白の奈落で
世界が終わる瞬間が、こんなにも静かなものだとは思わなかった。
中川和真の視界は、気づけば真っ白だった。
光が溢れているわけでもなく、ただ色という概念そのものが剥ぎ取られたような、無味無臭の空間。
耳鳴りのような沈黙――いや、沈黙すら“作られた演出”のように思える、異様な圧迫感。
体を動かしてみる。反応はある。息もできる。
けれど温度がない。冷たくも熱くもない。ただ、「白」で満たされている空間に、自分という存在だけがぽつりと浮いている。
そこに、光が一つ弾けた。
ひとり、またひとりと、白の床に人間が立っていく。
泣き出す者。
叫ぶ者。
呆然と立つ者。
怒鳴る者。
周囲を観察する者。
年齢も国籍も、服装すらバラバラだ。
病室のパジャマ姿の老人、スーツの会社員、制服姿の少女、髪を刈り上げた強面の男、包帯を巻いた若者、ギラついた目をした女。
中には、腕や首に不穏な刺青を入れた男もいて、乱暴な言葉を吐き散らしている。
その喧噪の中で、和真はただ静かに立っていた。
疲れていた。
いまさら驚く気力すら残っていなかった。
自分がどう見えるか理解している。
中肉中背、冴えない黒髪、伸びすぎた前髪。会社帰りのスーツはシワだらけで、眠気を隠しきれない目の下のクマ。どこにでもいる、平凡で影の薄いプログラマー。
だが、その胸の奥は、空っぽだった。
――妻と息子の死。
全身が沈むような、重い影をいつも抱えていた。
あの日、車のフロントガラス越しに見えた光景は、一生消えない。高速道路の横転。潰れた金属。嗚咽。血。
優しい笑顔の妻・絵里奈。
まだ2歳だった息子・陽斗。
あの二人がいない世界に、意味なんてあっただろうか。仕事も、生きる理由も、すべてが灰色になっていた。
そんな心は、今の混乱の中でもほとんど揺れない。
「……夢だろ、これ」
呟いても、誰も反応などしない。
そもそも返事が欲しかったわけでもない。
白の空間の奥で、突然――
パチンッ。
指を鳴らすような乾いた音が響いた。
その瞬間、世界の中心に“玉座”が現れた。
黒と金で装飾された、禍々しくもどこか作り物めいた椅子。そこに男がひとり腰掛けている。
長い銀髪。金色の瞳。
笑っているのに、どこか魂が抜け落ちたような表情。
「はじめまして、人間諸君。私は神だ」
声は澄んでいて、耳の奥に直接響くようだった。
「……神?」
誰かが呟く。
男は、気怠げに顎を持ち上げた。
「この世界の創造主であり、そしてお前たちの召喚者。
目的は――ただの娯楽だ」
騒ぎが爆発した。
「ふざけんな!」「帰せ!!」「どこだここ!!」
「子どももいるんだぞ!?どういうつもりだ!!」
怒号、悲鳴、泣き声。
人間がむき出しになる瞬間。
神はそれを楽しむように目を細めた。
「お前たちには、私の造った“箱庭ダンジョン”を踏破してもらう。
全100層。
クリアすれば――」
金色の瞳が周囲をゆっくり舐め回した。
「――望みを、ひとつだけ叶えてやろう。何でもだ」
一瞬、世界が静かになった。
「なんでも……?」
誰かの声が震える。
「そう。死者蘇生でも時間の巻き戻しでも、世界改変でも、永遠の命でも。
“成功した者”には、どんな願いでも与えよう」
その言葉を聞いた瞬間――
和真の胸に、久しく感じていなかった“熱”が灯った。
(……時間の、巻き戻し)
脳裏に、絵里奈と陽斗の姿がくっきり蘇る。
柔らかな朝の光の中で笑っていた妻の横顔。
小さな手で頬を触ってきた息子の温もり。
もし――
もしあの日の前に戻れたら。
仕事を変えればよかった。
疲れているのに運転しなければよかった。
もっと家族と一緒に過ごせばよかった。
胸の奥がじりじりと灼けていく。
ずっと凍りついていた心が、ゆっくりと動き出す。
「ただし」
神は、愉快そうに微笑んだ。
「お前たちは、途中で何度死んでも構わない。
一層に五体満足で蘇らせてやる。
……死の痛みと記憶は残すがね」
ざわり、と空気が震えた。
「あ、あんた……!」
「ふざけるな……ッ!」
「死ぬ痛みを記憶って……!」
「安心しろ」
神は楽しげに手をひらひらさせる。
「死ぬたびに成長する者もいる。レベル、スキル。全部揃っているぞ。
ただしレベルは死ぬとリセットされるがな。まぁ、スキルだけは残す。」
地獄のようなルール。
人々は混乱し絶望し怒り狂う。
しかし和真は――
ただ静かに神を見つめていた。
心は震えているのに、身体は驚くほど落ち着いていた。
(……行く。
俺は……二人に会いたい)
たったそれだけが、唯一の理由。
それだけで十分だった。
喉が勝手に鳴った。
そんな俺の胸の奥を見透かすように、神は笑う。
「絶望を抱えている者ほど、私の“娯楽”として面白い」
ぞっと、背骨を虫が這うような感覚が走ると同時に神が立ち上がる。
「それでは――ゲームを始めよう」
神は指を鳴らした。視界がぐにゃりと歪む。
床が裂けた。
真っ白だった空間が、嘘のように破れ、巨大な黒い穴が開く。吸い込まれるように、百人の身体が宙に浮き、奈落へと落ちていく。
「うわああああッ!」
「たすけて!!」
「やだ!やだぁぁぁ!!」
悲鳴が渦巻く中、和真は目を閉じた。
落下する冷たい風が髪を揺らし、胃が浮く。
だが、不思議と恐怖はなかった。
(――必ず、戻る。あの日の前に)
絵里奈の笑顔が浮かぶ。
陽斗の笑い声が響く。
黒の底へ落ちながら、悠斗は静かに誓った。
――たとえ何度死の痛みを味わおうと、必ず突破する。二人を救うために。
そして、白から黒へ。
世界が反転し、物語が始まった。
深い絶望と、かすかな希望を抱えたまま。
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