一話 きっかけサンドイッチ
私が柊陽花と出会ったのは、夏休み明けの始業式だった。
遅刻をし、生活指導の先生より怖いと噂される、うちの担任に後でしこたま叱られた事を今でも思い出す。
けれど、勘違いしないで欲しい。私は不良ではない。バスケ部の活動が忙しい上に一学期の期末テストが赤点で、つい昨日も補習を受けていたのだ。
いや、期末テストに関しては完全に、私が悪いと思う。けれど、友達もそれなりにいて人付き合いも上手く行っているので、先生方には気に入られてる……はずだ。
陽花の話に戻そう。私から見て陽花の第一印象は優等生だった。制服は着崩してないし、髪も染めている様子のない綺麗な黒色で眼鏡をかけていた。前髪の間から見える、レンズ越しの瞳は素敵で、どことなく知的な雰囲気を感じる女の子だった。
図書委員で本の貸し出しを、淡々とやっていたり、生徒会の秘書をやっていそうと言えばイメージがつきやすいだろうか?
思い返せば、あの日の私の言動は少々面白おかしかったかもしれない。鮮明には覚えていないけれど、私はあの日、彼女を見た瞬間、心がざわついた事を覚えている。
一話 【きっかけサンドイッチ】
学校を後にして、足早に家に向かう。天野日向のように、また生徒と出くわすかもしれない。今日は少し遠回りして大通りにでてから帰ろう。
大通りには、比較的高い建物があり日陰が多い。それなのに人通りが多いせいか、日差しが当たる場所より、暑く感じてしまう。
正直、この時間に制服姿で人混みを歩くのは少し後ろめたい。周りにどう思われているのか想像してしまう。不登校、いじめ、不良、パパ活。考えたところで答えは出ないのだが。
人とすれ違う都度に視線を意識してしまう。自意識過剰だと、自分でも思う。視線を下に向け、気にするなと自分に言い聞かせ、歩き続ける。
家に着く。親の車が無いことを確認し、玄関を開ける。すぐに二階の部屋に行き扉を閉めた。
自然と深いため息がこぼれる。唯一、落ち着ける空間だ。首元を絞めるリボンや、靴下、眼鏡を次々と脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込む。
…静かだ。時計の針の音しか聞こえない。今ごろ、二限目が始まる頃だろうか。早退して良かったかもしれない。
しばらくベッドに伏せていたが、時間の流れがとてつもなく長く感じる。時計の針は間違いなく進んでいるのに、その音は、退屈な私を煽っているようにも感じた。
「よし…」
重い体を持ち上げ、クーラーとパソコンの電源を付ける。
中学生の頃からやっている、無料オンラインゲームだ。暇つぶし程度だが、サボりのお供なので、そこそこやり込んでしまっている。
ノエルは……今日もログインしている。ノエルとは、チャットでやり取りをしている友達?だ。長い付き合いだが、。声すら聞いたことがない。でも仲は良い。いや、逆にこの距離感がいい方向に倒れてるのかもしれないのだけれど。
「よっ」
「よっ。今日もサボり?」
「まあね。いつも通り。」
「夏休み明けだというのに、君は・・・」
ノエルも昼間からログインしてるじゃないかと言いたいが、この話を深掘りしたら痛いところを突かれそうだ。次のチャットが送られてくる前に話を変えよう。
「今は何してたの?」
「回復薬を買い占めていたのさ」
「どうして?」
「転売さ!」
「ふーん。儲かるの?」
「来週、アップデートでボスが追加されるだろう?需要と供給ってやつだよ」
ノエルの視点は鋭い。頭が良いのか性格が悪いのかは分からないが、一理ある。
「ところでアリスは?今日もレベル上げ?」
アリスとは、私のキャラネームだ。ゲームというフィクションに現実を持ち込みたくないというだけで、深い意味はない。
「うん。他にやることもないし」
それから数時間、ノエルと会話を続けながら暇つぶしをした。
「そろそろ落ちるわ」
「そっか、今日は早いね」
「バイト始めてさ」
「いいじゃん。頑張って」
