リハビリ③
三層の空気は、やっぱり重かった。
二層の階段を降り切った瞬間、肺の中身が一段階、粘度を増す。湿った石と土の匂い。その奥に、舌の上にまとわりつくような生臭さが混ざっていた。
蛇の匂いだ。
視界は二層と同じ“見える暗闇”に包まれている。灯りはないのに、数メートル先までだけ輪郭が浮かび上がる、あの不自然な明るさ。岩壁は黒ずみ、天井近くには、長い何かが這いずったような筋が細く刻まれている。
(……戻ってきたな)
一度目と同じ三層。
だけど、俺の中身は前と違う。
階段を降りているあいだ中、ふくらはぎの内側がじんじんと疼いていた。そこには今、傷ひとつない。けれど、矢が骨ごと貫いたときの痛みだけが、皮膚の裏側に貼りついている。
死ねば、肉体は戻る。
痛みは、戻ったままだ。
ひとつ息を吐き、湿った空気を追い出す。
足元の岩を確かめるように踏みしめながら、通路を進む。
蛇の姿を見る前に、音が先に来た。
石を擦るざらついた音。鱗が岩肌に触れる乾いた感触。天井のほうから、床の亀裂の隙間から、長いものがするりと動き出す。
硬質化を起動する。
肩から肘、前腕、手首、指先へと、じわじわと密度が流れる。二層で無理やりリハビリした分だけ、ゼロのときよりはマシだ。とはいえ、こめかみの内側はまだ重い。拳を握ると、頭蓋の内側で何かがきしむ。
(腕だけだ。足は必要なときだけ)
自分に制限をかける。
全身に硬質化を広げたくなる衝動を抑える。やろうと思えばできると分かっているぶん、余計に危ない。レベルを落とされた今の頭では、あの負荷は支えきれない。
最初の蛇は、見覚えのある場所から姿を現した。
横の岩壁に走った黒い裂け目。その暗がりから、ぬるりと舌が伸びる。続いて、ぴたりと貼りついたような鱗の模様。黄ばんだ白目に、黒い縦長の瞳。
「ッ――」
足が止まる。
視界が、一瞬だけ切り替わった。
そこにはないはずの傷が、幻視して爆ぜた。
硬質化が、右足からすうっと抜ける。
膝から下が、一瞬、空気に変わったみたいに頼りなくなる。踏み込もうとした足が滑り、その場で前のめりに倒れかけた。
(違う。ここじゃない)
奥歯を噛み締める。
蛇が牙を剥く。黄ばんだ牙に、透明な毒液が糸を引いた。
反射で、左足にだけ硬質化を叩きつける。
膝と足首に密度が走る。ギシ、と骨が鳴る。
硬くなった左足で床を蹴り、身体を横へひねった。蛇の突き出した頭が、さっきまで俺の腹があった空間を突き抜け、背後の岩に牙を打ち込む。
振り返りざまに右拳を叩き込む。
蛇の頭部に硬質化した拳がめり込み、鈍い感触とともに骨が砕ける。長い胴体が床で暴れ、岩を叩き、やがて力を失っていく。
そして――その身体は、音もなく崩れ始めた。
鱗が霧のようにほどけ、蛇の輪郭が迷宮に吸い込まれるように溶け、跡には何も残らない。
「……一体目」
湿った息を吐き、通路の奥を見る。
蛇の気配は、まだいくらでも残っている。
三層は広い。踏み込むほど、あちこちから鱗の音がする。
ひとつ、またひとつ。
蛇は、遠慮なしに現れた。
床の裂け目から、壁の穴から、天井から。身体をくねらせ、頭をもたげ、ただ噛みつくだけの単純な動き。
それだけで、十分に脅威だった。
ふくらはぎに舌が触れた瞬間、矢が貫いた感覚が弾ける。
腰に胴体が巻きついた瞬間、四層でゴブリンどもに押さえつけられたときの重みが、皮膚の裏側で蘇る。
そのたびに、一瞬、身体が固まる。
そこで、無理やり動かした。
それでも――その全部を抱えたまま、身体が“先に動ける”ようになっていった。
蛇の身体は、死ぬたび迷宮に吸い込まれて消える。残るのは、アイテムだけだ。
どれくらい時間が経ったのか、見当もつかない。この迷宮には朝も夜もない。空は見えない。あるのは、湿気と石と血のにおいだけだ。
それでも、体が変わってきているのは分かった。
蛇の舌がふくらはぎをかすめても、即座に膝が抜けるほどではなくなった。噛みつかれる手前で足が出る。硬質化を乗せた肩と肘が、狙った位置に近い場所へ拳を運べるようになった。
踏み込むたびに、三層の床のざらつきが、靴底越しにくっきりと伝わる。
レベルという数字を見なくても、二層のときより“芯”が戻ってきているのが、足腰の奥で分かる。
ある通路の角を曲がったとき――別の音が耳に入って来た。
何人かの叫び声。悲鳴。誰かが誰かに指示を飛ばす声。
遠くの広間だろう。複数人が大型の蛇を相手にしているのだと、鈍い反響だけで分かった。
(……他にも、ちゃんとやってる連中はいるか)
ちらりとそちらを見やりかけて――やめる。
顔までは見えない。見に行く必要もない。
今、俺が関わるべきなのは、一層で飢えかけている連中と、そこからこぼれ落ちた黒川たちだけだ。三層で組む相手を増やすつもりはない。
視線を戻し、逆方向の通路を選ぶ。
その先で、別の“人間”にぶつかった。
蛇の這う音と、違う足音。
靴底で石をなぞる音が少なく、代わりに布の擦れる微かな気配が、じわりと近づいてくる。曲がり角の影から、そっと覗く。
