62.小宮山さんの存在
「いらっしゃいませ」
好実がレジにいる時に限って目の前に佇む彼は、高城君。かつての恋人。
といってもまだ一カ月前のことで、二週間足らずの交際だったけど。
好実は目の前に佇まれただけで彼だとすぐわかるからこそ、なるべく視界に入れない。もちろん目なんて合わせないまま接客する。
さっさと終わらせれば、わざとレジから離れた。
懲りない人だと今日も思う。一カ月前、好実を騙したことが発覚して、完全に背を向けられたというのに。
そもそも彼の方に100%非があったから破局したというのに、それからも変わらずこのコンビニを利用するなんて。しかも明らかに好実目当てで。
まるでアプローチされ始めた頃と同じことを、今の彼は毎日繰り返す。毎回なるべく視界にすら入れられないというのに。
好実は今日も接客以外は無視できたままに、彼を許せないままの自分を思い知る。
彼と一緒に好実を騙した兄は、あんなにあっさり許してしまったというのに、彼のことは一向に許せないまま。
義姉の翠さんとは大違い。兄に甘いのは一緒だけど、翠さんは夫にあんな手酷く裏切られたって喜んで許したのだから。
夫さえ取り戻せれば、それで万々歳。
一カ月前の好実は、恋人に対して当然そうはいかなかった。
恋人に騙されたことによって人生で初めてあんなに傷つき、それだけの分許せなかった。
こんなにも許せない自分が悲しくもなったほどに。
そして、一カ月経った今でも許せないまま。
それなのに、今日もほぼ無視してから彼が去った後、好実にはまた必要ない安堵が生まれてしまった。
今日も無事彼が去った安堵と共に生まれてしまう、この必要ない安堵。
その正体は、今日も彼がちゃんと出勤して、普通に生きているとわかったから。
そんな理由で安堵が生まれてしまうのは、好実が彼のことをすでによくわかっているから。
好実を手に入れるためだけに兄の弱みを握り、最悪は好実自身に三十万という価値を与えた最低極まりない男であっても、同時に彼はあまりにも人間くさいのだ。
陰で卑劣な真似して好実を手に入れたって、そもそも好実自身をあれだけ騙したって、手に入れられればただ大歓喜してしまう。そんな男だった。
だからこそ、逆に好実を失えば抜け殻になってしまいかねなかったが、幸い避けられたようだ。
騙した彼にこっちから背を向けてやったって、好実は抜け殻にさせたいわけじゃないのだ。
幸い彼は変わらず出勤して仕事をしているだけで、つい安堵してしまう。
やはり最上階にいるUNICUS社のヒットメーカーは、失恋ぐらいでビクともしないでほしい。
彼を一向に許せなくても、そんな気持ちぐらいは生まれてしまうのだ。
「あ、折原さーん」
「あ、佐紀さん」
「……ヤバ、箒持ってるじゃん。帰ろ」
今日はコンビニ外で好実を見つけた佐紀さんはすぐ背中を向けた。
好実はわざと捕まえてやる。
「やだっ、やだっ、箒怖いっ、トラウマッ」
「箒ぐらいで怖がってたんじゃ出世しませんよ」
「俺はもう最上階にいる男だよ? もう出世しなくていいの」
最上階最上階と、佐紀さんは何かとそれ自慢だな。箒が怖いビビりなくせに。
「そうさせたのは折原さんでしょ? 俺に何度も何度も箒でガシガシするから」
「最初の二、三回程度でしょ? 私はもう記憶にもないですよ」
「うわー、まさしくいじめっ子の発言。吉勝亭のトンカツ奢ってあげようと思ったけど、やーめた」
「へっ、吉勝亭のトンカツ? 行く行くっ」
実は佐紀さんにはこうして餌付けされ、すっかり友達状態。
高城君と親しい同僚であることも無視して、佐紀さんの奢りで時々夕食まで共にしている。
今日は二度目となる吉勝亭のトンカツ……ジュル。好実一人ではとても行けない価格設定なんだよね。吉勝亭は。
ありがたやー佐紀さん。好実は二十五歳にして良い友持ったよ。
「じゃあ、仕事終わったらラインするから」
「はーい」
しかし佐紀さんが離れる前に、たったいま出勤した様子の小宮山さんが近づいてしまった。
お陰で佐紀さんは一旦帰りそびれる。
「好実ちゃん、いくら友達でも、夜に彼と食事するのはどうかと思うよ」
「……え?」
「もう俺と付き合ってるのに」
佐紀さんがいる前での小宮山さんの暴露に、好実はさっと青ざめる。
そのまま佐紀さんに振り向けば、同じく青ざめていた。
「じょ、冗談です冗談。佐紀さん、うちの店長は冗談言っただけですから」
「……う、うん。わかった」
とりあえず佐紀さんを無理やり納得させた好実はそのまま去らせると、今度はコンビニ外で小宮山さんと向き合うことに。
「小宮山さん、どうして……」
「どうして? 当然のことを言ったまでだよ。彼氏として、夜に他の男と会ってもらいたくないから」
「……佐紀さんは本当に友達で、いつもくだらないことばかり喋るだけなんです」
「それだけでも俺は嫉妬するよ。それに、あの佐紀さんは高城さんの同僚だろ? それも大いに引っ掛かる」
確かに小宮山さんの主張はもっともで、好実はようやく黙るだけとなった。
しかし小宮山さんとは昨日交際を開始したものの、すぐに弟との一件で、好実には後悔が生まれてしまった。
さっきはつい佐紀さんの奢りに釣られてしまったが、今はそれどころじゃなかったと改めて痛感させられる。
まずは小宮山さんとの関係をどうするべきか、真剣に考えなきゃ。もし改めさせてもらうなら、早く告げなければいけないのだから。
昨夜は弟によって後悔し、やはり小宮山さんと交際はできないと判断したのに、今日になったら断りづらいままにこうして躊躇う。
今の好実は中途半端で優柔不断すぎた。
「……わかりました。じゃあ佐紀さんには断ります」
「うん、そうして」
小宮山さんはこんな時も感情任せじゃなく冷静なので、逆に有無を言わせなくさせられる。そこが小宮山さんは大人で、好実はまだ合わせることしかできない子供なのだろう。
弟の言うことに逆らえないのと一緒。好実は小宮山さんにも逆らえないとわかってしまった。
いや、しっかりわからされたというべきか。
「……あと小宮山さん、昨日のことですけど、改めて謝ります。うちの弟が……」
「それはもういいって言ったよね。おしまい」
最後はいつものように頭をポンとされる。そのまま「じゃあね」と行ってしまった。
コンビニ前で一人残された好実はようやく掃除を再開する。
昨夜の弟との一件は昨夜のうちにラインして、今朝改めて電話もしたのだが、その二回とも小宮山さんは素っ気なく終わらせてしまった。つまり謝罪は要らないと断られた。
小宮山さんにとってはしつこかったのだろう。その上、さっきまた謝罪を口にした好実からはさっさと逃げてしまった。
弟が小宮山さんの胸倉を掴み脅しただけじゃなく、車まで思いきり蹴ったのだ。そんな弟の暴力行動を、小宮山さんはもう忘れることにしたい。好実はそんなわけにいかないのに。
小宮山さんとの交際もそうだが、弟と小宮山さんの衝突問題も加わり、昨日から一気に好実の頭は小宮山さんの存在が抜けない状態になってしまった。




