リハビリ②
(……砕くか)
喉の奥までせり上がってきたその言葉を、俺はぎりぎりで飲み込んだ。
今の俺はレベル0――いや、スライムを何体か倒した分、1には上がっているかもしれない。どちらにしても、四層のゴブリンの群れにもう一度挑むには、あまりにも足りない。
なら、新しいスキルを手に入れるのは理屈として正しい。
死んでもスキルは残る。硬質化がそうだったように、一度身につけてしまえば、次に死んでもゼロにはならない。リスクを飲み込んで、ここで砕いてしまうべきなのかもしれない。
けれど――オーブから指先に伝わる熱は、期待だけじゃなかった。
硬質化ひとつで、これだけ頭がきしむ。
全身に広げようとしただけで、さっきみたいに視界が暗くなる。そこへもう一本、新しい「負荷」を通す。
それは確かに強さになる。
だが同時に、「壊れる速さ」をも加速させる。
死んだときの痛みは、もう一回分積み重なっている。腕を喰われ、足を貫かれ、地面に打ち付けられたあの瞬間が、まだ悪夢のように鮮明だ。
ここでさらに頭を酷使して、もう一度死んだら――今度は、今より簡単に折れる。
そんな予感が、妙にクリアだった。
オーブを握る。内部の光が一瞬だけ強く脈打ったように錯覚する。握りしめた掌がじりじりと焼ける。
(焦るな)
心の中でだけ、短く言い聞かせた。
ただレベルを上げたいわけじゃない。
弱い身体のままでも、ちゃんと動かせるようにする。それが先だ。
レベル0の身体でスライムに殴りかかって、レベル1になった足で、もう一度この二層を歩く。それぐらいは、神の用意した「最適解」に飛びつく前に、自分の足で取り戻しておきたい。
指をほどき、オーブをマジックバックの奥に戻す。
熱が、惜しむように指先にまとわりついたが、それもすぐに冷えた。
代わりに、頭の奥の鈍い痛みが、じわじわと現実に引き戻してくる。
喉が渇いていることに気づき、エナジードリンクのボトルを一本取り出した。
キャップをひねって、口をつける。
甘さと苦味が混じった液体が、喉を焼きながら胃へ落ちる。舌が痺れる。胸の奥が熱くなり、その熱がさっきまで冷えきっていた内側を、少しだけ塗り替えた。
「……ケチって倒れたら、笑えないからな」
誰に向けたのか分からない独り言を、低く漏らす。
一層で黒川さんに言った言葉が、ブーメランみたいに自分の頭に刺さった。
もう一口だけ飲んで、ボトルを閉める。半分は残す。性格は、簡単には矯正できない。
腰を上げた。
足がだるい。肩の内側は、まだじんじんとした痛みを訴えている。それでも、さっきよりは、ましだ。
「……行くか」
再び通路を進む。
スライムは、遠慮なく湧いてきた。
天井から落ちてくるもの。側面の岩肌に張りついているもの。床の影に紛れて震えているもの。狙いは単純で、動きも鈍い。けれど、「触れられた瞬間のフラッシュバック」が、いちいち体を硬くする。
右肩に落ちたときは、腕を失った瞬間が蘇る。
脛にまとわりつかれたときは、矢がふくらはぎを貫いた瞬間の、骨に響く音がよみがえる。
背中に張りつかれたときは、何体ものゴブリンに押さえつけられた体重が、そのまま積み重なってくる。
そのたびに硬質化が一瞬緩み、足元が空を踏む。
そこで、無理やり動かす。
踏み込む方向を変え、腕を振る角度を変え、幻の歯型を「今は後だ」と押し退ける。
殴っている間だけは、思い出している余裕がない。
そうして殴り続けていると、いつの間にか、幻肢痛の立ち上がりが、ほんのわずかだけ遅くなっていた。
スライムが触れた瞬間に痛みが弾けるのではなく、「あ、触られた」「殴る」「砕く」「……痛い」の順番に変わっていく。
まるで、リハビリだ。
壊れた脚をもう一度動かすように。手術痕を伸ばしていくように。痛みを伴う動きを、少しずつ「できる動き」に変えていく。
硬質化も、同じだ。
肩と肘だけ、あるいは膝と足首だけ。二点までなら、頭の奥の圧に耐えられる。三点目を足した瞬間に、視界の端が暗くなる。
だから、今日は二点まで。
そう区切って動かすと、硬質化のキレが、少しずつ戻っていくのが分かった。
