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死に戻りの箱庭ダンジョンで、亡き家族を取り戻すため俺は何度でも死ぬ  作者: タイハクオウム


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2/17

始まりの檻

 神の指先がわずかに弧を描いた瞬間、俺の足元が抜け落ちた。地面が溶ける感触すらなく、ただ“次の映像に切り替わった”ように、視界が暗転し、再び光を得たときには、そこが一層だった。


 落下の感覚はない。けれど、急激な環境の変化に胃の奥がひっくり返り、思わず膝をつきそうになる。


 目の前に広がっていたのは、あまりに無機質で、あまりに人工的で、そしてあまりに“静謐すぎる”空間だった。


 ドーム状の天井は金属のようでもあり、石のようでもあり、しかしどちらにも分類できない無色透明の素材でできている。内部は淡い白光を発しており、影がほとんど生まれない。まるで巨大な手術室の内部に放り込まれたような……そんな寒々しさがあった。


 足元は均一な灰色の床で、砂一粒落ちていない。踏むたびにわずかに低い反響音が返ってくる。空調らしき風はないのに、肌寒い。ここだけ世界から切り離されたようだ。


 喉の奥が焼けるように痛む。視界に広がる無機質な灰色の床が、あの日のアスファルトと重なる。あの日、雨で濡れた交差点。俺の不注意で、二人を……。


 思い出した瞬間、胸がえぐられたように痛む。呼吸が乱れそうになり、顔を伏せかけたが、その瞬間、周囲からの喧騒が一気に押し寄せた。


 ――ざわっ……!

「どこだここ!?」「なんで身体が動く……痛くない……?」「うそ……腕が治ってる……?」


 男女入り乱れた声。怒号、混乱、泣き声。一層は静寂とは程遠く、まるで避難所に放り込まれた災害直後の群衆のようだった。


 考えてみれば当たり前だ。神が言った。召喚されたのは百人前後。異なる人種、年齢、境遇の者が、事情も理解できないままここに放り込まれた。混乱するなというほうが無理だ。


 俺は混乱に飲み込まれることはなかった。いや、違う。飲み込まれるほどの気力が残っていなかった。


 周囲をゆっくり見渡す。老人、子ども、筋骨隆々の男、顔色の悪い若い女、明らかに暴力の匂いを漂わせている男たち。中には、笑っている者すらいる。狂気を孕んだ笑みだ。


 全員の皮膚が健康的で、傷も病気も見当たらない。


 末期がん患者だと言っていた老人が、震える手で胸を押さえてうめいた。


「痛く……ない……息が……普通にできる……」


 別の女が泣きながら言う。


「私、歩けなかったのに、なんで……?」


 神が言っていた通り――身体は万全の状態に戻されている。皮肉だな。死なせたくなかった家族はもういないというのに、俺だけがこうして無傷で立っている。


 感情の波が胸の奥で暴れ、吐き気を催す。声にならない呻きが喉をこすり上げたとき、視界の中央に、異質な“それ”が目に入った。


 ―― 一層中央。

 丸い台座の上に、二つの物が置かれていた。


 ひとつは透明な壺に満たされた水。

 もうひとつは乾パンのような白いパンの山。


 それ以外には何もない。家具すらなく、寝床と呼べるのは床に直接置かれた薄いマットだけだ。これが――“生き延びるための最低限”ということか。


 食料は、ここに集められた百人前後が一晩を過ごすにはあまりに心許ない量だった。群衆の視線はすでにそのパンと水に釘づけになっている。だが誰もまだ手を伸ばさない。


 理由は簡単だ。状況が理解できず、ただ恐怖が勝っている。そのとき、俺の背後から突然、叫び声が上がった。


「おいッ! 階段があるぞ!」


 振り向くと、ドームの一部、壁に沿うようにして、くの字に折れ曲がった階段があった。階段はぐるりとドーム内部の壁に沿って上昇しており、どこかへ続いている。


 神が言った。“二層からモンスターが出る”と。


 つまりこの階段の先には、命を奪いに来る存在が待っているということだ。


 怖い?

 いや――怖くない。


 恐怖心が死んでしまった人間には、死の気配すら鈍く感じられる。俺の心は半壊した建物のように、もはや支柱が何本も折れている。壊れた心にモンスターがどう襲ってこようが、今さらだ。


 ……本当は怖い。


 でも、それ以上に、自分の中でずっと燃え続けている“ある熱”が、恐怖を押しつぶしていた。


 “交通事故前日に戻りたい。妻と息子が死なない未来を望む。”


 それだけだ。


 神の言葉。

 ——百層を踏破した暁には、望みを一つだけ叶える。


 あの瞬間、俺の身体の奥底で、今まで燻っていた灰が、ふっと火を上げたのだ。強引なまでの熱量が胸の奥を満たす。心の奥底に固まっていた粘つく絶望が、わずかに溶けていく。


 妻の笑顔。

 息子の柔らかな手と小さな笑い声。


 全部取り戻せるのなら、魂を削ってでも前に進む。地獄の底でも、怪物の腹の中でも、何度死の痛みを味わおうとも――構わない。


 気づけば俺は、無意識に階段へと足を向けていた。背後では、まだ喧騒が続いている。泣き叫ぶ者。怒鳴り散らす者。祈る者。狂喜に満ちた笑みを浮かべる男もいる。


 この百人の中から、どれだけ生き残れるのか。どれだけが十層に到達できるのか。どれだけが百層に辿りつけるのか。そのことを思うと、胸が微かに波打った。


 希望ではない。

 罪悪感か、焦燥か、あるいは――。


 階段の前で立ち止まり、俺はそっと天井を見上げる。見えないが、おそらく神がどこかで高みから俺たちを見下ろし、嘲笑っているのだろう。


「……見てろよ」


 呟きは空虚に吸い込まれ、反響も返ってこない。それでも構わない。神に聞こえなくても、俺自身に聞こえればいい。


 “あの日をやり直すために、俺はここを登る。”


 そう誓った瞬間、胸の奥に、はっきりとした痛みが走った。俺は逃げない。あの日から逃げ続けた自分自身を、ここで終わらせる。


 階段を一段、踏みしめた。

 硬い床がわずかに震え、反響が返ってくる。


 背後の喧騒から遠ざかるように、俺はもう一段、足をかけた。


 そのとき、ふと気づく。この階段を踏む音が、やけに大きく響く。まるで――この先に待つ世界が、俺の到来を“待っている”かのように。


 喉の奥で乾いた息を吐き、一歩、また一歩と階段を上がっていく。


 一層の無機質な光景が徐々に遠ざかり、喧騒が薄れていき、ただ俺の呼吸と足音だけがドーム内部に反射する。


 やがて階段の上部に黒い門のような影が見えてきた。二層へと続く入り口。そこには、未知の、“殺意を持つ存在”が待っている。


 恐怖が一瞬だけ脳裏をかすめる。生き物としての本能が、ここに来てようやく声を上げた。


 だが――遅い。


 俺はもう覚悟を決めている。階段の最上段に足をかけ、二層の入口の前に立つ。黒い闇が口を開け、俺を待ち構えていた。


「……行くか」


 その一言とともに、俺は闇の中へ、一歩踏み出した。こうして、俺の地獄の旅は“本格的に”始まった。

お読みいただきありがとうございます。

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