
目の前の光景だけは、美しい。
それを必死に掴んでいないと、心のどこかが折れそうだった。
「…………」
どれくらいの時間が経ったか分からない。
パウチの中身が空になった頃には、手の震えは止まっていた。
代わりに、別の感覚が残る。
二度目はない。
はっきりと、そう思った。
死に戻りの痛みと比べてどちらがマシか、と問われても答えに困る。
ただ一つだけ確かなのは――
もう一度”腹減ったな”と思ったとき、真っ先に思い出すのは、今のこの体験だということだ。
「……黒川さん、ごめん」
思わず、口から言葉が漏れた。
地底湖の水面に映る自分の顔が、情けなく歪んでいる。
「本当は、あんたとあの子に、まともな飯、食わせてやりたいんだけどな」
まとも、とは言えない。
だが、何もないよりはマシだった。
あの一層で、パンと水を握られている状況よりは、まだ選択肢がある。
それでも、今ここでこのパウチを空にしたのは自分だ。
胃袋を満たし、自分だけ体を動ける状態に戻そうとしている。
そのわがままを、正当化できるような言葉は、すぐには浮かばなかった。
「……十層までには、何か持って帰る」
誰が聞いているわけでもない。
それでも、口に出した。
言葉にしないと、自分自身にすら嘘をつきそうだったから。
しばらく、その場でじっとしていた。
やがて、体の内側で何かが変わり始める。
さっきまで鉛のように重かった四肢に、少しずつ熱が戻る。
硬質化で無理やり動かしていた筋肉が、内側からほぐされていくような感覚。
岩に打ち付けられた肩の痛みが、じわじわと薄れていく。
拳を握る。
あのミノタウルスの斧を受け止めた手。
爪の内側まで響いていたきしみが、いつの間にか静かになっていた。
じん、と遅れて残る余韻はある。
だが、さっきまでの鋭い痛みは影を潜めている。
「……回復、か」
誰にともなく呟く。
傷だけじゃない。全身を包むだるさも、心なしか軽くなっていた。
脳の奥にへばりついていた疲労の膜が、少し剥がれ落ちたような感覚。
胸元のローブの内側で、赤い線が微かに脈打った気がした。
それがゴブ飯の影響なのか、ローブの性質なのかは分からない。
あるいは、その両方か。
どちらにせよ――
数時間前より、確実に「動ける体」になっている。
俺はゆっくりと立ち上がり、肩を回した。
可動域に、ほとんど違和感はない。
さっきまで岩のように重かった自分の体が、ようやく“人間の重さ”に戻ってきた気がした。
「……さて」
湖面を一度だけ振り返る。
光の揺らめきは、相変わらず穏やかだった。
その下に何が沈んでいようと、この景色だけ見ていれば、ごまかされてしまいそうなほどに。
俺はマジックバックを拾い上げ、肩に掛け直した。
ローブの襟を軽く引き、呼吸を整える。
確かめるべきことがある。
この体の変化が、どこまで数値に反映されているのか。
ローブとゴブ飯が、どんな形で“力”に繋がっているのか。
「……ステータス」
小さく呟いた。
視界の端に、淡い光が滲み始める。
情報の窓が開きかけたところで、俺は静かに息を吸った。
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