59.その後の兄夫婦
「帰ったぞー」
「お帰りー」
「これでいいのか?」
「うん。ありがとう」
本当は語尾にハートマークを付けたいが、今夜は好実が来ているので我慢といったところかな。
買い物を頼んだ夫が帰っただけで、翠さんは嬉しさを隠しきれない。
最近の夫が優しくもなったので、尚更喜んでしまうのだろう。
そんな翠さんは世間の女性からすれば単純すぎて、とにかく夫に甘すぎる、ある意味愚かな奥さん。
ひと月前、夫の浮気を夫自ら告白されたというのに。
でも土下座で懺悔され、相手の女とは完全に終わったことを知った彼女は、泣いて責めるでも罵るでも背を向けるでもなく、ただ安堵し喜んでしまった。それが翠さんなのだ。
独身時代に何度も浮気を繰り返し、結婚後は我慢していただけでとうとうまた再発するような最低の下衆夫でも、そんな男に惚れてしまった翠さんはただ変わらないだけ。
今回のような聞くに堪えない裏切り方をされたって、夫さえ取り戻せればいい。
しかも相手の女を完全に絶って戻ってきたのだから、翠さんはかえって惚れ直しまでした様子。
相手の女が妊娠詐欺まで働いて、それを解決するため妹から金を借りたとまで聞かされたって、そんな情けないにも程がある夫に「よくやったね、頑張った」とさえ言ってあげたらしい。ヤバいね、翠さん……。
でも兄は妹の助言で、瀬川との和解金三十万は最初から妹に借りたことにして伝えたのだ。
まさか最初は浮気の目撃者から訳あって頂戴できたなど、好実もそこはさすがに割愛するべきと思ったのだが……兄がそこまで正直になったって、翠さんのことだから許すだけなんだろうな。
でも責任感が強くてしっかり者の彼女は、すぐに自分の独身時代の貯金を崩して、好実に感謝と共に返してくれたのだ。
これほどまで甘すぎる嫁を持つ兄は、どんだけ恵まれてると思ってるんだ?
今回こそは痛い思いもした分、さすがにとことん反省して妻に尽くす姿は改心したようにも見えるが、この兄のことだ。まったく油断できない。
ほとぼり冷めれば、また大好きな女の子にフラフラする日も当然来るんじゃないだろうか。
翠さんは甘やかすだけじゃなく、今度こそ首輪付けとくべきだな。
それか、今度浮気したら子供達を連れて出ていくと脅しておくべき。
……でも、しばらくは今のままでもいいのかな。無事夫を取り戻したばかりの翠さんは、幸せそうなだけだから。
そのうちまた浮気するかもなんて心配するのは、まだまだ先でもいい。
兄夫婦が揃うキッチンに目を向けながら、好実はそんなことを思うのだ。
「お前、今日も泊まるの?」
「うん」
「ふーん。おっ、陽芽ちゃん、上手にハイハイできてまちゅねー。おいでおいでー」
さすが天使の愛娘にはデレデレの兄は、さっさと妹から興味を失くした。
今回の浮気問題では大いに妹を巻き込み、散々な目に遭わせたというのに、妻に対してはしっかり反省しても、妹にはさっぱりその気なし。
くそー……やっぱり翠さんには三十万返して、兄の小遣いから毎月徴収しようかな。その方が浮気防止にもなるだろう。
「お前さ、まだコンビニのバイト辞めないの?」
「は? 約束通り半年続けるけど?」
本当はもう辞める気だったが小宮山さんに止められて、今日は隣の慎太君に謝るため実家に帰ったんだけどね。
「へえ、律義だな。でも気まずくない? 高城君と会っちゃうじゃん」
お前があのコンビニでバイトさせたんだろうがっ! しかも、気まずいのはお前が原因だろうがっ!
甥と姪が近くにいなかったら、一発ぶん殴りてぇ……!
「別に、もうどうでもいいよ」
「立ち直り早いな。さすが俺の妹。でも、それでいいと思うぞ。あんな高嶺の花、お前にはどうせ扱えないから。深入りする前に放棄して正解。やっぱお前には、小宮山先輩が合ってると思うぞ?」
好実は呆れすぎて、今回も右から左に聞き流す。
最近こんな都合の良すぎることを言ってくる兄は、それでも兄なりにせめて前向きにさせたいのかも。短い交際で終わったものの、兄のせいで一応妹は失恋したのだからね。
でも余計なお世話じゃ! どうせなら放っとけ! それと、いちいち小宮山さん勧めるなっ!
「小宮山さん? あの人、いい感じの男性よね。私もあの人なら大賛成」
ちょうど茶の間に戻った母が小宮山さんの名前だけ耳に入れたらしく、勝手に乗り気になり始めた。
息子夫婦の結婚式の際に一度会っただけでここまで好印象なのだから、確かに小宮山さんは男性として優良なのだろうな。
散々世話になっている好実だって、それはわかっている。精神的にもすっかり支えられているのだから。
小宮山さんか……とつい思い出しながら黙ってしまうと、母をうっかり期待させたらしい。
「忙しい店長さんだけど、好実がサポートしてあげればいいじゃない。夫婦でコンビニ経営」
「……は? ないないない! 小宮山さんも私も、全然そんな気ないから!」
「そんなこと言わないで。せっかく弟離れの機会なんだから」
やっぱり母の気懸りはそれか……。
結局母も小宮山さんをきっかけにして、娘と息子をようやく離したいわけね。来年一緒に暮らしてしまう前に。
二人が同居してしまったら、揃って婚期を逃してしまいそうだから。
「お母さん……孫はもう四人いるんだから、いいんじゃない? 私の結婚まで期待しないで……」
「何言ってんの。まだ二十五なのに。ねー? 陽芽ちゃん」
折原家のアイドルはやはり0歳姪だな。五歳甥がかまってちゃんになっちゃうのもわかる。
やはり好実は意識して甥三人を甘やかすか。
……あれ? そういえばずっと抱き潰したままだった五歳甥が、いつの間にか静かだな。
やっと気にした好実が視線を向けると、久しぶりに赤ちゃんみたいになってる。普段ツンツンな分、余計に可愛い。
夫の浮気がきっかけで子供を最優先すると決めた翠さんも、あっさりまた夫に夢中だからね……こればかりは難しい。
実家に戻れば一見平和なようでも、色々心配事が隠されているかも。
好実も親を心配させる一人だけど。
「ちょっと、今何の話してた? 小宮山のオヤジ?」
「おい塁生、小宮山先輩だってギリ二十代だぞ」
「うるさいな。自分だってオヤジじゃん」
たったいま帰宅した塁生はさっそく兄と口喧嘩。小宮山さんをけっこう敵対視しているから、名前が耳に入るだけで機嫌が悪くなるのだ。
母も兄も、こっそり姉に小宮山さんを勧めているのがバレているのかも。
「好実、惑わされないで。小宮山のオヤジは絶対だめだよ」
「そんなんじゃないって……」
小宮山さんじゃなくたって、どうせNGなくせに。
でも塁生に警戒心まで与える小宮山さんは、やはりそれだけ姉に最適な男性だと感じるのかな。
(小宮山さんか……)
今度は弟の帰宅により小宮山さんを思い出した好実は、どうしても明日の約束まで思い出してしまうのだった。