そのあと軽い挨拶を交わして、ノエルはログアウトした。ノエルがいなくなってしまったので、私もパソコンを閉じて椅子にもたれかかる。
アルバイトか……。思い返せば、ノエル自身のリアルの話題が出たのはこれが初めてだったな…。ログインしてるのはお互い昼間で、積極的なリアルの話はお互いに避けてきた。
転売もそうだが、効率よくゲームを進めるものなので勝手に社会人や失礼な話、ニートかなと思っていたが…案外、歳は近いのかもしれない。
夕方になり、そろそろお母さんが帰宅する時間だ。部屋の照明を消し、寝ているふりをする。
「夜ごはんできたわよ」
扉を挟み、お母さんの声が響いてくる。
「…わかった。」
お母さんとの数少ない会話だ。お父さんは帰宅時間が遅いので平日は母と二人で夕食をとっている。
「あんた、今日学校サボったでしょ」
「始業式は出たよ」
自分でも思うが、何の反論にもなっていない。お母さんは、表情一つ変えずに箸を進める。テレビの音と、箸が食器にぶつかる音だけがしばらくリビングを包み込んだ。
「…明日は行きなさい」
興味ない癖に。サボった時、お母さんの定型文だ。
「わかってるよ…」
食事を終え、すぐに自分の部屋に戻る。溜っていたものが溢れ出るように、ため息を吐き出す。なぜ私は"ごめんなさい"も言えないのか、と。
これ以上追及されないのは救いなのかな。けれど殴られたり、思いっきり叱られれば、何かつっかえているものが取れるのではないかとの予感もする。
いつもなら湯につかるが今日はやめておこう。感傷に浸り、抜け出せなくなる気がする。手早くシャワーを浴びて入浴を済ませよう。
まだ二十三時前だ。寝るには早いがベッドに入る。寝る前にスマホを確認するが、いつも通り誰からも何の連絡も来ていない。通知のないまっさらな画面を閉じて、目を閉じる。
何もしていないのに疲れ切ったこの体は、いったい何を求めているのだろう。
ここ数日、やけに学校で視線を感じることが多い。それは主に休み時間で、視線の方向に目を向けると天野日向の姿がある。姿があるといってもすぐに隠れてしまうのだが、何か用があるのだろうか?何度か視線が合っている気がするが気のせいかもしれないし、話しかけてくる気配もない。こちらから話しかけるのも面倒なので、放置している。
それはしばらく続き、九月ももう半ばだなと思っていたころ、変化が訪れた。
予鈴が鳴り、昼休みの時間。周りのクラスメイトは食堂に行ったり、机を囲んでお弁当を広げたりと、各々昼食をとっている。
私はというと、いつも昼食は抜いている。抜いても死ぬわけではないし、作るのも面倒だ。買うのもお金がかかる。アルバイトもしていないし、月数千円の小遣いでやりくりしている身としては嗜好品だ。
いつものようにスマホを手に取り、暇をつぶそうとすると、人がこっちに向かって歩いきた。
「よ、よっす」
「こ、こんにちは」
天野日向だ。今日は珍しく…というかあの日以降、初めて話しかけてきた。というか、よっすと挨拶するほどの仲だろうか?始業式の日に会話をした程度で。
向こうも気まずそうだ。ずっと話しかける機会を伺っていたのだろうか。もしそうなら先ほどの挨拶は少し冷たすぎたかもしれない。
「な、なに?」
「一緒にお昼ご飯?でもどうかなーなんて…」
「私と…?」
「う、うん。迷惑じゃなければ!」
「なんで…?」
「なんとなくっていうか…。柊さん、いつも一人だったから…」
あー…、なるほど。最近教室まで来てたのはこういう事だったのか。たった一度、始業式の日に言葉を交わしただけなのに…。たったそれだけで彼女は私を気遣い、こうして昼食に誘ってくれたのか。そういうことなら……。
「いいよ」
「やった!」
私が肯定すると、最初に見た印象の天野日向が戻ってきた。
私は立ち上がり、財布をポッケに入れて彼女についていく。けれど彼女が行く先は食堂とは逆の方向だった。
「あれ…食堂、あっちだよ?」
もしかして、私もお弁当を持参していると勘違いしている?
