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掌編 恩師の告別式での最後の授業

作者: 平瀬川神木

AIに読んでもらい、挿絵を描いてもらった簡易オーディオブック版を初めて作ってみました。よろしければどうぞ。

https://youtu.be/FCbRxt-AYFM

 年末という舞台の幕はまだ上がりきらないが、既に楽屋には足音が聞こえてきている。十二月二十八日とは、そんな境目の上に、ふと立たされているような日でございます。


「昨日、恩師が亡くなった」

 そんな連絡が届いたのは、世間を見渡せば平日の顔つきもどこか緩んできている。そんな大晦日まで指折りで間に合う日の、夕飯が終わった時間の頃でございました。


 五十も過ぎれば、それなりに多くの人と関係を築くようになるものでございます。

 助けられたり、教えを受けたりで、自分のものの見方や心のありように影響を与えた人というのも、少なからずいるものでございましょう。

 性分や仕事柄も相まって、他人と深い関係を築くことにはあまり熱心でなかった彼ではありますが、それでも人生を振り返れば、精神の輪郭や内面の風合いに、何らかの変化を与えた存在は、両手で数えて事足りるくらいはおりましたそうでございまして。


 ただし、そのほとんどが異性であり、肉体を重ねた関係の女性たちであるというのも、また隠しようのないところでございます。

 そうした中で、彼に深く影響を与えた数少ない男性のひとり。それはまさに、へその数か、目玉の数かというくらいの稀有な存在でございましたが、中学時代の恩師は間違いなくそれでございました。

 彼が十二のころに出会い、生徒と教師という関係の期間中はもちろんのこと、それ以降も手紙を交わし、時折電話で語り、舞踊や絵画の催しに誘い合って出かけたものでございます。

 あるいは、恩師の家を訪ねて、食卓を囲んだ夜もございました。

 先生と生徒という関係を越え、細くもあたたかな糸が、長い歳月をつなげていたのでございます。


 歳も歳でございましたし、心のどこかではいつか来ることと覚悟していた節もございます。

 もう一度くらい、言葉を交わしたかったという思いは確かにありましたが、それが大きく彼の感情を揺さぶるというほどでもなく。

 彼は静かに、恩師ご夫妻のもとに連れて行ったことも数度ある妻とともに、告別式に参列する支度を始めた、そんな夜でございました。

 普段は滅多に着ることのない、三つ揃えの礼服を引っ張り出したところまでは良うございました。けれど、それが問題でございまして。

 数年前、土砂降りのコンビニエンスショップの前で保護し、今ではすっかり家族となった白い長毛の猫の影響により、その礼服は、もはや「黒」と呼ぶには幾分無理のある色合いへと変貌を遂げていたのでございます。

 彼と妻は礼服の黒を取り戻すべく、コロコロをコロコロし続けまして、念のため夕飯も終えた食堂で、黒を取り戻した三つ揃えの礼服を着てみて見せて、家族の爪痕によるほつれなどの問題を確認し合って準備を終わらせた夜でございました。

 

 翌日、当然のように彼の車の中にも家族の白が浸食してきておりましたし、すでに玄関で靴を履く段階で、彼の礼服にも幾ばくかの白の浸食は見て取れたのでございます。

 この後同乗して一緒に告別式に向かう彼の親友の為にも、コロコロを車に乗せて家を出たのでございます。


 当日セレモニーホールの駐車場に着いた彼は、コロコロを終わらせた親友と妻から受け取ったコロコロで、自分の前面をコロコロさせておりましたが、もうどうしようもない不安と恐怖が彼を襲っていたのでございます。

 彼はそれが自分の思い込みであることを祈りつつ、妻と親友に声をかけました。

「ねえ、僕のズボンはもしかして紺色?」

 二人の目は、彼の心配を縫いとめるミシンの針のように、上下を行き来いたしまして――

 やがて妻が彼に向かって、ゆっくりとこう申したのでございます。

「まあ、中は薄暗いから黒に見えるよ。家では黒に見えていたから」

 彼の頭の中は、恩師に対する感謝や畏敬がすっかり鳴りを潜め、自分のズボンが紺色であることに染まっていったようでございます。

「ああ、白い猫毛に夢中になって、ズボンが紺色だなんて考えもしなかった」

 墨汁を買ってくるなどと、よくわからないことを言い出している彼を諫め、三人はセレモニーホールの中へと消えていったのでございました。


 お線香をあげ、告別式までの少しの時間を過ごす待合室で頂いたお茶を飲んでいると、連絡をくれた彼の女幼馴染も到着し、四人で遺影を見ながら昔話を始めていたのでございます。

