芯を通し、死線へ踏み出す
蛇の死骸は、もう何一つ残らない。
迷宮に溶けて、影だけになって消えていく。
その余韻が消えた暗闇の中を、俺は三層の通路に沿って歩き続けていた。
(……たぶん、もう四層の階段は近い)
何度も行き来したわけじゃない。けれど、壁の質感や空気の流れ――あのゴブリンに腕を喰われる前に、確かに通った“匂い”が、皮膚の裏側でうっすらと記憶を叩く。
足は進んでいる。
レベルも、数字だけ見れば四層で死ぬ前と同じ五まで戻した。
それでも。
(……まだ、足りない)
さっき蛇を殴り倒した拳を、そっと握りしめてみる。
硬質化を通したときの感覚は、確かに前より滑らかだ。肩から肘、手首、指先まで、一本の線が通っている。
だが、あのゴブリンの群れに囲まれた瞬間の”どうしようもなさ”を思い出すと、それだけじゃ不安だった。
囲まれ、押さえつけられ、腕を固定されたあとで噛み千切られた、あの感覚。
骨の中に、まだ歯型が残っている気がする。
(力そのものを増やすより――“使い方”を、もっと詰めないと)
硬質化で“どこ”を“どれくらい”固めるか。
ただ拳を硬くするだけじゃ、四層では足りない。前の階層で、薄々気づいていたことを、ようやく真正面から考える気になった。
「……体幹、か」
小さく呟いて足を止める。
通路は緩やかに曲がり、すぐ先の様子は見えない。蛇の気配も、今はない。
いい。
ここで少し試す。
息を整え、意識を“中心”に落とし込む。
みぞおちの奥、背骨の真ん中、骨盤のあたり。
その周りをぐるりと囲むように、硬質化のイメージを薄く……本当に薄く、張り巡らせた。
表面から見れば何も変わらない。皮膚の色も、質感もそのままだ。
けれど、腹を軽く引き締めただけで、内側に一本、細い金属棒が通ったみたいに軸が立ち上がる。
「……おお?」
思わず、身体を左右にひねってみる。
腰から肩にかけてを捻ったときの、あの不快な「ブレ」が、ほとんど出ない。骨盤の上に積んだ上半身が、一本の柱みたいにぐるりと回る。
試しに、そのまま二、三歩歩いてみた。
足を出す。体重を移す。止まる。
動きが、やけに素直に通る。
いつもなら、足を前に出した瞬間に軸がわずかに揺れて、その揺れを足首や膝で誤魔化していた。
今は、胸の中心に打ち込んだ杭が、そのまま床まで垂直に降りているみたいだ。
(これが……体幹に薄くかけた状態、か)
頭の奥の圧は、ほとんどない。
硬質化を拳や足に集中したときのような、こめかみを締め付ける痛みは来ない。ただ、“ここから先は濃くするな”とでも言うように、遠くで小さく鈍い鈴が鳴っている程度だ。
「じゃあ、濃くすると……」
自分に呟き、あえて一度、負荷を上げてみることにした。
体幹にまとわせた硬質化の”濃度”を、ほんの少しずつ、上げていく。
腹筋。背筋。肋骨の間。腰の筋肉。
一本だった金属棒を、二本、三本と束ねるイメージ。
密度が増す。
中身が詰まる。
足元から、床がにじむように感触を押し返してくる。
(いける、まだいけ――)
そこで、カン、と頭蓋の内側で何かが鳴った。
「っ……!」
視界の端が、じわりと黒く滲む。
脳の表面を、熱した鉄板で撫でられたみたいな、焦げるような痛み。鼻の奥がツンとし、喉の奥から吐き気がこみ上げる。
慌てて硬質化を薄く戻した。
圧がすっと退く。
膝が一瞬笑いかけたので、壁に手をついてやり過ごす。
「……はい、アウト」
誰もいない通路に、情けない声が落ちた。
今ので、ようやく境界線が分かった。
体幹全部を“厚く”固めるのは、今の俺の頭ではまだ無理だ。
スキルそのものは反応してくれる。
身体も、もっと固くできる。
けれど、脳が先に悲鳴を上げる。
その先へ無理やり踏み込めば、おそらく戦う前に意識を飛ばすことになる。
(じゃあ――“薄く常時”まで)
さっきの手前。
鈴が鳴らないギリギリのところで、体幹だけに薄く硬質化をかけ直す。
腹と背中をゆるく締めたまま、再び歩き出した。
歩くだけなら、ほとんど疲れない。
むしろ、ここまでくるあいだに溜まっていた微妙な”バランスの悪さ”が、少しずつ削られていく気がした。
右足を出したときに上半身が勝手に左へ流れる、あのいやな癖が、ほとんど出ない。
軸が立っている。
“真ん中”に、細い芯が通っている。
その状態を維持したまま、次の段階に進むことにした。
「……流す」
今までは、肩から肘、肘から手首、といった具合に“部品同士を繋げる”イメージで硬質化を使っていた。
でも、それだけじゃ足りない。
全身を一気に固めるのはまだ無理だとしても――“順番に” “流れるように”起動できれば、負荷を割り振れるんじゃないか。