「お弁当持ってきたから大丈夫!」
いやいや。私は持ってきていない。そもそも見るからに私は手ぶらだろう。
「いや…。私お弁当なくて…。せめて食堂にしない…?」
「あ、ごめんね。そういうことじゃないんだ。柊さんの分もあるの」
「え…?」
わからない…彼女という人間が。なぜそこまでする?私に何を求めているんだ?
しばらく気まずい沈黙が続き、四方校舎に囲まれている中庭へと移動した。中庭は人気が少ない。それもそうだ、夏は暑く、冬は寒い。一人になりたい人や、付き合いたてのカップルっぽい人たちが点々といるくらいだ。
「ここでいい?」
そういうと彼女はベンチに腰を掛け、弁当箱を開けた。女の子らしい、可愛い弁当箱だ。卵サンドと野菜がたくさん入ったミックスサンドが二つずつ詰め込まれている。
「うん。あ、待ってて」
これからサンドイッチをご馳走になるのだ。何か返さなければ。中庭の自販機に足を運び、飲み物を選ぶ。
高い…。二人で約三百円か…。水だと失礼な気がするし……かといって相手の分だけ買うのもおかしい。無難に紅茶にしよう。
「これ。」
そういって紅茶を手渡す。愛想が無いだろうか。でも何と言って渡したらいいかわからない。
けれど…彼女は笑顔で受け取ってくれた。
「ありがとう!食べよう?」
人と昼食を食べるなんて久しぶりだ。少し照れくさい。そういえば、そもそも昼食を食べること自体、久しぶりだったな。
「はいこれ!卵サンド」
「ん。」
美味しい。マヨネーズの量が絶妙でパンもモチモチだ。自分で作ったのかな?それともお母さんだろうか。もし、彼女が自分で作っていたとしたら将来良いお嫁さんになりそうだ。
「美味しい…かな?」
「美味しいよ。天野さんが作ったの?」
「あ…。天野さんでよかったかな?」
そういえば、天野日向の名前を口にするのはこれが初めてだ。向こうは私を上の名前で呼んでるし、大丈夫だよね。
「うん!いいよ!あ、苦手なものとか入ってなかった?初めて作る上に、柊さんの好みがわからなくて不安だったんだ。でも、美味しそうに食べてくれて良かったよ」
「うん、大丈夫。」
卵サンドを食べ終えたところで、紅茶を一口飲む。
ところで、なぜ天野さんが私を昼食に誘ったのか、一番の疑問が残るな。
「あの、天野さん。今日は…どうして?」
天野さんは持っているサンドイッチを食べ終えて口元を拭くと、改まったように横並びのベンチに少し斜めに座り、こちらに顔を向けた。
「柊さん。その、失礼な話だと思うんだけど、いじめ…とか遭ってない?」
「はぁ?!何言ってるんですか!?」
変な声が出てしまった。声は中庭に響き渡り、周りが注目する。とっさに立ち上がってしまったので、持っていた紅茶をスカートに零してしまった。
「最悪…。」
いや、今はそんなことよりー
「た、確かに友達はいないけど!…それは自分の意志であって誰かに嫌がらせを受けているのではなくてですね…。」
私の言動が面白かったのか、必死に弁明をしていると彼女は笑いを我慢できずに吹き出してしまった。
「ごめんなさい、早とちりだったみたい」
彼女は笑い交じりに話す。正直失礼にもほどがあるが、不思議と不快ではない。
「それにしても柊さん、あんな声出るんだね。もっと物静かな人だと思ってたよ」
「さっきのはびっくりしただけで、普段は普通ですよ!」
説得力がないくらいには大きい声で言い返す。
「あ、スカートが…。じっとしてて、今拭くから」
私が自分で零したのに、彼女は私のスカートにハンカチを押し当てて、拭いてくれた。布越しだが、彼女の手の感触が脚に伝わり、少しくすぐったい。
「ごめん…」
「ううん。私の方こそ、急に失礼なこと言ってごめんね」
気にかけていてくたのだから、謝ることもないのに…。そうやって素直に言葉にできていたら、今頃、独りきりじゃなかったかもしれない。
「は、ハンカチ。明日、洗って返すから…。」
「え?いいのに」
「良くない。サンドイッチまで貰ったのに。迷惑かけっぱなしだし、せめて…。」
