二回目
両手を突いて、慎重に立ち上がる。
足に力を込めた瞬間、膝がわずかに笑った。さっきステータスを見たときに感じた違和感が、あらためて全身から主張してくる。
(やっぱり…弱くなっ…、戻っただけか)
筋肉そのものは、ちゃんとそこにある。見た目も、腕も脚も元どおりだ。だが、四層に上がる前に比べると、出せる力の“厚み”が一枚剥がれ落ちたような感覚があった。
握りこぶしを作ってみる。指は曲がる。硬質化も、意識を向ければおとなしく反応する。だが、前みたいに一気に“ギアが上がる”感じがない。アクセルを踏み込んでいるのに、エンジンの回転数だけが空回りしているような心もとなさだ。
「……はぁ」
短く息を吐く。呻きとも溜め息ともつかない空気が漏れた。
周囲を見回す。
パンと水の広場は、いつもどおりだった。床に座り込んでうずくまる者、虚ろな目でパンを囓る者、暴力グループの様子をうかがいながら隅で小さくなっている者。
その中に、見慣れた黒髪の背中を見つける。
黒川さんだ。その腕の中には、例の少女が抱きしめられている。
俺は、ふらつく足を誤魔化しながら、そちらへ向かって歩き出した。
近づくにつれ、黒川さんがこちらに気づいた。
細い肩がびくりと揺れ、顔を上げる。目が合った瞬間、彼女の表情が一瞬だけ固まった。
「……戻って、きたんですね」
声はかすれていたが、その中に安堵が混じっているのが分かった。
「ええ。ご心配をおかけしました」
自分でも驚くほど、口が勝手に“会社モード”の返事をした。だが、頬の筋肉がうまく動かない。顔の皮だけが引きつって、きっとひどくぎこちない表情になっている。
黒川さんは、それを見て、何かを飲み込んだように唇を噛んだ。
「からだ……大丈夫、なんですか?」
視線が俺の右腕から足元へ、そして胸元へと忙しなく移動する。そこには、傷は一つもない。
ないはずなのに、俺の脳内では、さっきまでゴブリンの歯が肉にめり込んでいた。
「ええ。……見た目は、なんとか」
言葉を選んだ結果がそれだった。
本当は“見た目だけは”だが、そこまで口に出すと、彼女がどう反応するか分からない。これ以上余計な心配を増やしたくなかった。
彼女の胸元で、抱きかかえられていた少女が俺をじっと見ていた。
大きな瞳。前に会ったときより、幾分か目の下のクマが薄くなったように見える。俺が渡したエナジードリンクのおかげかどうかは分からないが、少なくとも“死ぬ直前”の顔ではない。
その少女が、おそるおそる口を開いた。
「……その」
言い淀みながら、彼女は俺の顔を見上げる。
「その、いたく……なかったの?」
多くは口にしない。何のことを指しているのか、嫌でも思い出させる。
あの腕だ。噛まれ、砕かれ、喰われた右腕。
一瞬、喉に何かが張り付いて声が出なかった。脳裏に、白く弾けた視界と、骨が割れる音と、ゴブリンの息の匂いが一気に逆流してくる。
少女の瞳が、不安と好奇心と恐怖を全部まとめて映して揺れていた。
「――、痛くないよ」
なんとか声を絞り出した。
嘘だ。痛みそのものは消えているのに、痛みの記憶だけは、あの矢傷と一緒に全身に刻み込まれている。
けれど、目の前の子どもにまで、その重さを背負わせるつもりはなかった。
少女は、俺の答えを聞くと、ほっとしたように胸に手を当てた。それでもまだ不安そうに、ちらちらと盗み見ている。
黒川さんは、そんな少女の頭をひと撫でしてから、俺に向き直った。
「……本当に、ありがとうございます。あなたが戻ってこなかったら、私たち、ずっとここから動けないままだったかもしれません」
「まだ何もしてないですよ。ただ、行って負けて、戻ってきただけです」
自嘲気味にそう返すと、黒川さんは小さく首を振った。
「戻ってくるだけでも……すごいことです」
その目に、ほんの少しだけ尊敬の色が混じっているのが、逆に胸に刺さった。
(違う。俺は、ただ自分のために死んで、自分のために戻ってきただけだ)
妻と息子のため。一層の夜を終わらせるため。黒川さんたちを、せめてこの薄暗い広場から外へ出すため。
全部“誰かのため”のようでいて、その実、自分の罪悪感を少しでも薄めるための行動だ。
そんな自覚があるからこそ、“すごい”なんて言葉はくすぐったいを通り越して苦い。
「……そうだ」
話題を変えるように、俺は肩のマジックバックに手を伸ばした。
「前にお渡ししたエナジードリンク、もう飲み切ってますよね。補充しておきます」
「すみません、その……もったいない気がして、ちょっとずつ飲んでたんですが」
「もったいないのは、倒れることです。栄養はケチらないでください」
マジックバックの口を開け、内側に手を突っ込む。
ごそごそと探ると、冷たく固い感触のボトルが指先に当たった。二本、三本。今の自分なら、多少荷物を減らしても大丈夫だ。四層に行き直す前に二層・三層で鍛え直すつもりなら、なおさらここで渡しておいたほうがいい。
「これと……」
エナジードリンクを数本、少女の前にそっと置く。少女はおそるおそるそれを見つめ、黒川さんの顔を見上げた。
「大丈夫。前に少し飲ませてもらったでしょ?」