右足の裏に、意識を落とす。
床を掴んでいる指。
土踏まず。
かかと。
そこから、硬質化の線を薄く立ち上げる。
足首。
ふくらはぎ。
膝。
太もも。
腰。
背中。
肩。
肘。
前腕。
手首。
拳。
一気にやるんじゃない。
コンマ数秒ずつ、段差を登るように、硬質化を“連動”させていく。
足で地面を踏んだ瞬間、その圧を膝から腰へ渡し、そこから背中を通って肩へ、肩から肘へ、肘から手首へ、最後に拳へ。
まるで、床を蹴った力を波に乗せて腕まで運ぶみたいに。
通路の真ん中で、空を殴ってみる。
抜き手の形に指を揃え、手刀を前に滑らせる。
――スッ。
空を切る音が、いつもより軽く、鋭く響いた。
自分の体重が、いつも以上に“素直に”手先に乗っている。
「……悪くない」
問題は、実戦で使えるかどうかだ。
そう思った矢先、通路の先で、ざらりと鱗が石を擦る音がした。
蛇だ。
体幹には薄く硬質化を維持したまま、壁際に身を寄せる。
(試すには、ちょうどいい)
息を吸う。
右足の裏に、薄く硬質化を載せる。
踏み込む瞬間――足首、膝、腰、背中、肩、肘、手首、拳。
波を走らせる。
床を蹴る衝撃が、膝の中で一度溜まり、それが腰を回転させ、背骨を通って肩を押し出し、肘を伸ばして手首を弾き、最後に抜き手の指先に集中した。
「ッ!」
蛇の頭が跳ねる。
黄ばんだ牙が空を切った瞬間、その顎の横を抜き手が走り、首筋の柔らかい部分に深く潜り込んだ。
硬質化を薄く乗せた指先が、鱗の隙間をえぐる。ごり、と骨に触れる感触があった。
蛇の体が痙攣し、そのまま床に叩きつけられる。
拳がぶれずに衝撃の伝達を意識する。
体軸が、全く流れない。
蛇の胴体が二、三度床を叩き、やがて迷宮に溶けて消えた。
「……よし」
硬質化を解き、体幹の薄い膜だけ残す。
波を”順番に”動かしたぶん、一カ所に負荷が集中しなかったのだろう。
(常時体幹+流動起動のセット……これは、使える)
「……筋肉だけじゃなくて、腱も試すか」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
硬質化は皮膚や筋肉だけじゃない。
もっと奥、骨と筋肉を繋いでいる腱や、神経そのものにもかけられる――そんな感覚が、四層で暴れたときからうっすらあった。
ただ、それをやるには怖さもあった。
試しに、右足首の内側だけに、狭く硬質化をかけてみる。
骨と骨を繋ぐ腱。
そこに一本、細い針金を通すイメージ。
足首をひねるように動かしてみると、関節の可動範囲の「端」が、やけにくっきりと分かった。
これ以上曲げたら壊れる、というラインが、線を引かれたみたいに明確だ。
同時に、そこで止めたときの安定感も増す。
(……踏ん張りやすい)
だが、同時に、いやな感触もあった。
神経の上を直接指でなぞったときみたいな、ビリビリとした痺れが、足首から脛にかけてじわじわ広がっていく。
意識がそこに引っ張られる。
さっきまで「流れ」で動かせていたはずの波が、そこで引っかかって止まりかけた。
「……これは、今じゃないな」
すぐに硬質化を解除する。
痺れは数秒で引いたが、その間に頭の奥の圧がじわりと強くなっていた。
筋肉や骨よりも、神経周りにかけるほうが、どうやら負荷が重いらしい。
今の俺が弄るには、まだ早い。
(皮膚と筋肉、関節と骨。そのあたりまでにしておく)
欲張りたい気持ちを押し込める。
焦ってスキルの可能性を広げようとして、また四層での二の舞になったら笑えない。
そんなふうに自分を諫めていると――通路の先、暗闇から、別の気配がまとまって近づいてくるのが分かった。
蛇が二体。いや、三体か。
「……ちょうどいい」
岩陰に身を滑り込ませ、足音と鱗の擦れる音の位置を測る。
右側の壁際から一体、正面やや左から一体、その後ろにもう一体。
ばらけてはいるが、動きかたは単純だ。
体幹の硬質化を、ほんの少しだけ濃くする。
右足に波を溜める。
一体目が視界に飛び込んでくる。
迷わず踏み込む。
足裏から腰、背中、肩、肘、拳へ。
蛇の頭が弾ける。
そのまま足を滑らせるように位置をずらし、二体目の突進を体幹の軸だけで受け流す。
腰がブレない。
踏ん張りが効く。
右足で床を蹴り、今度は抜き手を首に叩き込む。手刀に載せた硬質化が、鱗の下の肉を裂き、骨をへし折る。
三体目。
最初の二体の死角を抜けて突っ込んでくる。
床に滑った血と粘液で足元が少し滑ったが、体幹の軸が勝手に姿勢を戻してくれる。
“真ん中”が崩れない。
だから、足だけで微調整ができる。
