プロローグなんて。
夏休み明けの教室の中、冷房が効いてるのかもわからない蒸し暑い教室で、私はぼーっと空を眺めていた。
夏休み明けの登校なのだから担任には気を使ってもらいたいものだ。そんな事を考えていると、担任は少し面白い話を話し始めた。きっと、担任もそれを理解し解消しようとしているのだろう。
夏休み中、彼氏がデートをすっぽかしたとかそういった話だった気がする。周りの男子生徒は、担任に、おれが付き合おっか?と茶化していた。
まあ、うちの担任は美人だし分からなくもない。どこまで本気なのかと呆れてしまう。それに対して周りの女子生徒は彼氏との馴れ初め等、興味津々の様子だ。
正直、他人の恋愛に何がそこまで気になるのか、私には理解できない。いや、本当はわかっていると思う。それでも、他人の恋愛に触れる事の意義が見出せない。だって、周りがそれを応援しようが茶化そうが、当事者達には関わりのない事じゃないか。
担任の惚気話がマンネリ化したところでもう一度窓越しに空を見る。
ふと、視線を下に向けると、セミの死骸がベランダの床に転がっていた。特に興味があるわけじゃないが、虫とは言え生き物だ。他の人がこれを見たら何か思うのだろうか。聞けば、表向きには悲しむような気もするし、他の人も私と同じように無関心な気もする。まあ、こんな質問誰にもできないのだが。
ただでさえ憂鬱な夏休み明けの登校初日。しかも、始業式が終わったら通常授業があるときた。私は今日十分頑張ったと自分に言い聞かせ、始業式が終わったらサボろうと、身勝手な決意を固める。
始業式、冷房のない体育館。正直、登校したことを後悔する程には暑く、汗で化粧が落ちていく。濃い化粧をして来た訳じゃないが、それでも憂鬱な気持ちを少しでも晴らすため、いつもよりは気合いを入れて化粧をしてきた。それでも結果として、この後学校をサボろうとしてるのだけれど。
校長先生や教頭先生のありがたい御言葉が淡々と耳を通り抜けていく。高校生にこんな真面目な話をして、誰が真に受けるのだろう。大人になれば理解できるんだろうなと想像しつつ、早く口を止めてくれと心の中で文句を言う。
始業式がやっと終わり、半日くらいは経ったかなと思い時計を見たが、一時間程しか経っていない。
教室に戻り、授業が始まるまでの休み時間。何も入っていない鞄を持ち足早に教室を発つ。一人くらいは声を掛けてくれても良いものだが、生憎、私に友人はいない。
他の生徒の流れに逆らい、二階の教室から一階の出入り口まで向かう。
…寂しい人生だと、自分でも思う。
だからといって、何かを変えようとは思わない。なぜこんなに冷たい人間に育ってしまったのか。たぶん、小さな事の積み重ねなのだろう。思い当たる節はたくさんあるのに決定打が思い当たらないのだ。
学校をサボる自分を俯瞰して、昔の自分と比べてしまう。小学生、中学生の自分はどうだったろう。中学三年生の頃には、今のような冷めた人間になっていたと思う。
小学生の私は、自分でも別人なんじゃないかと思うほど、元気良く走り回っていた。無防備で、後先考えず雪遊びをするような。誰とでも仲良くなれ、好きな人もいたはずだ。いや、いたという記憶はあるが、明確に誰だったかは思い出せない。
中学の頃から私は変わっていった。きっかけはきっと、テストの点数だったような、小さな事だ。一学期の期末テストまでは六十点ぐらいで、得意な教科だと八十点くらいは取っていたと思う。その頃の私は何でもそれなりにこなせていたけれど、裏を返せば一番になることも無かった。運動もそうだ。体育祭でも一番にも最下位になることもなかったと思う。
二学期の期末テスト。本格的に中学の範囲がテストで出始める時期だ。得意な教科こそ、七十点台は何とか維持できたが英語は赤点ギリギリで、数学は赤点だった。
それを親に見せたら酷く叱ってきたのを今でも思い出す。なぜそこまで叱るのか分からなかった。だってこれまで赤点なんてものは取ったこと無かったし、まるでこれまで積み上げてきた、こなしてきたものが何もかも評価されず、見られてないようだった。
人間はたった一回のミスでも許されないのだ。けれど普段から素行が悪い人間が、気紛れに良いことをするとやたら褒められる。そんな捻くれた考えを持ったのはこの頃からだろう。