私がわがままだったのか、少し困った顔をしながらハンカチを渡してくれた。
「じゃあ、また明日。」
「うん!またね!柊さん!」
初めて話したときは、向こうからまたねって言ってたな。今度は私からか。
意外だ。私にもまだ、人と関りを持ちたいっていう気持ちが、消えていなかったんだな。
あ、明日返すって言っちゃったけど、乾くかな……。洗濯機に入れて、親にこのハンカチ誰の?と聞かれるのも面倒だ。コインランドリーで洗濯しよう。
放課後、コインランドリーに寄った。乾燥機込みで五百円ぐらいした。結構高かった。
「もうすぐ体育祭です。各クラスから男女1人ずつ、実行委員を選んでもらうんだけど……みんなやりたくないわよね?」
朝のホームルームの時間、クラス全体が不穏な空気に包みこまれる。誰もやりたがらないのを分かってか、担任も気を使っていて、少しぎこちない。
「誰か立候補者はいないかしら?いなければ、投票になるんだけど…」
数分の沈黙がクラスを包む。予想通り、誰も立候補などしなかった。
まあ、私には関係ない。なるべく影を潜めていよう。目立たず、話し合いにも参加しなければやり過ごせるはずだ…。
そんな私の期待とは裏腹に一人の女子生徒がこんな事をいい出した。
「柊さんがやればいいんじゃない?」
その言葉は、瞬く間に連鎖した。
「確かに!一人は決定だな」
「ちょっと可哀想じゃない?」
「ずっと一人でいるし、都合いいでしょ」
私を気にする人、押し付ける人、関わったことの無いくせに陰口を叩く人。
ああ…。そういえばそうだった。私は中学で"それ"を経験している。今すぐにでもここを立ち去りたい。何なら目の前にある邪魔な机を蹴飛ばしてもいい。けれど…理性がそれを邪魔をする。これ以上孤立してどうする、と。
「柊さん良いかしら…?他のみんなも異論無いようだし…」
「わかりました…」
この空気、断れるわけがない。
そしてこの瞬間、担任に対する私の評価は一変した。若くて美人な担任。見るからに教師としての経験は浅そうだったが、それでも生徒が退屈したりしないよう気を使うことのできる人だと思っていた。いや、違わないのかもしれない。うちの担任は、私個人よりもクラス全体の事を選んだんだ。
…そう自分を、納得させるしかない。
そしてもう一人、貧乏くじを引かないといけない人間が必要みたいだ。男女一人ずつなので、私がやると決まったからか、他の女子生徒達はもう興味なさげだ。それより男子生徒がソワソワしてると思ったら、いくつかのグループに分かれ、話し合い始めた。
それもそうだ。先ほど魔女裁判のように私を半強制的に指名したのだから、自分は指名する側だと言わんばかりに群れを作る。
「隼人~おまえ、柊さんのこと可愛いって言ってたしお前やれよ」
次の標的は、グループ内にいた男子の一人だった。いや、内容からして隼人にとっては、渡りに船かもしれないが…。
それを聞いた一部の女子が小言を言い始めた。よく聞こえないが、そのグループに隼人という男子に気がある子でもいたのだろう。私も気になり、隼人とやらを気づかれない程度に見た。席が遠いので良く見えないが、表立って拒否しているようにも見えない。想像の域を出ないが、満更でもなさそうだ。
担任の表情は、決して明るくなかった。実行委員は決まったが、クラスの空気はどんよりしたまま。それを察しているのかもしれない。
私に代替案は思い浮かばないので、思うところはあるものの、仕方ないと受け入れよう。
「柊さんと三島くん、明日の放課後から第二多目的室で集まりがあるからよろしくね」
私はホームルームが終わったので、今日はもう帰ろうと思い、荷物を持って下駄箱に向かったが、天野さんにハンカチを返さないといけないことを思い出し、不景気極まりない気分で教室に足を戻した。
休み時間、昼休み、幾度となく天野さんにハンカチを返そうと機会を伺ったが、いつも誰かと一緒にいるので、渡すタイミングがなかった。
