リハビリ①
二層へ続く階段は、一層の端に、黒いひび割れみたいに口を開けていた。
前にも通った道だ。けれど、今そこを覗き込む足は、あの時よりもずっと軽く、頼りなかった。
手のひらの汗を指でこすり取り、息をひとつ吐く。
「……行くぞ」
誰も聞いていない声で、自分に命令する。
一段目を踏む。かすかに膝が笑う。二段目、三段目――上に昇るだけなのに、体中の筋がひとつひとつ軋んだ。体の芯のところだけごっそり削り取られたような、あのスカスカした感覚が、まだ抜けない。
階段の上から、冷えた空気が降りてくる。
二層だ。
足を踏み入れた瞬間、世界がすっと暗く沈んだ。
一層の白い光は途切れ、代わりに、闇の中でだけ輪郭が浮かぶ奇妙な景色が広がる。灯りはないのに、数メートル先までがぼんやりと見える。見えるくせに、すぐ先が途切れているような、不自然な暗闇。
褐色の岩肌が湿り、土と苔が腐ったような匂いが、肺の奥にまとわりついてきた。
(……戻ってきた)
何も変わっていないように見える二層の洞窟。
変わったのは、ここに立っている俺の方だ。
腕を噛み千切られ、脚を矢で裂かれ、地面を這いずったあの四層から、逆算するようにここまで巻き戻された。
レベル5だったはずの自分は、あのゴブリンのパーティーに一度きっちり殺し切られて、今は0。中身だけ空になった器、その残りカス。
「……はは」
笑ったつもりなのに、喉の奥から出たのは、乾いた音だった。
耳を澄ます。
ぬらぬらと何かが岩を這う音。ずるり、と粘液が動く気配。スライムだ。この階層の最初の相手。
(まずは……スライムからだ)
拳を握り、硬質化を起動する。
右肩から肘、前腕、手首、指先へと、じわじわと密度が増す。骨と筋肉が互いにかみ合い、一本の棒に組み直されていくあの感覚――のはずが、どこか、空回りしていた。
歯車が半分だけ噛み合って、空打ちしている感じ。拳を握った時点で、もう「前より弱い」と分かる。
頭の奥に、軽い圧がかかった。硬質化を起動するたびに来るいつもの負荷が、前よりほんの少し、重い。
「文句を言っても始まらない」
小さく吐き出すように呟き、通路の奥へ足を踏み出した。
昔と同じ二層。昔と同じスライム。だが、ここにいるのは昔と同じ俺じゃない。
そう自分に言い聞かせながら。
最初の一体は、あっさりとやってきた。
天井の暗がりから、影が落ちる。
ぬちゃり、と粘ついたものが右肩に叩きつけられた。
「っ!」
冷たいゼリーの重み。布の上から押しつけられる水袋の感触。その瞬間――右腕の内側が爆ぜた。
そこにはないはずの痛みが、いきなり甦る。
ぎざぎざの歯が皮膚を噛み破り、筋肉に食い込み、骨をこじ開ける感覚。骨の中で神経が火花を散らす。噛み千切られた腕が視界の端でぐるりと回転し、地面に肉の塊として転がる。
――あのときの腕だ。
(違う、今じゃない)
頭では分かっている。今肩に乗っているのはスライムだ。ゴブリンじゃない。ここは四層じゃない。
けれど、体は関係なく固まった。
硬質化が、肩からすうっと抜ける。さっきまで重かったはずの右腕が、一瞬でぐにゃりとした肉に戻りかける。
肩の内側を、歯が抉るイメージが食い破った。
「――っ……!」
声にならない息が喉から漏れる。その間にも、スライム本体の重さが、現実の方から肩にのしかかってくる。布越しにぬるぬるした冷たさが染み込み、皮膚が痺れるような違和感を訴えた。
ようやく足が動いたのは、肩が軋んだその瞬間だった。
軸足を後ろに引き、体を強引にひねる。肩の上からスライムが滑り落ちる感覚と同時に、右腕に再び硬質化を叩き込む。
肩、肘、前腕、手首――歯を食いしばって、無理やり密度を押し上げる。
「……っらぁ!」
振り下ろした拳が、灰色の塊を叩き潰した。
ぐにゅ、と嫌な感触が骨を伝う。中にあったコアが砕ける硬い手応え。その瞬間、スライムの身体がぐしゃりと崩れ、肩から冷たさが引いていった。
息が荒い。
心臓が胸の内側から暴れている。見下ろした右肩には、傷ひとつない。ただ、全身からの嫌な汗が止まらない。
(……今の、一撃で持っていかれてたな)
