硬質化
一層で黒川さんと別れ、階段を上ってから、どれくらい時間が経っただろうか。
パンと水だけの広場の喧騒も、刺青の男たちの笑い声も、今はもう聞こえない。二層の湿った闇を抜け、スライムの気配をやり過ごしながら進み、俺は再び第三層へ戻ってきていた。
階段を登り切った先にある空気は、相変わらず重い。天井の低い洞窟。壁には薄い苔と色素の抜けた草が張り付いていて、どこかで水が落ちる音が響いている。二層の乾いた土とは違い、ここは生臭い湿度が肺の奥にまとわりついた。
「……戻ってきたな」
小さく呟き、呼吸を整える。
マジックバックの肩紐を掴んで位置を直すと、背中にかかる重さがわずかに変わる……はずなのに、実際の負荷はほとんど感じない。中にはエナジードリンクが何本も入っているはずだが、背負ってしまえばただの空袋と変わらない。
あのバックも、収納スキルも、一層の黒川さんの手の中のオーブも――全部、この階層で手に入れたものだ。
それを一度一層まで運んだうえで、俺はまたここに戻ってきた。今度は、完全に“自分のため”に。
「レベルを、もっと上げる」
そう決めて、蛇狩りを再開する。
第三層の通路を、蛇の気配を探りながら進む。地面をなぞるような、冷たい線が皮膚の内側を走った。あの独特の感覚は、一度覚えると取り違えようがない。
岩の陰から、黒緑色の長い影が姿を現した。
体長二メートルほどの蛇。鱗が湿った光を反射しながら、ゆっくりと首をもたげる。細い縦長の瞳が、まっすぐこちらを射抜いた。
「ちょうどいい」
俺は足を止め、右腕に意識を集中させた。
今までの硬質化は、拳だけ、あるいは腕全体をざっくりと固める形でしか使えていなかった。石で殴るのとそう変わらないやり方だ。
だが――蛇とやり合っているうちに、別のイメージが浮かんできた。
肩、肘、手首、指先。
筋肉と関節を一つの塊として固めるのではなく、「繋がった部品」として順に硬質化させていく。
その連結が滑らかになればなるほど、振り抜きの速度も、受け止めたときの強度も、もっと引き出せるはずだ。
「……やってみるか」
まずは右肩の関節を固める。骨と骨の噛み合わせが、金属の軸受けに置き換わるイメージ。次に、肘。前腕。手首。最後に指先。
それぞれの関節とその周囲の筋肉が、少しずつ密度を増しながら、一本のラインとして繋がっていく。
今度は足だ。
蛇に踏み込む軸足――左足の足首、膝、股関節。ここにも同じように硬質化をかける。上半身から下半身へ、一本の棒を通すようにイメージを流し込んでいく。
同時にやろうとすると、頭がきしむような負荷がかかった。意識が散り、硬質化が一瞬だけ肩から抜けかける。
「……まだ、全部一気には無理か」
蛇が地面を蹴り、矢のような速度で迫ってくる。俺は左足に意識を固定し、足首と膝だけを優先して固め直した。地面を踏み込む感覚が、一段重く、確かなものに変わる。
蛇の頭が目の前に迫った瞬間、左足で床を強く蹴った。硬質化した軸足が地面を押し、衝撃がそのまま腰から肩へ、肩から肘へ、肘から手首へと伝わっていく。一本の棒のように、力が指先まで抜けずに流れ込んだ。
右腕を振り抜く。硬質化した指先が、蛇の頭部側面を正確に捉えた。
鈍い感触とともに、鱗が割れ、その奥の肉をえぐる。蛇の体が大きくのけぞり、地面を滑っていく。
続けざまに、踏み込み直す。今度は肘の硬質化を一段強め、肘打ちの要領で首筋を叩き込んだ。
骨があるはずのない場所から、骨を砕いたような重い手応えが返ってきた。
蛇の体が痙攣し、その輪郭が溶けるように崩れて床へ染み込んでいく。
残されたのは、見慣れたエナジードリンクのボトルが一本。
「……今の、悪くないな」
拳を握ったまま、ゆっくりと硬質化を解く。
肩から順番に、関節の密度が戻っていく感覚がある。それにつれて、じわりと疲労が押し寄せてきた。
やはり、同時に複数の関節を固めると、頭への負担も大きい。だがその分、さっきまでとは比べものにならないほど、動きが速く、鋭くなっていた。
腕だけではなく、軸足側と連動させる。それが、このスキルの本当の使い方かもしれない。
「……全身で同じことができたら、どうなる」
肩から指先だけではなく、背骨、腰、膝、足首。すべてを一つの“装甲”として一瞬だけ同期させる。走る、飛ぶ、殴る、受ける――その全部を、今の数倍、数十倍の効率でこなせるようになるかもしれない。
さすがに、まだそこまではイメージしきれない。全身を同時に硬質化しようとした瞬間、意識が白く飛びかけた。視界の端が変に暗くなり、慌てて力を抜く。
「……今のは駄目だ。やるとしても、要所だけだな」
少なくとも現時点では、「必要な部分を繋ぐ」くらいが限界だ。
それでも、硬質化が単なる硬い殴り方ではなく、身体全体の連動をブーストするスキルだということは、はっきりしてきた。
「試す相手には困らないか」
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