一人の青年がいた。
大学生くらいだろう。整った顔立ち。無造作に伸ばした黒髪。細身のパーカーにジーンズ。
彼の目だけが、異様だった。
湿った井戸の底の水面みたいな黒。
何かを見ているのに、その何かを“生き物”と認識している気配が薄い。標本か、モニターの数字でも眺めているような、温度のない瞳だった。
青年の前に、蛇が一匹いる。
いや、すでに”いた”のほうが正しい。
蛇が岩の隙間から姿を現すよりも前に、青年は半歩ほど位置をずらしていた。まるで、蛇がどの角度から頭を出すかを“知っていた”みたいに。
蛇が鎌首をもたげる。
青年は、もうそこにいない。
蛇の視線から消えるように、死角へ滑り込んでいる。手には細身の刃物。ドロップ武器だろう。光を反射して、刃だけが闇の中で細く輝いた。
蛇が噛みつきに来る直前、首の付け根に一閃。
まだ胴体が暴れているあいだに、もう一度、同じ場所をなぞるように刃を滑らせる。蛇の動きがそこで鈍り、床に倒れ込む。青年は、最後の痙攣が収まるのを、特に警戒しているふうでもなく眺めていた。
やがて、蛇の身体は迷宮に溶けていく。
濃い影になり、霧になり、跡形もなく消える。
残ったのは、小さな球体ひとつだった。
青年は淡く光るオーブを拾い上げ、特に確かめるでもなくポケットに滑り込ませる。
そこで、ふと顔を上げた。
目が、合う。
距離はある。普通なら、ここからではお互いの表情までは読めないはずだ。それでも、あの黒い瞳は、まっすぐにこの影へ突き刺さってきた。
興味。好奇心。あるいは、もっと違う何か。言葉にはならない濁った視線が、皮膚の表面を、ねっとりと撫でてくる。
「…………」
喉の奥が勝手に鳴った。
青年の口元が、ほんのわずかに動く。
笑ったのか、ただ息を吐いただけなのか、はっきりとは分からない。その曖昧さが、逆に冷たかった。
(……やばいな)
初めて見た相手だ。名前も知らない。何のスキルを持っているのかも分からない。
それでも、“あまり関わりたくない”という感情だけは、一瞬で固まった。
余計な想像が、ずるずると出てきそうになって、そこで切る。
(今追いかけて確かめる必要は、ない)
わざわざ視線を逸らさず、ゆっくりと影の奥へ下がる。青年は動かない。ただ、じっとこちらを見ている。角をひとつ曲がると、気配がふっと薄くなった。
気のせいなのか、本当にあいつが興味を失ったのか、判断はつかない。
とにかく――関わらない。
四層のゴブリンと、いずれは正面からもう一度やり合わなければならない。それだけでも、頭はいっぱいだ。
他人の狂気まで抱えている余裕はない。
再び蛇の多い方向を選び、ひたすら狩り続けた。
足元で迷宮に溶けていく蛇の数が、いつの間にか分からなくなる。
落ちたエナジードリンクのボトルは、マジックバックの中でカチャカチャとぶつかり合い、以前拾ったオーブは、奥のほうでかすかに脈打っている。
硬質化のキレは、二層のときより戻っていた。
肩と肘に密度を載せる。膝にも、一瞬だけなら足せる。三点を同時に固め、踏み込み、打ち込み、すぐに解く。
頭の奥はきしむが、さっきみたいに視界が真っ暗になることはない。
踏み込んだ足は、ちゃんと床を捉えている。
拳は、狙った位置に近い場所へ届いている。
(……たぶん、もう数字も戻っている)
そう思ったところで、ようやくステータスを開く気になった。
「ステータス」
視界の前に、薄青い板が浮かぶ。
――――――――――
【レベル】5
【スキル】硬質化
【状態】中度疲労
【装備】
・マジックバック
・ゴブリンの腕輪
――――――――――
「……やっとか」
数字だけ見れば、四層で死ぬ前と同じだ。
でも、内側は違う。
足に力を込めると、三層の床を踏みしめる感覚が、前より濃く伝わってくる。膝を曲げたとき、筋肉の芯に一本、しっかりした筋が通っているのが分かる。
肩を回し、右腕に硬質化を通してみる。
こめかみの圧は重い。けれど、“これ以上やると意識が飛ぶ”と分かるラインと、“まだいける”の境目が、前よりはっきり見えるようになっていた。
レベル5の身体を取り戻した。
それと同時に――レベル0からここまで戻すあいだに重ねた“死の痛み”と“動けなかった瞬間”の記憶も、がっつり上乗せされている。
死ねばやり直せる、なんて嘘だ。死ねば弱くなった身体で、同じ地獄をもう一回やらされる。
その地獄を、そのまま抱えて、数字だけが元に戻った。
遠くで、誰かの笑い声がかすかに響いた。
別の方向では、金属と肉がぶつかる乾いた音が続いている。さっきの青年か、それとも別の誰かか。
三層の空気は、相変わらず重く、生臭い。
それでも、足は前に出た。
弱体化した身体。
変わらない死の痛み。
それでも進まなきゃいけない理由を抱えたまま、俺は三層の闇の中で、次の階段――四層を探しに歩き出した。
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