一層の夜
やや修正致しました。
一層の時間は、現実の昼夜とは無関係に進んでいた。
天井の白い光は一定の明るさを保ったまま、和真が階段を上ってから、すでに何時間も経っているはずだった。それでも、この箱庭の空気は重さを増し続け、人々の顔からはじわじわと生気が剥がれ落ちていく。
中央の台座では、五人の男が完全に主導権を握っていた。
台座の上には透明な壺、その中の水。そして白くて味気なさそうなパンの山。男たちはそれを囲むように陣取り、あたかも自分たちの私物であるかのように腕を組む。近づこうとする者がいれば、視線だけで追い払った。
「欲しいなら、対価を払えよ」
リーダー格の大柄な男が、病院着姿の老人を見下ろす。首と腕には粗い刺青が走り、目つきは獲物を品定めする肉食獣そのものだった。
老人は震える膝を両手で押さえ、か細い声で搾り出す。
「少しだけでいいんだ…水を、ほんの少し……」
「だからよ。何ができるか聞いてんだ」
男はゆっくりとしゃがみ込み、老人と視線を合わせた。笑っているが、その目は笑っていない。
「先に進んで、餌を持って帰れるのか? あの階段の向こうでモンスター倒して、ここまで運んで来れるって言うなら——」
老人のこめかみに汗がにじむ。口を開きかけて、何も言えず、そのまま首を横に振った。
次の瞬間、男の手が老人の胸倉をつかむ。
「だったら、タダで水よこせって話じゃねぇよな?」
ドン、と鈍い音が響いた。老人の体が床を転がり、薄いマットに背中を打ちつける。
「うあっ……!」
辛うじて上体は起こせても、足が言うことをきかない。老人は床に手をつき、必死に擦り寄ろうとするが、男たちは鼻で笑いながらパンの山を背にした。
周囲で見ている者たちは誰も止めない。止められない。
視線をそらす者。
眉をひそめながら黙り込む者。
「関わりたくない」とでも言いたげに距離を取る者。
暴力は、一度目より二度目のほうが見やすくなる。三度、四度と繰り返されるうちに、それは「ここでは当たり前のこと」へと形を変えていく。
やがて老人は、台座から少し離れたマットの上に押しやられた。水もパンも手に入らないまま、浅い呼吸を繰り返している。
◆
その様子を、ドームの隅からじっと見ている女がいた。
黒川比奈——看護師。
肩のあたりで切り揃えられた黒髪のショートカット。中性的な印象を与える輪郭と、柔らかな黒目の瞳。整った顔立ちだ。シンプルなブラウスにパンツという出で立ち。まだ二十代前半ほどに見えるが、どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。
片腕には、小さな少女がしがみついていた。
少女の頬は涙で濡れ、肩は小刻みに震えている。幼い顔立ちからすると、小学校に上がるかどうかの年齢だろう。名前も事情も知らない。ただ、家族と離ればなれにされ、この地獄に放り込まれた、という点だけは自分と同じだ。
「……見ないほうがいいよ」
比奈はそう囁き、少女の頭を自分の胸元に押し当てた。もう片方の手で、ゆっくりと背中を撫でる。
いつも病棟でしていた動きが、ほとんど反射で出る。震える肩に合わせて呼吸を整え、声のトーンを低く、一定に保つ。
「大丈夫。今日はここで一緒にいよう」
自分で言いながら、「何が大丈夫なのか」分からなかった。それでも、何も言わないよりはましだと思った。
「……お腹、すいた」
少女が掠れた声で呟く。
比奈も同じだった。胃がきゅっと縮むような空腹感がある。けれど、中央の台座を見るだけで、喉の奥が冷たくなる。
「あそこには、今は近づかないほうがいい」
パンと水の山の周りには、刺青の男たちが陣取っている。彼らの視線の先に“女”の姿があるたび、空気が露骨に粘つくのが分かる。
(最低。……でも、こうなるよね)
病院で何度も見てきた。
余裕がなくなった人間は、平気で誰かから奪う。家族のために、恋人のために、あるいは自分だけのために。綺麗事を剥いでしまえば、人間は皆そんなものだ。
ただ——分かっていても、慣れることはない。
比奈は少女を抱き寄せたまま、台座から視線を逸らす。
そのとき、背後から乾いた笑い声が響いた。
「よぉ、ここにいたのか」
振り向くと、パンを独占しているグループの一人が立っていた。さっき老人を突き飛ばしたリーダーではないが、同じ種類の目をしている。獲物を値踏みする目。
男は片手に水の入ったコップを持ち、喉を鳴らして飲み干した。それから、比奈と少女を見下ろす。
「そんな端っこで縮こまってないでさ。こっち来いよ。飯ぐらい分けてやる」
一瞬、比奈の心臓が跳ねた。
喉が鳴りそうになる。唾を飲み込む音を聞かれないよう、意識して呼吸を整える。
「……ありがとうございます。でも、ここで大丈夫です」
できるだけ丁寧に、距離を保つ言い方を選ぶ。
男は肩をすくめ、愉快そうに笑った。