放課後もう一度、天野さんのいる一組の教室に向かったが、姿はなかった。一組の教室の前でうろうろしていると、一組の担任が話しかけてきた。
「三組の柊か?」
サボり癖の甲斐あってか、私の悪名は他のクラスの担任にまで届いているらしい。
それに、目の前の先生はいかにも筋トレしてますという厳つい体格で、生活指導の先生かと見間違うほどの風格だ。
「は、はい…。天野さんに用事があって」
「天野なら、体育館にいるんじゃないか?バスケ部だし」
「あ、ありがとうございます」
刺激しないように、頭を深く下げた。そっと立ち去ろうとすると、先生は私を呼び止めた。
「おい、柊」
「は、はい!」
緊張か、恐れのあまり声が裏返ってしまった。
「最近、ちゃんと授業出てるみたいじゃないか。偉いぞ」
「はい…。どうも」
「…」
足早にその場を去った。屈辱的だ。耐えられなかった。学校に行って、就業を受ける。そんなこと、当り前じゃないか。そんなことで褒めないでほしい。当たり前のことをして褒められる。そんなの、ただの皮肉じゃないか。できて当然のことを評価されるほど、私は落ちぶれているのか。そんな風に思うと、自分自身を踏みつけたくなる。
天野さんに会うまでには、この気持ちを整理しないと。でないとドライアイスのように、冷たく接してしまいそうだ。
部活か…。体育館に行っても話しかけられないだろうな。人も多いだろうし、そもそも部活の邪魔だ。終わるのは十八時頃かな。図書室で待ってよう。
「下校時間になりました。部活動をしていた生徒は速やかに帰宅してください。」
放送が鳴り、気晴らしに読んでいたサスペンス小説を返却する。続きが気になったがここで読み終えよう。
入違わないよう、校門へ向かったのだが、天野さんは他の生徒と一緒に帰っていた。しかも私とは真逆、住宅街の方向だ。
気づけば、その後を追っていた。
ふと、ストーカー行為では?と我に返る。慌てて少し距離を取って、気づかれないようにしたり、適当にスマホを弄るふりをして視線を逸らす。
しばらく歩いていると、一緒にいた女子生徒がコンビニに入っていくのが見えた。
迷っている暇はない。私は今しかないと思い、天野さんに声をかける。
「あ、天野さん!」
「柊さん?」
天野さんは、なんでいるの?と言いたけだ。
「えっと…。ハンカチ返さなきゃって思って」
「あー! ありがとう!柊さん、家はこの辺なの?」
「いや、駅の方で、線路超えた先」
「逆の方向じゃん!ごめん!私がそっちいけば良かったね」
「ん、平気。それじゃ…」
…。本当にそれだけでいいのか。違和感が残り、心に何かが引っかかる。けれど、言葉にできない。
天野さんに背を向けて歩く。なるべくゆっくりと。
このまま帰ったら、きっと後悔する。何かがある。何かを掴まなきゃいけない。
……そうだ。私は彼女に「ありがとう」を伝えていない。
振り向け私。立ち止まれ。彼女が私に声をかけた時のことを思い出せ。たった一人でいる私を、昼食に誘うなんて、どれだけ勇気がいることか。
コンビニと歩道の境目が視界に入る。足が止まり、振り返る。天野さんは、こっちを見ているだろうか。視線を地面から上に持っていけない。それでも彼女のもとに歩いていく。
「柊さん?大丈夫?」
ふと顔を上げると、天野さんと目が合った。
「あ、あの…。この間は…」
緊張で言葉が詰まる。でも大丈夫だ。伝えたいことは、ハッキリと分かっている。
「あ、ありがとうございました!!!」
自分でも恥ずかしいほど大声が出た。緊張か羞恥心か、顔が熱い。絶対に夏の夕日とは関係なく熱い。私はその場の空気に耐えられず、走り去ろうと思った。
「待って!」
天野さんが私の腕をつかむ。どうしよう、何か失礼でもしたのだろうか。彼女と一緒に返っていた生徒がコンビニから出てくる。気まずい…。
「ひな、その子は?」
「あ、先輩…。同じ一年の同級生っす。私の忘れ物届けてくれたみたいで…。駅まで送っていきますね」
部活の先輩なのかな。彼女の砕けた敬語が運動部って感じがして少し新鮮だ。いや…そんなことより私を送る?なんで?
