最初の死に戻り
実際、その“用意された場所”までは、思っていたよりずっと近かった。
第四層を慎重に進みながら、ときおり単独のゴブリンだけを狙って倒す。二体以上の気配が重なったときは、迷わず引き返す。そのルールを守りながら、少しずつ通路を塗りつぶしていった。
倒したゴブリンからは、粗末な腰巻きや腕輪がいくつか落ちた。中には、ステータス画面に「筋力値をわずかに上昇させる」と表示される装備も混じっている。
そして、レトルトパウチ。
『ゴブカレー 辛口』
『ゴブンチーノ きのこクリーム』
『ゴブラーメン とんこつ風(お湯不要!)』
銀色のパウチの隅には、どれも笑うゴブリンの顔が印刷されていた。拾い上げるたびに、胃の奥が微妙にきしむ。
(三層のエナドリのラベル、途中から文字が歪んで読めなかったのに……)
試しに裏面を眺めてみる。原材料表示らしき細かい文字列が、今度ははっきり読めた。
カロリー、塩分、よく分からない添加物の名前。おまけにキャッチコピーまで、やけに丁寧に書き込まれている。
「ここに来て急に読めるようにするなよ……」
三層では情報を曖昧にしたまま放り出しておきながら、四層に上がった途端、こうやって「ちゃんとした商品」として突きつけてくる。人間の腹の減り方と、心の揺れ方を、わざわざ細かく観察したいかのような仕様だ。
「……本当に、食わせる気あるのか、これ」
思わず小さく呟く。
それでも、捨てる気にはなれなかった。一層に持ち帰れば、それだけで立派な「富」になる。どれだけ不気味でも、実際に腹が満たされるなら、多くの人間は躊躇なく口にするだろう。
俺自身だって、いざとなれば躊躇している場合ではない。
そうやってドロップ品を回収しながら、どれくらい歩き続けただろうか。連戦の疲労が、じわじわと脚を重くしていく。
通路が少し広くなった場所――天井の裂け目から差し込む光が、他よりも強く落ちている一角を見つけた。岩場が馬蹄形に盛り上がり、その内側には苔とシダが密に生えている。隙間風が通り抜け、他よりわずかに空気も軽い。
「……ここで、一度休むか」
岩に背中を預けて腰を下ろす。マジックバックを脇に置き、中からエナジードリンクのボトルを一本取り出した。
キャップをひねる。甘ったるい匂いが、緑の匂いと混じり合う。喉を湿らせる程度に一口だけ飲み、残りはまたバックに戻した。
体の芯から、じわりと温かさが広がる。疲労が完全に消えるわけではないが、足の重さが一枚分だけ軽くなった気がした。
「ステータス」
視界の前に薄青い板が現れる。
――――――――――
【レベル】5
【スキル】硬質化
【状態】軽度疲労
【装備】
・マジックバック
(重量を無視してある程度の荷物を収納可能)
・ゴブリンの腕輪
(筋力値をわずかに上昇させる)
――――――――――
「……まだ、行ける」
数字を見て、自分に言い聞かせる。
死ななければ、ちゃんと強くなれる。第三層で何度も確認した当たり前の事実だ。それでも、この数字がゼロに戻される未来を思うと、胃の奥が冷える。
妻と息子。一層に残した黒川さんと、あの少女。その顔が頭をよぎったところで――
背中の岩肌越しに、かすかな振動を感じた。
(足音……?)
心臓がひとつ跳ねる。だが、方向が掴めない。前方の通路からは、何も聞こえない。耳を澄ませば澄ますほど、逆に音が遠のいていく気がした。
次の瞬間。
鈍い衝撃が、右ふくらはぎの裏から突き上げてきた。
「――っ!?」
叫びが喉の奥で引っかかる。
視線を落とすと、右足の脛に、太い棒のようなものが突き刺さっていた。いや――棒ではない。荒く削られた木の軸。その先端に、黒く汚れた鉄片が括り付けられている。
矢だ。
矢尻が、ふくらはぎの肉の中に深くめり込んでいる。足が一瞬で自分のものではなくなった。踏み込もうとしても、力が入らない。血が布越しにじわりと滲み、じくじくとした熱が遅れて襲ってきた。
遅れて、弦の震えるような音が耳に届く。
(後ろ――!?)
