剥き出しの感情と奉仕者の相性
お久しぶりです。
私は昔から感情的な人間で、よく言えば感情が豊かな人間である。しかし、神職として奉仕すればするほど、どうしても、この剥き出しの感情が邪魔になる瞬間が多い。
基本的に神社に来る人間は機嫌が悪いなんて事はあまり無い。接していて気持ちのいい人間ばかりだ。
しかし、毎日神社に来るそれこそ、奉仕者に近い人間ほど、その感覚というものが鈍っていく。
奉仕者にとってはそれが日常であり、そこに機嫌の良い悪いがあるのは当然のこと。そして何より、その奉仕者の人間性というものが神社という、会社に持ち込まれてしまう形になる。
例えば、小言を言う経理担当のお局が実権をほとんど握ってしまった神社。なお、他に奉仕できる人間がおらず、替えが効かないなどの状況を想像してみてほしい。
毎日その人と話すと言うことが、社会人一年目の人間にどれだけ耐えられるのだろうか、どいつもこいつも、人に期待してるなどと聞き心地の良い言葉を並べたところで、私のために一切なっていないと言う事は、理解できないのだろうか。
クソが、まともに信仰というものを理解しているのか怪しい人間に奉仕者としての心構えを説かれることの、なんと腹立たしいことか、何を持って貴様にそれを説かれにゃならんのだ。
少しでも俺のことを考えているというなら、俺にかかるストレスを一片でも減らすことを考えてほしいものだ。
私は期待しているという言葉が嫌いだ。そういう言葉を使ってしまうというのは、ガッカリするという事につながるからだ。
このような、言葉への想像力の無さ、歳を取ることで忘れてしまったのだろうか。
その点、神様というものに、期待はない。ただ、こちらから信じ続ければいい。それがどうなるなんて事は実際どうでも良いのだ。
人というものより、喋りはせずとも、多くのことを語る。それが神様だ。
しかし、この剥き出しの感情が不便かと言われるとそうでも無い。私は、元来気持ちよく笑う人間である。
神職というのは、無愛想よりの人間と、愛想がいい人間に分けやすい。私個人としては、どちらも神職の姿として間違っていないと思う。
人情というのが関わるとそうもいかないのが、少し悲しいかな、愛想がいい方がとっつきやすいというものだ。
こんな痰壺を作り出してしまうほどの人間性だが、愛想はいいらしい。しかし、私は、自分という存在が快活で真っ直ぐな人間であると定義し、そうあれかしと努力している。
実情がどうなっていようが、私の人間性はそうなるように矯正している。
故に、邪魔をするな、ストレスをかけてここまで作り上げたものを壊そうとしてはいけない。壊れてしまえば働き口がいつか破綻するだけなのだから。
みなさんは、どのような職業についていますか?何はともあれ、自身の感情を剥き出しにして良いことなんて滅多なことは、会社でする事はないだろうが。
私は、正直言って社会経験の無いペーペーで、誰かに意見するような資格も経験もない。
しかし、なぜこうも自分が苛立ってしまうのかを考えると、まだまだ若いペーペーだからでしか無いためである。
何か実績でもあれば、違うのだろう、何か一つそれがあれば、その言葉に力が伴うようになるのだろう。
言葉が伴わない内は、このように思考を言葉にして、力の代わりに呪詛を捩じ込む。
この悪意や怒りがいつか消え失せますように。
申し訳ないが呪詛回です。