拳の重さ。踏み込みの深さ。打ち込んだ瞬間に、スライムのコアを一撃で捉えられる確率。
全部が、レベル0のときよりも、わずかに“マシ”になっていった。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。
時計もないし、二層の空はいつまで経っても同じ暗さだ。
ただ、肩で息をしながらふと立ち止まったとき、足元に散らばっているスライムの残骸の数に、今更ながら驚いた。
(……さすがに、結構やったな)
息を整えるついでに、視界の前に声を投げる。
「ステータス」
薄青い板が、目の前に浮かび上がった。
――――――――――
【レベル】2
【スキル】硬質化
【状態】中度疲労
【装備】
・マジックバック
(重量を無視してある程度の荷物を収納可能)
・ゴブリンの腕輪
(筋力値をわずかに上昇させる)
――――――――――
「……2」
思ったよりも、数字は進んでいた。
たったの2。四層で積み上げた5からすれば、まだ半分以下。紙切れみたいなもんだ。
それでも――足に力を込めてみると、その「2」が、確かに違いを生んでいるのが分かった。
階段を降りてきたときの、あのスカスカした感覚は、薄くなっている。膝が笑いそうになっても、踏みとどまれるだけの「厚み」が、筋肉の奥にまぶされていた。
拳を握ってみる。硬質化を肩から指先まで通しても、最初に比べれば頭の圧は少し軽い。さっき二点までと決めた負荷を、ぎりぎり三点までなら試せそうだ――そう思える程度には、戻ってきていた。
(死ななければ、ちゃんと強くはなる)
自分で呟いて、自分で苦笑した。
死ななければ。そこが、地獄の条件だ。
このレベル2の身体で、あのゴブリン集団に囲まれたら――想像するまでもない。レベル5だったときでさえ、腕を噛みちぎられたのだ。今の自分なら、本当に、一瞬で終わる。
だけど、だからといって、この場で足を止めたら、一層で震えている連中はどうなる。
黒川さんと、あの少女はどうなる。
一層の夜は、すでに悪化し始めている。配給を握っている連中と、そこからこぼれ落ちている連中の差は、これからどんどん広がっていくだろう。そこで、収納スキルを持った黒川さんが、何かを変えようとしている。
四層のゴブリンは、その全部をまとめて踏み潰しうる存在だ。
妻と息子がいる「あの日」に戻るためにも、一層を少しでもマシな場所にするためにも――ここで「もう嫌だ」と引き返すわけにはいかない。
薄青い板を消し、前を見る。
空気が、変わっていた。
湿った土の匂いの奥に、別の重さが混じり始めている。生臭さと、蛇の粘液の匂いが混ざり合った、あの圧。
視界の先に、闇の中にぽっかりと開いた黒い穴が見えた。
第三層へ続く階段。
一度目もここを通った。蛇を狩り、スキルオーブとマジックバックを手に入れ、欲をかいて四層に上がり、ゴブリンに喰い荒らされて死んだ。
今から向かうのは、そのルートの「二回目」だ。
階段の手前で足を止める。
膝の震えは、完全には止まっていない。胃の奥がきゅっと縮んでいる。第三層の蛇たちを思い出すだけで、ふくらはぎの内側に矢が刺さった感覚が蘇る。
それでも、さっき二層に足を踏み入れたときほどの絶望はなかった。
レベル0ではなく、レベル2の足でここに立っている。
弱体化した身体。変わらない死の痛み。その両方を抱えたまま、それでもなお進む理由を、俺は持っている。
マジックバックの肩紐を握り直し、その重さを確かめた。
エナジードリンクと、ゴブ飯のパウチ。そして、奥底で微かに熱を放ち続けているスキルオーブ。
死んでも失われなかったものが、そこには確かに詰まっている。
「……行くぞ」
今度は、誰にも聞かせるつもりのない声でそう言った。
階段の一段目に足をかける。
湿った空気が、じっとりと足首にまとわりついてきた。
二段目。三段目。
第三層の闇が、少しずつ近づいてくる。
レベル2の身体で始める、二回目の地獄の続きが――その先で、じっと待っていた。
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