黒川さんがそう言って微笑むと、少女はほっとしたようにボトルを胸に抱きしめた。
俺は、続けてバックの奥から銀色のパウチを数個取り出す。
ゴブシチュー、ゴブカレー、ゴブンチーノ、ゴブラーメン。
ゴブ飯のラインナップだ。
「それと、こんなものも拾いました。保存がきく簡易食みたいです。一層じゃパンと水しかないですし、いざというときのために持っておいてください」
「……え?」
黒川さんが固まった。
視線が、パウチに印刷されたゴブリンの笑顔に吸い寄せられる。
「ごぶ……?」
少女が、ひくっと肩を震わせた。
「こ、これは……」
「カレーとシチューとラーメンと……あとなんか、よく分からないクリーム系です。味は保証しませんけど、カロリーはありそうです」
自分で言っていても、どんどん不安になってくるラインナップだ。
黒川さんは、パウチの一つを恐る恐るつまみ上げた。表の「ゴブカレー」の文字と、満面の笑みを浮かべるゴブリンの顔を交互に見比べ、顔の筋肉を引きつらせる。
「……これ、本当に、食べ物なんですか?」
「たぶん。少なくとも。おそらく。」
「…………」
返事がない。
少女は少女で、「やだ……」と小声で呟きながら、パウチに描かれたゴブリンの目を指で隠している。
……うん、分かる。俺だって、こいつを口に入れる瞬間は相当覚悟が要ると思う。
「べ、別に無理して食べろとは言いません。どうしようもなくなったときの、最後の保険です。ゴブの顔はほら、見ないように。最悪、中身だけ食べれば――」
「説明が余計に怖いです」
ぴしゃりと言われた。
ですよね。
自分でも「完全に壊れかけてるやつの勧め方」だと自覚して、思わず頭を掻く。
「す、すみません……」
「いえ……その、お気持ちはすごくありがたいんです。ただ、その……」
黒川さんは言葉を選びあぐねた末に、結局、苦笑いを浮かべることでごまかした。
「見慣れるのに、ちょっと時間がかかりそうですね」
「でしょうね」
俺もつられて苦笑する。
とはいえ、嫌悪と感謝は両立するらしく、彼女はゴブ飯パウチをそっと収納した。少女も、怖がりながらも最後には手を伸ばし、「非常用」と小さく呟きながら抱きしめる。
妙な連帯感が、そこに生まれていた。
「……で、あなたは、これからどうするんですか?」
ゴブ飯の処遇を一通り決めたあと、黒川さんがあらためて尋ねてきた。
その視線には、期待と不安が入り混じっている。
一層から出たい。でも、自分たちではどうにもできない。その現実を、自分で認めてしまっている目だ。
その視線を受け止めながら、俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
本当なら、「今すぐ四層に戻って、あのリーダー格をぶっ殺してきます」と言いたいところだ。
だが、さっき立ち上がったときに感じた、自分の体の“スカスカ加減”が脳裏によみがえる。
あのゴブリンたちは、レベル5まで積み上げた俺を、きっちり殺し切った。
今ここにいるのは、その数字だけゼロに巻き戻された、薄いコピーみたいな俺だ。
「……階層攻略を急ぐのは、やめておきます」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「まずは、また少しずつ狩ります。レベルを戻して、体の感覚も取り戻す予定です。」
それが遠回りなのか、最短なのかは分からない。だが少なくとも、今の状態で四層に突っ込むのは、ただの自殺だ。
黒川さんは、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。やがて、静かに頷く。
「……分かりました」
その目に浮かんでいた期待が、少しだけ安心の色に変わる。
彼女は少女を抱きしめ直した。
少女も、こくんと小さく頷く。
胸の奥がきゅっと締め付けられたのを感じた。
黒川さんたちから少し離れた、広場の隅。
誰も寄りつかない影の中で、俺はそっとマジックバックを膝の上に乗せた。
口を半分だけ開け、中を覗き込む。
減ったエナジードリンクの隙間に、銀色のパウチが数枚。そのさらに奥――暗がりの底で、小さな光が、ゆっくりと瞬いているように見えた。
第三層で拾った、あのスキルオーブだ。
手を伸ばせば、指先はきっと簡単に届く。掌に乗せれば、またあの、皮膚の内側をなぞるような熱が広がるだろう。
バックの口を、そっと閉じる。
死んでも失われなかった“何か”が、あの球の中に詰まっているのは分かっている。だが、それを引き出すのは、もう一度、今の自分で足を踏み出してからだ。
立ち上がる。
膝が、かすかにきしむ。
それでも―― 一歩目は、出せる。
「……行こう」
誰にともなく呟き、一層の出口へと視線を向ける。
あの先に、二層があり、三層があり、その先に――あのゴブリンたちが待つ第四層がある。
レベル0から始まる、二回目の道のりだ。
マジックバックの重さと、中に眠る小さな光の気配を確かめながら、俺はゆっくりと歩き出した。
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