53.真実
「折原さーん、どしたの?」
「……え?」
「ずっとヨーグルト持ってるけど」
デザートコーナーの補充作業中だった好実はいつの間にかぼんやりしたせいで、やはりいつの間にか来ていた佐紀さんによって我に返る。
しばし手に持っていたヨーグルトは戻さず、佐紀さんに渡した。
「今日のお勧めです」
「えー……さつまいもヨーグルト?」
「便秘にいいそうですよ」
「俺、便秘じゃないんだけど……まあいっか。伊藤さんにあげよ」
「……伊藤さんは女性ですか?」
「うん。三十代の先輩」
「佐紀さん、殴られますよ。それか今日から無視」
「え? 何で? 何で?」と纏わりついてくるデリカシーゼロの佐紀さんは、今度はお酒コーナーに移動した好実にまでしっかり付いてきた。
「俺、昼間からお酒は買わないよ?」
「私もお酒は勧めません……ねえ佐紀さん、一つ質問いいですか?」
好実からの質問は珍しいので、なになに?とワクワク顔までしてくれる。
佐紀さん、今日も午前中からコンビニ来るし絶対暇だよね。でも今日は質問があるからさっさと追い出さないよ。
「佐紀さんって、私の兄のこと知ってます?」
「え? 折原さんの?」
「はい。前に高城君が教えてくれましたよ。佐紀さんは私と兄が一緒に帰ってる所を見かけて、私の兄だってことも勝手に調べて、高城君に教えてあげたって」
好実にここまで説明されて、佐紀さんもようやく「ああっ、そうだったね!」と思い出してくれた。
「そうそう、俺が教えたの。ほら、あいつがまた落ち込むといけないから。折原さんが男と帰ってる! えーんって」
「そうですか……わざわざありがとうございます」
「え? 感謝してくれるの? 怒るんじゃなくて?」
「別に怒りませんよ。ふふふ」
今日の好実が笑顔も見せるほど寛容で、佐紀さんもただ安心したようだ。
「じゃあ俺、そろそろ帰るねー」
「あ、佐紀さん、申し訳ないですが、伝言お願いしていいですか? 高城君に」
「え?」
「今日のお昼はやっぱり会えないって。前の同僚とランチすることになったんです」
好実から伝言を頼まれた佐紀さんがさつまいもヨーグルトだけ買って去ると、好実は再びデザートコーナーに戻った。
その二時間後、好実が昼休憩を利用して会ったのは元同僚ではなく、今日は妹と休憩時間を合わせた兄だった。
※ ※ ※
「好実ちゃん」
今夜は高城君の家にお泊りする予定だった好実はバイト終了後、待ち合わせ場所とした駐車場ではなく、急遽オフィスビル近くの広場に呼び出した。
いつも昼に会うこの場所で彼と夜佇むのは、これで二回目。
一度目はこの場所で、まずは友達から始めたのだった。
急遽広場に呼び出された高城君は、昼は好実の都合で会えなかったせいか感無量といった表情。本当に大袈裟。
好実相手にはいつも人間くさくて、無邪気な子供のようにもなり、そして何よりナイーブさん。
好実も、そんな彼を好きになった。
そもそも高城君が初恋相手で、再会すれば、またあっさり惹かれてしまったのだ。
そして気が付いた。好実は彼だから好きになるのだと。
裏を返せば、好実は高城君と一度も出会わず知らないままだったら、いまだ恋を知らない人生だった。
そう確信できるほどに、高城君という存在は好実にとって強力で、特別なのだ。そして唯一無二。
十年前の初恋は後悔だけで終わらせてしまった好実が、再び唯一無二の彼と会うことが叶えば、今度こそ骨抜きになるのも当たり前だった。
好実はすっかり彼の虜。
すでに広場で待っていた好実を見つけただけで感無量となった高城君は、もっと傍へ行くため距離を縮めた。
「高城君」
それを止めたのは好実の呼びかけだった。
たったそれだけで、彼は本当に足を止めさせられたのだ。好実との距離を縮め損ねた。
二人はまだ一定の距離を保ったままに向かい合う。目だけはしっかり合わせながら。
「好実ちゃん」
「はい」
今度は好実が返事しただけで、高城君は静かに顔色を失くし始めた。
すでに外は暗いが、広場で佇んだ場所はちょうど明かりが灯っていたのでわかった。
でも明るくなくても、好実はどうせ気付いた。彼の顔色を失くさせたことなど。
たった今、自分がはっきりと線引きしたのだから。
もうすっかり尚君呼びが定着したのに高城君に戻し、敬語まで戻した。
それだけで、こんなにもショックを与えた。
好実に対していつも大袈裟な彼のことだから、今は生きた心地すらしないのかも。
それでも好実は冷静に向き合った。
今だけは感情を乱してはいけないままに、自分から近づいた。
すでに一歩も動けなくなったままの彼に。
「高城君、これを」
好実が差し出したのは、ラッピング用の紙袋に入れられていた。
見た目は可愛らしく、中身がわからないからこそ、おそらく高城君もとっさに受け取ったのだ。
でも受け取ってすぐ、可愛らしい見た目に油断させられたと気付いたのだろう。小刻みに震えた彼の唇もすっかり血色を失くした。
「三十万円です。兄の代わりに、私が返します」
高城君に無事渡し終えた好実は一歩下がり、頭を下げた。
「この三十万に関しては、私からもお礼を言います。ありがとうございました。お陰で兄は、昨日瀬川さんと決着をつけることができました。兄へのアドバイスも助かりました」