今度は、腰から肩へ”逆向き”に波を流す。
上半身をひねりながら、背中から肩甲骨、肩、肘、手首までを一瞬だけ濃く硬質化する。
裏拳の要領で顎を打ち上げる。
蛇の頭部がありえない角度に折れ、そのまま床に叩きつけられた。
三体分の巨体が、ほとんど反撃らしい反撃をする間もなく崩れ落ち、やがて迷宮に吸い込まれて消えていく。
「……はあ」
硬質化を解き、体幹の薄い膜だけを残す。
肩で息をしながら、通路の壁に背中を預けた。
“狙ったとおり”に身体が動いてくれる。
踏み込みたいところで足が出て、殴りたい位置に拳が届く。
頭の中で組んだ動きと、実際の軌道のズレが、前よりずっと小さい。
……それが、どれだけの価値を持つかは、四層に行けば嫌でも思い知らされるだろう。
再び歩き出す。
体幹には薄い硬質化を張りっぱなし。
どれくらいそうして歩いただろう。
時間の感覚は、とっくに曖昧だ。
蛇の気配は、さっきよりだいぶ薄くなっている。
代わりに――空気の匂いが変わった。
湿り気はそのまま。
だが、鼻の奥をくすぐる”草”の匂いが、ほんのわずかに混じる。
四層の、あの苔とシダの匂い。
「……来たか」
通路の先が、わずかに開けているのが見えた。
そこには、黒いひび割れのように、上へと続く石段が口を開けている。
第三層から第四層へ続く、あの階段だ。
前にここへ来たときは、レベル5まで上げた勢いのまま突っ込んでいった。
硬質化の使い方も、まだ荒かった。
結果どうなったかは、腕と脚と肺がよく知っている。
今、その階段を見下ろす足元の感覚は、あのときと違う。
体幹の“芯”が、ぶれずにそこにある。
薄く張った硬質化が、骨と筋肉をまとめて一本の棒にしてくれている。
足裏で床を押せば、その力が腰から背中へと素直に伝わる。
息を吸う。
吐く。
(……それでも、まだ足りない)
硬質化の精度は上がった。
動きも、前とは比べものにならない。
それでも、四層で味わった“死にかけ”の感覚は、簡単には消えてくれない。
あの、皮膚の下に冷水を流し込まれたみたいな、どうしようもない気配。
殺される、と分かった瞬間の、理屈抜きの悪寒。
あれを、もう一度味わうのはごめんだ。
だが――完全に避けることもできない。
なら、せめて。
俺は、腰のマジックバックに手を伸ばした。
指先が、硬いものに触れる。
掌に収まる、小さな球形の感触。
これまで温存してきた、ひとつのスキルオーブ。
幾度かの探索で手に入れてからずっと、使わずにいた切り札だ。
取り出すと、淡い光が通路の闇をぼんやり照らした。牛乳を薄めたみたいな白さの中に、血管のような細い線がいくつも走っている。
指を添えると、嫌な冷たさが皮膚を這い上がってきた。
「……もったいぶってる場合じゃないか」
迷う時間はない。
妻と息子の顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。
事故の前日、何気ない夕飯の光景。
食卓越しの、どうでもいい会話。
あの日に戻るために、ここへ来た。
死に戻りの痛みを積み上げてでも、まだ進もうとしている。
俺は、スキルオーブを握りしめた。
指に力を込める。
球体の抵抗が、一瞬強くなる。
皮膚の内側から、ぞわりと何かが覗く。それを無理やり押し潰すみたいに、さらに力を込めた。
ぱきん、と音がして、掌の中でオーブが砕けた。光が、指の隙間から滲み出る。
次の瞬間、氷水のような感覚が骨の中へ流れ込んだ。
胸の奥、心臓の裏側あたりに、冷たい糸が一本通る。
視界の端で、何かがゆっくりとピントを合わせ直すような違和感。
世界の輪郭が、ほんのわずかに変わった気がした。
何のスキルか――その“名前”は、頭の内側に確かに浮かび上がった。
けれど、口には出さない。
まだ確かめていないものを、言葉にして固定したくなかった。
ただひとつ分かるのは。
四層の、あの瞬間――あれとよく似た、でも少しだけ違う冷たさが、今は常に胸の奥に座っているということだ。
それは、死の気配に触れるための感覚なのかもしれないし、単なる悪寒の延長かもしれない。
答えは、この先で嫌でも知ることになる。
拳を開く。
砕け散ったオーブの欠片は、もうどこにもない。光はすべて吸い込まれ、代わりに鈍い重さだけが身体に残っている。
四層の苔の匂いが、階段の上から薄く降りてきた。死の痛みも、死に戻りの記憶も、全部抱えたまま。
体幹に通した一本の芯と、胸の奥で冷たく光る新しい感覚を頼りに――
俺は第三層から第四層へ続く階段へ、ゆっくりと、しかし迷わず足を踏み出した。