振り返ろうとした瞬間、岩場の上から、濁った笑い声が降ってきた。
見上げる。
緑灰色の影が、岩の上に数体並んでいた。さっき通り過ぎた一団か、別の群れか。
棍棒持ちが二体。石の刃物持ちが二体。そして、その後ろに――粗末な弓を構えたゴブリンがいた。さっき俺の足に矢を撃ち込んだのは、そいつだろう。
さらに通路の奥から、もう一体、全身に骨片や金属片をぶら下げた大柄なゴブリンがゆっくりと現れた。肩幅が広く、胸板は厚い。手には他の棍棒より一回り大きい、棘付きの棍棒を握っている。
リーダー格だ、と直感が告げた。
奴の黒い目が、じっと俺を見下ろす。口の端が、歪んだ笑みに吊り上がった。
「……クソ」
息を吐きながら、必死に立ち上がろうとする。だが、右足が言うことを聞かない。矢が刺さったまま体重をかけると、ふくらはぎの内側を何かがえぐるような痛みが走る。
硬質化を右足にかけようとして、失敗した。痛みで集中が途切れ、イメージがばらける。
その一瞬の隙を、ゴブリンたちは見逃さなかった。
弦が鳴く。
今度は、左太ももに鋭い衝撃が走った。肉を貫いて、骨に当たり、軌道を変えて止まる。膝から下が、一瞬でしびれたように重くなる。
「っ……!」
呻いた瞬間、俺の背後から回り込んできていた別の個体が、肩口めがけて矢を放った。
背中に、鋭い杭を打ち込まれたような衝撃。
右肩の後ろ側を、矢尻が突き抜ける。肺のすぐ横を何かがかすったような、妙な息苦しさが胸に広がる。
前にも後ろにも、矢。
両足は地面に縫い付けられ、右肩からは鋭い棒が突き出ている。硬質化を起動しようにも、意識が痛みにかき乱されて集中できない。
リーダー格のゴブリンが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
棍棒を肩に担ぎ、鼻先をひくひくと動かす。血の匂いを楽しんでいるかのようだった。
奴は俺の周囲を半歩ずつ回るように歩きながら、残りのゴブリンたちに濁った声で何かを命じる。棍棒持ちがじりじりと距離を詰め、俺の腕と肩に石刃の切っ先を押し当ててきた。
完全に、動きを封じられた。
地面に片膝をついた格好で、俺は身動きが取れなくなる。
「……は、ぁ……」
息が荒くなる。視界の端がじわじわと暗くなっていく。だが、まだ意識は飛ばない。むしろ、痛みが意識をここに縛り付けていた。
リーダー格は棍棒を肩から下ろすことなく、俺の右側へ回り込む。
黄土色の乱杭歯が、目の前でむき出しになった。唇の裏側には、肉片とも苔ともつかない何かが貼り付いている。吐き出される息は、血と腐臭の混じった、生ゴミのような匂いだった。
(……食う気か)
奴は、俺の硬質化していない左腕には目もくれず、右腕――利き腕のほうへ視線を落とした。
獲物の脚をもぎ取る前に味見をする獣のような目つきだ。
右手首を掴まれた瞬間、硬質化を起動した。
指先から手首、肘、肩へ。
一気にイメージを流し込む。皮膚の下で密度が跳ね上がり、筋肉が鉄板のように固まる。骨の一本一本が、金属の棒にすり替えられていくような感覚。
ゴブリンの指が、俺の腕をぎゅうと締め付ける。
筋肉質な手のひら。ごつごつとした節。握力は、人間の成人男どころではない。硬質化しているにもかかわらず、骨がきしむような圧が内側から伝わった。
「……っ」
リーダー格は、俺の反応を楽しむように、一度だけゆっくりと口角を上げた。
次の瞬間、その乱杭歯が俺の右前腕にかぶりついた。
ガリ、と鈍い音が響いた。
皮膚は破れない。血も出ない。だが、歯と歯の間に挟まれた骨と筋肉が、圧縮される。
万力で骨ごと締め上げられているような痛みだった。骨の髄がきしみ、関節が逆向きにねじられていく錯覚に、思わず背中が反り返る。
「っ、ぁ、ぁああ……!」
喉の奥から、勝手に叫びがこぼれた。
硬質化していなければ、今ので一瞬で腕が噛みちぎられていただろう。だが、硬質化しているからといって、痛みがないわけではない。むしろ、潰される圧が逃げ場を失って、全部内部に溜まっているような感覚だった。
ゴブリンは噛んだまま、首を左右にねじる。歯と骨が擦れ合い、金属を曇らせるような摩擦音が内側から響いた。
硬質化を維持するために、必死で意識を集中させる。
(まだだ……まだ、折れてない……!)
だが、スキルには限界がある。
硬質化を広い範囲に長く維持すればするほど、頭の奥がじわじわと熱を帯びてきた。視界の端が白くちらつく。耳鳴りが高くなり、周囲の濁った笑い声が遠くにぼやけていく。
そんな中で、ゴブリンがさらに噛み込もうと、顎に力を込めた。
硬質化の感覚が、一瞬だけ、ふっと薄くなる。
その瞬間――
腕の中で、何かがひび割れた。
亀裂に入り込んだ刃が、そこから奥へと割って入るような感覚。皮膚が裂け、肉がほんの少しだけ開いた。
そこから熱いものがにじみ出る。血だと理解する前に、脳が悲鳴を上げた。
「――っっっ!」
声にならない声が、喉を裂いて飛び出す。
腕の内側を、焼けた鉄串で貫かれているような痛み。痛みが腕から肩へ、背骨へと逆流する。全身の筋肉が勝手に強張り、残っていた矢傷の痛みが全部上乗せされてきた。
硬質化が、崩れる。
意識が、痛みに飲み込まれる。
ゴブリンの乱杭歯が、今度こそ肉に深く食い込んだ。
皮膚が破れ、筋肉が裂ける。骨に当たった歯が、そこからさらに押し込まれようとする。
俺の視界は、真っ白に弾けた。
世界が、痛みだけになった。
妻の顔も、息子の笑い声も、黒川さんの横顔も、全部が痛みの背後へ押しやられていく。残るのは、腕を食われる感覚だけ。
(いやだ――)
(まだ――)
何かを掴もうとする指先が、空を切る。矢で地面に縫い付けられた足は動かない。肩の矢が肺を圧迫し、呼吸さえうまくできない。
叫びは、自分の喉なのか分からないほど遠くで響いた。
視界の端で、ゴブリンの黄土色の歯と、緑灰色の歯茎だけが異様にくっきりしている。自分の腕から上がる血の匂いと、ゴブリンの息の匂いとが混ざり合う。
そのすべてが、一瞬にして――途切れた。
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