お礼をしっかり述べた後、ゆっくり頭を戻す。好実はついさっき顔面蒼白にまでさせた高城君の変化をさっそく見せられた。
好実が礼を述べたことで、彼は間違いなく安堵したのだ。
さっきはまず最初に好実が他人行儀に戻ってしまい、それから金を返されたことで完全に失敗したと青ざめたが、そのあと好実から感謝されたお陰で安堵が待っていた。そんなところだろう。
今は安堵してしまった高城君は勝手なことをしても許されただけじゃなく、感謝までされたことで、自分は間違ってなかったとさえ思っているかもしれない。
いつもと同じく好実に対し人間くさいせいで、今の彼はすっかりそんな顔をしている。
うっかりすれば、笑顔さえ浮かべそうなほどに。
好実としては、そんなわけにはいかないのに。
そんな単純に安堵させるつもりも全くなくて、そんなの当たり前でもあるのに。
どうして今の二人は、こんなにもすれ違っているのだろう。
互いに異星人かのように、二人は別もの。こんなにも違う。
彼が好実にとって高嶺の花すぎる以前に、恋人同士としてもっと大切な価値観や考え方、捉え方が根本的に全く異なるのかもしれない。
そして普段は互いに夢中なばかりで気付けなくても、こうゆう時にメッキが剥がれ、やっと明るみになってしまった。少なくとも好実の目には。
好実にとっても思いもよらない発覚で、さすがにショックなあまり一度呆然としてしまうと、今度こそ高城君は近づいてしまった。
好実が呆然としたのだって、ただ単純に落ち込んでいると思っているのかも。兄が彼に世話をかけたせいで。
今の好実をそんなふうに捉え、まるで慰めようと近付く彼の方が、好実はあり得ないというのに。
信じ難いほどに、彼とのギャップはあまりにも大きすぎる。
「好実ちゃん……」
「高城君、ここからは……ここから先は、真実だけを教えてください。私の質問に、真実だけで答えてください」
すでに彼に近づかれてしまっても、そのまま触れさせはしないために、また恋人以前の他人行儀で遮断した。
高城君が伸ばした手もピタリと止まったので、また好実は一歩下がる。
これからする質問に怖さは伴うも、目だけは逸らさなかった。
真実の彼を、とうとう見逃さないために。
「瀬川さんに脅された兄に三十万を貸して解決させたんじゃなく、本当はあげたんですか? 三十万」
好実の最初の質問に、高城君はただ否定しなかった。
彼にとっては、ただ好実が勘違いしただけなのだろう。
彼は最初から好実の兄に三十万をあげただけなのだから。
そんな高城君の心の内を見透かしただけで彼からの答えにした好実は、すぐに次の質問に移った。
「私は昨日から今日にかけて、兄から真実を聞き出しました。最終的には、嘘をつけば妹をやめると脅したんです。お陰で兄はすべて白状しました。三か月前、兄の浮気を目撃したのは貴方で…………貴方はそれを利用して、兄を協力者にしたんですね。私をあのコンビニで働かせたのは、本当は兄じゃなく貴方。そうなんですか?」
好実の質問というより確認に、彼はまた返事を逃した。
今回の兄の浮気問題がきっかけで他の真実が浮き彫りになり、一番知られてはいけなかった好実こそがこうしてすでに知ってしまった。
今度こそ、彼が呆然とする番だった。
唇すらピクリとも動かせないほどに、今の彼は目の前の好実によって恐怖に陥っているのだ。
当然逃げることもできず、硬直するばかり。
愚かなことだ。ここまでの恐怖を味わわなければ、彼は気付けなかったというのか。
過去の自分の過ちが、いずれここまでの恐怖に変わることを。そして失うことを。
過ちを犯して手に入れたものは、いずれ失う。そんなことすらも、彼は失う寸前の恐怖に陥らなければ気付けなかったというのか。
あんな大きなオフィスビルの最上階にいる男だというのに。
今、好実の目の前にいる彼はこんなにも愚かなばかりで、やっと失う怖さに怯えている。
「……私が許しちゃいけないのは、この二つです。一つは、兄の弱みを握る形で協力者にさせたこと。そしてもう一つは、兄を協力者にさせたことで完全に私を手に入れ、まるでその報酬とばかりに兄に三十万をあげたことです。この二つが、私が貴方を許しちゃいけない理由です」
彼に対する許しがたい感情をすべて込めた、震える声での最終通告だった。
好実が伝え終えると共に、彼はとうとう膝から崩れ落ちる。
しかし、彼がしたことは跪いての謝罪だった。
ごめんなさい、許してくださいと、彼は痛ましい掠れ声になっても無理やり繰り返す。
好実には見えない顔は、どうせ涙まみれなのだろう。
以前も彼は好実を引き止めようと、今と同じ姿になった。
見苦しさなど、彼には関係ない。いつだって好実さえ引き止められれば。
以前はそんな彼にすぐ駆け寄りやめさせた好実が、今は見下ろしたまま。
駆け寄る気もなく、でも初めて涙が零れる。
地面に伝い落ちるほどに、ただ悲しかった。
どうしても彼を許せない自分が、ただ悲しかったのだ。
「私はじきにコンビニからいなくなります。高城君も元気で」
好実の名を呼び、彼が引き止めた。
彼の目が再び好実の姿を捉えても、好実はすでに背中を向けていた。
さようならと、最後に残すだけで精一杯だった。
好実の初恋も、そして大人になって待っていた初恋の続きも、好実自身が捨て去ったのだ。
今度は心の奥底に仕舞い込むこともなく。