「そっか。それじゃあね」
「はい!お疲れ様です!」
…?先輩の返事がやや冷たいが…二人の関係は……悪くなさそうだ。いや、観察している場合では無い。
「ごめんね?柊さん。こういうの苦手だよね」
「え、こういうのって…?」
「いやさ、知らない先輩というか?知り合いの知り合いてきな?」
いや…まあ苦手だけど。そこまで私は分かりやすかっただろうか…?
「そ、そんなことないよ」
「じゃあ呼び戻してこよっか?」
「やめて!」
咄嗟に拒否してしまった。彼女が私の方を見てニヤついている。見透かされた気分だ。というか、完全に見透かされている。
「柊さん、可愛い」
「はあ!?かかか、可愛くなんてないですよ!!」
からかうのもいい加減にしてほしい…。それにしても、彼女は本当に私を送る気なのだろうか?
「あ、天野さん?ほ、本当に駅まで来るの?結構距離あるけど…」
「うん!柊さんを一人で帰らすわけにはいかないからね」
「そうかな…」
私はただ、借りたハンカチを返しに来ただけで…それでも彼女から貰った借りを返せたわけでは無くて…。これでは、借りが増える一方だ。
「ねえ、駅の近くのカフェでお茶しない?二人で」
お茶か…。時間は…十八時四十分。もうすぐ十九時だ。いや…まあいっか。親に今更何言われようがどうでもいい。そもそも、何も思わないだろうし。
「いいけど。でも時間遅いし、天野さんは?大丈夫?」
「うちは大丈夫!部活で遅くなったっていうよ」
それは果たして大丈夫だと言えるのだろうか?
「あ、柊さんの方がまずかったかな…?」
「ううん、私も平気」
彼女は、満面の笑みで「そっか」と返した。正直、そこまで喜ばれるのが不思議でしょうがない。
それでも高校生っぽいことをこれからするということに、高揚していないのも嘘になる。
しばらく歩いているが、会話が途切れ途切れだ。沈黙が気まずい…。向こうも、同じ事を思ったのか突然口を開いた。
「乗って?」
彼女は押してた自転車に跨り、後ろの座席っぽいところに手でポンポンとしている。二人乗りというやつだ。お尻が痛いので苦手なのだが、このまま歩くのも疲れるので甘えよう。
彼女の後ろに跨る。手のやり場に困るな…。天野さんに掴まるわけにもいかないし…。
「ちゃ、ちゃんと掴まっててね?落ちちゃうと大変だから!」
「う、うん」
ど、どこにだろうか。いや、遠慮しすぎても失礼な気がする…。
両手をそっと腰に回す。ワイシャツがスベスベしてて少し気持ちいい。くすぐったかったのか、天野さんがピクリと動く。
「ご、ごめん!」
「ううん、だ、大丈夫…!ちゃんと掴まった…?」
「うん」
落ちないように座り直し、改めて手を回す。柔軟剤の匂いだろうか?いい匂いだ。ドキドキしてる訳ではないけれど、ここまで人と距離が近いのは、なんだか久しぶりだ。安心する。人肌が恋しかったのだろうか?
