71.恋人を突き放す
「折原さーん、俺見ちゃいましたよー」
「鈴木君、まず挨拶しようよ。挨拶」
現在予備校生の鈴木君はほぼ毎日のようにシフトに入っていて、一番シフトが被るのだが、今日は来て早々好実に近づく。
遅ればせながら挨拶したはいいが、なぜかその顔はニッタニタしたまま。
ちょっと気持ち悪いので、「なあに? 何見たの?」とわざわざ気にしてあげた。
「決まってるじゃないですか。折原さんのデート現場ですよ。さっき、そこの広場にいたでしょ? 一緒にいたのって、ここにしょっちゅう来る…………ギャッ!」
「はいはい鈴木くーん、目の錯覚は大概にしようねー」
「わっ、わかりましたわかりました。だから足踏むのやめてっ」
「あっ、ごめんごめーん」と言いながら足をどけてあげるが……これって完全に後輩苛めだな。いや間違った。鈴木君は年下でもバイトの先輩だから、先輩苛め?
ヤバい、尚更タチ悪い。口封じで痛めつけるのはもうやめよう。
でも鈴木君って昨日は気が利いたのに、今日は全然だな。
バイト仲間が男性と一緒だったのを目撃したからって、本人にニタニタ報告なんて。そこはそっとしておくべきでしょ、もう……。
やはり彼には教育が必要だな。
「鈴木君、私だから許してあげるけど、彼女にそんなデリカシーないことしたら即フラれるからね?」
「なっ、俺は彼女を大事にしてるだけですよっ。確かに浪人中なのは情けないけど、彼女との将来のために毎日バイトして、今から金貯めてますし……」
「ハァ……あのね鈴木君、浪人中なのは情けなくないけど、彼女の気持ちになって考えられないのは駄目だよ。彼女は将来のためのお金が欲しいんじゃなくて、今この時をなるべく一緒に過ごしたいんじゃないの? 彼女のためにバイト漬けになるのは本末転倒だよ」
足踏んじゃった侘びとして、鈴木君の鈍感さをしっかり指摘してあげる。
鈴木君もようやく彼女の寂しい気持ちに気付けたのか、「あああ、俺は何てことをっ」と頭を抱え始めた。
コンビニで激しく大後悔するのはやめてくれ。近くのお客さんが驚いて振り向いちゃったよ。
口を開けば彼女自慢の鈴木君でさえ彼女の気持ちには疎いのだから、男はみんな鈍感なんだなと、好実は自分のことはしっかり棚に上げて呆れ果てた。店内には小宮山さんもいたというのに。
好実のバイト時間は十七時までと決まっているので、十七時を数分過ぎれば、「それじゃ、お先失礼しまーす」と残る二人に声を掛けた。
返事をもらってからバックヤードに入ると、ロッカーにたどり着く前に後ろから手を取られる。
わけがわからないままに、好実はいつの間にか事務室に入れられていた。
さっき小宮山さんも「お疲れ様」と言ってくれたのに、そのまま帰すつもりはなかったらしい。
でも昨日に続き今日も事務室に閉じ込められてしまえば、さすがにまずさを感じる。
ただいま店内に一人残る鈴木君に気付かれはしないだろうが、バイト先でこんな状況になること自体リスクがあるのだ。
二日連続でこんなことをした小宮山さんを、さすがに拒否しないと。それでなくても彼は店長という立場なのに、今日もまたそれすらも忘れている。
しかし、今日は好実が口を開く前に勢いよく抱きしめられてしまった。あっさり勢いに負けたうちに、今度はキスの嵐が降りかかる。まさに乱暴で無茶苦茶なキス。
彼とは海ですでに経験しているが、その時は情熱的なだけだったのに、今は荒々しいばかり。
男性の強引さには全く歯が立たず、しかも声も発せないばかりに、彼のなすがままになるしかない。
こうして抵抗を諦めた好実は壁にまで押しつけられ、荒々しいキスを散々受け止め始めた。
完全に理性を失った彼がようやくキスをやめるのも、優に五分以上かかったのだから、ようやく解放された好実が息を切らしながらグッタリするのも無理はなかった。
激しい上にしつこいキスなど、経験不足の好実じゃついていけない。
これからも帰り際に同じことをされるわけにはいかず、まだ彼の胸に身を任せながら口を開いた。
「ここで、こんなことやめて……」
「好実ちゃんのせいだよ。俺を裏切った」
悲痛な声が、すぐに好実の声を掻き消した。ようやくまともに目を合わせると、彼の表情は悲痛というよりも怒りにまみれていた。
本気で怒らせているとわかった好実がとっさに怯えてしまうほど、怒りに支配された男は怖ろしい。
怯えたせいで、彼が怒る理由すら問えない。
「今日の昼、彼とデートしたんだって?」
「……え?」
「有り得ないよね。何で? 俺というものがありながら、まだ彼に未練あるの?」
好実は怒りで取り乱す彼と向き合うことに精一杯で、思いつきもしない。
今日の昼休憩を鈴木君に目撃され、その鈴木君との会話を彼に聞かれていたことなど。
しかしそんな原因は思いつけなくても、彼が誤解して怒っていることはわかりすぎる。
目が血走るほど好実を追い詰めるばかりの彼は、誤解ゆえの嫉妬ですでにおかしくなっていた。
ついこの前まで、二人の時は良き兄の顔しか見せなかったというのに、ちゃんと付き合った途端、どうしてここまで豹変できるのか。