あのまま固まっていたら、スライムの重みだけで、きっと床に叩きつけられていた。全身を覆われ、窒息し、じわじわと溶かされる。一度目の二層では、そんな最悪の想像すらせずに殴り倒していた相手なのに。
死ねば一層に戻る。
だけど、死んだときの痛みだけは、こうして骨に貼りついたままだ。
そのルールが、ようやくちゃんと理解できた気がした。
肩で息をしながら、スライムが崩れた跡を見る。
そこには、青い金属光沢を持つ細身のナイフが一本、ぽつんと転がっていた。
「……お前は変わらないな」
拾い上げて、手の中で軽く振る。二層に来たとき、最初に手に入れた武器。何度も何度も握った重さ。鉄の冷たさだけが、前とまったく同じだ。
ナイフをマジックバックに放り込み、もう一度、通路の奥を見据える。
(まだ、最初の一体だ)
さっきの一撃で、右腕の内側がじんと痺れている。幻肢痛の残滓と、硬質化の負荷で、神経が二重に焼かれた感じだ。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
四層のゴブリンは、こんなものでは済まない。あいつらは「逃げられないように囲んで」「確実に千切り取る」ために動いてくる。
今の自分であそこにもう一度突っ込めば、間違いなく一瞬で終わる。
だからこそ――ここで、少しずつでも戻すしかない。
スライムの気配がまだ残っている方へ、足を踏み出した。
体が勝手に固まるのは、二体目も三体目も同じだった。
斜め後ろから跳びかかられたときは、背中の皮膚がぞわりと総毛立った。柔らかいゼリーが張りついたはずなのに、感覚だけは、粗い皮膚と爪、ガタガタの歯。背骨を踏まれ、腰を蹴られ、地面に押し倒されたあの瞬間が、フラッシュバックのように襲ってくる。
視界が一瞬、四層の暗がりに切り替わる。
ゴブリンの牙が、今度は左腕に食い込む。
そこにはないはずの裂傷が、ぱっくりと開いたような痛みを訴える。幻肢痛。腕の内側が、皮膚の下で一度ぐちゃぐちゃに壊され、それから適当にくっつけ直されたような妙な違和感で燃え上がる。
(今じゃない。ここじゃない)
奥歯を噛み締める。
硬質化を、肩だけじゃなく、足へも回した。左足首と膝に意識を通し、踏み込む瞬間にだけ密度を上げる。第三層で一度掴みかけた「腕と軸足を一つの線にする」イメージを、無理やり引っ張り出す。
ギシ、と骨が噛み合う重み。
踏み込んだ足が、さっきよりも地面を強く捉える。そこから腕に振り上がる力が、幻の歯型を押し流すように、スライムの中心を叩き潰した。
二体目。三体目。
倒すたびに吐き出す息が荒くなる。幻肢痛は、完全には消えない。肩や腕にスライムが触れた瞬間、食いちぎられた場所がまず先に叫ぶ。
けれど、その叫びを「後回しにする」ことは、少しずつできるようになっていった。
痛みをごまかしているわけじゃない。ただ、殴っている間だけは、そいつを黙らせる。
そうしないと、ここで死ぬからだ。
硬質化の負荷は、前より重かった。
肩、肘、膝、足首――四つの関節に同時に意識を走らせようとしただけで、こめかみの内側がギリギリと軋む。視界の周りがふっと暗くなり、足元が揺れた。
「……っ」
慌てて硬質化を切る。全身に回そうとしたのは、まだ早かった。第三層で試したときでさえ、意識が飛びかけたのだ。レベル0からの出直しで、同じ負荷に耐えられるはずがない。
頭の奥で、鈍い痛みが脈打ち続ける。
額に浮いた汗を適当に拭い、少し広い空間を見つけて腰を下ろした。
岩に背中を預ける。背骨が石の凹凸に押され、まだそこにあるはずのゴブリンの足跡が、皮膚の裏側からじわりと疼いた。
息を整えるために、マジックバックの口紐を解いた。
中身を手探りする。
硬質で、丸い。冷たさと、微かな熱を同時に持った、異物。
スキルオーブだ。
掌に載せる。光のない二層の闇でも、球体の内側で淡い光が渦を巻いているのが分かる。表面はガラスのように滑らかで、そのくせ、触れている指先にじんとした熱を押しつけてくる。
第三層で手に入れた、まだ砕いていないオーブ。
掌の上で、淡い光を宿した球体が、静かに脈打っていた。
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