第一章 森の奥の蒼い焔
霧の深い早朝。
鬱蒼とした森の中に、小さな焚き火が燃えていた。枯れ枝のはぜる音だけが静寂を破り、冷え込んだ空気をわずかに温めている。焔の傍らには一人の少女が座っていた。
リサ・ヴァレンタイン。
その名を知る者は、いまや王国でも数えるほどしかいない。
彼女は、かつて世界を救った“蒼の英雄”の血を継ぐ、最後の魔法使いだった。
「……誰にも、見られてないよね」
リサは周囲を一度見回し、小さく息を吸い込む。そして、両の掌をそっと合わせた。白く細い指先に、淡い蒼の光が灯る。
ゆらり、と空気が震える。
焔とは異なる、神秘的な冷たい光が、彼女の周囲をゆっくり漂い始める。まるで夜明け前の星々が、目の前でささやくようだった。
それは癒しであり、祝福であり、時には裁きすらも下す――神に等しい力。
だが、この力を持って生まれたことで、彼女は村を追われた。
人々はリサの蒼の魔法を「不吉な奇跡」と呼び、忌み嫌ったのだ。
「これが……私の魔法。私の……呪い」
彼女の瞳もまた、魔力のように深く透き通った蒼。
リサは掌の光をそっと閉じ、夜明けの森に目を向けた。
そのとき。
「またやってたのか、リサ」
木々の影から声がした。彼女が反射的に振り返ると、そこにはカイルが立っていた。旅の土埃をまとった革鎧に、長剣を背に負っている。
「カイル……なんでここに?」
「王都から戻ったばかりさ。村の道を探してたら、焔が見えた。まさか、また森の中で一人で魔法の練習してるとはな」
カイルは微笑みながら歩み寄り、焚き火の前に腰を下ろした。
「……危ないから、あんまり奥に入るなよ。魔物が出るかもしれない」
「魔物より……人のほうが、怖いよ」
リサは小さく呟いた。だが、すぐに「ごめん」と付け足す。
カイルはその言葉に眉をひそめることなく、むしろ柔らかい声で言った。
「俺は、お前の魔法が怖いと思ったことなんて、一度もない」
リサの胸が、一瞬だけ熱くなった。けれど、その言葉を受け止めるのが、まだ少し怖かった。
焚き火の音が、ふたりの間を埋めるようにパチパチと鳴る。
「王都では、何かあったの?」
リサは話題を変えるように訊いた。
「……ああ。あった」
カイルの顔から笑みが消える。
「王都の空が、燃えた。夜なのに、まるで赤い昼のようだった。城壁の上から見えたのは、黒炎――間違いない。黒の魔導師が、目を覚ました」
リサの目が、かすかに見開かれた。
黒の魔導師。それは遥か昔、世界を支配しようとした魔術師たちの末裔。
すでに封じられたとされていたはずの、最も深い闇の力。
「騎士団は動いてる。でも、蒼の魔法なしじゃ……また王国が堕ちるかもしれない」
カイルの声に、リサは唇をかみしめた。
彼の言葉は、責めてなどいない。それでも、まるで自分がその期待に応えなければならないような重圧を感じる。
「私は……まだ、自分の魔法を怖いって思ってる」
リサは、素直にそう言った。
カイルは焚き火をじっと見つめたまま、ゆっくりと答える。
「怖いって思えるのは、お前がそれを大事にしてる証拠だよ。振り回されるより、ずっと強い」
そして、彼はふと笑った。
「それに、誰がなんと言おうと……俺は、お前の魔法が好きだ」
リサは息を呑んだ。
けれどその言葉には、“恋”の意味は含まれていないようにも、“含まれているようにも”聞こえた。
彼女は答えを返さず、ただ静かに森を見つめる。
その向こうに、赤く染まる空が見えた。
朝焼けではない。王都の空が、再び黒く焦げていく――その兆しだった。
リサはそっと立ち上がった。
「……王都へ行く」
「え?」
「もう、逃げない。私の魔法で、誰かを守りたい」
そして、リサは初めて、自らの意志で力を使う覚悟を口にした。
遠くで鐘の音が鳴る。
夜明けが、ふたりの前に訪れようとしていた。