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死に戻りの箱庭ダンジョンで、亡き家族を取り戻すため俺は何度でも死ぬ  作者: タイハクオウム


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一層の影 sideA

 一層の時間は、現実の昼夜とは無関係に進んでいた。


 天井の白い光は一定の明るさを保ったまま、和真が階段を上ってから、すでに数時間が過ぎている。


 それでも空気の重さは増し続け、ここにいる者たちの表情からは、生気というものが少しずつ剥がれ落ちていた。


 中央の台座では、五人ほどの男たちが完全に主導権を握っていた。


 台座の上にある透明な壺、その中の水。そして乾いた白いパンの山。


 男たちはそれを囲むように立ち、まるで自分たちの私物であるかのように扱っている。近づこうとする者がいれば、露骨な敵意の視線を向けて追い払う。


「欲しいなら、対価を払えよ。」


 リーダー格の大柄な男がそう言い放ち、老人を見下ろした。


 老人は病室着のような上下をまとい、震える膝を押さえながらか細い声を搾り出す。


「少しだけでいいんだ……。水を、少し……。」


「何ができる?」


 男は苛立ちを隠そうともせず問いかける。


「モンスターと戦えるのか? 先に進んで餌を持ち帰れるのか?」


 老人は、こめかみに浮いた汗を拭うこともできず、ただ首を横に振った。


 次の瞬間、男の手が老人の胸を強く押し、老人の細い身体が床へ崩れた。骨のきしむ感触に顔を歪めながら、老人はうめき声を漏らす。


「何もできないなら、食う資格はない。」


 取り巻きの男たちが低く笑い、従う者たちはその輪の外から顔色を窺っていた。


 誰も老人に手を差し伸べようとはしない。こちらを見た、というだけで自分まで標的になると知っているからだ。


 一層の隅では、幼い女の子が膝を抱えて座っていた。


 襟ぐりが伸びたTシャツに薄いスカート。年齢は十歳に満たないだろう。涙で濡れた頬は赤く、肩が小刻みに震えている。


 その傍らに、一人の若い女性がしゃがみ込んでいた。


 黒川比奈――二十四歳前後の看護師。肩のあたりで切りそろえられた黒髪のショート。どこか中性的な印象を与える輪郭と、柔らかな黒目の瞳。整った顔立ちだが、それ以上に目を引くのは、人を気遣うときの仕草だった。


「大丈夫。今日はここで一緒にいよう。」


 比奈は少女の肩を優しく抱き寄せ、体温を分けるように寄り添う。


「お腹、すいてるよね。でも、今はあそこに近づかないほうがいい。」


 少女は唇を噛みしめ、比奈の服を強く掴んだ。何かを言おうとしても言葉にならず、喉の奥で泣き声がつかえている。比奈はその頭を撫で、ゆっくりと呼吸を合わせようとする。


 看護師として、病院で恐怖と向き合う患者を何度も見てきた。その経験が、ここでも手の動きや声のトーンに自然と現れている。しかし視線を少しずらせば、状況は病室よりも遥かに残酷だった。


