51.浮気の真相①
「……小宮山さん、ずいぶん静かですね」
「……だね。こっちにまで重い空気すら感じる」
兄が浮気相手と落ち合ってから十分以上経過した。そして好実と小宮山さんが隣の席に着席して、すでに五分。
しかし好実達がコソコソ疑問に思うように、隣からは一向に会話が聞こえてこない。まだ言葉一つ発されないのだ。
シリアスとも感じ取れるこの空気、もしや……別れ話か?
兄は結婚六年目にしてとうとう浮気癖が再発してしまったが、長続きはしなかったということ?
だったら、それは幸いと捉え、このまま兄に任せるべきじゃないか。浮気相手と別れてくれれば、それで済むのだから。
本当は好実だって小宮山さんを巻き添えにして喧嘩腰で足を踏み入れたくないのだし、単純にラッキーやん。
「……別れ話ですかね?」
「だといいけど……でもタイミング良すぎないか?」
「……確かに」
小宮山さんに訝しがられ、あっさり同感。兄自ら別れ話ならラッキーなだけでも、タイミングが良すぎるのが確かに引っかかる。
好実達が浮気中の兄にようやく遭遇した今日に限って、別れ話なんて。
好実と小宮山さんが軽く考え込んでしまうと、ふいに兄達の会話が始まってしまった。
ハッとした二人はすぐ盗み聞きに集中!
「……それで? 結果は?」
「……実はまだ」
「え?」
「勇気がなくて……行けなかったの」
「またかよ……」
背もたれに張り付くような形で耳をそばたてる好実には、隣の会話がここまでしっかり聞き取れた。
一度会話が中断したようなので、好実は向かいの小宮山さんと再び顔を突き合わせる。
「小宮山さん、聞こえました?」
「いや、俺の耳にはボソボソ程度しか」
「じゃあ私が簡単に教えます。兄は彼女に対して何かの結果を尋ねたんですが、彼女は勇気がなくて行けなかったようです。そして兄はまたかよって呆れ声を返しました」
座った位置のせいで聞き取れなかった小宮山さんに早口で教えると、小宮山さんが一度考え込む。
そうこうしているうちに、隣の会話が再開。
「いい加減にしてくれ……マジで」
「……ごめん」
「もうひと月待った。早くしないと……」
「だって……勇気がなくて」
「だから俺も行く。俺も付き添うから……お願いだよ。間に合わなくなる前に」
いつの間にか小宮山さんも好実側の座席に移り、二人でしっかり隣の会話に耳を澄ませた。
「……奥さんと別れて私とって選択肢は、やっぱりないの?」
「あるわけないだろ」
「何で? 子供四人もいるから?」
「……俺が、魔が差しただけだからだよ」
「…………」
「ごめん。前にも言ったけど、傷つけた分、慰謝料はちゃんと払う」
「……いくら?」
「金額を決めるのは、診断書を持ってきてからって言っただろ」
「ふーん……そんな悠長なこと言っていいんだ。私、奥さんにチクっちゃってもいいんだよ? あなたに遊ばれて、私のお腹には赤ちゃ……」
「おい」
兄の小さな怒声が響き伝わったのを機に、好実は小宮山さんと目を合わせる。
好実はもちろん、小宮山さんまでもが少し青ざめていた。
今回は兄の浮気どころの事態じゃなかったのだ。兄は愚かにも浮気相手を身籠らせるという過ちを犯してしまった。
「……それだけはやめてくれ」
「ふふふ、また顔が青くなっちゃった。奥さんにバレるのがそんなに怖いんだぁ。じゃあ今すぐ慰謝料ちょうだいよぉ。そしたら私、今すぐ身を引くから。中絶代込みでぇ、えーと……百万でいいよ。百万。こないだまでは百五十万だったんだから、五十万も下げてあげたんだよ。有難く思って、さっさと払っちゃいなよぉ」
……どうやら兄はとんでもない女に引っかかったようだ。
身籠らせたことで脅されている兄は、実際に女が身籠ったのかわからないまま、とにかく慰謝料だけを請求されている状態。
まず診断書を見せろと要求すれば奥さんにバラすとすぐ反撃を食らうのだから、兄は為す術もないのだろう。
しかも、こんなやりとりがすでに一カ月続いているということか。
最近の兄は毎週火曜に浮気していたのではなく、以前の浮気相手に脅されていたのだ。
「……遊び相手として傷つけた慰謝料はちゃんと払う。でもせいぜい三十万だ。同意の上だったんだから。それ以上の慰謝料を求めるなら、ちゃんと病院に行って診断書をもらってきてくれ。それからだ。三十万だったら、今すぐ払える」
「へえ? どうやって三十万集めたのぉ? ラブホも行かず会議室や車で私とエッチ済ませてたほど、ケチケチのカツカツなのに」
「知人から借りた」
「知人? ……へえ、三十万貸してくれるなんて親切な人だね。お金持ちなの? 名前は?」
「教えるかよ。でも今、その人に相談してる。妊娠したかもって言い張る女に脅されてるって。その人はアドバイスしてくれた。もしその女が妊娠を偽装して脅したなら、法的措置をとればいいって。俺はお前を詐欺と脅迫罪で訴えようと思う」
兄の相手がここで初めて黙った。脅していた立場なのに、兄が形勢逆転した途端に黙ったのだから、相手の女は間違いなく妊娠詐欺を働いたのだろう。
見た目はまだ若いのに、本当にとんでもない女だ。しかし、そんな女と関係を持った挙句カモにされた兄が一番最悪。一番愚か。
一度黙った女は、これからどう出るか。
「さ、三十万でいいよ。私を遊び相手にして傷つけたから、三十万」
「……妊娠はしてないって認めるのか?」
「あれは冗談。私とはもう会わないって言うから、その腹いせにちょっとからかっただけ。いいじゃない。三十万払ってさっさとお終いにしてよ。私は会社も辞めたんだから、もう会うこともないしね。ふんっ」
ここでまた会話が中断すると、女だけが立ち上がったのがわかった。
「ありがとー♡ じゃあね」
どうやら本当にこの場で三十万を受け取ったらしい女は、足取り軽くファミレスから去っていった。
残されたのは兄の嘆息のみ。
もちろん好実と小宮山さんは互いに一度頷き合ってから、ここでようやく兄の前に姿を現す。
突然傍に佇んだ二人を、当然兄は呆然と見上げた。