私は次第に余裕が無くなっていった。勉学に励むも結果はでず、寧ろ得意だった科目すらも次第に手につかなくなっていった。恐らく人生で挫折というものをこの時初めて味わったのだ。
普通なら、誰かと競争したりテストの点が取れなかったり、子どもの頃に失敗や挫折を経験する人が多い。だが私は、中学という年齢まで失敗や挫折というものを真に経験したことはなかった。友達の誘いにも応えられなくなり、私は徐々に、孤立していった。
ついには、時々学校をサボるようになった。その癖が、今でも抜けない。逃げ癖なのだろう。最初こそ親はうるさかったが中学二年の後半には何も言わなくなった。きっと、呆れられたのだ。
何も言われないのは楽だった。けれど正直少し心に穴が空いたような寂しさ、そして罰せられない罪悪感も蓄積していった。周りが私に期待をしなくなるにつれて、私も私に期待をしなくなった。
そんな生活を続けていた私の人生に色はなく、灰色のような毎日が淡々と続いている。灰色だからやりたいことがないのか、やりたいことが無いから灰色なのかは分からない。
ただ一つの事実として私は他の人とは違う。
"生きているのではなくーー"死んでいないだけだ"
回想に耽っていたら、校門が見えてきた。登校時間ではないから、先生の姿もない。まあ、高校でもサボりの常習犯なので、いなくなったとしても誰も咎めはしない。私の存在はその程度なのだ。
私が学校を後にしようとすると突然、風が吹いた。いや、風というより疾風の方が近いかもしれない。今さっき起きましたと言わんばかりの姿で自転車を漕ぐ女子生徒が突っ込んできた。
「セーフ!」
いや、アウトだろう。もう始業式は終わり、一限目は既に始まっている。それなのに目の前の女子生徒は間に合ったと思い込んでいるのか鼻歌を歌いながら自転車に鍵をかける。そんなおかしい行動をするものなので、ついじっと見てしまったのだろう。
彼女はこちらに振り向き、話しかけてきた。
「帰るの?」
どう返そうか迷った。無視しようと思ったが目が合っている上に、そもそも見ていたのは私の方だったので、シカトするのも妙に気まずい。
「うん」
素っ気なく返す。この会話が一秒でも早く終わって欲しい。
「不良だ?」
からかうように、彼女はにやりと笑った。
「そっちこそ」
少しイラッとしたのか、言い返してしまった。彼女は私がイラッとしたのを察したのか、少し近づいてきた。
「ふむふむ、リボンを見るに同じ一年生だ?」
そんなもの、一目見た時に気づいている。改めて言葉に出されることでもない。ただ、私は彼女を知らないし、彼女も私のことは知らないようだったのでクラスは違うのだろう。
「何組?私は一組。天野日向よろしくね!」
いきなり自己紹介をされた。何がよろしくなのだろうか。けれど少し懐かしい。人と明るく会話をするのはいつ振りだろう。ほんの少しの高揚感が私を惑わす。
「三組。柊陽花よろしく。」
彼女は、私が自己紹介を返したのが嬉しかったのか、少し前のめりになり笑顔を見せた。
額から少し汗が滴り、先ほどまで全力で自転車をこいできたのが分かる。けれど不思議と嫌な匂いはしない。身長が高く、細身で太陽に照らされ、少し茶色に輝いている髪はポニテールに結ばれている。一見私より短そうな髪だが、解くと私より長そうだ。
「早退して、どこにいくの?」
「家に帰るだけ」
「親は?怒られるんじゃない?」
「うち、共働きだから。」
余計な事まで話してしまった。彼女の人柄のせいだろうか。
「ふーん。そうなんだ。いいね!」
どこをいいと思ったのか。その場のノリと勢いで会話してるのではないだろうか。
「じゃあ、またね!柊さん!遅刻しちゃう!」
「あ、はい。また……」
「またね……?」
まるで次回があるかのような口ぶりだった。いや、学校が同じなのだから会う機会はあるだろうが、「またね」と別れるほど今の会話で距離が近づいたと思っているのだろうか。それともただの社交辞令だろうか。それに遅刻しちゃうも何も、もう遅刻だろう。
さっきまで憂鬱な気分だったが、彼女のヘンテコな言動にそんな事を考える暇は無くなっていた。
「またね……か」
気づけば、小さく息が溢れる。笑った……?
喉の奥に言葉にできない感情が詰まっている。それが何なのか今はまだわからない。