 階段のほうでは、すでに何組かのグループが二層へと向かっていた。


 体格の良い男たち三人組。互いの肩を叩き合いながら、「やるしかねぇ」と言い合い、恐怖を勢いで押し殺している。


 別の四人組は、リュックを背負った青年を中心に、周囲を警戒しながら慎重な足取りで階段を上がっていった。


 中には、一度二層へ向かったものの、すでに一層へと“戻ってきた”者たちもいた。


 三人ほどの男女が、階段の下に座り込んでいる。身体の傷はどこにもない。呼吸も正常。だがその瞳だけが、何かを失っていた。


「また、殺される……。」


 若い男がうつむいたまま呟く。隣に座る女は、腕を抱きしめたまま虚空を見つめていた。


「痛みが……消えない……。」


 頭蓋が砕ける瞬間。臓腑を貫かれたときの感覚。喉が潰れ、呼吸が途切れた瞬間の窒息。それらが“記憶”として残されている。


 死に戻った者たちは、時折まぶたを震わせ、現実と回想の境界を見失っているようだった。


 食料を独占する男たちは、その様子を見て、にやりと口角を上げる。


「見たか? あれが先に進んだ連中の末路だ。結局ここに戻ってきて、頭だけ壊れる。だったら一層で俺たちの言うこと聞いていたほうがマシだろう。」


 その言葉に頷き賛同するものもいた。


 彼らは自分の選択を正当化するために、死に戻った者たちを反面教師として利用していた。


 そんな空気の中、一人で階段へ向かう若い男の姿があった。


 大学生のようなラフな格好。パーカーにジーンズ。髪は無造作に伸び、黒縁の眼鏡の奥の瞳は、妙に澄んでいる。


 彼は食料にも興味を示さず、周囲の人間模様を観察するように、静かな目で一層を見渡していた。


 死に戻り、泣き叫ぶ者。

 暴力で支配しようとする者。

 希望を失って座り込む者。

 子供を庇う女。


 そのすべてを、どこか別世界の出来事のように眺めている。一瞬、彼の口元にごく薄い微笑が浮かんだ。それは共感でも同情でもない、温度のない笑みだった。


「ここにいても、退屈なだけだな。」


 誰に聞かせるでもなく、男はそう呟き、迷いのない足取りで階段を上り始める。


 周囲は彼にほとんど注意を払わない。ただ一人、暴力グループのリーダー格の男が、少しだけ興味深そうに彼の背中を目で追った。


 大学生風の男は、そのまま一度も振り返らず、二層へと消えていった。彼が後に、ある男の前に立ちはだかることになるとは、このとき誰も知らない。


 黒川比奈は、そんな一層全体の動きを、隅から黙って見つめていた。


 彼女自身も恐怖に飲み込まれそうになっている。しかし両腕の中には、守るべき存在がいる。


 震える少女の体温が、比奈の心を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。


 そこへ、パンを独占しているグループのリーダーが、水を飲み終えながら比奈たちのほうを見た。


 男は筋肉質で、首と腕には粗い刺青が走っている。その視線は、露骨だった。


 比奈の顔から胸元へ、腰のラインへと、舐めるようにゆっくりと移動する。


 少女の存在には興味を示さない。ただ、比奈という“若い女”だけを値踏みしている。


 比奈は肩に力が入るのを自覚しながら、視線をそらした。男はそれを見て、愉快そうに口の端を持ち上げる。


「そんな端っこで縮こまってないで、こっち来いよ。飯ぐらい分けてやる。大人だけ、な。」


 最後の一言に、周囲の何人かがざわついた。だが誰も口を挟まない。


 比奈は少女を抱き寄せたまま、静かに首を横に振った。


「ここで大丈夫です。お気遣いなく。」


 言葉だけは丁寧に、しかし距離を保つように答える。


 男はその返答を受けて、露骨に不機嫌そうな顔をした。比奈をしばらく睨みつける。


「あとで泣いて頼んでも、知らねぇからな。」


 吐き捨てるようにそう言って背を向ける。その目には、不快感と同時に、獲物を見つけた捕食者のような光が宿っていた。


 時間が経つにつれて、一層の中での力関係は、よりはっきりとした形を取るようになっていった。


 暴力グループの支配する範囲は、中央の台座から少しずつ広がっていく。


 彼らからパンの欠片と水を分けてもらう代わりに、雑用や見張りを引き受ける男たち。


 彼らに気に入られようと、他人を売るような言葉を進んで吐く者もいた。


 彼らは自分だけが生き延びる方法を必死で探していた。


 一方で、暴力に逆らった者がどうなるか、という見せしめも作られていく。


 食料の分配に異議を唱えた若い男が一人、強く押し倒され、複数人に押さえつけられた。


 彼の助けを求める声に、周囲は肩をこわばらせ、視線を床に落とす。


 男たちは平然と殴りつける。立ち上がろうとする意思は、簡単にへし折られた。


 暴力は、見慣れてしまえば日常になる。一層の空間には、すでにそれが定着し始めていた。


 夜、と呼ぶべき時間帯が来た。


 天井の光がわずかに弱まり、顔の輪郭が暗がりに溶けていく。


 それだけの変化なのに、人々の心は一段と冷え込んだ。暗闇は想像力を刺激し、恐怖を際限なく膨らませる。


 暴力グループの男たちは、パンと水を自分たちの寝床の近くに集め、輪になって座っていた。酒もないのに、下卑た笑い声と下品な会話だけが、彼らを酔わせているようだった。


 その少し離れた場所で、数人の女が壁際に押しやられていた。そのうち一人は、昼間から何度も涙をぬぐっていた女性だ。彼女は両手で服の前を押さえながら、声にならない震えを喉の奥で繰り返している。


 男の一人が顎でこちらへ来るように促す。女は首を振る。けれど、腕を掴まれた瞬間、抵抗はあっけなく奪われた。


 助けを求める視線が周囲を彷徨う。誰も目を合わせようとしない。止めに入ろうと立ち上がった中年男性が一人いたが、すぐに複数人に取り囲まれ、押し倒されて動かなくなった。


 比奈は少女を腕の中に抱きしめ、目元を手で覆った。自分には、何もできない。助けに行けば、少女まで巻き込まれる。正しさよりも、生存が優先される場所。


 少女は比奈の服を握りしめながら、腕の中で小さく震え続けていた。


 一層は、生者たちの墓場のようだった。


 誰も前へ進もうとしない。進んだ者の末路を見たくないから、進む者が少なくなる。


 その一方で、暴力に従えば、今日一日は食べて眠ることができる。それは、多くの者にとって、十分な理由だった。


 比奈は壁にもたれかかりながら、天井を見上げた。白い光は淡く揺らいでいるように見える。その向こう側には、あの銀髪の“神”がいるのだろうか。


(どうして、こんな場所に……。)


(妹を助けたくて……それだけだったのに。)


 ベッドの上で苦しんでいた妹の顔が浮かぶ。その手を握っていた自分の姿も。あの時、比奈は必死に祈っていたはずだ。奇跡でも何でもいいから、助けてほしいと。


 その願いの果てが、この地獄だ。


 遠くのほうで、誰かの足音が階段を上っていく。二人か三人か、それとも一人か。


 ここに留まることを選ばず、闇の中へ踏み出した誰かの存在。


 比奈は目を閉じて、少女の背中を撫でた。


「……大丈夫。きっと、いつか。」


 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。それでも言葉を口にしなければ、心が折れてしまいそうだった。


 彼女はまだ知らない。


 二層の闇の中で、一人の男が死ぬ痛みを受け入れながら、前へ進み続けていることを。


 そして、先ほど階段を上っていった大学生風の男が、別の方向から世界を歪めていくことを。


 一層の夜は、まだ始まったばかりだった。人間の弱さと醜さが、ここからさらに濃く溶け出していくことを、誰も止めることはできない。

お読みいただきありがとうございます。

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