男の視線が、ゆっくりと比奈の顔から胸元、腰のラインへと滑っていく。少女の存在には、最初から興味を示していない。
「そっか。だったらさ——」
男は、わざとらしく声を落とした。
「大人同士で、色々と“助け合い”ってのもありだろ?」
最後の一言に、周囲の何人かがわずかにざわつく。だが誰も口を挟まない。
比奈は奥歯を噛みしめ、視線を床へ落とした。
少女の肩が、自分の腕の中で強くこわばる。
「……お気持ちだけで十分です。私、ここで妹と一緒にいますから」
嘘だった。
本当は血のつながりなんてない。でも、「妹」という単語を口にした瞬間、比奈の中で少女との距離が一段近づいた気がした。
男は露骨に不機嫌そうな顔をする。
「あとで泣いて頼んでも、知らねぇからな」
吐き捨てるようにそう言うと、空になったコップを指で弄びながら男は背を向けた。その背中からは、怒りとも興奮ともつかない熱が立ちのぼっているように見える。
比奈はしばらく動けなかった。
足元が、じわじわと冷えていく。
太ももが震え、膝が力を失いかける。
震えだしたのが自分か、少女か分からない。
それでも腕だけは力を込め、少女を抱き寄せる。
「……ごめんね。怖かったよね」
少女は何も言わない。
ただ、さらに強く比奈の服を掴んだ。
その少し離れた場所では、別の種類の人間が動いていた。
大学生のようなラフな格好。パーカーにジーンズ。髪は無造作に伸び、黒縁の眼鏡の奥の瞳は、妙に澄んでいる。
彼は食料にも興味を示さず、周囲の人間模様を観察するように、静かな目で一層を見渡していた。
そのすべてを、どこか別世界の出来事のように眺めている。一瞬、彼の口元にごく薄い微笑が浮かんだ。それは共感でも同情でもない、温度のない笑みだった。
「ここにいても、退屈なだけだな。」
誰に聞かせるでもなく、男はそう呟き、迷いのない足取りで階段を上り始める。
周囲は彼にほとんど注意を払わない。ただ一人、暴力グループのリーダー格の男が、少しだけ興味深そうに彼の背中を目で追った。
大学生風の男は、そのまま一度も振り返らず、二層へと消えていった。
彼が後に、ある男の前に立ちはだかることになるとは、このとき誰も知らない。
黒川比奈は、そんな一層全体の動きを、隅から黙って見つめていた。
時間が経つにつれて、一層の中での力関係ははっきりしていった。
中央の台座を中心に、暴力グループが縄張りを広げる。
その外側に、彼らからパンと水を分け与えられることで、かろうじて立場を保つ者たち。
さらに外側に、何も持たずにただ縮こまる者たち。
比奈と少女も、その「外側」の一角にいた。
少しずつ、天井の光が弱まっていく。
昼夜の概念などないはずなのに、人々はその変化を「夜」と呼ぶようになった。
暗闇は、人の心を簡単に折る。
光が弱まるにつれ、台座の周辺では笑い声が増えた。パンと水を自分たちの寝床近くに移し、酒を飲むような調子でそれを口にする男たち。
一方で、壁際には女たちが押しやられている。
そのうちの一人は、昼間から何度も涙を拭っていた女だった。暴力グループの男の一人が、その腕を乱暴に引き寄せる。
抵抗する声と、笑い声と、見ないふりをする沈黙が、同じ空間の中で混ざり合う。
「……っ」
比奈は少女の耳を塞いだ。
指先が震えている。
自分だって怖い。吐き気がする。叫びたい。
本当なら、あの女のもとへ走っていって、「やめてください」と叫びたい。
けれど——。
(ここで私が行っても、あの人も、私も、この子も、誰も助からない)
頭ではそう理解している。
看護師として、何度も「無力」を思い知らされてきた。
それでも、自分が今この瞬間に何もしていないという事実が、胸をずたずたに引き裂く。
「……大丈夫」
もはや癖のように、その言葉が口から漏れた。
何が大丈夫なのか分からない。
けれど、言葉にしなければ気持ちが折れてしまいそうだった。
少女は目をぎゅっと閉じ、比奈の胸に顔を押し付ける。小さな体温が、比奈の心を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
ふと、比奈は天井を見上げる。
透明なドームの向こう側で、誰かがこの光景を見下ろしている気がした。銀髪の男。金色の瞳。自分たちの恐怖と醜さを、ただ眺めて笑っている「神」。
(……見てなよ。あんたがどんな顔して笑ってるのか、最後まで見届けてやる)
心の中でだけ、小さく毒づく。
同じ頃——。
二層の闇の中では、一人の男が、死ぬ痛みをその身に刻みつけながら前へ進んでいた。
そして、先ほど階段を上っていった大学生風の男が、別の形でこの世界を歪めていく。
一層の夜は、まだ始まったばかりだった。
人間の弱さと醜さが、ここからさらに濃く溶け出していくことを、誰も止めることはできない。
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