 特に彼はこの恩師に大変可愛がられておりましたし、理解もしてもらっていたわけではございますが、学生時代から直近まで首尾一貫ずっと言われ続けていた言葉がございました。

「お前は詰めが甘い。九割九分までは大変すばらしいが、そこで終わった気持ちになってしまうのは、これはどうにかしなければならない。九割九分で手を放してしまえば、一分もやっていない人間と同じとなってしまうことが大人になればよくあること。自分の詰めの甘さを常に意識しておくように」

 ここまでを聞いていた、恩師の教えを学生としては受けていない彼の妻は、彼の紺色のズボンを見ながら言ったそうでございます。

「あなたは今日ここに、詰めの甘さが直っていないことを指摘されに来たのかもしれないわね」


 彼の心には、妻の一言がふと落ちて、長く張り詰めていた曇天が裏返るような心地がしたのでございました。

 そして彼は、ズボンだけが紺色という、なんとも半端な姿のまま、しかしどこか堂々とした態度で、告別式のお焼香に向かったのでございます。

「先生。この期に及んでもまだ私に詰めの甘さを指摘する、死んでも教育者であるあなたに。心からの感謝と今後の詰めの甘さの修正を誓います」


 出棺までの短い時間、幼馴染と並んで待っていたのでございますが、プロのダンサーである彼女には、どうしたって気になることが有ったのでございます。

「ねえ、今日のお坊さん、木魚を裏打ちしていたよね?」

 リズム感がない彼ではありましたが、正直今日のお坊さんの読経は、やたらとノリが良いと感じていたのは確かだったそうでございまして。

「ああ、表拍子のポク、ポク、ポク、ポクではなく、裏拍子のンポク、ンポク、ンポク、ンポクだったということだね」

「心を落ち着かせるはずの読経で、裏打ちしてくるから心がザワついたよ」

 さすがプロの耳は明確に不安の理由を読み取ってくるもんだと、彼はひどく感心したそうでございます。


 お棺を霊柩車に乗せる際に、彼と親友は隣同士でお棺を持っていたのでございますが、彼はお棺を持ち上げながら親友に小声で伝えたそうでございます。

「幼馴染が木魚を裏打ちしてたって言っていたんだけれど、お坊さんはリズム感が無さ過ぎて半周回って裏打ちになったのか?リズム感が良くてわざと裏打ちしてたのか?どっちだろうね?」

 学生時代はなかなかの腕前のギタリストだったリズム感の良い親友は、お棺を持ったまま噴き出してしまったのでございます。


 彼ときたら大真面目な顔で、今度はお棺に向かって話しかけました。

「ねえ先生。木魚の裏打ちは先生の希望?」


 ここまではお棺を担いでいた全員に聞こえていたことでありますので、同じように感じていた何人かは笑いをかみ殺し、気が付いていない人や、高い社会性を持った人は彼をじろっとにらみつけたそうでございます。


 おそらくは、社会性もなく人の目も気にしない、恩師の棺桶を抱えながら睨みつけられるなど、そんな事は意にも介さない変わり者の彼だけに何かが聞こえたのは、ちょうどその時でございました。


 確かにあの聞きなれた声で。


「お前の詰めの甘さは褒められたものではないけれど、それも自分の魅力と感じとることを勧めるよ。41.195キロまでは誰よりも速いのだから、残りの1キロは誰かに任せればいい。独りで走る必要なんてないんだから。リズム感が悪い読経であっても、それが生み出す魅力は確かに存在しただろう?それはまさに世界に二つとない個性。どこかの誰かがそれらを悪として指差すことがあったとしても、それは笑って許してやりなさい。なぜなら彼、彼女らは間違えた教育によってそれを悪だと教えられたのか、それとも目が悪くて全体像が見えていないだけなのだから。お前が笑顔で教えてあげればいい。時間をかけてな」


 明日は大晦日な、そんなよく晴れた冬の日の出来事でございました。


 四人が一緒に帰る帰りの車中では、教育と近視眼、そしてそれぞれの個性について学活を開き、楽しくおしゃべりしながら家路についたそうでございます。


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