それとも、男は皆そういうものなのか。
彼の誤解だとちゃんと教えたって、好実は嘘つきとしか思われないんじゃないか。それほどまでに、今の彼はさっそく裏切った好実への怒りで我を失っていた。
それでもこの状態から抜け出すために、誤解は解かなければ。
何としてでも彼を正常に戻さなきゃという一心で、好実は震える唇を開く。
「……今日の昼は、佐紀さんと一緒にご飯を食べました」
「佐紀さん? 嘘だ」
「本当です。信じられないなら、佐紀さんに直接聞いてください。私はサンドイッチで、佐紀さんはガパオライスを食べました。佐紀さんにも、今日何を食べたか確認すればいいですよ」
好実にここまで言われれば、小宮山さんの怒りも後は冷めるしかなくなったのだろう。
やっと我を取り戻し始めれば、もちろんわざわざ佐紀さんに確認するわけない。
もともと小宮山さんは何事にも冷静に対処し、理解力も高い男性なのだから。
さっきのように、嫉妬で我を失くすまでにさえならなければ。
今回は好実が冷静に対処し、どうにか怒りを鎮められた小宮山さんは、まず「ごめん」と静かに謝った。
強く握りしめたままだった好実の腕もするりと離してくれる。
顔はまだ信じ難いかのような放心状態が続く。
きっと小宮山さん自身がまだ受け入れられないのかもしれない。さっき嫉妬に任せ怒り狂った自分は、もちろん普段の自分とは正反対なのだから。
今まで彼本人も知らなかった自分の新たな一面にぶち当たってしまったのかも。
「……俺はだめだ。自分が信じられない」
「……そんなこと言わないでください。店長なのに」
「俺はおかしいんだよ。もう、こんなにおかしい。俺だけは好実ちゃんを苦しませないはずなのに……」
さっきの自分が信じられないあまり、彼は震わせた手で頭を抱えまでして悲観し始めた。
今の彼は店長という立場を思い出させられたって立ち直れない。
間違いなく、さっき好実を苦しめたのは自分だから。彼にとってそれだけは有り得なかったことを、ただ嫉妬の怒りに任せて。
好実はようやく解放されたのに、今度は目の前でどん底状態にまで陥った彼を全く放っておけなくなった。
当然驚きと戸惑いもある。怒りで豹変したさっきの彼も勿論だが、今の絶望しているかのような彼も普段と別人すぎて。
小宮山さんほど常に良き店長で、そして良き兄のような存在でいてくれる人はいなかったのに。
そんな誰よりも尊敬できるような彼でさえ、恋一つでここまでボロボロに崩れ落ちてしまう。
いや、彼にとっては恋だけが唯一のネックなのだろうか。
しかもとんでもなく邪魔で、一度邪魔されれば自分自身を制御不能にさせられる。
だったら彼の人生において、恋はもっとも厄介。
実際に、さっき自分を制御できなくなった彼は、今そんな自分にとことん悲観してどん底の精神状態。
恋はあまりにも小宮山さんという一人の男性を振り回しすぎる。
「……そんなに悲しくなって、耐えられないなら、私との恋愛なんてやめた方がいいです」
彼がまず望み、好実自身も望んでしまった二人の交際を、二人揃ってこんな早くに無理がきてしまうとは。
しかも苦しむばかりで匙も投げられない彼の分も、好実がしっかり放棄するしかない。
いつまでも彼を苦しませておけず、好実から早々に別れの言葉を切り出すしかなくなった。
今は自分を支えるだけで精一杯の彼も、さすがに頭を上げた。再び好実を見た目は不憫なほど揺れている。
「違う……ただ、俺は……こんな自分が初めてで……」
「小宮山さんは、怖いんですよ。今こんなに怯えてます。今までの自分を変えようとする私が怖くて」
「違う、そうじゃ……」
「怖いなら、逃げなきゃだめです。まだ間に合います。私が離れればいいだけだから」
これから好実が離れるとわからされた彼はあっさり青ざめながら、「嫌だ、嫌だ」とまた我を失くして縋りついた。
そんな見苦しい自分を、彼自身が最も望めないというのに。
コンビニ一筋の人生だった彼はたとえ忙しさを伴っても、若くしてこのオフィスビル内にあるコンビニの店長になった。
そんな自分を、まず小宮山さん自身が誇りに思っているのだろうし、コンビニ一筋の人生をちゃんと愛している。
だからこそ、小宮山さんは恋を邪魔にし続けたのかもしれない。
コンビニ一筋の人生を愛する代わりに、愛する人は見つけなかった。もしくは愛せる人と出逢えなかった。
そしていざ好実と出逢い、とうとう恋を手にしてしまったら、代わりに今までの自分を失った。
一瞬で制御不能になるほど崩壊してしまった。
それでも今なら戻れると、好実が決めつけた。
実際、交際を始めたのも三日前だ。十分間に合う。手遅れにならない。
好実だって、自分をちゃんと愛せる小宮山さんに戻ってほしい。
「私、優柔不断な人は一番嫌いです。今の小宮山さんは見るに堪えません」
縋りつく彼に残酷な言葉でしっかり突き放した好実は、今の彼から本当に背を向けた。
さようならと、最後も残酷に残して。