自転車に乗っている間は、ほとんど会話は無かった。自転車が揺れる都度、手に力が入り、すると彼女はその都度ピクリと動いていたので、可愛いと思った。
そう言えば…一組の先生が、天野さんはバスケ部だって言ってたっけ。余計な脂肪がなく、夏服ということもあるが、体のラインがスッとしている。背も高いし、モデルさんみたいだ。動きも可愛いし、反則級ではないだろうか。
「着いたよ!おまたせ」
「ありがとう」
彼女に案内されるがまま、駅ナカの一角にあるカフェに入った。
最寄り駅なので、何回か入ったことがあるが、あまり良い思い出はない。
嫌なことがあって学校をサボった時に行ったが、駅ナカということもあるので、パソコンで仕事をしているOLやサラリーマンが目につき、自尊心というべきものだろうか?そういうものがズタズタになったことを時々思い出す。背伸びして頼んだブラックコーヒーの味は、今はもう慣れてしまったけれど、これはそれよりも苦い記憶だ。
カフェ内は、木目を基調とした空間で落ち着いた雰囲気を作り出している。実際は、人が多いので落ち着かないが、珈琲豆の匂いがカフェ全体を包みこんでいて、他の匂いを覆い隠している。そして、ドーナツやショートケーキもショーケースに並んでいるので、珈琲の大人の匂いと甘い匂いが混ざり合っている。
「何頼む?」
甘いのが飲みたいからココアか、紅茶か。そう言えば、天野さんは何頼むのかな。
「天野さんは?何頼むの?」
「私はどうしよっかなー」
何頼むんだろう。イメージ的には紅茶が似合いそうだ。それとも、大人な珈琲だろうか?どちらも似合うな。ティーカップを片手に本を読む天野さん。ティーカップを片手に窓際で勉強する天野さん。どちらも絵になるに違いない。
「アイスカフェオレにしよっかな。柊さんは?」
「私は…ホットココアにしようかな」
夏にホットココアというのも珍しいと思う。けれど、ココアをアイスで頼むと氷が溶けて、薄くなってしまうのが嫌なので、ココアを頼むならホット一択だ。
カウンターで飲み物を受け取り、奥の方の席へ座る。窓際は混雑しているが、意外にも奥の方は空いていた。
「ここのカフェオレ好きなんだよね。甘すぎず、苦すぎず、ミルクの主張も強すぎないから」
「そうなんだ。今度頼んでみる」
なんだ、今の会話は…?
「柊さんの、ココアは美味しい?」
「うん。美味しい」
駄目だ、会話が続かない。何を話せばいい?何でカフェオレが好きなの?いやいや、さっき自分から話してたでしょ。
好きな色?天気?駄目だ、これではコミュ症じゃないか。
「ねね」
「ん。なに?」
「柊さんは、体育祭とかのイベントって出席するの?」
「え?いや…」
いや、どうだろう。そういえば、中三の体育祭も修学旅行も行かなかったな…。高校生になって、何かが変わると期待してたけど、何も変わらなかった。いや、期待してただけで私自身、何か行動を起こしたわけじゃない。
「でないの…?」
でたほうがいいの?という言葉が喉につっかえる。喧嘩腰というか、冷たくも聞こえそうな言葉。相手の意図と本心を確かめる為のもろ刃の剣だ。そしてそれは、私自身に牙を剥くに違いない。
たぶん私は望んでいる。彼女に青春という舞台上に引きずり上げられる事を。けどもし、彼女が「ふーん」等と、素っ気ない返事をしてきたら…?私は何を失なってしまうのだろうか。
「…出ようよ。体育祭」
顔を上げる、鳥肌が立った。心の何処かで変化を求めていながら、怖くて行動に移せなかった。
いや、そうじゃない。私は、行動しないのを正当化したかったんだ。現状を維持し続ける事を否定したら、中学からの生き方を、自分を否定することになってしまうから。
それでも、変わりたい。天野さんとなら、変われる。そう思った。
「でる…。出るよ、体育祭!」
彼女が微笑む。直感でしかないけれど、体育祭までの高校生活は、ほんの少しの彩りが戻る気がした。